ヘディンとアレンが呪詛に苛まれながらバルカの成れの果てを相手取っている最中、あのような呪詛の雨に女神の身を晒すことなど出来ないと、オッタルは全力を以てその場を脱していた。
その努力もあってか幸いにも黒雨の範囲から逃れることは出来たものの、このクノッソスに落ちてしまったという事実。その脅威をオッタルは知っている。特に今は鍵もなく、自分の頭には当然ながら地図さえも入っていない。今こうして広がっている紅の床面も、ただ嫌な予感がするだけで何が何だか分からない始末だ。
そうした不足に歯噛みをしながらも、しかし一先ずは女神を腕の中から安全圏に降ろす。幸いにもフレイヤに怪我は無いらしい。
「くっ……オッタル、何がどうなってるのかしら」
「分かりません。……しかし、団員の大半は戦闘不能。フレイヤ様の元に来られない事を考えるに、ヘグニやアルフリッグ達も何かしらと戦闘中なのでしょう」
「拠点ごと地下から爆破して襲撃なんて、やってくれるじゃない。敵の正体は分かる?」
「……クノッソスの管理者以外の者を確認出来ません。闇派閥の可能性が高いですが、これほどの襲撃を企てる者が敵に残っていたとは考えられず」
「さて、それは本当でしょうか」
「「っ!」」
激しい戦闘音と悲鳴の中、一際通る女の声が、2人の背後から唐突に響く。
ズン、ズンという重い足音。それと共に響く、恐らくはその女の軽い足音。明らかに正反対な両者は、けれどしっかりと足並みを揃えて、オッタルとフレイヤの逃げ場を塞ぐようにして近付いてくる。
「貴方はわたくしと最初に出会った時、警戒していたでしょう?その勘は見事に当たっていたということですわ、猛者様」
「お前は……歓楽街の……」
イシュタル・ファミリアとの抗争の最中。オッタルがフリュネにトドメを刺そうとしたその瞬間、突如として天井を打ち抜いて自身の代わりにフリュネを地上に向けて叩き落とした女が居た。
オッタルはその女のことは知らない。
何処の人間なのか、そもそも誰なのか。
その出会いさえも単なる偶然と片付けて、その際に抱いた不穏な気配さえも忘れてしまっていた。……今こうして、改めてその顔を見るまで。ずっとずっと、忘れていた。
「……ふふ、驚いたわ。まさかここに来て黒幕のように出て来た相手の顔を全く知らないだなんて、そんな面白いこともあるのね」
「ふふ、嘘ばっかり。それに貴方が滑稽に思うのは、わたくしが人間だからでしょう?」
「……」
「美の女神である貴女は、結局のところ神威と魅了を使えば世界のあらゆる事象を茶番にすることが出来る。……その前提こそが貴女の余裕の根源。何をどうしたところで魅了を使えば解決出来る相手でしかないのだから、わたくしが神さえ側に付けず目の前に現れた時点で、貴女は余裕を取り戻す事が出来た」
「……事実だもの」
「ふふ、嘘吐き」
「っ」
「滑稽ですわね。自身の神威に少しも魂を揺らす事のない子供を見て、取り戻した筈の余裕が消えてしまった女神の表情というのは」
フレイヤが牽制のように一際強く放った神威に対して、しかし少しも動揺することなく歩いて来たその女。何の躊躇いもなく美の女神である自分と目を合わせる彼女に、彼女の言う通りフレイヤの中からは直ぐに余裕というものが消え失せていた。
……そして、余裕が失せていたのはオッタルも同じだ。何せ彼女の横を大きな足音を立てて歩いて来た、1匹の黒色のミノタウロス。その尋常ならざる実力を、オッタルは感じ取っていたからだ。そしてそのミノタウロスが背中に背負っている武器は、一本は魔剣で、一本は呪道具。最低限ではあるが防具もしっかりと付けたその姿には、言いようのない風格というものがある。
「アステリオス様、こちらの方ですわ。貴方に紹介をしたかったのは。如何でしょう」
「……期待を超えた」
「「っ!?」」
そのミノタウロスは、言葉を話した。意思の疎通が取れていた。それだけでもフレイヤとオッタルを驚かせるのには十分過ぎる。そしてそんな相手とまるで普通の人間のように話している女に対しても、驚きを隠せない。
