スズカの春休みはまだか、まだかとわくわくしつつ迎えた3月。
所属しているコーチの人からスズカはこのまま成長していけば能力は中央でも十分いけるとお墨付きをもらっている。
そう言われたスズカの両親は、スズカ本人の希望もあって中央のトレセン学園へ入れる方向性だ。
3月の中旬を迎えた頃にスズカ一家はトレセン学園の見学会へと行く。もちろん犬の俺もいっしょに。
パパの運転する車に乗り込んで最初は窓越しにぼぅっと景色を見ていたが、俺と同じ後部座席にいてシートベルトをつけているスズカにお願いされて俺の頭はスズカの太ももの上。
そうすると車内という狭さもあって、密着しているスズカの匂いを強く感じられる。
スズカは野菜をよく食べるからか体臭がきつくない。肉をメインで食べているパパは匂いがくさいから対比でよくわかる。
朝、俺と一緒に散歩をしたからかスズカからは自然の匂いというものを感じられる。
それは草むらの中、砂利道、アスファルトの道を歩いたときの。そういうのは靴にしか匂いがつかないかと思っていたが、どことなく感じる。
人間とは違って、これが犬の嗅覚ということなのかもしれない。
他にも大人と違って子供は大人のようなくさい匂いが少ないから、他のがよくわかるのかも。
俺はスズカに頭や背中をなでられながら落ち着いた気分で寝てしまう。
ふと目を覚ましたとき、外をつまらなそうに見ているスズカの顔があった。
「アトラス、起きたの? まだ寝ててもいいのよ」
犬はよく寝る生き物とはいえ、寝てばかりなのもつらいんだ。
手足をばっと伸ばしてストレッチをしたあと、ぼんやりする頭で車内を見回す。
車はまだ走っていて、俺は頭をしゃっきりさせるために窓とスズカの顔を交互に見つめてはスズカの太ももを手でぺしぺしと軽くたたいて窓をあけてとアピール。
そうして開けてくれた窓から顔を突き出す。
時速40㎞ほどの風圧で目はしっかりと開けられないが顔にぶつかる冷たい風! 口を開けると口の中いっぱいに風が入ってくるのが超楽しい!
スズカもやってみろって! ほら、楽しいだろ!? なに? ……私のほうが速いだって?
そうかもしれないが、この速さは車でないと実感できないんだって俺は!!
俺の喜ぶ顔に不満そうなスズカは俺のほっぺたを両手でむにむにとさわってくるが、されるがままにして風と景色を楽しむ。
ウマ娘という種族がいるから道路の看板や標識は前世と違い、改めてウマ娘世界にやってきたんだと感激する。
今までも自宅周辺にウマ娘専用レーンがあるのは見たが、どこの場所でもそれがあるというのはウマ娘が人間といい感じに混ざっているんだなぁって思う。
この世界の歴史がわかれば、人とウマ娘が仲良くなった過程が楽しめそうなんだが。
前世で有名なモンゴルの弓騎兵やポーランドの有翼重騎兵フサリアがこっちだとどう変化したか知りたいところだ。
時々ウマ娘用レーンで走っている大人のウマ娘を車で追い抜くのを見つつ、歴史に想いをはせているとトレセン学園に近いホテルに着いたとパパに言われる。
見学会は明日だけど、早く来てスズカの疲れをなくしたいとのことだ。
なんでも見学会の日はプロであるトレーナーたちに走りをチェックしてもらえるから。
お昼ご飯を食べて少し休んだあとは、先に学園を見たいというスズカの希望通りトレセン学園へと向かう。
歩いてやってきたのはアニメやゲームで何度も見たことのあるトレセン学園正門前だ。
明るい太陽に照らされて色鮮やかなレンガつくりの壁と門。門の柱には『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』という文字の看板。
午後3時頃の今は赤いジャージ姿で走っているウマ娘たち。
……生きててよかった。好きだった作品を現実として見られるだなんて。もう最高! とテンションが高くなってくる。犬の目で色が正しくわからないのなんて小さな差だ!
