「私の可愛いロザリア、アンタはどこまで分かっていたんだい?どこまで先を見据えて、どこまで広い世界を見て、悟って、諦めていたんだい?……アンタはもしかして、ここまで考えて、"殺帝"を煽ったんじゃないかい?」
かつての姫の部屋の中で、黒く乾いた血に塗れたドレスを前に立ち尽くす。
「アンタは兄のことを本当は愛してなんかいなかった。近親の関係だなんて話を広めていたが、そんなものは嘘っぱちさ。兄の方にその気はあっても、アンタは昔から男に興味が無かったからねぇ」
そしてどうしようもなく、彼女は善人だった。善人にしかなれなかった。それに悩んでいたことも知っていた。自身の才能を、その性質故に活かせないことを。誰よりもよく知っていた。どれほど悪辣に振る舞っていても、どれほど他者を見下そうとしても、自分の本質はどこまでも善性でしかないことを悟っていた。
「人の王、人を率いる女王。人が人であるが故に、善性だけではそれは使い熟せない。……悪性が必要だったのさ。世界を改革するほどに女王の才を引き出すためには」
憂いていた。世界を。
憂いていた。人類を。
分かっていた。神々の本質を。
故に王が必要だった。
人を率い、人の道を切り開く。
真なる人の女王が。
「グラニア姫……いやグラナ、アンタはもうこの国には戻って来れないかもしれない。けどアンタが女王になれば、きっと人は人の世界を取り戻せる。神々の支配から抜け出せる。それはアンタにしか出来ない重要な役割さ」
オキツヒメは目を伏せる。
この血に濡れたドレスを前に涙を流した時と同じように、また涙を流したくはない。けれどきっと彼女は、自分との関わりを最低限で済ませて姿を消してしまった彼女は、自分に涙さえ流すことを許してくれない。
「だからこそ、これは賭けになるだろうよ。……アンタを人に戻して、神々の支配に絡め取られるのか。アンタを王座に座らせて、神々の支配を抜け出すのか。若しくは何も変えられず、何も得ることも出来ないのか」
そこに、何もかもが上手くいくという選択肢を出さなかったのは、彼女という女神の性格からなのだろうか。明確な理由がある訳ではないが、変な希望を持ちたくないという、多くを失った彼女の自己保身だろう。
「すまないねぇ、アキちゃん。アタシがオラリオへ行ったところで、王や民があの子の前に立ったとしても、何の意味もないのさ。むしろそれはしたくない。……だってあの子と対峙するということは、それが仮に助ける為であったとしても、敵対するということだろう?」
「孤独にすべきじゃないのさ、王っていうのは」
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「いいえ、王は本質的に孤独なものよ。……だからこそ、孤独にしないように努めなければならないの。それこそが家臣としての、そして民としての務め」
「……なに惨敗した奴がカッコ付けとんねん、フレイヤ」
「べ、ベル君が!!ベル君が変なミノタウロスに連れて行かれたぁあ!?!?」
「傍観者にならざるを得ないのはいつもの事だが、今回のこれは……正義も悪もない。ただ見届けるしかない。本当に足りたのか?俺達の準備は。準備という土俵であの子に勝てる気がしないんだが」
撃鉄は落とされた。
佇む4柱の神々の前で、子供達は争い始める。
始まりはアステリオスが他者の邪魔をされることのないように、ベルを連れ去って行った事から始まった。数多の壁を突き破り、ただ2人だけの世界へと。
「ねえロキ、耳が痛いと思わない?……世界が平和になった後、私達はそれに満足することが出来ない。実にその通りだと思ったの。結局、ダンジョンという災厄こそが子供達の未知を引き出している。私達が目を惹かれたのは、基本的にそうして引き出された未知に対してでしょう?」
「……神は最後、子供達の敵になる。誰もが分かっとったことや。せやけど、誰もが無意識にそれから目を逸らしとった。解決法が無かったし、その解決法を神から提案するのは、うちらが自分で作ったルールに抵触する可能性もあったからな」
「……嫌な話だね。そうなれば結局、最後には神々同士の戦争になるじゃないか。兵士が精霊から子供達に変わっただけの。そんなのは僕もごめんだよ」
「ああ。だから正直に言ってしまえば、俺達にとっても都合が良かったんだ。……彼女がこうして、そんな神々の支配から抜け出す方法を、人の身で提案してくれたことは」