……呪道具の方の大斧を持ち、構えるミノタウロス。対してオッタルもまた自身の大剣を引き抜き、フレイヤの前に立つ。しかしオッタルが目を向けているのは、目の前の両者であった。いくら殺意を持っていなくとも、オッタルの目を騙す事は出来ない。隣の女もそれなりの実力を持っていることくらいは見抜けている。
「ああ、わたくしは手を出すつもりはありませんので。どうぞお二人で好きなだけ暴れて来てくださいな」
「なに……?」
「確かに此度の襲撃を計画したのはわたくしですし、あなた方を叩き潰すのが目的ではありますが、別に恨みがある訳でも、女神フレイヤに危害を加えるつもりでもありませんもの。まあ貴方の好きにすればいいですが、わたくしに気を向けている意味はないと断言しておきますわ」
「っ……」
最強を前にしたこの場においても余裕を崩す事なく、どころか少しも警戒することなく近くの瓦礫に腰を置いたその女は、確実に人間である筈なのに何処か神々に近い何かを感じる。
……目の前のミノタウロスは、倒せる。多少の時間は掛かるだろうが、単独で挑んで来るのならばどうにでもなるだろう。ただ、それを承知の上で挑んで来るような女にも見えない。何かしら隠し玉でもあるのか。
(……いや、無粋か)
フレイヤはオッタルを見て頷く。恐らく目の前の女が嘘を吐いていないことを察知したのだろう。女神がそう言うのであれば、それに従うのみ。
オッタルが彼女から目を逸らし漸く向き合ったことに、黒色のミノタウロスは口角を上げる。モンスターが笑う、なかなか見られる光景ではない。それもこれほどの強者と立ち会う機会は、オッタルとて早々あることではない。
「勝てると思っているのかしら?私達に」
「もう少し自信を持って吐いて欲しい言葉ですわね。まあ勝てるでしょう、正直ロキ・ファミリアを相手取った方が難しかったでしょうし」
「へぇ、言ってくれるじゃない。それだけの自信がある?それとも過信?確かに奇襲には驚いたけれど、それだけよ。この程度の仕掛けで"
「いえ、本当に助かりました。おかげで草案を仕上げる方に時間を割く事が出来ましたので。これについてはわたくしの運もありますが、何よりあなた方が警戒を怠り、嫌な予感とやらを楽しみにしていてくださったおかげです」
「っ……」
「どのような痛みにも屈する事のない強靭で勇敢な戦士達。精神肉体全てを最高峰まで鍛え上げた彼等を貴女はそう呼んでいるそうですね。……なるほど、その点で言えば確かにわたくしが今回用意した駒は不足しているでしょう。それほど崇高な精神を持っている者は少ない」
「……何が言いたいのかしら」
「あなた方"神"はその『崇高な精神』とやらを持っていれば、何でも上手くいくような世界を作り出したのか?と、今一度思い出して頂ければ」
「……」
「わたくしから言わせて頂ければ、貴女の揃えた戦士達の精神など、とてもではありませんが崇高とは呼べません。彼等より尊く、より輝きに満ちた者達がこの下界には多く居ますわ」
「へぇ……そう、それなら下界も捨てたものじゃないわね。貴女の言葉が本当なら」
「ふふ、本当ですとも。わたくしが知っている大半はもう死にましたが」
「……」
こんな会話の流れも、もうすっかり慣れてしまったフィンが相手であったのなら容易く受け流されていた。何故ならフィンは知っている。一見意地の悪く見える彼女のこの会話の手法もまた、彼女が会話を自分の思い通りに進めるためのものだ。
彼女はよく知っていた。会話の主導を握ることの意味を。
「盲目的に目的だけを見て走り続ける人間より。あらゆる全てに板挟みになりながらも、捨てる選択を前に立ち尽くしながらも、迷い、悩み、苦しみ。それでも最善を掴む為に、恐怖さえ飲み込んで、歯を食い縛りながら戦う事ができる。……そんな人間をこそ、真に"勇士"と呼ぶべきではないでしょうか」
「……私の子達を愚弄する気?」
「彼等を真に愚弄しているのは貴女でしょう?」
「っ……随分と」
