ロビーの片隅にある自動販売機で微糖のコーヒーを買い、レオは壁に寄りかかって妹の試合が終わるのを待った。温かいコーヒーを片手に持ちながらぼんやりと天井を見上げる。三階まで吹き抜けの広い空間に、彼の思考はゆるやかに漂っている。
カップから立ち上る微かな湯気が彼の顔にかかり、心地よい温もりが伝わってくる。舌に広がるほんのりとした苦味と甘さが、考えをより一層散らばらせるようだった。妹が帰ってくるまでのこの時間、レオはいつものようにスマホを弄りつつ頭の中でいくつものことを並列して考えていた。
そして、ふとこれから先の訓練のことも頭に過る。
(B級……B級ランク戦か……)
ボーダーでは戦闘用のトリガーのポイントを4000ポイント以上貯めると訓練生からB級隊員へと昇格することができる。正式にはB級隊員以上がボーダー隊員とみなされ、給料が支給されるようになるのだ。
(B級がスタートラインってところか)
レオはコーヒーを飲みながらロビーを見渡す。
ロビーには、多くの若者たちがそれぞれの時間を過ごしている。
アリスはまだ戻ってこない。だがレオは焦ることもなく、こうして暇を潰している。彼の手の中のコーヒーは少しずつ冷めていくが、それもまた一つの小さな変化として彼の意識の中に刻まれている。思考の波が絶え間なく押し寄せる中、彼はただ静かに妹が帰ってくるのを待っていた。
「兄さんごめん、待たせちゃったみたいね」
「……いいや、別に待ってない。俺もさっき終わったばっかりだ」
ぼんやりと目を瞑っていたらいつの間にやらアリスが隣に立っていた。兄の言葉を聞き、その冷めたコーヒーを見てだいぶ待たせてしまったと言うことは察したが、兄の気遣いを無に帰す必要はないのでお互い同じくらいの時間で終わったと言う事にしておいた。
「とりあえず、これで私達はB級って事でいいのよね」
「ああ」
「B級になると、今度はまたそこでランク戦って奴をやるのよね?」
「ああ……お前が言いたいのは、チームの事だろ?」
「そう、それよ!」
アリスはビシッとレオの事を指差すと、そのまま強めに頬をつんつんと差す。
「私と兄さんは決定事項として他の人はどうするの?オペレーターとか必要なんでしょ?」
「それだけじゃない。A級に確実に上がるためにはもう1人くらい仲間が欲しい」
「それって必要?」
「いた方が良い。例えばそうだな……スナイパー。援護と狙撃が的確な、優秀な奴がいい」
「そんな都合の良い人がいるかしらね」
「神にでも祈っとくさ」
「ホンット、都合のいい時だけ神様に頼るんだから。似非キリスト教徒」
「お互い様だろ」
アリスは呆れたような目でレオを見ると腕を組む。
「それで、とりあえず必要なのはオペレーター?」
「そうだ。スカウトに行ってくれ」
「結論が早いわ!私が行くの?」
「男の俺が行くより話が早く通りそうだろう」
レオは自販機でミルクティーを買ってアリスに渡すとC級の訓練生用ロビーを出て廊下を歩く。壁に貼られた地図をチラリと見て館内の構造を把握すると迷いなくオペレーターのいる部屋へと足を進めた。そしてふと、仮眠室の前で足を止めた。
「神のお告げだ。俺はここで待ってる」
「兄さん眠いだけでしょ、呆れるわ……」
アリスは「まあいいわ」と言うとレオの肩を軽く叩いて1人オペレータールームへと足を進めた。
その部屋には心地よいざわめきが満ちていた。真っ白な壁が清潔感を漂わている。大きなテーブルが部屋の中央に並べられ、その上にはパソコンが整然と並んでいた。各パソコンの前には、女子たちが座っており、それぞれのモニターに向かって忙しそうに手を動かしている。
だが、その忙しさの中にも、和やかな雰囲気が漂っていた。モニター越しに交わされる軽口や笑い声が時折聞こえ、彼女たちの顔には笑顔が浮かんでいる。
テーブル上のパソコンのキーボードを叩く音が心地よいリズムを刻み、それが部屋の温かな雰囲気に溶け込んでいく。時折、誰かが何かを思い出したように声を上げ、他の子たちがその話に笑い声で応える。部屋全体に広がる和気藹々とした空気は、彼女たちがただ仕事をこなしているだけではなく、この空間での時間を楽しんでいることを物語っていた。
(さて、誰に声をかけたらいいのかしら)
