生徒会室。
その玉座ともいうべき会長執務机に独り腰を据えた白銀御行は、一枚のちっぽけな、しかし彼の人生にとって重大な意味を持つ書類を手に、感慨にふけっていた。
スタンフォード大学合格通知!
ネットですでに結果は伝えられていたが、こうして正式な書面を受け取ると、世界でも10本の指に入る超名門大学への門戸が開けたという実感と喜びが、ひしひしと胸に迫ってくる。
“アメリカ留学かぁ。我ながら、とんでもないチャンスをモノにしてしまったな。”
留学生活への不安は、さほどない。スタンフォードは非常に手厚い奨学金制度で著名な大学であり、授業料の免除のみならず滞在費や生活費を含めた学費を全額負担してくれて、しかもその奨学金はよくある貸付ではなく全額返済不要である。経済面での心配はまずない。
加えて、白銀は英語力には相応の自信があった。フランス語などの第二外国語の素養はないのでフランス校との交流会ではだいぶ冷や汗をかいた彼だが、大学受験に必須の英語だけは読解・作文・会話のすべてを高いレベルでモノにしている。
“俺は、スタンフォードに行っても、十分にやれる。やってやる。つい数年前までは夢見ることさえしなかった、輝かしい将来が目の前に広がってるんだ。”
スタンフォード大では100を越す専攻分野を選択できる体制が整っている。白銀には「好きな天文学がやれたらなぁ」というぼんやりとした希望はあるものの、将来のビジョンはまだふわふわとしたものに過ぎない。いくら「天才」とはいえ、なにせまだ17歳なのだ。
しかし、このチャンスを足掛かりに、世界に羽ばたく最高峰の人材のひとりになれるのではないかという漠然とした夢と希望で胸がいっぱいになるのは当然の流れであった。
“仮に天文学を学ぶとして、だ。せっかくアメリカに行くのだから、卒業後はやっぱあそこで働きたいよな。”
宇宙に憧れを持つ者が、ぼんやりと夢見る就職先とは…
そう、NASAである!
NASAの職員と一概に言っても、具体的な業種は様々である。たとえば、白銀が今のところふわふわっと希望している天文学の研究職ならば、やはり天文観測台の観測員が花形であろう。
2020年現在、最先端の観測施設として注目されているのはLIGO(レーザー干渉重力波観測所)だろうか。もし、天文マニアである白銀に「LIGOって何ですか?」と尋ねたが最後、「重力波とはアインシュタインが一般相対性理論で予言していた時空の波動でな、2016年にこの重力波を世界で初めて実際に観測したのがLIGOなんだ。重力波観測のすごいところは、従来の光学・電波式宇宙望遠鏡では観測しえなかったダークマターやビッグバンなどを含む様々な現象を…。」と、小一時間は講釈を早口で垂れるに違いない。
だが。今の白銀には、そんな具体的で実際的な将来の目標を見定める緻密さはこれっぽっちもなかった!
“NASAっていやぁ、やっぱ宇宙飛行士になるっきゃないだろ!?”
身の程知らずなドリーム!
白銀の運動センスのなさと不器用さを幾度となく身をもって痛感させられてきた藤原がもし耳にしたならば、反射的にハリセンでめった打ちにしかねない身の程知らずさである!
父や妹、教師たち、そしてかぐやの前では、
「運よく合格できたものの、喜びうかれる心境になんてとてもなれないよ。日本の大学とは違って、入学してから本当の試練が始まるんだ。」
…などと、極めて厳粛な面持ちを装っていた白銀だが、こうして独りで合格通知書を見つめていると、奇声を発しながら半狂乱でシャドウボクシングをしたくなるほどに浮かれまくっていた!