すごいという感情しかない俺の尻尾はぶんぶんと振り回すほどに勢いがよく、目や耳は全力で稼働している。
今いる場所は正門から道路を挟んで反対側。立ってきらきらとした目で見つめているスズカの隣におすわり状態で座っている。
パパとママは、スズカが気にせず好きなだけ見ていて欲しいと言って、少し距離を取ったところで見守ってくれている。
練習中のウマ娘の邪魔にならないよう、スズカと一緒に見ていく。
ウマ娘たちの靴がアスファルトを蹴る低い音。雑談をしながら楽しそうに走っている声。荒い息をつきながらも頑張って走っている息遣い。
そのどれもがいとおしい。
すべてのウマ娘ファンがあこがれる光景を目にしているが、足りないものがある。
原作キャラクターだ。今のところ、記憶にあるウマ娘を見ていない。
まだトレセン学園に入学していないのかと残念に思ったその時だ。
遠くにいるからぼんやりとしか見えないが、人よりも色が把握できない犬の目でもなんとなく色合いが気になったウマ娘がいた。
その子に集中してランニングで近づいてくるウマ娘を見ると、ジャージを着て頭の右側に小さな帽子をつけている子はミスターシービーだった。
……なにっ、ミスターシービー!? 落ち着いてみている場合じゃねぇ!!
「わんっ! わんっ!!(シービー! 本物のシービーだ!)」
腰のあたりまである髪をなびかせているミスターシービーの姿を見ながら、わんわんとほえているとシービーは立ち止まって俺へと不思議そうな顔を見てくる。
ゲームで見た姿よりも幼いけど、まぎれもなく彼女はミスターシービー!!
ほら、スズカも見てくれ! 未来の三冠ウマ娘だぞ!?
三冠ウマ娘のミスターシービー! この時点だとデビューはしていないけどな!
ひゃっほう、とテンションMAXで喜んでいたらシービーは俺とスズカを見てから笑顔を浮かべて走り寄ってくる。
そして俺たちの前へとやってきた。
「こんにちは。君たちは散歩中かな?」
「あ、いえ。明日の見学会に来ました。今日は学園を先に見ておきたかったんです」
「そういえばそんなのがあるって聞いたね。……あそこで見ているふたりはご両親? あぁ、やっぱり。お父さん、お母さん、こんにちは!」
スズカの話を聞いたシービーはあたりを見回すと、俺たちを優しい目で見ているパパとママに気づく。
そしてスズカに聞くとうなずいたのを見て、元気よく声をかけて頭をさげた。
パパとママも頭をさげて挨拶をしている。
「ねぇ、学園のまわりを走っている子たちを見てどう思った?」
「走る姿勢が綺麗です。みんな!」
「ふふ、入学するともっとびっくりしちゃうよ。もうね、すごい走りをする人が多いからね」
「すごい走りですか。……学園だと自分がしたい走り方ってできるんですか?」
不安そうな顔になったスズカが聞くと、シービーは空を見上げてから顔を戻す。
「自分次第かなぁ。トレーナーというのは自分自身の理想か、担当ウマ娘にもっともいいと思う走りをさせるからね。トレーナーに強く主張するか、自分に合うトレーナーを探せば大丈夫だと思うけど」
「お姉さんはどうなんですか?」
「アタシ? アタシはまだ担当トレーナーがいないからなぁ。トレーナーが決まっていない子たちの面倒を見てくれる教官に教えてもらっている段階だからね」
スズカが学園のことを聞き、シービーが教える。
この光景をちょっとだけ離れて俺は見ている。原作キャラクター同士が話をしているというだけで感動ものだ。
そしてスズカがシービーの影響をどう受けるかが楽しみだ。
アニメで走りについて悩んでいたのを、シービーがきっかけで変わるかもしれない。
「お姉さんにとって走ることはどういう意味を持ちますか?」
「自由。自由だよ。走るっていうのは決まりごとに縛られない自由の象徴だと思うんだ。だからアタシは走りたい時は走っている。雨の日でも授業中でもね。君はどう思っているの?」
「私も走りたい時は雨が降っても走っています。レースだと前を走るのが好きです。練習で走るのと違って、先頭でしか見えない綺麗な景色があるんです」
「わかるよ、その気持ち。アタシもレースだけにしかない独特な快感ってのはあるからね。その考えを大事にすれば、自分自身の走りは誰にも変えられないよ」
こういうやりとりを見られるのはめっちゃ幸せ。
この時点ではふたりに知名度なんてのはないから前世の記憶を持つ俺だけが今の状況に喜び、この光景を独占していると言ってもいい。
「そういえば名前を言ってなかったね。アタシはミスターシービー。君の名前は?」
「サイレンススズカです」
これって名シーンって呼ばれるところじゃない?
アニメでもあった、小さいトウカイテイオーがシンボリルドルフとこんな感じの話をしていた気がする。あと小さいキタサンブラックとトウカイテイオーもやっていたっけ。
これを生で見られるだなんて幸せだ!
それにこの出会いをきっかけにスズカは変われると思う。将来、チームリギルに入ったとしても自分を失わずに先頭を走り続けるという想いをハナさんにぶつけられそうだ。
いいものを見たなぁとしみじみ思っていると、ふと気づいた。
今ならふたりの間に挟まれるってことを。
俺は百合の間に挟まりたいと考えていて、今こそ実行する時だ!
