白銀が雑務をすっかり終えて校舎を出たとき、日はとっぷりと暮れていた。
「実際、はかどったな、仕事。」
満天の星々がきらめく晴れた夜空を見上げながら、皮肉な口調でひとりごちる。
かぐやたちに言った言葉とは裏腹に、大して仕事は溜めていなかった。多くもない未決済書類をさっさと片づけた後は、キャビネットの整理やら生徒会室の掃除までこまごまとやってしまった。
ただ、かぐやとの将来を思い悩みたくない一心で、雑務に逃げていたのだ。
「今からでもバイト、入れられないかな。」
また独り言をつぶやきながら、スマホでバイト先のシフト表を確認する白銀だったが、あいにく今夜はどこも手が足りていた。つまり、このまま帰るしかなかった。その事実に、白銀は嘆息した。家に戻れば、逃避していた重たい現実の不安にきっと捕らわれてしまうからだ。
「まあ、眠くなるまで勉強でもすりゃいいさ。」
自転車を押しながら自分を励ますようにそう言ったが、間近なテストもないこの時期に勉強に打ち込める自信は本人にもなかった。
「相談…か。」
かぐやに言われた言葉をふと思い出して、白銀が遠い目をした。
「誰に相談できるっていうんだよ、こんなこと。」
いちおうは父親の顔を思い浮かべてみて心底げんなりし、次に藤原を検討してしまった自分に愕然とした。“溺れる者は藤原をも掴む”というしょーもない冗談が浮かんできたが、全然笑えなかった。
“そうだ! 四条はどうだろうか!?”
その思いつきを、白銀は我ながら妙案だと思った。四条家の令嬢である眞妃ならば、彼の苦境を理解してくれるはずである。
だが───
「かぐやおばさまのために、将来四宮家を敵に回して生きるですって!? 無理よ、そんなの! 御行なんか、プチッと捻り潰されちゃうわよ!?」
と、率直なご意見を言われてしまったらと想像すると、いっそ何も聞かないほうが身のためのような気がする。
“そもそも、四条が親身になって相談に乗ってくれるだろうか?”
白銀とて親友である眞妃の人間性は微塵も疑っていないが、こと恋愛に限ってはとことんポンコツでネガティブなのもまた事実。白銀の必死の相談もただの惚気の一種と受け取られて、
「そんなの、本人と話し合って勝手にふたりで幸せになりなさいよ、バーカ!!」
と、キレられる可能性がどうしても否定できない。
「本人…四宮と相談、なぁ。」
結局はそれしか道はないのだろうが、それができないから困っているのである。
「やっぱり、私に相談ごとがあるんですね?」
「ああ、うん…って、四宮!? なんでここにいるんだ!?」
まるで白銀の脳内からそのまま抜け出してきたかのように、かぐやが目の前に立っていた。
「先に帰ったんじゃないのか!?」
「はい。会長を待っていたんです。」
「えっ、うそ、3時間近くも!? なんで!?」
「なんでって、それは…かっ、会長とあのまま別れるのが心残りだったからに決まってるじゃないですか!」
「なにそれ、かわいい!!」
つい口に出てしまった白銀の素直すぎる感想に、かぐやがさらに顔を赤らめた。
まだ恋愛頭脳戦を繰り広げていた頃ならば、なんやかんやと理由をつけて偶然を装っていたであろうが、晴れて白銀と恋人同士になったかぐやには、彼をただ待っていたと正直に明かす自由があるのだ。
“そうよ、今更これくらいのことで照れる必要なんかないわ!”
