いよいよ最終盤となったこの作品ですが、あと数話楽しんで頂けると幸いです。
これほどの人数に囲まれて、これほどの強者に囲まれて、しかし追い詰められているのは彼等の方。たった1人の女を前に、足一本さえ動かすことが出来ない。
後から追い付いた神々もまた、そんな光景に息を呑んで足を止めていた。ヘスティアも、ヘルメスも、ロキも。彼等を連れて来たアキも。
そしてそれほどに硬直したこの状況で、女王はただ独り語り出す。踊るように足を動かし、夕陽の差し込み始めた空を静かに見上げながら。捕えられた獲物に目を向けることもなく、恐怖さえもそこにはない。
「僅か17年の生。しかしたったそれだけの時間で、わたくしはこのくだらない世界の多くの汚れを見せつけられました。……この目に映るのは、いつだって酷く不快なものばかり。世界を汚染する数多の悪意に対して、怒りを抱くことさえも意味のないことだと気付きましたわ」
「……」
「何をするにしても、わたくしにとって感情と衝動は不要で邪魔なものでしかなかった。神々の悪事に対して怒りを抱いている暇があるのなら、解決のために奔走する方がよっぽど早い。子を殺されて泣き叫ぶ母親の顔を思い出すくらいなら、それに割く思考を別のことに費やした方がよほど効率が良い。……"衝動掌握"というスキルは、そんな積み重ねの上に生まれたものです。決して母親譲りの殺害衝動を抑えるためのものではありませんわ。わたくしにとってそんな衝動は、些事でしかありませんでしたし」
「……君の衝動掌握は、決して完全に自分の感情を抑え込めるものではない筈だ。表には出さなくとも、君の心は外界の変化に対して確かに反応している」
「ええ、その通りですわ。目の前で生じた出来事に対して、わたくしの感情は確かに動いている。しかし基本的には抑え込んでいますので、表層に上がって来るのは、それでも抑え込めなかった程に衝撃的なものだけ。わたくしが時々見せる人間らしい感情は、実のところその何倍もの衝動が心の内では生じていたということになります。……そう思うと、こんな女でも意外と感情豊かなものでしょう?本当に厄介なことに」
「……っ」
怒りを見せた時、笑顔を見せた時、悲しい顔を見せた時。そんなあらゆる光景が、レフィーヤの頭の中を過っていく。そして実際にはその何倍もの感情を彼女が抱いていたと知って、心を締め付けられる。
蜘蛛の巣の上で唯一光に照らされている彼女は、その見惚れるほどの美貌もあって、まるで一枚の絵画のような光景を作り出している。目に焼きつくようなその姿から、自分は何を読み取ればいいのか。それが分からないからこそ、レフィーヤはただ必死になって彼女を思う。
「この世界は本当にくだらない。遊び感覚で数多の命と生を弄ぶ神々が、救世主面をして歩いている。10人を囲って100人を殺すようなやり方が、当然のことのように罷り通っている。ただ素質が無いというだけで、価値のないゴミのような扱いを受ける。……命をただの数字としてしか見ていないような輩が、物知り顔で命を語っている」
「……否定はしないわ」
「わたくしには、そんな神々を殺すことが出来るという唯一無二の素質があった。そしてその価値を知ってしまった。その意味も。希少性も。……この手はいったい何処まで届くのかと、そう考える余裕さえもありませんでした。誰かの悲鳴が、いつも何処からでも聞こえて来る。あなた方の同胞の高笑いが、いつも何処にでも存在する」
「……」
「分かります?わたくしが1秒思考している間に、命が1つ奪われるのです。わたくしが1つ策を取りこぼせば、数十から数百の命が簡単に消えていくのです。罪のない、運が悪かっただけの者達の命が。……けれど、わたくしがそこから逃げ出せば、その時点から未来にかけて数千数万もの命が脅かされてしまう。だってそんな神々の横暴を、同じ神々は許しているのですから。わたくしがやらなければ、彼等が救われることは永久に無い」
