「また、漫画のお話でもしてたんですか? くだらない。」
部屋に入るなり、かぐやがさっそく人様の趣味にケチをつけた。自分だって『今日甘』を読まされたときには、易々と胸キュン恋愛脳になってしまってたというのに、ずいぶんな物言いである。
「違いますよ。将来の目標っていうか、夢みたいなのをちょっと語ってたんです。」
石上がそう説明すると、かぐやの顔がわずかにほころんだ。
「あら。それは感心。」
「でしょ? それで、会長の夢ってのが、う…。」
「おう、四宮! 今日はいつもより早いな!? 部活の方はいいのか!?」
白銀が腹から声を出して、石上の言葉を遮る。
「? …はい、本日は早めに切り上げました。」
かぐやが、かすかに眉をひそめている。敏感な聴覚へ不意の大声を浴びせられて癇に障ったのもあるが、なにより女の勘が白銀から不審の臭いをかぎ取っていた。
“会長が私に隠し事? なぜ?”
かぐやが白銀をじぃっと凝視する。こういうときのかぐやの黒い瞳は、底なしの井戸のように深い。だが、白銀も伊達に彼女と恋愛頭脳戦を繰り広げてきたわけではない。隙のない完璧な鉄面皮で、正面から相手を見返した。
“くそ、マズいぞ。宇宙飛行士なんて浮かれまくった夢を見てたことが、四宮にバレてみろ。大変だ!”
「俺と一緒にアメリカに来い。」
文化祭の夜、白銀はかぐやにそう求めた。
「はいっ、わかりました。私もスタンフォード行きます。」
かぐやは、その求めに応じた。
あっけないほどあっさりとした承諾に見えた。だが、ごく平凡な家庭育ちの白銀にも、かぐやの決断がきわめて重大なものであることは理解していた。四宮かぐやはただの娘ではない。その彼女が「実家を捨てるようなつもりで」と言ったのだ。
四宮家を捨てる。
その発言の重大さは、「国家を裏切る」という叛逆者のそれに匹敵する!
“怖っ!!!”
無事に告白を成就させて冷静になった今、よく考えれば考えるほど白銀が不安に押しつぶされそうになるのも無理はなかった。そして、四宮家の恐ろしさを薄ぼんやりとしか認知できない部外者の白銀でさえこうなのだから、生まれてからずっとその渦中で生きてきたかぐや本人が固めている覚悟は、並大抵のものであるはずがない。
まさに万難辛苦に立ち向かわんとする覚悟! 以後の人生の難易度に「very hard」を選択するがごとき勇気!!
であるのに、だ。他でもないパートナーである白銀が「しのみやー! おれ、おとなになったら、うちゅうひこーしになりたいんだー、あはー♪」などと口にしたが最後…。
「私が貴方のせいでどんな覚悟を強いられているのかも知らずに、会長はそんな埒もない夢を見てらっしゃったんですね。なんとまあ…お気楽なこと。」
“あかん! それは『おかわいいこと』の何倍もあかんて! マジでシャレになってない!!”
現実の重圧(リアル・プレッシャー)!
仮に相手がごく平凡な女の子であったとしても「いままで立ててた人生プランをぜーんぶ捨てて、あなたについていきます♡」などと言われた日には、かーなーりヘビィな責任をしょいこんだと言わざるを得ない。その明白な数式に「四宮家の令嬢」という定数を代入すれば、解として導かれる重力の大きさは天文学的数値となるのである!
まさに、その存在はブラックホール!
愛しい恋人の可憐な顔を見た途端に、白銀のニヤつきが跡形もなく蒸発したのには、以上のような背景があったのだ。
“くそっ、なにを今さらビビッてるんだ、俺!? こうなることは、四宮に恋したあの日から、わかりきっていたはずだろうが!? ああそうとも、逃げるなんて決して許されるものか。俺は、四宮にふさわしい俺になるんだッ!!”
眠れぬ夜に、天井を見つめながら何度も何度も白銀はそう己に言い聞かせてきた。かぐやと同じ覚悟を…それが叶わないにしても、せめて十分の一ほどの勇気を、そのナイーブな心に抱こうと必死にもがいていた。
白銀御行は今まさに、子供の殻を脱ぎ捨ててひとりの大人に羽化せんとする途上にいるのだ!
その一方───
“うああああん、やっぱリアル怖い! ちょー重い! やだやだ、逃げたい! ずっと子供のままでいたい!!”
本音である!!
つい忘れがちになるが、白銀とて若干17歳の高校生に過ぎないのだ。せめて、日本を旅立つまでのひとときくらい、ふわっふわとした無責任な夢想にうつつを抜かしたとして、誰が彼を非難できようか!?
「会長、どうされました? 今日は一段と顔色が悪いような。」
かぐやの心配そうな声に、白銀が長い苦悩からはっと目覚めた。
執務机の上に身を乗り出して、ぐっと自分に寄せられたかぐやの顔に気づいた瞬間、白銀が椅子ごと後ろに飛びのいた。
「むっ! なんで逃げるんです!?」
「だって、そんなに接近されると事象の地平線を越えてしまうだろ!?」
「は?」
「いやいやいや! なんでもない! 大丈夫だ!!」
「とても大丈夫だとは思えませんけど…。」
気づかわし気に小首をかしげているかぐやを見て、白銀が内心舌を巻いていた。
“四宮め。まるで何事もなかったかのように、けろっとした涼しい顔をしよって。しかも、俺の心配まで…。まったく、すごいヤツだよ、お前は。”
「んー、そうっすかね? 会長が死人みたいな顔色してんのは、いつものことじゃないっすか。むしろ今日はマシな方ですよ。もっとヤバいときありますもん。ノーメイクでゾンビ映画出れるくらい、あははは。」
“お前はもちっと心配しろよ、石上ィ!?”とイラッと来た白銀だったが、同時に彼の冷徹な頭脳は、ここに好機を見出していた。
“四宮の注意が、俺の将来の夢から体調に逸れたのは僥倖! 『ところで石上くん、さきほどのお話の続きですけれど』などと四宮が言い出さないうちに、会話の流れを俺が望む方向へ転じねば!!”