「口が上手い?それとも、口が回るの方でしたか?まあどちらでも構いませんが、ありきたりな感想ですし」
「……」
「ふふ、まるで不機嫌な少女のよう。随分と可愛らしい一面もあるものですね、女神様?」
「……不愉快だわ、貴女」
こちらを嘲笑うような目で見下してくる、人間。
そんな存在とこうして向き合うのはフレイヤとて初めてであり、その瞳が妙に気に入らない。濁った魂。美しさの欠片もない根底。しかし思い通りにならない。
「結局、貴女も他の神と何ら変わりませんわね」
「どういうことかしら」
「自身の本質を"人間如きに"突かれる事に激しい嫌悪を感じる。根本的に人間を見下している」
「……対等でないことは事実でしょう」
「ええ、それを責めるつもりはありませんわ。創造主が製造物と対等な目線になることなど難しい。……ただ、であれば我々が真の意味で分かり合える日など永遠に来ない」
「っ……!」
「愛を司る貴女が、一体どの口で愛を語っているのか正直不思議に思います。無知なわたくしに教えて下さいます?貴女は下等生物と本当の意味で愛し合う事が出来ると思いますか?」
「……口を慎みなさい、それ以上の戯言は許さないわ」
「他ならぬ貴方が一番よく知っている筈です。人と神の織りなす尊き愛は、同じ目線に立てなければ決して生まれない」
「……黙りなさい」
「試す、測る、促す。そんなやり方しか出来ないような相手と、真の意味で心を通わせられるとでも?同じ場所に立ち、同じ物を見て、肩を並べて、目線を合わせて困難に向かい合う。それが出来てこそ心は繋がるのでは?」
「それが出来たら!!」
「今なら出来るでしょう?ほら」
「っ」
フレイヤの背後で、オッタルの魔法:ヒルディス・ヴィーニと、アステリオスの魔剣が衝突する。
吹き飛んだのはアステリオスの左腕、対してオッタルは魔剣の雷が皮膚を走った程度。元より優勢であったにも関わらず、腕一本が消えた。これで勝利は確信のものとなる。
……しかし、今のフレイヤはそんな衝撃にも振り向かない。いや、振り向く事が出来ない。それ以上の衝撃が、彼女の頭の中に走ってしまったからだ。
「断言致しますが、このままではフレイヤ・ファミリアは壊滅するでしょう。"猛者"も負けますわ、確実に」
「……」
「それを止めるには、貴女がわたくしをどうにかするしかない。首領たるわたくしを手玉に取るなりなんなりして、この争いを止めなければならない。……傍観者という立場を、上位者という目線を、降りるしかない」
「!」
「さあさあ、貴女の待ち望んだ展開は作りました。その美貌で全てを茶番に変える事の出来る貴女は、本当は眷属達と共に危険な場所にさえ赴くロキ様なんかが羨ましかったのでしょう?自分も眷属達と共に、必死になって何かに抗う。そんな状況を待ち望んでいたのでしょう?」
「貴女は……」
「お望み通り、貴女の目の前に居る悪の親玉は神威も魅了も効きません。貴女がいくら暴れたところで、茶番になど成りはしない。貴女を欠片も美しいとは思えない世界の瑕疵、それを相手に貴女はどうするのです?」
「……私を、試すというのね」
「いつも貴女がしている事でしょう。される側の気持ちを味わってみるというのも一興ではありませんか」
女は瓦礫から腰を浮かせ、腰から一本のナイフを取り出してフレイヤの近くに投げると、そのまま片眼を閉じてフレイヤの動きを待つ。
無防備、無抵抗、あくまでもこの女はフレイヤのことを見下していた。これほどの屈辱はフレイヤにとっても、ヘラに自身のファミリアを叩き潰されたあの時以来であろう。
……この女の意図が分からない。
本当の目的は何なのか、何故このようなことをするのか。フレイヤにはそれが未だによく分からない。しかし分かるのは、ここで引き下がれば自分という女が死ぬということだ。天界に送還される事はなくとも、それは死ぬのと同義になる。それだけは自分で自分を許せない。
「っ……これも下界の未知、なのかしら」
「ナイフを持った感想は如何です?」