その結果が、宇宙飛行士という大それた夢想である。
「Hey,ミユキ! ヒューストンからお前さん宛に通信だ。」
いきなり謎のアメリカ人が登場して困惑している読者のために解説しておくと、彼は白銀がただ今夢想中の初宇宙飛行ミッションでスペースシャトルに同乗している「ロバート・F・ルイス船長」である。
「俺個人宛? なにかのジョークか、ボブ? あんたにそんなユーモアのセンスがあるとは驚きだ。」
「ジョークならもっとリアリティのあるヤツにするさ。そっちに繋ぐ。」
「…あの、会長?」
「四宮!? なぜお前が…。」
「どうしても会長の声が聞きたくて、無理を押し通してしまいました。」
「ふふふ、まいったな。困ったやつめ。」
「ごめんなさい。やっぱりお仕事の邪魔ですか?」
「いいや。ちょうど手が空いていたところでな、船窓から地球を眺めていたんだ。」
「それは…きっと素晴らしい眺めでしょうね。」
「ああ。俺はずっとこの光景を夢見ていた。そして、想像していたよりもはるかに美しい。」
「ん…なんだか妬けてしまいます。会長を宇宙に取られたみたいで。」
「馬鹿だな。それは根本的に間違っているぞ、四宮。」
「えっ?」
「地球がこんなにも美しく見えるのは、お前がいる星だからだ。」
「!?」
「俺はたった今、一般相対性理論よりも偉大な真理を悟ったよ。この無限に広がる大宇宙で、最も尊く美しい奇跡とは…他でもないお前が待ってくれている俺の故郷だってことを。」
「ああああッ、イイ!」
自分の妄想に、白銀が両手を口元に当ててうっすらと涙ぐんでいた。
「なにこれ、感動! 映画化、決定!? 全米大ヒットNo.1!?」
白銀は、ハリウッド映画界をだいぶナメている。
「…なにが映画化するんです?」
「おわっ、石上!?」
いつのまにか生徒会室に入ってきていた後輩の姿に、白銀が盛大にテンパりながら目元の涙を拭った。
「いや、なに…『今日は甘口で』がハリウッドリメイクされたらと想像したら、それだけでちょっと泣けてきてな。」
「ハァ? どう考えても地雷でしょ、そんなの? あっ、それ合格通知ですか、スタンフォード大の?」
「お、おう。」
「へぇ、すごいな、ホンモノだ。見てもイイっすか?」
「ああ、構わんぞ。ほら。」
すっと差し出された通知書を、石上は少し怖々とした手つきで受け取った。
「うわ、なんか手が震えちゃいますよ、マジで。すげぇ。」
「よせって。ただの紙切れだ。正直俺も、まだ現実感がなくてな。あと10か月かそこらで海外生活が始まるなんて、自分でもピンと来ないよ。だいいち、俺はひとり暮らしだって初めてで…。」
「ホントに行っちゃうんですね、アメリカ。」
手元の通知書に目を落としたまま、ぼそっと呟かれた石上のひとことに、白銀の繊細で柔らかな心の一部が、ぎゅっと鷲掴みにされた。
「……。」
「あー、いや、ははは、なに言ってんだろ僕。サイコーにめでたいってのに。先輩がそんなにフツーでいるせいですよ、もっと大喜びしてもバチは当たらないのに。」
「お、おう。すまん。」
「ホントわかってますか、会長? 僕だって別に詳しくないけど、スタンフォードっていやあ超一流でしょ? しかもメッチャ国際的なカンジで。夢が広がリングじゃないっすか!」
「ま、まあな。改めてそう言われると、俺も少しだけ気が大きくなってしまうな。ひょっとすると将来、宇宙飛行士に選ばれたりしてな!」
石上が口にした「夢」という単語に刺激されて、ついぽろっと本心を漏らしてしまう白銀。しかし、日ごろから気心が通じ合ってる男友達同士。「あー、イイっすね。かっけー。」と素直に共感してもらえるんじゃないかという期待が、白銀の胸に淡く灯っていた。
だが──
「へぇー。」
冷淡! 石上の反応は、きわめてそっけなかった!!
「あ、あれ? それだけ? もっと、こうさ、なんかあるだろ!? 宇宙飛行士だぞ!? 浪漫とか憧れとか!!」
「あー…僕的にはナシっすね。全然ナシです。」
「えぇ…。」
「いや、僕だってなれりゃ大したモンだとは思いますよ、そりゃ。でも、宇宙なんかに行くことが人生の目標って、なんだか虚しくないでしょうか?」
「……。」
自分にとって最高の浪漫を無下にそういい捨てられて、白銀が微かに拗ねた顔になる。その表情の変化にまったく気づかないまま、石上が言葉を続けた。
「僕が宇宙とかにまったく興味がないからだけじゃないんです。宇宙飛行士になるような…そういう頂点目指してるタイプって、どうも好きになれないんですよ。上ばっか見てて、周囲の人たちを平気で置き去りにするカンジがして。どうせ、デカくてキラキラした自分の目標しか見えてなくて、身近にある大切なモノを全部ないがしろにしてしまうんです。いくら優秀で頭が良くったって、突き詰めてみればバカなんですよ。あと…冷たいです。置き去りにされる方の身にもなれってんですよ。」
滔々とまくしたてる石上の言葉を、白銀は神妙な面持ちで聞いていた。いつものネガティブ・エンジンの暴走だと苦笑するには、石上の声に切なげな寂しさが籠りすぎていた。
“身近にある大切なモノ…か。”
神妙に考え込みながら自分を見つめている白銀の視線にやっと気づいて、石上がはっと我に返った。
「あっ、またやっちゃいましたね、僕。すぐ水を差すようなコトばっか言いまくって…なんなんすかね、この性格。これだから陰キャのままなんすよね。そりゃ、人から嫌われるわ。」
石上本人は、自身のこのネガティブ発言の根底に、白銀との別離への物悲しさがあると自覚していない。石上は自分に厳しすぎた。そういうナイーブな感情を抱くことを己に許し、相手にも理解を求めようとする素直な「甘え」を見せられるようならば、彼はもっと楽な人生を歩んでいただろう。
恥ずかし気もなく自分の感情に拠ってのびのびと生きている藤原に対して、やたらと当たりが強いのも、ここらへんに原因があるのかもしれない。
だが───
今の白銀には、目の前にいる後輩の複雑な内面など、これっぽっちも意識が向いていなかった!