と、己を鼓舞しながらお得意のルーティンをかましたかぐやが、白銀の目をじっと見つめてこう問いかける。
「それで、会長? 何をそんなに悩んでいるんです?」
「……。」
白銀が沈黙して、目を逸らした。繰り返しになるが、かぐやに言えないから困っているのである。
「だんまり、ですか。3時間近くも待たせておいて。」
「すっ、すまん。だが…!」
「いいですよ、謝らなくても。会長がどうしても言えないというのなら、これ以上はあえて聞きません。」
「すまん。」
「謝らないでくださいってば。でしたら、一緒に帰りませんか? 校門の前までですけど。」
「お、おう。」
すたすたと歩き始めたかぐやを、白銀が自転車を押して追いかける。
「…ところで、会長?」
横に並んだ白銀の気配を感じながら、かぐやが星空を見上げながらぽつりと話しかけた。
「うん?」
「話は変わりますけれど、会長の将来の夢って宇宙飛行士だったんですね。」
「話、変わってねーよ!!」
「えっ?」
「あっ、いやっ、その…つーか、なんでお前が知ってんの、それ!?」
「生徒会室のドアの前で、石上くんに話しているのを聞いてました。いえ、立ち聞きとかじゃないですよ!? 会長の声はよく通るので、すっと耳に入ってきてしまっただけですから!? で、石上くんと楽しそうだったので、つい割って入るタイミングを逸しただけですからね!?」
もちろん、がっつり盗み聞きしていたワケだが、このくらいのたわいもないウソはかぐやにとって息を吸って吐く程度の芸当である。
だから、その直後に白銀が見せた反応は、完全に予想外であった。
「……。」
白銀が、また押し黙っている。
全身をこわばらせて、足を止めて、口元を固く引き結んでいる。
彼のただならぬ態度に、かぐやも息をのんで立ちすくむ。
「そっ、そんなに、怒らなくても…。」
こわごわとそう語りかけたかぐやに対し、白銀が低い声で言い返す。
「怒っているのは、お前の方だろ。」
「ええっ!? どうして私が…。」
「じゃあ、怒る気も起きないほどに、あきれ果てているのか? ガキ臭い夢にうつつを抜かして、現実と向き合えてない俺に。」
「現実…?」
唇を噛みしめて、ひたすら恥じ入ったように俯いている白銀の沈痛な表情を見つめながら、かぐやはただただ困惑していた。白銀の心中がまったく理解できないことに焦り、そして怯え始めていた。
他者を思いやる「やさしさ」が自分には欠けているのだという自己嫌悪と、そんな自分は人を傷つけることしかできないのだという怖れ。
だから、かぐやはずっと他人を遠ざけてきたのだ。
だが、今のかぐやは、昔の彼女とはもう違う。
「私は、会長の夢が現実味のない子供っぽいものだとは思いません。」
きっぱりとした口調だった。
「気を遣ってフォローしてくれるつもりなら、やめてくれ。宇宙飛行士だぞ? 俺自身も、口走っちまったのがスゲー恥ずかしくなってきてるんだ。いつもの黒歴史って奴さ。」
卑屈に苦笑する白銀に対して、かぐやの表情はあくまで真剣なままだった。
「いいえ。他の誰かが口にすれば大それた無謀な夢物語にしか聞こえませんが、ほかでもない会長が語るのであれば、実現可能な目標のひとつに過ぎません。」
「そんなふうに評価してくれるのは嬉しいが、さすがに買いかぶりすぎだろう?」
「なぜです? 会長がたぐいまれな知性と不屈の克己心を併せ持っているのは、まぎれもない事実しょう? この私に、学力テストで勝ち続けたほどですもの。」
「ま、まあ、その点だけは自分でも凄いと思ってる。」
「身体面でも、スポーツ万能ですし?」
「あー…うん。」
額にどっと冷や汗が噴き出す白銀だったが、とりあえず今この瞬間は「沈黙は金」で行くことにした。
「さらに、会長はもっと大事な美点を持ってます。どんな逆境にも雄々しく立ち向かう勇気ですよ。」
「俺がか? それはどうかな。藤原にはよくビビりでヘタレだって笑われてるんだぞ? ボロ出さないようにいつも虚勢はってるだけで…。ずっと、そんな自分をお前の前では必死に隠してた。」
「ふふふ、とうに知ってます、それくらい。だからこそ、貴方の強さは本物だってわかったんです。いくら怖くても不安でもけっして逃げようとせず、たとえ無様な姿を晒したって最後まで頑張りぬこうとする。…会長がどうしてそんなふうにケロっと平気で生きてられるのか、私には未だにぜんぜん理解できません。」
「誉めてんのか、それ?」
「べた褒めですってば、もう! 臆病な自分がときどき嫌になるくらい、眩しく見えてるんですからね!?」
「そっ…か。そういうモンか。」