「……意外と重いのね。知っていたけれど、知らなかったわ」
「そうですか」
聞いておきながら心底どうでも良さそうな返答を返して来て、本当に気に入らない。けれどフレイヤ自身、ベルが持っていた物とそう変わらない大きさのそれに、それが持つ重さに、酷く驚いたのは事実だ。
知っているのと、経験があるのとでは違う。全知であっても経験不足が神の敗北を誘うように、自身の手で敵に立ち向かう経験などフレイヤには殆ど無かった。料理用の包丁くらいなら持った経験はあるが、命を奪うためのナイフを持った経験はない。
……それの持つ重量以外の重さにさえ、思わず眉を顰めてしまう。
「今、貴女の目の前にはいくつもの選択肢があります。そのナイフで切り掛かるのか、突き付けるのか、逃げ出すのか、投げ捨てるのか、動かないのか。そしてその選択肢の先にも更に幾つもの未来がある。……貴女の選ぶ行動次第で、この先の貴女の全てが歪み、その小さな歪みは果ての終末を大きく揺らすことでしょう。今この瞬間には、それほどの意味がある」
「……ねぇ。どうしてベルはこんな小さな武器一本で、自分よりも何倍も大きいミノタウロスに挑めたのかしら」
「ふふ、笑い物でしょう?そんな事さえも分からないような女が、ふんぞり返って他者を試していたのですから」
「……そうね」
それはベルだけではない、自分を慕う眷属達全てに言えることだ。何度も何度も死線を乗り越え、生きて帰って来た。それをフレイヤは褒め称えはして来たが、その偉業の意味を、きっと本当の意味では理解も実感も出来ていなかった。
……こうして同じ目線に立ったからこそ、それが分かる。絶対に倒せないと思うような相手に向き合うこと、それはそれだけで凄いことだ。その上で勝ちを掴み取るなど、尋常ではない。しかし彼等は1人残らずそれを成し遂げて来た。
それは単に、フレイヤの役に立ちたいがために……
「私、貴女を殺せるかしら?」
「さあ?Lv.1の冒険者がミノタウロスを倒すよりも難しいかもしれませんわね」
「そう……本当に、気に入らないわ。貴女」
「奇遇ですわね。それはわたくしが貴女方"神々"に対して常々抱いている感想と同じですわ」
「……!!」
覚悟を決めたフレイヤは、その小さく頼りのない一本のナイフを手に、走り出す。
……分かっている。所詮は恩恵のない人間と同じくらいの力しかない今の自分では、どうやったところでこんな小さな武器では目の前の女を殺せないということくらい。
だが、それでもフレイヤはそうせざるを得なかった。それをする事で、自分はもっとベルや眷属達のことを理解出来るようになるのではないかと、そう思ったからだ。
試されている、測られている、促されている。それは本当に酷く不快で、気に入らなくて仕方がない。だが同時に高揚感もあった。まるで新しい世界が開ける前触れのような。そんな予感があったから。
「……ふふ、やはり神も変わりたいのですね」
「っ!」
「美の女神の可愛らしい"へっぴり腰"はそれなりに見ものではありますが……まあ、時間切れですか」
「ぁ……なっ!?」
自身の全身全霊を振り絞って飛び掛かってきたフレイヤを、女は躊躇う事なく引っ掴み、腕の中に仕舞い込みながらその場から跳躍する。
……直後、つい先程までフレイヤが居た位置を横切るように吹き飛んでいく巨体。
勢いのままにアダマンタイト製の壁面に衝突し、女が守らなければフレイヤに怪我をさせかねない程の勢いで瓦礫の欠片の雨を周囲に撒き散らす。立ち上る砂煙、跳ね上がる血飛沫、それはつまりは決着の瞬間。
「よくもまあここまで粘りましたわね、本当に怪物」
「オッ……タル……?」
敵である筈の女の腕の中で、呆然とした声を漏らす。
それは有り得ない光景。
有り得てはならない光景だ。
しかし同時に、見たことのある光景。
7年前のあの日に、下された彼の姿を。
フレイヤは知っていた。
「どうやら、約束は守って頂けたようですわね。アステリオス様」
「……次こそは、正面から」
「ええ、是非とも」
女は優しく微笑んだ。