アリスが入り口の前に立ち頭を悩ませていると、「B級の人?」とスタッフの女性が声をかけてきた。新しくB級になったのでチームを組みたい、その為にオペレーターのスカウトに来たと伝えると、彼女は納得した様子で現在誰ともチームを組んでいないオペレーターを紹介してもらえた。
(狙いどころは……真面目で、出来れば気が強くない方がいいわね)
勝ち気、もしくは強気な女性を選べば間違いなく兄とぶつかる。兄は認めた人には優しくなるが、そうでない人の事を邪険に扱う節がある。自分もあまり褒められた性格をしていない事に自覚はあるが、兄ほどじゃないと思う。
(兄さん……相手が女子でも嫌いな人には嫌いって露骨に態度に出すから、絶対揉めるわね……)
揉め事にならなそうな人を探そう。紹介された女性達の中から大人しそうな女性3人に目をつける。ウェーブのある長髪、穏やかそうなタレ目の柴田。オールバックでポニーテールの女性、富士崎。ピンクラベンダーの髪に、おしゃれな眼鏡をかけた女子、綿貫。
その3人の仕事っぷりを眺める。
(柴田って子はすっごく控えめな感じ、兄さんにビビっちゃいそう。富士崎さんは逆に真面目すぎてちょっと相性良くないかも……。そうなると綿貫って人かな、テーブルにポテトチップス置いてあるし、ある程度緩い方がいいわよね)
そう判断してアリスは綿貫のテーブルに行き、声をかけた。
「ねぇ、ちょっといいかしら?」
「はわっ、なな、何ですかなッ!?やましいことはしておりませんですわよ上官!仕事はちゃーんと終わってます!」
「やましいことしてたのね……と言うか私上官じゃないし……」
綿貫は慌ててパソコンに映っていたランク戦の映像を消すと、椅子をぐるりと回してコチラを見た。だが彼女の言う“上官”ではなかった事に安心したのか「ふぅ〜」とため息をつき、汗もかいてないのに額を拭うような仕草をした。
「えーと、初めましてだよね。私は綿貫真凛。分かると思うけどオペレーターをやってます」
「私は三条アリスよ。今はB級隊員をやっているわ。すぐにA級になるつもりだけどね」
「なるほどなるほど、つまるところ……オペレーターのスカウトって奴ね」
「話が早くて助かるわ」
綿貫は「う〜ん」と悩むような声を上げつつ伸びをするとパソコンをすごい速さで弄り始めた。何を見てるのかとアリスも覗き込んで見るが綿貫は文章を読むのが凄く早かったので、よくわからなかった。
「ピンと来たわッ!!」
「何が?」
「私、貴方達のチームに入ります」
「結論が早いわね。普通もっと悩まない?」
「まぁね、自分で言うのもおかしな話だけど、私これでも結構優秀でね。他にも何人かに声をかけられていたけど、ピンと来なかったから断ったのよ」
「ふぅん?」
「どうせやるなら行けるとこまで行きたいじゃない?私はこう、
「よく分からないけど強い人と組みたいって事ね。それなら貴女はいい判断をしたわ。だって私達はすっごく強いもの!」
「ええ!
「よく分からないけどそうと決まれば話は早いわ!兄さんのところに向かうわよ!」
アリスは笑顔で綿貫の手を引いた。綿貫はそれに「ん゛ッ」と珍妙な声を上げて着いていく。2人がC級の訓練室のロビーの前を通りかかった時、入り口の前で小柄な男性がキョロキョロと誰かを探している様子なのが目に入った。
「あの子、誰か探してるのかしら」
「あ〜、あ〜……う〜ん。ま、私達には関係ないわね!バレない内にお兄さんの所に向かいましょう!」
「バレない内に?」
「さささ!さあ!」
綿貫はそそくさとアリスの背を押してその場を去った。優秀な成績を持ち、調子に乗った訓練生がいるとB級、もしくはA級の隊員がその様子を見にくるというのはボーダーでは良くある光景だった。優秀であればスカウトを、礼儀がなっていないものであれば上位者の洗礼を。綿貫は何度かその光景を見てきた。すぐれたトリオン量で調子に乗っていた訓練生はB級に上がった途端更に上の隊員にボコボコにされ、身の程を知らされる。治安を乱した不良訓練生もまた、ボコボコにされて身の程を知らされる。
(絶対レオ君のこと見に来てるよね、風間さん)
訓練の場で中指を立て、対戦相手に舌を出して挑発をして、罵詈雑言を吐く。目をつけられない理由がない。しかもトリオン量が非常に優れているときた。