「はい。宇宙飛行士という夢も、本当に会長らしいなって思います。大胆で、ロマンティックで…やっぱり、私にはちっとも理解できないわ。」
「えっ、四宮まで!? 石上にもナシって言われたんだよなぁ。なんでだよ? 普通に行ってみたいだろ、宇宙!?」
「たとえ脅迫されても絶対に行きませんね、宇宙になんか。だって、大気も水分もなければ、重力すらなくて、代わりに放射線だけはたっぷりなんですもの。行きたがる人の気が知れません。」
「ははは、たしかに危険極まりないよな。それでもさ、どうしても惹かれてしまうんだ。こうやって夜空を見上げるたびに、心が痛いくらい憧れが強まってしまう。」
星々を夢見る瞳で見つめる白銀の横顔を目にして、かぐやが複雑な表情になってため息をついた。
「困りますよ、会長。」
「ん?」
「そんな綺麗な横顔を見せられたら、私…なんだか妬けてしまいます。宇宙に会長を取られるみたいで。」
かぐやのその言葉に、白銀がはっとした。
埒もない身勝手な自分の妄想と、彼女が同じセリフを言ったからだ。
「いや、すまない、四宮。俺は、性懲りもなくまたやってしまったようだ。今は、お前とのこれからを真面目に案ずるべきときなのに、宇宙のことなんか…。とことんガキのままなんだな、俺ってやつは。」
「私とのこれからを、案ずる…?」
ここに来てようやく、かぐやにも白銀の不安の正体が見え始めた。
「もしかして、会長? 私の実家とのことを、そんなに心配されているんですか?」
「当然だろう!? ただの小市民である俺だって、四宮家に意向に反してお前をスタンフォードに連れていくことの重大さくらい、想像がつく。それこそ、不安で押しつぶされそうなくらいにな。」
「ああ…。」
愛しい人が抱いている苦悩の重さに触れた途端、かぐやは悲しげにうめいていた。
「私のせい、だったんですね。ご自分の素敵な夢を隠そうとしてたのも、ご自分をそんなに恥じているのも、全部私のせい。」
「よすんだ、四宮。お前は何ひとつ悪くない。お前を好きになった日から、すべてわかりきっていたことなんだよ。動かしようのないその現実を目の当たりにして、いまさらうろたえてる俺にこそ、問題がある。お前に蔑まれても、文句は言えん。」
「蔑むなんて、とんでもない!!」
かぐやにそう強く否定されても、白銀の表情はやわらがなかった。
「……。」
自身ではまり込んだ自責の念によって、再び顔を伏せて口を固く閉ざしてしまっている。
「……。」
かぐやも、とっさにかける言葉が見つからずに、白銀に倣った。
両者との間に、沈黙が折り重なっていく。
その沈黙が1秒続くたびに、ふたりの間に壁ができ、厚さを増してゆく。
こんなとき、かぐやはいつも相手の前から身を引くのが常だった。そうやっていつも、みずから孤独の頂きに身を置いてきた。無理に他者の心の中に踏み込まないことが、彼女の処世術だった。
かぐやの臆病な賢さは、人と距離を置くのが最良だと彼女に言い続けてきたのだ。相手を傷つけたり、自分が傷ついたりしないための、正しい選択だ、と。
しかし。
最愛にしてただ一人の恋人が相手であれば、話はまるっきり違ってくる。
四宮かぐやはたしかに臆病だが、それがわからないほど愚かでもないのだ。
「…ね、会長? 私、これからとても思い切ったことを言いますから、心して聞いてください。」
そんな改まった前置きを急にされて、白銀が伏せていた顔を恐る恐る上げた。
かぐやの真剣な面持ちが、すぐ近くにあった。
彼女は、踏み込んだのだ。精神的にだけでなく物理的にも、グッと白銀の方へ。
「わかった、聞こう。」
かぐやの気持ちを受け止めるように、白銀も表情を引き締めた。
「では、言います…。何とかなりますよ、きっと。大丈夫。」
「はあ!?」
なにか重大な決断を聞かされると覚悟していた白銀が、拍子抜けして叫んだ。
「それだけ!?」
「はい。臆病な私にしては、随分と大胆な発言でしょう? 具体的な根拠もなしに、大丈夫だなんて言うなんて。」
「う、うん。意外すぎてびっくりした。」
「自分でも驚いています。でも、これが素直な気持ちなんです。あなたとなら、きっと大丈夫。」
「なんでそう言えるんだ? 四宮家に比べたら、俺個人の力なんてほんとうにちっぽけで…。」
「ええ、私の口から言うのも妙ですが、我が家が途方もない権力を有しているのは事実です。くわえて、父と兄たちは揃いも揃ってとんでもない人間ばかり。念のために言い添えておきますが、完全に悪い意味でね? 私も、生まれてこのかた、反抗するなんて考えたこともありませんでした。」