刹那の思考。わずかゼロコンマ数秒のめまぐるしい計算の末に、白銀がふっと視線を向けたのは、かぐやではなく石上であった。
「ああ、将来の夢っていやあ、石上? お前は将来の希望進路、なんだったっけ? 以前にちらっと聞いたような気もするんだが、よく覚えてなくてな。」
嘘である。
物覚えが良いこの男が、あまり多くもない友人による印象的な発言を忘れるわけがない。
そして。石上がかつて口にした将来の希望とは、ずばり「ニート」であった!
何事につけ計画的で覇気に富むかぐやが、日ごろから目にかけて可愛がっている大切な後輩の口から「ニートになりたい」などとふざけた言葉を聞かされようものなら、いきり立って懇々と説教を始めるに違いない。そうすれば、矛先が白銀に向く危険性はまずなくなる。そのうえ、石上の人生設計のあまりの酷さに瞠目した後でなら、宇宙飛行士という白銀のふわっふわとした夢が万一明らかになったとしても、比較的マシに聞こえるはずなのである。
“ククク、せいぜい聞いて呆れるがいい、四宮! 下には下がいることを思い知れ!!”
姑息、という他ない。
「あー、そういえば会長には話したことありましたね。やだなぁ、忘れちゃったんですか? ニートですよ、ニート。」
“よし、きた!”
白銀、胸の内でガッツポーズ。
「ちょっと待って、石上くん? それって要するに、無職ということよね?」
静かに問い正すかぐやの声色に、たしかな緊張を感じ取った白銀。再度、会心のガッツポーズ。
“いいぞ、ビンビン引いてる!! がっつり食らいついてるぞ、これ!!”
カジキマグロの一本釣りのごとき興奮。
「はい、まあ、ぶっちゃけ無職です。働かずに遊んで暮らすなんて、サイコーじゃないっすか?」
白銀にルアー扱いされてるとも知らず、石上が悪びれもせずヘラヘラと笑っていた。かぐやを横目で盗み見ている白銀には、彼女の美しい両眉とたおやかな両肩に「ピッ」と怒気がこもったのが明らかだったが、当人はまるで警戒していない。かぐやのことをやたらと恐れているクセに、肝心なときに警戒心が働かないのが、石上優という男の抜けてる点であった。
だが、その致命的な無警戒が、良い方向へ作用する局面も存在する。
「…って、ついこの間までは思ってたんですけどね。」
“ん!?”
石上の予想外の言葉に、ほくそ笑みながらかぐやにばかり注意を向けていた白銀が、はっと後輩の顔を見やった。
人生をナメ切ったヘラヘラ笑いはいつの間にか消え失せていて、代わりにシリアスに熟慮している真摯な顔がそこにはあった。
「最近、ちょっと考え直すっていうか、いろいろ思うトコが僕にもあって…。いや、大きな仕事して認められたいとか、出世したいとか、そんな欲は全然わかないんですよ。でも、なんていうか、自分の人生の幸せはやっぱ自分の力で掴みたいかなって。」
「石上くんの掴みたい幸せって、どんなもの?」
かぐやが、そっと尋ねた。彼女にしては珍しく、心からのやさしさが露になっている声色だった。
「いやぁ、そんなのわかんないっすよ、僕なんかには。ただ…家庭とかイイなぁってちょっと思ってるんです。結婚して子供がいて、その家族と一緒に平穏でつつましい暮らしを送れたら、それで満足な気がして。そのささやかな生活を支えるためなら、働くのもめっちゃアリだなって。」
“わっ、わかるぅ! 同感しかないわー!!”
かぐやが、心中でそう叫んでいた。あたたかく平凡な家庭に限りない憧れを抱いている彼女にとって、石上が口にした朴訥な将来のビジョンは好感度が爆上がりする代物であった。
「あっ…と、すんません。なんか、柄にもなく語っちゃって。キモかったですよね?」
ふと我に返ってはにかむ石上の手を、かぐやがぐっと掴んだ。
「いいえ! それはそれで、とても素敵な考え方だわ。会長もそう思いますよね?」
「う、うん…。お、俺も安心したよ。石上は意外とオトナだったんだナー。」
“子供っぽいのは俺だけでした! ナメててマジすみませんでした、石上さん!”
完敗の思いで罪悪感に苛まれている白銀を、かぐやと石上が不思議そうに見つめる。
「顔色はともかく、ホント今日はテンション変ですよ、会長?」
「なにか悩みがあるのなら、遠慮なく相談してみてください。」
「そうっすよ。水臭いじゃないですか。」
「待て、待て、ふたりとも! 別に心配されるようなことはないんだって。」
詰め寄ってきたふたりを、白銀が慌てて遠ざけた。
「自分の分の仕事がちょっと溜まっててな。ひとりで集中して片づけたいから、今日は先に帰ってくれるとありがたいんだが…。」
「えっ、そんな。僕たち、来たばっかなのに。」
「まあまあ、石上くん。会長がそうおっしゃるのなら、お邪魔にならないようにお暇しましょう?」
「あ……はい。じゃ、お先っす。」
「失礼します。」
まだ心残りそうな石上を促して、かぐやが丁寧に一礼して退室していった。
「……なにやってんだか、俺は。」
ひとりきりの生徒会室で、白銀が盛大にため息をついた。