(B級になったから二宮さんとかにも目をつけられそうだなぁ……うわぁ、超面白いじゃん)
綿貫は内心ニシシと笑うとアリスと共にレオがいるという仮眠室へと小走りで向かった。
仮眠室は静寂に包まれていた。広くはないその部屋にはベッドがいくつか並んでおり、薄暗い照明が優しく床を照らしている。白い壁はシンプルで余計な装飾は一切なく、その静けさを一層引き立てていた。
「さて、兄さんはどこかなぁ」
アリスが視線を巡らせると、一番奥のベッドに目的の人物を見つけた。掛け布団もかけずにどかりと横になっている。仮眠室に来たが別に寝たかったわけではなかったようで、レオの視線は手元にあるスマホに釘付けだった。画面の光がレオの顔を淡く照らす。
スマホの画面に集中しているせいか、レオの表情はほとんど変わらない。まぶたが少し重たくなってきたようで、時折瞬きを繰り返す。
「兄さん起きて〜」
「寝てないだろ。どう見ても」
「寝そうじゃない、眠かったんじゃない。いっつも忙しなく考え事ばっかしてるからそうやって寝不足になるのよー」
アリスは雑にレオの肩を掴むと大きく揺すった。レオは眠そうに目を瞑りながら少しだけされるがままで揺らされていたが、やがてゆったりと起き上がった。
「オペレーター、連れてきたわよ」
「初めまして〜。私、
「本当に見つかったのか」
「見つからないと思ってたの?」
「もう少し時間はかかるかと思った。当日中に見つけられるとは先行きがいい」
レオはベッドから足を下ろして靴を履くと立ち上がる。そして10センチほど低い綿貫のことを見下ろした。綿貫は隈のある鋭い目つきを見ても怯むことなく手を差し出した。
「話題性のある兄妹のオペになれるなんて私ツイてるわ!よろしく頼むわね」
「お〜」
レオが綿貫の握手に応えたことで、アリスは内心「よし!」と思った。レオは手を離してから、少し首を傾げて尋ねた。まあ大体想像はつくが気になることがあったのだ。そのことを問う。
「話題って何?」
「トリオン量だけでイキってるクソッタレ金髪ヤンキーがいるって」
「お前よくそれで俺らのオペレーターになろうと思ったな」
「つまらない人よりは面白そうな人の方がいいわ」
「変わってるよ」
「そんな事ないわよ」
アリスは内心、2回目の「よし!」の声を上げた。問題なく会話が続いている。とりあえずこの3人で今後の予定を考えようという話になり、カラオケに向かった。テーブルに座り、ソフトクリームを食べながら先のことについてを話し出す。
「とりあえず私達はA級を目指すんだね?そうなるとランク戦の一試合一試合がすごく大切になる」
「ポイント集めが重要なんだろう。ランク戦が終わった時の上位2チームがA級昇格のチャンスが与えられる」
「そうそう。ランク戦以外にも防衛任務とかあって、そっちも大切なことなんだけど、まあちゃんと仕事に出ていれば問題ないから説明端折っちゃうね」
「ああ」
「それで、ランク戦に挑むにあたって、すっごく大事なことがあるんだよ」
「ポイント集めが大事って今言ったじゃない」
「それ以前の話よ!」
綿貫は咳払いをするとiPadをテーブルの上に置いた。これはボーダーからオペレーターに配布されるものだ。このiPadでは所属しているチームの事を管理できるようになっている。
「それはッ、隊服!!」
「何でもいい」
「メイド服でも?」
「前言を撤回する」
レオはソフトクリームを食べながらそう言った。綿貫は「うふふ」と笑いながらiPadに表示されているメイド服の画像を消し去る。
「まあメイド服は置いといて、隊服は大切だよ。統一感が出るし、お揃いの服ってだけでなんか一体感生まれるし……あとあれ、いい感じになるし」
「雑だな」
「要するにロマンがあるってこと!どうせならスマートにかっこいいのがいいでしょ」
「ジャージはダサいから嫌〜」
芋臭いし子供っぽいじゃないかとアリスは嫌そうな顔をした。体育の授業以外では積極的に着たくない服だ。とはいえ、隊服にだってルールはある。“住民に威圧感を与えないもの”、“人に不快な思いを与えないもの”、“公序良俗に反さないもの”だ。
トリオン体の姿形は自由に作れるため、この辺のセンスは隊員に委ねられている。
「この辺のはどうかな〜、私がチームに所属したらどんな隊服がいいかな〜って妄想してた奴なんだけど」