かぐやの淡々とした言い方に、白銀が思わず唾を飲み込んだ。
「でも、ずっと反抗してこなかったのは、父や兄たちを恐れていたからじゃないんです。私に、反抗してまで欲しいものがなかったからなんですよ。要するに、戦う理由がなかったんです。だけど、今はあります。」
白銀を見つめるかぐやの眼差しに、一層の熱がこもった。
「もちろん私は齢17歳の小娘にすぎませんが、それでも四宮家の人間です。たとえ父や兄たちが相手だろうと、私に戦う意思さえあるのなら、やりようはいくらでもあるんですよ?」
「すっ、すごい自信だな。」
「それほどでも。まあ、負けない程度ですね。本当は、こてんぱんに打ちのめしてやりたいところなんですけど?」
そう言い放って、何がおかしいのかクスクスと笑うかぐやを目の当たりにして、白銀がますます青ざめていた。
「はぁぁぁ。結局俺は、お前に頼り切るしかないんだな。格の違いってヤツか。」
情けなさを顔中ににじませて、白銀が自分の髪をかきむしった。
「あら、会長。ちゃんと私の話、聞いてました? 私ひとりでは無理ですよ。会長がいてくれないと。」
「だから、俺なんかに何ができるっていうんだよ?」
「また、そんなにご自分を卑下して。あなたは現に、私に花火を見せてくれたじゃないですか?」
「あっ、あんなの!…調子に乗ってヤラかした、ちょっとした悪戯みたいなモンだろ!? そんな黒歴史、のんきに持ち出してる場合か!? コッチがハズくなるわ!!」
つい声を荒げた白銀に対して、かぐやがさらに大声で食って掛かった。
「ああ、もう! とことん物分かりの悪い人ですね、会長ってば!! あの夜が私にとって、どれほど重大事だったのか知りもしないで、ちょっとした悪戯なんて言い草は許さないから!!」
かぐやの両手が、激情にまかせて白銀の胸元を掴んでいた。
握りしめられたその両拳の力強さに、白銀もまざまざと認識を改めた。
「意味は、あったんだな。あのときの俺のがんばりは、ただの空回りじゃなかった。」
「おおありよ、わからずや! だって私、絶対に無理だと最初からあきらめてたんだから! ひとりで絶望して泣いて、神様なんていもしない存在にまで縋ったのよ!? それこそ黒歴史だわ!!」
怒声に涙声をにじませながら、かぐやが力任せに白銀を揺さぶった。
その長身をガクガクと揺らされながらも、白銀がしっかりとかぐやの手を握った。
その温かさせを感じた途端、それまで何とか持ちこたえていたかぐやの涙腺が崩壊した。
「バカバカバカ! こんなタイミングでやさしく触ってくるなんて、どこまでかたくなな私の心を解きほぐせば気が済むのよ、んもおおお! 会長には、冷たく固まっていた私の人生をみるみる変えていっている自覚がないわ! そうやってあなたが無自覚にやることなすこと、ぜーんぶッ! 私にしたら奇跡みたいなものなんだからッ!!!」
ブチ切れつつも、やたらと雄弁に感謝を述べて来るかぐやの言葉に、白銀は照れるのも忘れて苦笑してしまっていた。
「おいおい、わかった、わかったって、四宮。そこまで言ってくれて、俺は本当に嬉しい。自信…っていうか、生きてて良かったと実感するよ。だから、そろそろ落ち着こうな? お前にあんまりにも素直にされると、嬉しいのを通り越してちょっとコワい。」
「はっ!?」
そう宥められてささやかな冷静さを取り戻した瞬間、かぐやが恐ろしい力で白銀を突き飛ばして、くるりと背を向けていた。
「くっ…! この私としたことが、少々しゃべりすぎたようね。」
切り札のルーティンで冷淡な声色を装う、かぐや。
「なんだ、そのセリフ? 悪役かよ。」
胸に一撃食らった激痛にビクビクと痙攣しつつも、白銀が思わずツッコんでいた。
「誰が悪役ですって!? …いえ、もう止めましょう。会長と語るべきことは十二分に語り尽くしましたから、今日は帰ります。」
一方的にそう言い捨てて、さっさと歩きだすかぐや。
「いや、あのさ、四宮? この先、実際にどうするかとか、具体的なことはまだ何ひとつ相談できてないんだが?」
「今は、考えたくありません!!」
「ちょっ、そんな…ノープランはマズいだろ、さすがに?」
「あれこれ心配したって、いずれアメリカに旅立つ日は来るんです。」
困り切った顔で後をついてくる白銀に背を向けたまま、かぐやが毅然と言い返す。
「この学校で大切な人たちと過ごせるのも、あと10ヶ月ちょっと。」
かぐやの声色が、しんみりとした深みを帯びていた。彼女が指摘した事実を耳にして、白銀の胸中をずっと塞いでいた重たい不安が、すっと溶けるように消え失せた。
