家出した時に出会った初恋のお姉さんが自殺した 作:パルメザンチーズの化身
───それは、肌寒い曇天の昼下がりの事だった。
十一月の中頃。
霜月の名を体現するように、三メートルにもなる大窓にはびっしりと霜が降りている。
当然、窓から覗く外の景色は霞がかり、コンクリート地面と新緑の木々達の境界は曖昧になっていた。
どうやらそこには慌ただしく動く人影があるらしい。
一瞬だけ、無気力ながらに軽く手で拭おうと、腕を動かして───すぐにやめた。
そんな行動に意味はないと、諦めてしまったせいだ。
……いや、違うな。それはもっと浅ましい理由の筈なのに。
事ここに至っても、現実を直視できていない。そんなんだから俺は子供で、あのヒトにも子供扱いされたまま。
それは自分への侮蔑。失意から大きく息を吸って、吐こうとして───
「───ははっ」
笑いどころなど何処にもないというのに、口を突いて出たのは乾いた笑いと、声にもならなかった白い息だった。
……少しの間を置いた後、俺は俺自身の行動に困惑する。
俺はてっきり、嘆息を吐いたつもりだったのだが───今、自分は笑ったのか。
そう、認識した瞬間。
『やっぱりキミは、笑顔の方が素敵だね』
フラッシュバック。あの人の声が、脳裏に響いた。それはもう二度と聞くことの叶わない音色。
あぁ下らない、本当に下らない感傷だと、今度こそ溜め息とともに切り捨てる。
ふと目の前に意識を戻すと、窓の外を数人の黒服と、車輪で運ばれるナニカが通過する。
程なくしてそれは、俺の左手五メートル程にある施設の入り口に立ち、大理石の床を踏み出した。
かつかつ、がらがら、かつかつ。
複数の足音と、一つの車輪の駆動音。
淡々としたその音に、怯えてる自分に気が付いた。
指先が震える、喉が締まる、目線は禄に見えもしない窓の外へ固定される。
血の気が引いていくこの感覚は、なにも俺が貧血だからということはないだろう。
かつかつ、がらがら、かつかつ。
耳を塞ぎたいのに、体が思うように動かない───否、動かせない。
例えるならば、体の内側から神経回路をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような、そんな感覚。
きっと今の俺が右腕を動かそうとすれば、左足が動くだろうという、そんな確信。
今、俺は自分が二本の足で立てているのかすら定かではないのだ。
倒れているのか、夢を見ているのか、泣いているのか。何一つとしてわからない。
───けれど、たった一つ。この胸中を満たす複雑な苦痛だけが、俺が生きていることの証明だった。
かつかつ、がらがら、かつかつ───。
いつしか音は過ぎ去っていた。
脳に足りなくなった酸素を送ろうと思い切り息を吸い込み、そして咳き込んだ。
「ゲホッゲホッ!」
勢いのまま、背中を丸めて膝をつく。いい加減に、立っているのも限界だった。
体は未だに震えていた……寒さのせいじゃないってことは、俺が一番知っている。
そんな折に、無機質な館内へ無機質なアナウンスが走る。その内容は手短かつ端的。
曰く、彼女との最期のお別れをするのだそう。
……あぁ、わかってる。わかってるさ。
受けてその場で立ち上がり、鉛のような足を引きずって、火葬場の奥へと歩を進める。
「俺は、その為に来たんだから」
◆◆◆
───それは、月の咲いた熱帯夜の事だった。
三年前のその夜。駅からほど近い、小さな公園には人影が一つあった。
中肉中背。中学校の制服に身を包んだ、およそ平凡と呼ぶにふさわしい容姿を持つ少年。
名前を、東條満───即ち俺がそこに居た。
俺は公園のベンチに横になって、何をするでもなく流れる雲を眺めていた。
昼間に雨が降ったらしく、日が落ちきった今も外は蒸し暑い。
べったりと肌にまとわりつく、気持ちの悪い外気に顔を顰めながらも、どうする事もできないと思考を放棄したのが、これで三度目。
現代っ子としてはスマホでもつついて気を紛らわせたいが、今いる状況がそれを躊躇わせる。
俺にとって電子機器の充電は、一切の比喩を抜きに生命線。おいそれと暇潰しに使って良いものではない。
なにせ俺は、目下家出中の非行少年なのだから。
因みに───正直な話をすれはを、今となっては家出の理由なんてよく覚えていない。
覚えてるのは、家族含めた周りへの不満があった事と、夏休みに決行すると都合が良いと思っていた事。
強いて言うならその位な物で。
残った細かい悩みや不満は、全て。彼女との出会いがかっさらっていったのだ。
「───ねえ、キミ。そんな所で寝てると風邪引くよ?」
あぁ、面倒臭い───そう思うよりも先に、その声に聞き惚れていた。
