そそっかしい私は、余裕を持って少し早めに起きた日ほど遅刻しそうになる。小さな忘れ物をしたり、時間を気にせずゆっくり朝食を食べたりして、結局いつもと同じか、それよりもちょっと遅れて家を出る羽目になったりする。
今日もそんな日だった。目覚まし時計が鳴る10分前に自然と目が覚めて、トーストにマーガリンとイチゴジャムを塗って食べた。朝のニュース番組を聞き流しながらSNSを眺めていたらいつの間にか時間が経っていて、慌てて歯を磨いて顔を洗って家を出る。
朝は苦手だけれど、近頃は楽しみが増えた。月曜日と金曜日の朝は、紗夜ちゃんが校門に立っているのだ。
だんだんわかるようになってきた気だるげな無表情で、風紀委員の身なりチェックをこなしながら朝の挨拶をしている紗夜ちゃんに、朝一番で会える。何となく、朝からちょっとだけハッピーな一日が始まるような気がして、月曜日がそれほど億劫でもなくなった。
身体に染み込む朝の空気。朝露が溶けた空気の冷たさと潤いに背筋が伸びる。
進学にあたって新調したローファーはまだこなれていなくて、足の甲に硬い感触を返してくる。新品のソールクッションは逆に、歩様に弾みをつける。
校門に辿り着いて、校舎に備え付けられた時計を見れば遅刻寸前、2分前。撤収の準備を始めている生徒会や風紀委員のあいさつ運動の前を歩くと、私を目敏く見つけた紗夜ちゃんに声を掛けられた。
「おはようございます。……また遅刻寸前?」
「おはよー。ぼーっとし過ぎちゃって」
「後ろが少し跳ねているわよ」
「あ、ありがと。直しておくね」
「櫛はある?」
「うん」
「それじゃあ、また教室で」
やんわりと手を振られて、教室へ。途中でトイレに寄って水で寝癖を直す。朝も櫛を入れたのに、すっかり甦ってきてしまったらしい。
「おはよ、彩。今日も愛しの氷川ちゃんには会えたの?」
「うん、ギリギリセーフだったよ」
「どうせ教室でも会うのに、わざわざ朝一番で会えるかを気にする気持ちがわかんないけどね」
中学来の友人は、この世の春を謳歌している私のことをまるでホスト狂いを見るような目で見てくる。
「だって、眼福だから元気を貰えるし……」
「本当にミーハーオタクみたいなこと言うのやめなよ」
私と映画を観た日から暫く。ゆっくりと紗夜ちゃんは教室の空気に溶け込んでいた。
初日から距離を詰めるタイプではないだけで、孤高を好む質でもないらしい、というのはあの日からわかっていたけれど、紗夜ちゃんの纏う空気は独特だった。
教室で動画を観たり写真を撮ったり、手慰みに黒板に落書きしていたりするのに加わっては来ないけれど、きちんとクラスの中で立ち位置を手に入れている。高校に入って急に難しくなった勉強のことを聞けば教えてくれたり、案外みんな興味があるお嬢様学校の慣習について教えてくれたり、意外なくらいの身体能力を体育で披露したり。
そして何より、美人は得だ。アイドルを目指している私よりもよほど、芸能界に居そうな目鼻立ちをしている。
月ノ森出身、というステイタスもまた寄与していたに違いないけれど、紗夜ちゃん自身が面白い子だった。
「そりゃあ、良い子だし仲良くできて嬉しいけどね。そんなに入れ込んでるの彩だけだよ。まあ、誰と仲良くしようが勝手なんだけどさ」
些か行き過ぎている自覚はある。
このまま変化のない生活が続くことに怯えていて、それが故に変化に飛び付いたところがないとは言えない。
机に教科書とノートを仕舞いながら、自分の感情を遡ってみる。……うん、でも、構わないと思う。紗夜ちゃんが嫌がってさえいないなら、私がひとりで舞い上がっている分には問題がない……と思いたい。
「んー、言うか迷ったけど……」
つらつらと言い訳を重ねていると、濁したような言葉尻で、不穏な話の切り出し方をされた。
「え、何?」
「あくまで伝聞だからさ、話半分に聞いてね? 氷川ちゃん、ギターやってるらしいじゃん?」
「……うん」
「バンドクラッシャー扱いされてるんだってさ。バンドに入る度に揉め事が起こってバンドが解散してるから、今じゃみんな敬遠してまともにバンドも組めてないんだって」
「ええ? 何かの間違いじゃない、かな」
「だから話半分って言ったじゃん。少なくとも学校で話す分にはいい人だし、悪い印象はないけど、実際のところどうなのかはわかんないでしょ? 火のないところに煙は立たないって言うし。……彩も一応、いろいろ気を付けなよって言いたかっただけ」
そんな事はありえない、と言いたかった。
少なくとも、好き好んで問題行動を起こして回るような人じゃない。それどころか、誰かの悪意に晒されてそんな噂が流されているんじゃないかと思うくらい。
でも目の前の彼女だって紗夜ちゃんの学校での立ち居振る舞いを知った上でこう言っているわけで、それも、陰口ではなくて私を心配しての発言なのだから、不満は持っても言い返すようなことはしたくない。
ありがとう、とだけ返して、席に着く。始業前、チャイムと共に先生が教室に入ってきた。ほぼ同時に紗夜ちゃんが戻ってきて、会話も打ち切られる。
壮年の男性の草臥れた声が教室に通る。隣の席に座った紗夜ちゃんが、姿勢良く教壇の方へと向きながら、合間にちらりとこちらを見た。視線が私の後頭部に向いたあたり、寝癖のチェック?