代わりに白銀の心にあふれ出したのは、去らねばならない現在の日常に対する、切ない愛惜の念だった。
「そうだな、四宮。先のことで悶々と思い悩む暇があったら、秀知院での限られた時間をせいいっぱい大切に過ごしたほうがいいよな。」
「はい。ひとつも思い残しがないように日本を後にするためには、私と会長とでやるべきことは山積みです。たとえば、石上くんのこととか。」
その名を持ち出された刹那、白銀の心の柔らかな部分が、ぎゅっと痛んだ。
「ホントに行っちゃうんですね、アメリカ。」
そう呟いたときの彼の寂しげな顔を、白銀はまざまざと思い返していた。
「会長、ご存じですか? あの子、実は恋をしているみたいなんです。」
「ああ、俺もなんとなく察してはいる。想いを寄せてる相手は、応援団で一緒だった3年生の先輩の…。」
「子安つばめ。裏表のない気さくな性格と洗練された容姿で、性別を問わずに慕われる人気者です。いわゆる高嶺の花のひとりですね。」
「自分のことを陰キャだとか決めつけて愚痴ってばかりの石上が好きになるには、いろんな意味で良い相手かもしれんな。あっ、そういえば、あいつ。ほんのこの間まで将来はニート志望だと平気で抜かしてたくせに、今日は急になんか真面目に人生設計みたいなの語ってただろ? やっぱ、あれも子安先輩とのことを意識してるせいかね?」
「はい、おそらくは。恋は、人を変えるんですね。石上くんは頑張り屋さんの良い子ですから、きっと良い方に変わってくれるでしょう。…ちょうど、私みたいに。」
「ちょうど、俺みたいに。」
ふたりが、自然と微笑み合っていた。
なもかもが狙いどうりに行かず、歯がゆいことがやたらと多かった。プライドが邪魔して全然素直になれず、すれ違いばかりで物悲しさに沈む夜が幾度となくあった。終わりが見えない恋愛頭脳戦の連鎖に、内心では苛立ち、疲れ、投げ出したくなる時すらもあった。
しかし、平凡なカップルのようにすんなりとに恋仲となれなかったからこそ、白銀とかぐやは互いに大きく成長できたのかもしれない。頭脳とプライドを懸けたひどく遠回りな恋の軌跡が、ふたりの恋を実り多きものにしてくれたのかもしれない。
“この人を好きになって、本当に良かった。”
お互いがお互いのことを、心の底からそう思えている。これこそ、恋愛頭脳戦でふたりが共にに勝ち取った、最高の戦果なのだろう。
「ならば、俺たちが当面やることは、決まったな。」
「はい、会長。石上くんを応援してあげましょう。」
「うん。あいつの背中を押してやることくらいは、できると思う。ただし、うまくいくかどうかは子安先輩の気持ち次第だぞ? ぶっちゃけ、俺は女心ってのは完全に専門外だし。」
「あらぁ? 以前に田宮くんを相手に、俺は恋愛マスターだ!なんて大口を叩いてたのに?」
ちょっと意地の悪い笑みを浮かべて、かぐやが白銀をからかった。
「あんときもお前、立ち聞きしてたよな? 俺、ちゃんと気づいてたんだぞ?」
「おやおや、何をおっしゃっているのかわかりかねますね。ただの偶然ですよ。言いがかりは止してください。」
「はいはい、そうかよ。ま、偶然でもなんでもイイ。そうやって石上のことを見守ってくれるってんなら、俺も手段にイチイチ文句つけるつもりはない。」
「お任せください。石上くん本人にその気概があるのなら、高嶺の花に挑むに相応しい誇り高い男へと、鍛え上げて見せます。」
「意外と、面倒見が良いんだな?」
「石上くんにだけです。私にとっても、かけがえのない後輩ですもの。なので、これは私のおせっかいで、わがまま。万が一、彼の恋が──」
ほんの少しのためらいを見せた後、かぐやが言葉を継いだ。
「はかなく破れてしまう結末を迎えても…あの子には後悔や敗北感を抱いてほしくないから。」
「ああ、そうだな。外野の俺たちができるのは、それくらいだよな。」
「ええ。」
想いをひとつにした白銀とかぐやの足が、自然と校門までへの歩みを再開する。
たかだか数分の道行きの間、ふたりともただ黙って歩を進めた。しかし、今度の沈黙はふたりの間に壁を作るものではなかった。今日の時点で、語り合うべきことは語り尽くしていた。
言葉を交わさぬとも、肩を並べているだけで、彼と彼女の心は暖かい結びつきで満たされていた。
「じゃあ、四宮。俺はここで。」
自転車にまたがりながら、白銀が短く別れの言葉を口にした。
「また明日な。」
「はい。また明日。」
丁寧な一礼ではなく、親し気に手を振ってそう答えたかぐやを校門に残して走り去った時。
白銀をあれほど苦しめていた未来への怖れは、穏やかな希望に代わっていた。