ぼんやりと、遠くから。
自分を呼ぶ声がする。
「──イヴン──レイヴン──……」
意識が微睡みから浮上する。
瞼を開けると、至近距離に白亜の少女の顔があった。
「おはようございます、レイヴン。朝食の時刻を三分三十五秒過ぎています」
白い少女が胡乱な目をこちらに向けながら、どこか硬く棘のある言葉を投げてくる。
まだ輪郭を結ばない意識のまま、左手首のウェアラブルデバイスを覗き込む。少女の言葉に偽りはなく、朝食の時間は過ぎていた。
「昨日も遅くまでACのシミュレーションをしていたのですか?」
枕の横にはVR機器が転がっていた。仮想空間上で愛機のアセンブルに入れ込み、ネストに潜って動作テストを繰り返している内に寝落ちしてしまったのだ。もしかしたら相手になってくれた傭兵に失礼な行為をしてしまったかもしれない。
「寝食を忘れて一つのことに熱中するのは人間の特権ですが、あなたは、その人間としての機能を取り戻して日も浅いのです。身体に負担を強いるような真似は避けてください」
すまない、と素直に謝罪する。彼女の忠告を蔑ろにすると手痛い目に遭う。かつての体験から学んだことだ。
「……身体を自由に動かせる喜びは素晴らしいものです。私はそれがよく、とてもよく理解しています。けれど、ウォルターには心配をかけないように心がけてください。レイヴン」
もちろん。以降は注意すると肯く。
「……でも、ウォルターは心配すると同時に、レイヴンが仕事以外に集中できるものを見つけたことをとても喜んでいました。私も、とても嬉しく感じています」
……では、今日もネストに潜っていいだろうか?
「疲労が一定値を超えた場合、速やかに就寝することをお約束いただけるのでしたら。次にいわゆる”寝落ち”していたら、私がサポートに入ります」
それでは相手をしてくれる傭兵に申し訳が立たない。エアがついてくれたら、どんなアセンブルでも負けないから。
「……正しい認識です。レイヴンと私なら、相手が誰であろうと負けません」
エアの口角が少しだけ緩んだ──気がした。
支度を済ませてダイニングに行くと、初老の男性が珈琲を飲みながらタブレット端末を操作していた。おはようウォルター、と声をかけると、彼はタブレットの画面に走らせていた目をこちらに向けて、その皺に彩られた頬を穏やかに緩めた。
「ああ。おはよう、621。身体の調子はどうだ?」
問題はない。もう身の回りのことは一人でこなせる。ウォルターのリハビリのお陰だ。
「俺はいくつか指摘しただけに過ぎない。すべてはお前の努力の結果だ、621。再手術を担当した医者も、お前の回復速度に驚いていたぞ」
ありがとう。もう少しすれば、自分一人で傭兵の仕事をこなせると思う。
「……今のお前の仕事はリハビリだ、焦る必要はない」
「そうですよ、レイヴン。生活のための資金なら、ネストのアリーナで事足ります」
朝食の準備をしながら、エアが言った。
「そもそも、俺たちには蓄えがある。三人で慎ましく暮らすには十分すぎるほどのな。お前が危険な傭兵を続ける必要はない」
だが、自分は戦う以外に生きる術を知らない。
だから、傭兵を続ける。
二人と何もせずに過ごすのも好きだけれど。
自分にとって生きることは、戦うことだから。
「……そうか。お前が選んだのなら、俺は何も言わん。だが、無理はするな。俺の手が必要になったら言え。調整する」
「私がサポートしているのです。ウォルターの手を煩わせることにはならないかと」
「エア。お前のオペレーターとしての技術と経験は信頼している。だが、人間社会の経験値が足りていない」
「そうでしょうか? この通り、人間の朝食を用意するのは目を瞑ってもできるようになりましたが?」
「それは認める。だが、お前の判断は時に合理的過ぎて極端なものになる。先日もミシガンの依頼でやらかしていただろう?」
「あれはレイヴンの射線軸上に飛び出したイグアスが悪いのです」
「そうなることも考慮しなければオペレーターは務まらん。お前も焦るな、エア。621と共にゆっくりと馴染んでいけばいい」
「……努力します……」
「それでいい。今日の夕食は白身魚のパスタでいいか?」
「……大盛りでお願いします」
そんな二人の会話を聞きながら、朝食を口にする。消化器系もすっかり身体に馴染み、普通の人間とほぼ同じ食事を摂れるようになった。お陰でこうしてエアが少し焦がしたスクランブルエッグを堪能できる。
でも、それは彼女の料理の腕が上がったからだけではない。
「レイヴン、サラダも食べて下さい」
「……621。無理はしなくていい。駄目なら言え、調整する」
「ウォルター。そうやって甘やかすからレイヴンが偏食になるのです。それから、何でも調整するで済ませようとするのもやめて下さい」
「ようやく味覚も取り戻したところだぞ。好きなものを自由に食えばいい。レイヴンは自由の象徴なのだから」
「詩的かつ抽象的な物言いで煙に巻いてくるオペレーターのような発言もやめて下さい」
二人の何でもない話が、最高の調味料なのだ。
三人で朝食を囲み、部屋の掃除を行い、エアと共に外出の支度をする。
「今日はラスティの所か?」
「彼だけではなく、スネイルたちも来る予定です」
その名前に、ウォルターの目に難色が浮かぶ。
彼は何者にも与しないしないが、昔からの付き合いもあって、どちらかというとミシガン──ベイラム側だ。アーキバスには苦手意識を持っている。それでもラスティやオキーフなら、こうした露骨な反応はしない。
「フロイトも来ます。スネイルやスウィンバーンは彼の相手で余裕などないでしょう」
「……目付け役で手一杯か」
ウォルターも一緒に来る?
「悪いが、俺は野暮用がある」
「またミシガンとチェスですか?」
「であれば気も楽だがな。奴の言う”愉快な遠足”の手伝いだ」
イグアスとヴォルタによろしく。
「分かった、伝えよう」
「ではまた夜に」
靴を履く。顔を上げると、エアとウォルターが、どこか嬉しそうに自分を見ていた。
ただ一人で靴を履いただけなのに。子供でもできることなのに。
でも、自分が誰の助けも無く、一人で靴を履けるようになったのは最近のことだ。
エントランスの脇には電動車椅子がある。少し前までの相棒だ。
そんな相棒に背を向けて、ウォルターに行ってきますと告げる。
「ああ。気をつけて行け、621。エア」
はい、と答えるエアと共に、外に出た。
ACシリーズで一番好きなBGMはSilent Lineです。