いつかは解決しなければならなかった問題を、ウラノスでさえ危惧していた問題を、彼女は正に解決しようとしている。故に神々こそ、善を語り子供達を愛する神々こそ、彼女のことを支持しなければならない。するべきだ。
……しかし、今正にそんな彼女を止めようとしているのは、他ならぬ守られている子供達の方である。それでも、その気持ちも分かるのだ。何が正しく、何が間違っているのか。最早神々にさえも分からない。
「思想は時として縛りにもなり得る。正義も悪も虚しいものね。あの子はそれをよく分かってる。……だから結局、重要なのは誰を応援するのか。そうは思わないかしら、ヘルメス」
「……やっぱりここに居たのか、イシュタル」
「うわ……」
「あん?」
「え?」
暗い部屋の奥から、その女神は現れる。
それまで神威も気配も一切をゼロにしていたのか、神々どころか子供達の誰も存在に気付いて居なかったというのに。ここに来てその姿を現したのは、抑止のためなのか、それとも意味が無くなったからなのか。
どちらにしても。
「久しぶり、みんな元気そうね。フレイヤも怪我はしていないかしら?あの子が守ってくれたみたいだけど」
「……は?いや、マジで言っとる?」
「イシュ、タル……?」
「……嘘、よね?」
「なんか……前より洗練されていないか?いや、完成したのか?違和感が無くなったというか、振る舞いが自然になったというか」
「ふふ、そうかしら?それなら嬉しいのだけど。私なりには頑張ってみたから」
両手を膝の前で組んで、優しげな笑みを浮かべる女。長い髪を下ろして、露出は最低限。真っ白なドレスに身を包み、以前はあれほど遠慮なく醸し出していた魅了を完全に抑え込んでいる。抑え込んでいる筈なのに、それでも意識を揺らされる奇妙な感覚。
……フレイヤから見ても、似ても似つかぬ姿だった。全くの別神ではないかと、分かっていても思いたくなってしまう、あまりに異様な変わり様。
「な、なんか、まるでアストレアみたいだね」
「ふふ、流石はヘスティアね。その通り、アストレアを参考にすることにしたの。……皮肉なことだけど、あの子はアストレアみたいな貞淑な女神の方が好きみたいだから。まあ彼女はあの子にとっての都合の良い神にはなってくれないでしょうけどね」
「……にしても、こないに変わることってあるんか?マジで今一瞬くらっとしたんやけど、魅了使っとらん自然な状態やんな?前に見た時よりヤバなっとるやん」
「まあ、簡単には変わってはいないからな。アスフィ曰く、本当に泣かされていたらしい。ギャン泣きするくらい」
「ギャン泣き……」
「フレイヤ、貴女も頑張ってね。あの子の指導は、本当に全部どうでもよくなるくらい厳しいから。けどその代わり、効果は確実よ。貴女もきっと立派な女神になれるわ」
「オッタル!!立ちなさい!!勝手なこと言ってないで勇者の言うことを聞きなさい!!絶対に勝つのよ!!負けたら許さないわ!!」
「必死過ぎる……」
「まあイシュタルのこの変わり様を見たらなぁ……」
あれほど酷い形で天界に送還しようとしたのに、今こうしてフレイヤに恨みを見せるどころか、彼女が変わることを楽しみにさえしているその姿は。フレイヤにとっては普通に恐ろしかったのかもしれない。
「で?イシュタル、なんで自分は今の今まで出て来んかったん?どうもフレイヤにはあんま興味なさそうやけど」
「私は別にあの子の主神じゃないもの。私はあの子の手札であり、あの子の手足。憧れを持つ臣下とさえ言っていいわ」
「……イシュタル、君がそこまで言うのかい?」
「ええ、だからフレイヤへの対抗心は二の次で良い。私の今回の役割は、フレイヤが強引に魅了を使い出した時にそれを抑える役割と、ロキとフレイヤの両陣営を敵に回すような状況になってしまった時に、片方の陣営を抑える役割」
「……つまり、私が品のないやり方をした時に、それを咎めるのが貴女の役割だったと」
「そうね、そうなるのかしら」
「貴女程度の魅了で、私と私の子達を抑えられるとでも?」
「むしろ、そこはあの子も疑っていなかったわ」
「っ」
「魅了の力って、本当になんなのかしらね。美の女神なのに、私もよく分からなくなってしまったの。……でも、あの子は今の私の方が良いって言ってくれる。それならそれでいいと思った。私も今の自分の方が好きだから」
「……これはイシュタルの勝ちやろなぁ」
「僕もそう思うかな……まさか神がここまで変われるなんて……」
「いや、本気でこっちのイシュタル良過ぎるな……」
「貴方達?ねえ?ちょっと?」