“俺にとって大切なモノとは、四宮だだひとり!!”
恋は盲目。
なにせ、紆余曲折を経てようやくかぐやと恋人になれた直後なのである。平常ならば過剰なほど周囲の人間の気持ちを汲んで気づかってしまう白銀であったが、現状はとにかくかぐやのことで頭がいっぱいすぎて、石上の内面などを気にかける余裕は一片たりともなかったのだ。
“そうだ。俺は道を見誤るところだった。ならば、俺の将来のシナリオはこうだ!!”
「…会長。また夜空を眺めてるんですね。」
「ああ、四宮。いくつになっても、星空だけは見飽きないよ。」
ちなみに、この妄想の白銀たちは、30代前半という設定である。
「ふふふ、おかしいです。じきに、実際に宇宙へ旅立たれるという人が、今更そんな少年みたいな遠い目で空を見上げる必要は、ないんじゃないですか?」
「それなんだがな、四宮。俺は、宇宙には行かないよ。」
「どうして!? 貴方の念願の夢だったのに!? いいえ、貴方個人の問題じゃありません! NASAの皆さん全員が、会長こそライトスタッフ(最高の人材)だと期待しているんですよ!? いま貴方を失うことは、今回のミッションにとって…否! 宇宙探査に長年情熱と夢を注いできた全人類にとっての多大な損失です!!」
ここらへんの形容過多ぐあいが、白銀のモンスター自意識っぷりをよく表している。
「そんなささいなことは、もう俺の知ったことじゃない。」
「ささい?」
「ああ。宇宙よりも、ずっと大切なモノが俺にはあると、ようやく悟ったんだ。それはな、家族だ。つまり、圭と…お前だ。」
「そっ、それって…。」
「俺は間違っているのかもしれない。身勝手なのかもしれない。それでも、お前と一緒にこれから歩んでいく人生こそが、俺にとっての最後のフロンティアなんだ。その無限の可能性に比べたら、あれほど憧れていた宇宙がちっぽけな存在に思えてくる。死んだ親父だって、きっと俺の決断をほめてくれるはずだ。」
白銀たちが30代前半なのだから、白銀父もまだピンピンしている年齢のはずであるが、生きていられるとやっかいな雑音になる気がして、さっさと急逝させてしまう白銀であった。
「だから、ずっと言えなかった言葉を、ようやく言うよ。四宮…かぐやさん。」
満天の星空の下で、恭しく片膝をつく白銀。
「俺と、結婚してくれませんか?」
「っ!?」
差し出された片手を前に、たじろぎ息をのむかぐや。
しかし一瞬後には、どんな一等星すらも霞むような眩しい笑顔が輝いていた。
「…はい。よろこんで。」
“ああああッ! イイーッ!! なにこれ、メッチャ泣けるやん! 邦画化、決定! キネマ旬報が選ぶ名作映画ランキング、殿堂入り!?”
白銀は、邦画のこともかなりナメていた。
「あのー、会長? さっきからなに黙ってるんです? やっぱり怒ってます?」
石上がおずおずとそう尋ねた。怒ってなどいないどころか、本心では都合の良いロマンティク妄想でニヤケがノンストップな白銀であるが、生徒会に入ってからこのかた鍛えに鍛えぬいてきた鉄面皮が、彼の威圧感満点の目つきに慣れっこな石上すらも不安にさせてしまったようだ。
「いやいや! お前は良いこと言ってくれたよ、石上。俺はやはり地球に残る。」
「ハァ? 念のために聞いておきますけど、アメリカって地球ですよね?」
「男の人同士で、なにやら楽しそうですね。」
「あ、四宮先輩。こんちわっす。」
「!!」
すっと音もなく入室してきたかぐやの顔を見た途端、白銀のニヤケが瞬時に吹き飛んでいた。