それは、うだるような夏だった。
ミンミンゼミのなく声がうるさく、太陽から照り付ける暑さが、地表を殴りつけているからか、陽炎を作り出している。
きっと、母なる大地が泣いているからだろうが、太陽はそのことに気付いていないようだ。
東京、杉田区、ここは大型のビル群があまりなく住宅を建てるにはうってつけの場所であり、憩いの場所として緑がはびこる公園も建設されている。そんな、地域住民もこぞってあつまっちゃうようなキャッチーな公園も連日の熱波のためか誰もいないようだ。
そんな誰もいない。さみしいのか、それとも暑苦しいだけなのか。そんな場所にあなたはいる。
氷菓子を雑にかみ砕き、じゃりじゃりとした感触と音を立てて食べている。ソーダ味のそれは夏の暑さをさらに苛酷にさせているようで、汗が滴り落ちるばかりだ。
食べかけの氷菓子を口から遠ざけ、夏の音たちに耳を傾ける。そのちょっとした油断が残っていた氷菓子を手持の棒から落としたしまった。
それはあなたの声だっただろうか。それとも、目を皿にしている木陰の飛蝗だっただろうか。『あ。』という、やってしまったな、なんていう声色が聞こえたと思ったら、景色は転換していた。
落とした氷菓子の行方は知れない。そんなことをあなたは思う。それもそのはずで、周りの光景はコンクリートジャングルで都市化された、いうなれば文明開化の破裂音がするようなものではなかった。
あなたの持てる知識から推測するのであれば、中世ヨーロッパの街並みと表すのが正しいと感じる。ただ、歴史上の文献とは違うものがあり、街自体には異臭や廃棄物で埋まっているなんてことはなく、流れる水路の清流さも相まって自身の住んでいた街なんかよりも尊く美しく見えた。
まるで、ゲームの世界に迷い込んだみたいだ。
あなたはそう一人思う。続けて、ステータスオープンなんていう言葉を唱えてみたりした。しかし、何か起こることも、自身の中に秘められた力が覚醒することもない。
唐突に何かがわかるわけでも、頭の中に地図が作成されるなんてこともない。ないない尽くしのオンパレードといった形で、あなたに冷や汗を生ませた。
いまもなお持っている棒に、氷菓子が解けて作られた青い雫が伝って指になじんでいる。うるがんの青い瞳を思い起こさせるようなもので、悪魔が陰でにやりと笑ったような気がした。
それは、きっと空に浮かぶ土星みたいな惑星が生み出した幻惑でしかなくて、その惑星の名前を知らないことや正午を表しているかのように煌めく恒星の存在も見知らぬものであった。
暑くはない。
陽炎がない。
過ごしやすい心地よさすら感じる風が、あなたを包んだせいでやけに寒く感じる。
まわりの、日本人とは言えないが同じ人類種であると断言できる人々は、あなたを見つめ不可思議の言葉をつぶやいている。表情を眺めてみればあなたを心配しているような顔をしている人もいれば、訝しげにしている人もいる。
あなたは誰かが話しかけてくる前にその場を駆け出した。居ても立っても居られなくなったのだ。油断すれば未知の人間の顔が裂けあなたを頭から食べてくるのではって思うのだ。
そこから先は語る必要はないだろう。幼い、というほどではないが少なくとも大人ではないあなたが、特別の力を持ってもおらず、誰かに助けを求めるための言葉すらわからず、ただただ逃げるばかりの状態では、事態が好転することはない。
路地裏を輾転とし、片隅の悪魔とお話をして、悪意がある人間から逃げ出して、物を盗みつぶれた腹を何とか膨らませている。真に救いがあるならば、生きるべきに必須の水が水路として流れていることであった。
だがそれも平和な日本という国から出たことのない無能のあなたには酷な話で、数日と持たないのだろう。
物を盗むのがなんども成功することはない。たとえ成功したとしても今のあなたと同種の人間に奪われたりした。今は、腹がこれ以上なくならないようにするために、じっと影の濃い路地に座り込んでいるだけだ。
奥底には同種の人間が身を寄せ合って生きているのがわかるが、それに参加することなどできない。言葉を話せない、聴き取れもしないものなど使い道がないため仲間に引き入れることはない。簡単に言えば余裕などないということだ。