凛とした、美しい声音だった。鈴よりも繊細で、熱された鉄よりも力強い。
ふわりと、風が舞う。雲に隠れていた月が、その姿を表す。
バッと体を起こして周囲をを見渡す。
ベンチに放っていた俺の足元。そこに、彼女はいた。
腰まで流れた黒髪は、月明かりに濡れて舞い踊り。
華奢な首筋を彩る白磁の肌は今にも手折れてしまいそうなほど細く、そして、この夜空においてすら焼けてしまいそうな程に儚い。
それはまるで、完成された芸術のような少女。
間違っても、生きているなんて感想を持ってはいけない美の類。
けれど。その内に通った一本の芯が、彼女をそうさせなかった。
紺碧の双眸から溢れ出す感情は、無機物を有機物へと変遷し、彼女の体に血を通わせていた。
そして───そんな瞳と、俺の視線が交差する。
「───、ぇ、あ」
言葉がうまく出ない。こんな事、初めてだった。
心臓が早鐘を打ち始める。思考は漂白され、最早自分が何を言いたかったのかさえ定かではない。
そんな俺の状態を、知ってか知らずか。彼女は。
「おはよっ」
なんて。軽く笑みを浮かべてこちらに手を振った。
この時の俺は、ちゃんと手を振り返せただろうか。後になっても自信がない。
「ねね、なんでこんな所で横になってるか聞いてもいいかな?」
「あ……っと、その。部活帰りで」
疲れて休んでました、と。予め用意していた返答をなんとか振り絞る。
「部活!いいね、夏の運動部とかは忙しそうだ。キミはどんな部活に入ってるの?」
「り、陸上部に」
「わお、モテ部じゃん。女子からチヤホヤされちゃってるんだ?」
「あ、いや。そんな」
「またまた、謙遜しちゃってさぁ。うりうり〜!」
素早く俺の隣に座ったお姉さんに抱き寄せられる。
なんか甘くていい匂いがする……じゃなくて!!
急いでお姉さんの腕から逃れ、今度はこちらが質問を返す。
「そ、そう言うお姉さんはなんでこんな所に?」
「私?私はねぇ……秘密!」
「……え、ひどい!俺は言ったのに」
「ふっふっふ、大人とは得てして汚いのだよ」
外見年齢高校生ほどのお姉さんが、何故か誇らしげにそう言う。
その動作が何だか琴線に触れたので、もう一度文句でも言おうとした、そんな時。
「それに、秘密があるのはキミもそうでしょ?」
「───ッ!」
突然の言葉に、言おうとした言葉がつっかえる。
「いや、キミの場合は嘘をついてるって方が正しいかな」
「……なんの、ことだか」
「さしずめー………そうだな。家出少年って感じじゃない?
そう考えると、キミ。夏休みに制服着て家出なんて変わってるね」
「…………」
それはぐうの音も出ないほどの図星だった。
このお姉さん、実は心が読めたりするんだろうか。
「言っておくけど、私は心なんて読めないからね」
「……じゃあ、なんでわかったんですか」
「そうだなぁ……この辺りじゃ見ない制服が一つ、部活の後なのに汗の臭いがしないのが一つ、陸上部にしては荷物が多いのも一つ、あとは……」
「も、もういいです!」
お姉さんが四つ目を挙げそうになったところで強引にストップをかけた。
自分の杜撰な嘘を赤裸々に暴かれるのは思ったより心に来る。
「凄いですね、名探偵みたいでした」
「もっと褒めてくれても良いんだよ少年。
なんせ私の機嫌が良くなるからね!」
「───それじゃあ、機嫌が良くなったら警察に通報しないでくれますか?」
言いながら、俺は頭の中でこの場から逃走する手段を模索していた。
先程の話、陸上部であること自体に嘘はない。
年上が相手でもその場限りなら逃げ筋はある。例え荷物を回収してからでも十分にだ。
……問題は。
「元から私にそんなつもりは無いよ?」
「………」
「うわ、全く信用されてない。そりゃ初対面だからそうなんだけどね」
お姉さんは困ったような表情で、小さく思案を始めた。
───問題は、このお姉さんとの距離の近さにある。
これだけの至近距離であれば、どんなに俺の足が速くとも、手を伸ばされるだけで捕まってしまう。
会話の中で手の届かない場所まで逃げる必───
「あ、そうだ。じゃあ、はいっ」
お姉さんが突然何かを投げ渡してくる。
反射的に受け取ってから、よくよく見てみると……。
「これ、お姉さんのスマホ!?」
「そう。これなら物理的に通報できないでしょ?」
「いやいや!俺がそのまま走って逃げたりしたらどうするつもりですか!」
「そう言ってる辺り大丈夫じゃない?」
「質問の答えになってない!!」
ゼーハーと肩で息をしながら呼吸を整える。
お姉さんが心底心配みたいな顔をしながら背中を擦ってくる。貴女のせいなんですけどね!