「……君はそんな責任を感じるべきじゃないよ、グラナくん。君の行動で命が消えたんじゃなくて、君の行動で命が救われたんだ。悪いのは僕達の方だ。君の言う通り、僕達は目を背けていた」
「ふふ……まあ、そんなことはどちらでもいいのですよ、ヘスティア様。そこに何か違いはあります?わたくしの感じ方以外に。現実に何か影響はあります?」
「っ」
「あなた方は手を伸ばさなかった。わたくしは伸ばした。ただそれだけでしょう?手を伸ばさなかった者達の理由や言い分など、当人達だけでなく、わたくしにとってもどうでもいい。慰めなど、侮辱にさえ感じますわ」
「……」
レフィーヤは、学区に居たことがある。
それ故に、下界の状況というものを概ね知っている。世界が今どんな状況にあり、どれほど多くの苦しむ者達がいるのか。それは単にモンスター達が理由なだけでなく、神々による被害も多いと。しかし神々は他の神が自治している国や都市には滅多に手を出すことがないと。出すことは難しいと。そんなことを教わった記憶もある。
「手が届いてしまうのです、彼等の命に。わたくしが手を伸ばせば、彼等の命を救うことが出来てしまう。……それなら伸ばすしかないでしょう。彼等の涙を止めることが出来るのなら。彼等の子が血を流すような未来を変えられるのなら。神を殺すという最大の禁忌を犯すことにも躊躇はない。命を救う為に命を奪うという矛盾を、わたくしは受け入れた」
「グラナさん……」
「……それでも、そんなことを続けているうちに、見えて来てしまうのです。この世界の未来が。こんなことを続けていても、何の解決にもならないと。次から次へと下界に降りて来る神々の全てに目を向けるには、この世界はあまりにも広過ぎる。同じやり方をしていては、世界の全てに手を届かせることは決して出来ない」
「……だから、思い付いたのか」
「ええ。とは言え正直、現実的では無いと思っていました。神々を剪定する、そんなことを許す神々を殆ど見たことがありませんでしたから。故にオラリオの正義と悪、その両者の意見を聞こうと思った」
「それがロキ・ファミリアと、闇派閥……」
「どちらならこの策に乗ってくれるのか、探ることにしました。まあ別にどちらでも良かったので。しかし想定外であったのが、このオラリオにはそれなりに善神と呼べる神々が多く、大神ウラノスでさえこの策に乗ってくれたということ。……グラニア姫という逸話を広めることで、全ての邪神に脅しをかけるという方法も必要無くなった。一気に頭の中にしかなかった計画が現実味を帯びた」
「……それだけじゃ、ないだろう?」
「……」
フィンのそんな指摘に、一瞬動きを止めた彼女は、それでもただ静かに笑みを向けて応える。
そうだ、それは確かに事実であるが、そこには別の想定外もあった筈だ。それこそ、そんな風にして生きてきた彼女が、一瞬で何もかもを忘れてしまうくらいの。あまりに衝撃的な出会いが。
「君はレフィーヤと出会ってしまった。この世界で唯一、君の目にも正常に映る事が出来るレフィーヤと。……それは君にとって、正しく人生を変えるような出会いだった筈だ」
「……ええまあ、その通りですわ。わたくしは夢中になりました。自分の役割を忘れてしまうくらい、全部どうでもよくなってしまうくらい。のめり込みました。ですが、だからこそ分かるでしょう?それは間違いだったと」
「間違い……」
「わたくしの為すべきことは、本来こちら側なのです。レフィーヤ様が汚れて、我に返りました。……この世界には未だ、救うべき人々が多く居る。白黒どちらかに染まりたいなどという我儘も言っていられない。わたくしはもう2度と、同じ間違いをしてはいけない。苦しむ者達から目を背けて、自分だけ幸福に浸るような真似を、している暇などない」