余裕のない者は、他者と自分を比べてしまう。だが余裕のある者は、若しくは本当に見るべきものが定まった者は、そんなことさえしていられない。
今のイシュタルの立ち姿は、正しく美の女神として相応しい。結局のところ、"品"などというものは重要ではなかったのだ。より大切なのは、その女が何を見て、どれほど真摯に向き合うのか。心意気。
"本気"で"全力"で"真剣"な女は、いつの時代であっても格好が良い。それが"真摯"で"真面目"で"誠実"であるのなら、尚更に。
「あの子がどんな道を選ぼうとも、私はそれを必ず最後まで見届けると決めた。……だから、絶対に邪魔はしないで。他ならぬ私達"神"だけは、この戦いに手を出したらいけないの。それがたとえ、どんな残酷な終わりだったとしても。私は最後まであの子の本当の意味での味方で居ると決めたから」
「……くそ、なんやこのええ女」
「僕、これからはイシュタルと仲良くするよ」
「もう誘いには乗ってくれないんだろうなぁ……残念だ」
「ねえ、こんなにいきなり評価が変わることってあるの?これ完全に別神よね?なり替わりを疑った方が良いんじゃない?ねえ?聞いてる?」
聞いていない。
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『ふ〜ん……まあ別に良いんじゃニャい?姫様はそういう人でしょ』
『え……いえ、ですがクロエ……』
『私もそう思うなぁ。もう闇派閥は潰れちゃったんでしょ?あの姫様なら、その辺り利用してなんかやらかすのは分かりそうなもんだし』
『ル、ルノアまで……』
『大丈夫大丈夫、悪いことにはなんないって。……そういう人だよ、あの人は』
クロエとルノアは、一時とは言え彼女と共に行動をしていた。最大賭博場を破綻させるために、彼女の駒となって動いていた。
その間に彼等の間で何があったのか、リューは知らない。どうしてほんの僅かな時間を共にしただけで、あれほどまで2人に信用されているのか、それは分からない。
「全く!イシュタル様だけじゃなくフリュネまで手下にするなんざ、信じられない女だね!!勝手なことをしてくれるよ!」
「私としてはあの人を敵になんて回したくないんですよ!どれだけ恐ろしい人だと思ってるんですか!あとどんだけ扱き使われたと思っているんですか!」
『万能者!それには私も強く同意しよう!不眠不休で何日働かされたことか!やることなす事めちゃくちゃが過ぎる!』
「あの、ここは被害者の会か何かなのですか……?」
歴戦の冒険者達に対するのは、歴戦の元闇派閥幹部。その実力は折り紙つき、どころの話でもなく。ヴィトーという眷属はそれこそ、単純な戦闘技術だけでもリュー・リオンに匹敵するものを持っている。その狡猾さを活かせば、彼女さえも陥れることが出来るかもしれない。
しかしそんな両者の間に、今やもう正義も悪もなかった。そもそもこの戦いには、正しいものなど何もない。
「であればあなた方も分かっている筈です!彼女の成そうとしている事は正しいと!それを止める事は間違っていると!」
「『そんなことは分かっている(んですよ)!!』」
「「!?」」
フェルズもアスフィも、分かっていた。こき使われた側であるからこそ、それは目の前のヴィトーと同じくらいに分かっている。けれどそれでも、今こうして立場は逆。
「分かってますよ!私が2徹している間に、あの人は3徹しているような人です!こっちが文句言えないくらい、あの人は頭を捻ってましたよ!"千の妖精"を守るためとは言え!オラリオのために!!」
『異端児達の橋渡しだけでなく、彼等に不安を与えないために自筆で手紙を送っていたような彼女だ!私は彼女の選択を信用している!』
「であれば何故、邪魔をするのです!」
『今の彼女には、"千の妖精"を追っていた時のような熱意がない』
「っ」
「私達は別にここに戦争をしに来た訳ではありません!ただお節介をしに来ただけです!……というか、そのくらいしか彼女のために出来ることが無いんですよ!闇派閥のあの馬鹿げた計画を一方的に叩き潰せた礼を!これくらいでしか果たせないのです!」
「……つくづく、貴女達とは相容れない!!」
つまりは、リューもアイシャも、別に自分の意思でここに立っている訳ではない。
リューはアスフィに頼まれたから、アイシャはそこにイシュタルが関係していると聞いていたから。2人がここに立っている理由は、本当にその程度の理由しかない。
しかしアスフィとフェルズは違う。