「意味わかんねぇ……こんなことまでして、何が目的なんですか」
「んー……強いて言うならキミの話が聞きたいから、かな」
「俺の、話?」
「そっ。キミがなんで家出したのか、とか、キミがこれからどうするのか、とか。
そのスマホは、キミの話を聞く為の担保───わかりやすく言えば信頼の証かな」
信頼の、証。
手のひらのスマホをじっと見つめる。
……思えば、こんな風に目に見える形で信頼を示してくれた人は居たことがなかった。
べつに。だからどうというわけではないけど。
「───面白い話は、期待しないでくださいね」
それから話した事は、きっと取り留めもないことだった。
これまでのこと、これからのこと。
多分俺の話方は下手くそだったろうし、俺の心情の十分の一も伝わったとは思わない。
でも、それでも。
───なんだか、救われたような気がしたんだ。
「……こんなところです。これ、返します」
「ん、ありがと」
「───よっと」
少し遠くに置いてあった荷物を回収し、公園の外へと足を向ける。
「あれ、どこいくの?」
「さっきも言いましたけど、行く宛がないので。今度はもっと人目につかなそうな場所に行きます」
やはり王道で言えば高架下とかだろうか。
家出生活の寿命は縮むが、幾ばくかの金銭もある。ホテルという手もあるだろう。
こんな具合に、俺がまだ見ぬ行き先に思考を巡らせていると、不意に。
お姉さんがベンチから立ち上がって、そして──。
「キミ、行くところがないならウチに来なよ」
冗談みたいな台詞が、冗談にならない声色で俺の鼓膜を揺らした。
一瞬にして、すべての思考が掻き消える。一秒前の自分が何に悩んでいたのかわからない。
その代わりに、胸中で一つの疑問が幾重にも渦巻いていた。
───今。誰が、誰に、なんと言った?
「なに、を」
「あ、やっぱり信用できない?そりゃそうよね」
「そうじゃなくて…」
「でもなー、こればっかりはスマホ渡してもしょうがないしなー」
「だから、ちがくて」
「そうだ!私のクレカとかなら釣り合うかな?」
「そうじゃなくて!!」
理解できなかった。何故出会って間もない俺を、ここまで気にかけようとするのか。
俺達はただ、偶然ここに居合わせただけの関係だ。
一方的に俺の身の上話をして、そこで終わりの筈なのに。
「どうして、そんな───他人の為に!」
猜疑心ではない。この短いやり取りの中でも、悪人でないことは十分に理解できている。
ならばこれは、共感が及ばないだけだ。
意図が、理由が、目的が。何一つとして理解の範疇外。
だから、どうして。
「───誰かを助けるのに、理由なんていらないの」
端的な、その一言に。心の奥を貫かれたような心地がした。
頭の頂点から足の先まで、焦がれるような熱の波が秒速一メートルで走り抜ける。
呼吸が止まる。風が止まる。時が止まる。彼女以外の色彩は消え、故にすべてが彼女に集約していく。
それはまるで、この瞬間だけを世界から切り離したような、そんな感覚。
痛いほどに叫ぶ心臓。
完全に焼ききれた脳神経。
消失していく五感。聴覚が、嗅覚が、味覚が、触覚が。自己に意味を見いだせずに死に絶える。
残る視覚だけが、告げる。───ああ。
決して褪せないその一瞬は───ただ、綺麗だった。
「……それにね。私達はもう、赤の他人なんかじゃない」
「───、ぇ」
そっと腕の中に抱き寄せられる。
「キミのことを、ほんの少しだけ知った。それで、私の事も知ってほしいって思った。
……それって、私達が友達になるのに、十分な理由でしょ?」
そう、なのだろうか。
「うん、きっとね。───それじゃあ、行こっか」
手を引かれて、公園の外に出る。
それから三歩ほど歩いたところで、彼女はこちらを振り返り、問いかけを一つ。
「ねぇ、親愛なる私の友達。キミの名前を私に聞かせて」
今でもって、運命なんて信じてはいないが。
「俺は───東條、満。
お姉さんの名前は───?」
この瞬間、確かに。
「───水戸森真奈。これからよろしくね」
彼女の微笑みは、運命の初恋だったのだ。
◆◆◆
かくして、熱帯夜の出会い、初恋の夜は幕を閉じた。
俺は二ヶ月弱の時間を彼女と過ごし、そして別れることになる。
けれどその後も、か細いながらに縁は続いていた。
そこで満足してしまったのが、きっと俺の人生における最大の間違いだったのだろう。
彼女が嫌がるくらい、彼女に嫌われるくらい、近くにいるべきだった。
けれど今更過去は変わらない。やってきたのは、直視すべき現実だけ。
───俺が彼女の自殺を知ったのは、彼女の死後三日目の事だった。