あなたはここで死ぬ。
それは間違えようのない事実であり、絶望が首を長くしてあなたに巻きつき身動きがとれない。顔を覗き込んでみれば優しく微笑んでいる。それは、なにがしの姫のようにかわいい顔をしていてあなたを励ましていた。
ふと、あなたはその顔をどこかで見たことがあると感じた。空腹による頭痛の中で思い返せばあなたの妹にそっくりである。
彼女はいまなにをしているのだろうか。あなたをさがしているのだろうか。年はそこまで離れていない。幼いというものは通りすぎているにもかかわらず、いつもあなたについて回っていた。
何が楽しいのかわからないときでも、彼女は笑い、あなたを慕っていた。正直あなたには似ていない。澄んだ琥珀の瞳に、明けの夜空のような髪を腰まで伸ばしていて、ガラスの靴を履かせて舞踏会に出席すれば、みごとな花となると断言できる存在だ。
とりとめのない思考だ。ここに彼女がいるわけがないのに。
ただ、最後に見る顔が彼女であるのであれば、悔いはないと思う。
じりじりとあなたの首に巻き付くそれは、緩やかな死を齎している。恒星もきっと笑ってくれているだろう。影がより濃くなったのがその証拠であるのだろう。あなたは諦めてその死を受け入れようとした。
そのとき、誰かの言葉が聞こえる。
あなたは、よくこの幻聴を聞いていた。無音の世界で頭の中に流れる音楽と一緒で、人は音を、声を作り出せてしまう。
もう一度聞こえる。これは聞いたことのない人の声である。あなたがこの世界に来てから声として認識できたのは初めてであり、死んだ感情が再度芽吹いた感覚を味わう。ずるり、と絶望はあなたの耳を塞いだ。それは優しくあなたのことを思っての行動なのだろう。
これ以上、絶望しませんように。
そう語り掛けてきている。祈りのような言葉であるのは初めから理解しているが、それでも見えた希望があるのだから、手を伸ばしたいと思ってしまう。
首まで締まり切った絶望を優しい手で解いてゆく、きっと大丈夫という気持ちを込めて、あなたは立ち上がった。
あなたの袖を引く存在がいるが、それはまやかしでしかない。彼女なら”背中を押す”はずなのだから袖を引き、足を止めさせようとなんてしない。それをするくらいなら一緒に歩いてくれるのだから。
薄汚れた体を引き摺り、光が照らす通りへと飛び出てゆく。あなたの知る言語を発した人物へと縋りつくために。
あなたは、彼の手を掴んだ。
この時、運命の輪はつながったのだろう。
12時の鐘までに帰れなかった罰が下る。その呪いを、その祝福を受けることが確定し、それらが世界をめちゃくちゃにするのだ。
彼の持っていた食べかけのリンゴが落ちて、つぶれた。彼は、「あ」なんていう、『ヤベ、やっちまったな』なんていうような腑抜けた表情の声を出しながら、光が透けた赤髪を揺らし振り返るのがわかる。
その瞳にはあなたを責める色はなく、爛爛と燃えるような赤のみがあった。
「なんだ?機嫌がよさそうじゃねーか。どーしたよ。お兄さんに相談してみ?」
あなたがその言葉を聞いたとき、路地の陰から見つめていた者たちは足早に姿を消した。
無名の物語はその時確かに動き出したのだ。
そこからは劇的な人生だった。
最初期の友人である赤嶺 翔(あかみね しょう)があなたに革命を起こし闘志の炎をつけ、青葉 伊織(あおば いおり)によって魔法の核心と摂理の流れを見定めるすべを与えられ、そして、最後の友であり、敬愛する東堂 翠(とうどう すい)から命の呪いを受けた。
きっと絶対に誰かが死ぬお話だから、あなたはもう一人しかいない。
四人で一人となったあなたは、受けた親愛と、恩のために、無名の物語の決着をつけるべく、ただ歩き続けているのだ。
*-*
あれから、二十年の月日がたった。
色違いの腕をさすり、脳に大量の情報を与えてくる眼をこする。
ここは、未開の塔。バベルの頂上付近である。
この塔を登り始めてすでに二日が経過し、すこしばかり退屈さの蓄積を感じ始めていた。エンカウントする魔物たちも一刀のみ閃かせれば死ぬ。そんな程度のモノたちしかおらず手ごたえがない。