「……手が届いてしまうばかりに、か」
「……君だって、神に苦しめられている側なんだよ。グラナ君」
「ですがヘスティア様。わたくしは既に救うと言いつつ、数千の命を奪っています。それは数万の命を救ったところで、相殺出来るものではない。わたくしが苦しむことは当然のこと。どころか他者に救われるつもりなど毛頭ありませんわ」
「……」
だから彼女は、自分の中からレフィーヤ達のことを、レフィーヤ達に抱いた全ての感情を消すつもりなのだ。ただ苦しむ者達を救い続ける存在として、ただ悪意ある神々を裁き続ける機械的な存在として、自身を完全に掌握するつもりだ。
アキの考察も正しい。そこには彼女を恨む神々から、レフィーヤ達を守るためという理由もある。むしろその理由があるからこそ、彼女の決意はより硬い。
他者を思うからこそ、これは覆せない。何よりレフィーヤを守る為に、彼女は絶対に譲らない。レフィーヤ・ウィリディスという少女を知ってしまったからこそ、もう曲がらない。自分を世界の歯車にすることにも、躊躇はしない。
「……皮肉だな。罪人にさえも慈悲を与えたお前が、誰よりも自分の罪に対して咎を与えている」
「いや、多くを裁いてきたグラナだからこそだ。きっと誰よりも君こそが、その言葉を、君自身に救われた者達から聞いていた筈だ。……『悪人は罰を受けるべき』、そんな言葉を」
「……ふふ、まあ実際わたくしは決して許される存在ではないでしょう。多くの神も人も殺し、殺させたのですから。何処かでその罰を受けるのは当然。その責務を果たすのもまた当然。それは既に納得したことです。……こうしてレフィーヤ様と出会えただけでも贅沢だったくらいでしょう、満足はしました」
「っ……」
ヘディンは常々言っていた。
『責務に苦しまぬ者に王を名乗る資格なし』
『無能こそあがいて生き急ぐべき』
そんな言葉を。
そしてそれを正に超越したような人間が目の前に居るが、その人間はこれほどまでに痛々しく破綻した存在であることに、息を呑む。
他者のために罪を背負い、その罪によって自身を犠牲にする。他者の幸福を祈りながら、自身の幸福を贅沢と断じ。責務に苦しみながらも、得られるものは何もなく、行き着く先はただ虚無と地獄。才があり、その上で足掻き続けているのに。王を名乗り、これほどまで責務に苦しんでいるのに。彼女はただ報酬もなく沈み続ける。
こんなものが理想の王だというのか?
それはいったい誰にとっての理想だ?
背負った責務を全うするのが王の役割であるとして、これほどの重責を担わせている者達は、果たして邪悪以外の何と表現すれば良い。
才があるという理由だけで、本当に人はこれほどのものを引き受けなければならないのか。ただ手が届くというだけで、これほどまで苦しまなければならないのか。それは最早呪いなのではないか。そう突き付けられる。
「……紛れもない、神の負債や」
「でも、それを清算するつもりもないのでしょう?そんなことの為に、自分だけまた暇な天界に帰りたくはないですものね」
「っ」
「知っていますわ。それが自分たちの負債だと知りながらも、あなた方は何もしない。その責任を取ることは絶対にない。善神であっても大神であっても、それは変わらない。……だって、漸く見つけた娯楽ですものね。なるべく揉め事は起こしたくない。天界で定めたルールを曲げるようなこともしたくない。他の神々の反感を買いたくない。自分だけの意見で変えられるようなものでもない。……そんな適当な理由を付けて、結局何も変わることはないのです。そんなこと、何度も何度も聞かされて、いい加減に食傷気味ですので。わざわざ言い訳をする必要はありませんわ、ロキ様」
「……」
「さ、もういいでしょう?所詮、こうする以外に他ないのですから。全てわたくしが引き受けます」
「違う!それは本来なら俺たち自身が……!」