2人は明確にグラナ・グレーデに対しての借りがある。
27階層に援軍としてフィン・ディムナを駆り立てたのが彼女であるということを知っている。自身の手から離れても異端児達への支援が続くように手筈を整えたのは彼女だ。闇派閥打倒のために彼女がどれほど表と裏から頭を捻っていたのかについて、その手伝いをさせられていた2人が誰よりもよく知っている。
あの女に対して、お礼などと言いながら自分達に出来ることなど早々無いことも知っている。思い付かなかった。彼女が本当に求めているものなど、いつだってレフィーヤ・ウィリディスだけだった。
「女王が誰のために立ち上がったと思っているのか!ここであの方を止めれば!一体何が変わると言うのです!?」
「止めるつもりはありません!というか!そもそもここに集まっている者達に統一意思などありません!」
「はぁ!?」
「勇者は彼女をさっさと引退させて役割を他の神に譲るつもりと言いましたが!私はむしろ彼女に長くその役割を続けさせる必要があると思っています!」
『私はむしろギルドが中心となって全人類で取り組むべき案件だと思っている!人間1人で背負い込める話ではない!個人に押し付けた先にあるのは破綻だろう!』
「ほ、本当に何がしたいのですか貴女達は!?」
「『仲直り(だ)ですよ!!』」
「馬鹿げている!!」
今ここにいる19人に、統一された思想など存在しない。各々に彼女をどうしたいという理想はあるかもしれないが、それは決して同じものではない。仮にこの戦が終わった後でも、議論を深めていく必要はある。そこではまた対立することになるかもしれない。
それでも、今の彼女を認められない。
そんな"なんとなく"の意識は同じなのだ。
今の彼女にこの役割は任せられない。
そう思っている者さえいるかもしれない。
「であれば貴方達は!ここに茶番をしに来たというのか!その程度の茶番のために!ここまで大仰な戦争を仕掛けたというのですか!!」
「あっはっは!別にいいじゃないか!好きも嫌いも人間だ!気に入った女の恋路のために身体を張る!よくあることさ!」
「ア、マゾネス……!!」
「……なるほど。友人の恋路のためということであれば、確かに得心出来ます。それには確かに、身体を張るだけの価値がある。これでも"千の妖精"に少しの鍛錬をつけた身、私も漸くアンドロメダの熱意に共感出来そうです」
「貴方もですか"疾風"!!揃いも揃って愚かなことを……!」
4人からの追撃を、この場で唯一Lv.5への昇華を果たしたヴィトーはなんとか捌き切る。……とは言え、それは簡単なことではない。いくらこうして任されたとは言え、流石にヴィトーと言えどLv.4を4人も相手に出来るほどの実力はないのだ。
なんとか逃げ回りながら、この状況を保たせているだけ。彼等4人に対して優位を取るのであれば、最早あの魔法を使う以外に他ない。
「この戦いに意味はない……ですが、私達には戦う理由があります!"千の妖精"がもう一度彼女の目を惹くことが出来ることを信じています!」
『しょうもない理由で結構!それほどくだらない戦いでもなければ、愛も友情も介在出来ない!』
「同性だろうとなんだろうと、好きになっちまったなら仕方ないさ!むしろアタシは好きだよ!障害があるほど燃えるってやつさ!」
「恋は素晴らしいものです……わ、私にはまだよく分からない。いえ、分からない筈ですが。これを機に色々と勉強をしたいと言いますか」
「ふ、巫山戯るなぁああ!!!!」
世界の未来のため、人と神の関係を変えるほどの目的を目の前に控えた、今この瞬間。しかし今こうして目の前に立ち塞がる4人は恋だの愛だのと巫山戯たことを抜かしていて、ヴィトーもいい加減に限界だった。
自分が彼女に導かれて、ようやく悪にしか生きることの出来なかった人生を変えることが出来る所まで来たというのに。今日まで如何にも幸福に生きて来たような奴等が、こんな馬鹿げたことを言い始めた。まるで自分自身さえも馬鹿にされているような気分になる。
そんなことが許せるものか。自分を導く女王の道は、そのような馬鹿げたものに彩られて良いものではない。より美しく、厳麗でなくてはならない。世界の救世主たる彼女の道を、こんな愚かな者達に汚されてたまるものか。
『灰色の王城、鮮血の美酒。全てを染める宴はこれより女王の名の元に聖魔を連ねる』
「「「「っ!?」」」」
『紅き衣を被れ!グレアローズ!!』
思想はぶつかる。
願いは交わらない。
想いの強さが、全てを分けた。