ふっと息をつき外界を見つめた。そこには底なしの美しい空と、白い灰が地表を果てがなく白に染め上げている様が見て取れた。
その純潔さを感じる大地から巨大な機械仕掛けの腕が森林のように生えており、ゆらゆらと不気味に動いている。
それは、金属製ではあるが、銅でも鉄でもなく、不可思議な材質ではあるが、経年劣化のためかさび色のようなものに変色しているため、血みどろの腕のように見えるのだ。
これら古の巨兵たちは、この塔に住まう魔王を破壊するために作成され運用された兵器であり、制作された六十四体がこの地に向かい、魔王のるつぼに叩き落され、例外なく殺し尽くされた。
ゆえに”虐殺の塔”と呼ばれ、今日まで攻略されることなく此処に佇み、魔王の住みかとしての役割を果たしている。
死後硬直の人間のようにビクビク動く腕たちが奏でるざらついた音を聞きながら、一息の休息を行い、しばらくしてから、塔の踏破を再開する。
幾何か戦闘を行い、そのすべてを瞬間のうちに終わらせること数時間が経過した。ようやく視界が開け、塔の最上階へ足を踏み入れた。
そこに座しているのは、”白”である。白としか言えない人型の生物だ。徹底的に漂白した絹糸のようにきめ細かな純白の髪の毛に、冬の空気のように、熱のない澄んだ琥珀色の瞳。蠱惑的な女性を思わせる体躯に、真昼の月のように儚げで病的な肌。それは、絶えず恒星の光に晒されているはずなのに、シミの一つもなく、この世ならざるモノとしての格を示している。
ひしゃげた声に、多数の色が混ざり合った雑種の黒であるあなたと比べれば、まさしく真逆の存在である。渇望の存在であり、絶望の存在であり、あなたの殺すべき純粋の存在だ。世の中は、雑種で、雑踏で、下等でなければならない。そのため、このまばゆい至純の存在は許されないのだ。
純白の魔王。
殺戮の魔王。
絶滅王。
白痴の魔王。
そして、十二月の魔王。
さまざまな異名がある。それはすべてこの万年という時間の中で人間が恐れ、与えた異名たちである。古代人たちはこの魔王に滅ぼされ、新時代すらも眺め観察している存在である。
魔王『アナ』。
これが、この存在の固有名詞であり、種族名であり、人類種が忘れぬために営みに組み込み残した名前だ。
そうまでして残したのには理由がある。それは、名を知れば、存在に必ず終わりを与えられるためだ。何年かかるかもわからないが、一万年だろうが二万年だろうがどれほどの時間をかけようが、滅ぼすための足掛かりである。
その足掛かりはあなたへ渡り、すべてを飲み込み、すべてを組み込みあなたの力にしてきた。あなたの二十年は、只人の二十年では決してなく、人類種がその種を持って研ぎ続けた刃であるのだ。たとえこの場であなたが負けようとも、保証は続いてゆき、いずれこの存在を殺すだろう。
ただ、あなたからしたら、この時で終わりを与えることができると確信をしているのだが。
清々しい天気である。底が抜けたバケツを覗いているような感覚であり、青と白のコントラストが、強い風によってかき回されているのがわかる。
死ぬにはいい日だ。と、あなたは思った。
背負う籠のような形状の袋には六本の剣が入っている。どれも形は異なっており、大小さまざまだ。そのうちの一振りの柄に手をかけ、引き抜き、手の内で弄んだ。
異なる配色を持つ腕に、この剣たちは非常に良く馴染む。手足を操るのとそう大差はないのだ。軽く振るえば地がめくり上がり、舞う砂塵すらも砕いてしまうほどの馬鹿げた剛腕はあなたの自慢の存在であるのだ。
目の前の彼女は、あなたに語り掛けてきた。
「あなたなら、ここまで来られることを信じておりました。ようこそ、わが家へ」
その声に敵意はない。まるで歓談でもするかのように軽い口調ではあるが、澄んだ心地よい涼しさがある、深い泉のような音色を立てて言葉を発している。
その言葉を聞き、あなたはこう返すのだろう。
はじめまして。魔王『アナ』。あなたを殺しに来ました。と。
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