「ヘルメス様、何の解決にもならない言い訳は不要と言った筈です。どうせ結局、どこまでいっても我々は下位存在であり、神々にとっての玩具でしかない。願いは届かないし、意見が反映されることもない。彼等の気分次第で、死後さえ容易く弄ばれる。……であれば、こうしてこちらで対処するしかないのですから。あなた方にはもう何も期待していません。わたくしは善神にさえ、期待するのはやめました」
「……っ」
「そしてその過程では、他の皆様も不要です。わたくしは今後、神々の処理で手一杯になります。オラリオで神々の選別を宣言したところで、都市外で実際に活動しなければ何の意味もありませんので。仕事以外で顔を合わせることも無くなるでしょう。……わたくしとの関係は今日まで、それでいいではありませんか」
グラナ・グレーデという人間1人の人生で、神々が長年に渡り下界に持ち込みながらも見て見ぬ振りをし続けていた問題が解決する。多くの命が救われ、多くの人生を取り戻す事が出来る。闇派閥のような悪意を生まずに済む。
安いものだ。
グラナからしてみれば、本当に今更何を言っているのかという話。散々に命を数で見て来た神々が、今更自分1つの人生に何をそう拘ることがあるというのか。別にいつものように使い捨てれば良いではないか。都合の良い駒が出て来たと、そう言えばいい。それは実際に、どうしようもなくそうなのだから。
「……違いますよ、グラナさん。そういうことじゃ、そういうことじゃないんです」
「……?」
「私達は……私はただ!グラナさんにも一緒に幸せになって欲しいだけなんです!!」
「……」
「私はこれから先も、ずっと、グラナさんに側にいて欲しいだけなんです!!そんな我儘を言うために、突き通すために!ここに来たんです!!」
「……はぁ」
レフィーヤには分からない。
世界がどうこうとか、神々がどうこうとか、そういう難しい話を理解するためには、もっともっと沢山の時間が必要だ。もっと細かく説明してもらって、咀嚼して、それからでなければ理解することは出来ない。
けれど、レフィーヤの願いはそれだけなのだ。
「もっとグラナさんと、一緒に居たい!!」
「……」
忘れたくない、忘れて欲しくない。
恋愛感情とか、そういうのも結局まだ理解することは出来なかったけれど。それだけは間違いのない自分の本心だった。これから先もずっと隣に居たい。ただそれだけでいい。
「……」
「……相変わらず、理解出来ないというような顔をするんだね。君は」
「ええ、理解出来ませんわ。……いえ、理解は出来ても、納得は出来ません。ただ困惑しかない」
「……グラナ、ロキから聞いたよ。どうやら君は、自分で自分の傷の手当てをしないらしいね。27階層から帰って来た時も、傷の手当てはロキがしたと言っていた。18階層で重傷を負った時も、君はそれについてあまりにも無関心だった。結局はシャクティにされるがまま」
「……」
「そこで気付いたんだ。君に欠けている致命的なものを。君という人間が抱え続けている、根本的な欠陥を。……君がどうしてこうまで他者に献身的に生きて来ることが出来たのか、その理由の1つが」
フィンのその言葉に、グラナはただ静かに瞳を閉じる。それはまるで沙汰が下されるのを待つ罪人のように。全てを諦めた被告人のように。
何も隠すつもりもなく、彼の答えを疑うつもりもなく、信じてさえいた。彼の語る言葉に間違いはないと。全て見抜かれているのだと。そこに信頼はあった。
彼なら間違いなく、いつかの未来、それに気付くだろうと。
「君は恐らく、自分自身を知らない。"自分自身の姿を見たことがない"。つまり、君の目は生まれてから一度たりとも、自分という人間の姿を映せた事がない。……違うかい?」
「…………お見事ですわ、フィン様」
ようやく彼女は、彼の名前を呼んだ。
称賛の言葉と共に、彼の瞳に映る自分の姿を。
ようやく、捉えた。