いや、このふたりの関係は百合じゃないし、いちゃいちゃもしていない。後輩をみちびく先輩といった関係だろう。
だが長いあいだ百合に飢えていた俺は今、物理的に間へと入りたいんだ!
おすわり状態から、素早く走ってはふたりの間に突入!
立ったままでふたりの顔を見ながら、挟まった俺がすることと言えば!
…………何をすればいいんだ。ふたりの驚く顔は見れたのはいいが。
驚くのを見たいのなら、BLの間に挟まっても同じことができる。
思い出せ、人間時代の俺! 三角関係にあこがれたのか? それともふたりの友情や愛情を間近で見たいから?
「アトラス、抱っこ!」
そうして頭を悩ませているとしゃがんだスズカからの指示が来た。無意識でそれに従い、立ち上がってはスズカの両肩に前足をそれぞれ置く。
するとスズカは俺の背中に手をあて、お尻を持ち上げて抱き上げて立ち上がる。
子供とはいえ、大型犬の俺を持ち上げられるのはウマ娘ならではだ。
小さい体に大きい犬を抱っこする姿は、他の人から見ればギャップ萌えというかなんかいいと思ってくれると嬉しい。
ほら、小さい子が大きい銃や剣を持つような感じで。
「へぇ、おとなしい子だね。さわってもいいかな?」
「はい。アトラスの毛並みはふわふわですよ」
「それじゃ失礼するね。……わ、ほんとだ。さらさらするし、シャンプーの香りがするね」
「おととい、お母さんと一緒に洗ったんです。だから、さわると気持ちいいんです」
旅行するからということで、おとといはスズカとママに風呂場で体を洗われたんだ。
犬や猫には体を洗われるのは嫌いだという子がいるのもわかる。人間の記憶があるから体のあちこちをごしごしと洗われるのは自尊心というか、そういうプレイを──。
いや、動物はそこまで思わないな。これは俺だけだろう。
洗い終えたあとのドライヤーによる乾燥はあたたかくて気持ちよかったです。
俺はスズカに抱っこされたまま、シービーの方へと顔を向けてさわられている。犬に慣れていないのか、手つきがぎこちない。
あとで黒柴っぽい犬の印象があるカツラギエースとじゃれてほしいね。俺で経験を積んだようだし。
「このわんこは私を見てほえたけど、何か理由があったのかな?」
「ミスターシービーさんの走りが気に入ったかもしれません」
「へぇ。もしそうなら君はアタシのファン1号だね」
ファン1号! 嬉しいことを言ってくれるね。うん、お返しにもっとさわってもいいぞ!
スズカの肩から手を離して手を振るアピールをすると、シービーは俺の肉球をぷにぷにとさわってくる。
シービーは俺の手をちょっとさわったあとに離れていく。
「さわらせてくれてありがとね。この子の毛並みと肉球は気持ちよかったよ。それじゃ、アタシはランニングに戻るから」
「お話、ありがとうございました!」
「明日の見学会、楽しんでね!」
お互いに胸元で手を振りあい、シービーは学園の外周ランニングに戻っていった。
これ、いい感じで話が終わったけど、もしかして追い込みで走るスズカが生まれるきっかけになるか?
考えてみればアニメ1期では骨折後の復帰レースをしたときに、出遅れたスズカはサンバイザー相手に追い込みで勝っていたし。リアルだと出遅れた弥生賞でもやっていた。
でも先頭で走るのが好きなスズカだから逃げるのは変わらないか。
シービーと出会ったことでいい方向に進んでいくのを願いながら、気分がいいスズカに抱っこされたまま移動する。
パパとママに合流すると、そのまま学園から離れていく。
え、もう行くの? これからカツラギエースが来るかもしれないし、もっと見ていたいんだけど。
スズカは明日があるが俺は来る予定はないんだぞ!? だから降ろしてくれ!
くっそ、スズカががっちり抱きしめているから降りられねぇ!
力任せに暴れるとスズカの肌に傷がつくし。
他にできることと言えば……。
おろしてー!!
と、心の中でさけぶだけ。
でも今回のことがきっかけでスズカにいい影響が出るに違いないと信じる俺は安心する。
将来、アニメのように大けがをするかもしれないけど、トレセン学園に入って走る目的を見失うようなことはなくなりそうだから。
決められた物語から、ほんのわずかだけども影響を与えられて俺は嬉しい。
尻尾をぶんぶん振るほどにな!