綿貫は自分が描いたと思われるデザイン画を見せてくれた。どれもセンスは悪くはないが若干コスプレっぽく感じるものが多い。
「じゃあ、これとか……」
「お!いいねぇ」
「私のはデザイン変えて、短パンにしてよ」
「アリスちゃんは分かってるねぇ!」
綿貫はランク戦が始まる日までに必ず完成させておくと伝えてアプリを閉じた。そして再びボーダーのアプリを開くと、「とりあえずトリガー設定でも大まかに決めとく?」と尋ねる。
「そうトリガー!気になってたのよ私!B級になったら色々選べるんでしょう?」
「大まかなセットはみんな同じだけどね、シールドとかバックワームとか」
「アタッカーか、ガンナーか、そういうのを決めておきたいってことか?」
「流石。調べてあるんだ?」
「当然だ。勝つ為には情報収集は大事だろう。それに、知らない事を知るのは楽しいし、思考を巡らせるのは悪くない」
「だから寝不足になるのよ」
「うるさいぞ」
「事実だもん」
アリスはジト目で兄のことを見てからミルクティーを飲み干した。
「私はもう決めてるわ。アタッカーやる」
「俺だって決めてる。シューターだ」
「シューター?銃じゃなくて?」
「ああ。トリオンを直接撃ち込む攻撃方法を行うのがシューターだ」
「ふぅ〜ん」
「確かにレオ君くらいのトリオン量ならシューターは向いてるわね。アステロイドの威力的には二宮さんと同じくらいかな」
「あ?二宮?」
「誰それ?」
「A級にいる人。いつか戦うことになるかもね」
「「ふぅーん」」
兄妹でリアクション同じだな、流石双子だと綿貫は感心する。
「次のランク戦は……3月5日だね」
「俺達は最短でA級になりたい。そうなるとそこで満点取って、中位に行かなきゃ話になんねぇな」
「最短か。その場合は確かにそうだね。4月で更にポイントを稼いで、6月には上位チームに入りたい。7月には上位2チームに入って、8月もその地位をキープする。そうすれば9月にA級昇格試験を受けられる。最短ならこのパターンだね」
「じゃあそれで行く」
「口で言うほど簡単じゃないぞぉ?」
「気にするな。俺には才能がある」
「お、自信家だね」
「当然だ。自惚れでも吹かしでもねぇって事をランク戦で証明する」
「へぇ、何すんの?」
「雑魚どもをメテオラで全部ぶっ潰す」
「……へ?」
思っていたのと違う発言に綿貫は目を点にして驚いた。そんなこんなでその日は解散になり、訓練を続けていればあっという間に月日は経過して行った。
* * *
3月5日。
ランク戦の日がやってきた。大きなモニターの前にはたくさんの客席が配置されており、そこにはA級隊員の姿もある。暇なものはボーダーのこの一大イベントを見逃さずここに足を運ぶのだ。しかも今回は話題の兄妹の初試合。果たして前評判通りの実力を見せるのか、それとも大した見せ場もなく散っていくのか。できれば無様を晒して欲しいと思っている隊員は多かった。
そんな中、待ちに待った試合が始まろうとしていた。
B級ランク戦。
それは上位、中位、下位という3つのグループに分けられ、それぞれに所属するチームの面々が仮想空間に転送され、三つ巴もしくは四つ巴でチーム戦を行いポイントを取り合う試合の事だ。
点を取る方法はシンプルだ。相手を倒せば1ポイント、最後まで生き残ったチームには生存点が2ポイント。
当然、レオ達は全て倒し、生存点も狙う。
『本当にやるのね?』
「当然だ、こんな試合で手の内を晒してたまるか」
『まあ一理あるけど、一理あるけども〜』
「一理あるけど何だ?さっさと言え」
『そう言う戦い方を嫌いそうな人の姿が観覧席に見えるなぁ……って』
「説教でもしにくるってか?」
『多分ね』
「知った事じゃねぇな、無視する」
『お゛ぉ゛あ゛〜』
「なんだその潰れたヒキガエルみたいな珍妙な声は」
『潰れたヒキガエルの声なんて聞いた事ないでしょー』
「ない」
「ちょっと、うるさいわよ!集中してるんだから!」
「集中なんて必要ないだろう。全部吹っ飛ばすんだから」
「巻き込まれないように逃げるシミュレーションしてるの!みっともないところは見せられないからね!」
「そうか」
そんなこんなで雑談をしているうちにレオ達は仮想空間へと転送された。