朝の諸注意。3時間目と4時間目の時間割が入れ替わるという連絡事項を受けたくらいで、朝のショートホームルームは直ぐに終わった。
「寝癖、ちゃんと直せたのね」
「あ、うん」
一限目前、10分程度の休み時間。水筒の蓋を開けながらそう一言話しかけてきた紗夜ちゃんに、曖昧な返事しか返せなかった。それっきり手元の文庫本に目を落とした彼女は、長いまつ毛の奥に揺らぐ琥珀の瞳から文章の世界に落ちていく。
仲良くなれたとは言っても、私たちの関係は学校で会うだけのクラスメイト。それも、まだ高校一年生の5月だ。お互いのことなんてほとんど何も知らないに等しい。
放課後にライブハウスに通っているらしい紗夜ちゃんが、あの世界でどんな風に生きているのか、私はまるで知らない。
知る必要は、全くない。私が学校生活と養成スクールでの生活を明確に区別しているように、誰もが学校とプライベートを区切っている。もちろん放課後や休日に学校の友人と遊んだりすることはあるけれど、それとこれとは別だ。
私が如何にセンスに乏しくて、日々のレッスンでもがき苦しんでいるかなんて、学校の友達には知られたくない。
紗夜ちゃんにだって自分の世界での苦悩があるかもしれない。もしくはバンドの世界こそを自分の輝ける場所と定義していて、学校生活に精神的なリソースを割いていないのかもしれない。うーん、思考がごちゃごちゃしている。
拙速のまま踏み込むことを躊躇していて、言い訳を探しているだけだ。紗夜ちゃんは間違いなくパーソナルスペースが広いタイプだから、仲良くしたくてもゆっくり距離を詰める方がいいとはわかっているけれど。
知りたいと思っている。知りたいということは興味があるということで、仲良くなりたいということだ。だから私自身この感情は否定したくない、けれど──
「百面相をして、どうかした? 私の顔になにかついているかしら」
「え、いや、違くて。……紗夜ちゃんともっと仲良くなるにはどうしたらいいかなぁって、考えてたの」
考えているうちに、紗夜ちゃんのことを見つめてしまっていたらしい。視線が煩わしく感じたのか紗夜ちゃんが顔を上げて尋ねるのに、思わず直球で返してしまった。少し思考はネガティブな方に寄っていたけれど、この言葉は嘘じゃない。
紗夜ちゃんは目を丸くして、それから考え込むように少し黙った。
「随分ストレートに言うのね。……けれど、そんなに悩むこと? 仲の良さって、積み上げた日々に裏打ちされていくものなんじゃないかしら。お互いの好きなものを知ったり、嫌なことがあっても受け入れたり、直したり。生憎、私にはそんな、親友のような存在はいないから、聞きかじりの話になってしまうけれど」
──それとも、そんなに言い
特に追及する気はなさそうな素振りで、それでも釘を刺すように付け加えられた言葉に怯んだ。
「……うん、知りたいよ。どんなバンドの曲を聴くのか、どんな本を読むのか、どんな食べ物が好きで、どんな友達がいて、どんな考え方をするのか。一つ一つ知っていきたい。私の好きな物も、知って欲しいと思う。紗夜ちゃんのバンド活動のことだって知りたいよ。でも、もしかすると、紗夜ちゃんはそれをあまり話題にしたくないんじゃないかって思ったから……」
パタン、と本が閉じる音。なるほど、と小さなつぶやきが聞こえた。
「こういうことを言っては元も子もないかもしれないけれど、今はあまり上手くいっていないのよね。だから話題にもしたくないだけ。丸山さんに関わって欲しくないとか、そういうことじゃないの」
「そうだったんだ。……ごめん、変に気にしちゃって」
「いいえ、私に歩み寄ってくれるのは凄く嬉しいの。だから気に病まないで」
琥珀が秒針を追いかける。当たり前だけれど、10分間の休み時間は真面目な話をするのには短い。
「ライブがあれば丸山さんを誘うと約束するわ。代わりにというのは変だけれど、もちろん貴方のデビュタントには私も立ち会わせてくれるのよね?」
「それはプレッシャーだなぁ……」
国語の教科書を取り出しながら、私は頬をかいた。
オーディションに落ちたショックからは、とうに立ち直っている。近頃はまたバックダンサーの仕事が受けられるように新しいダンスを覚えている最中で、自分の評価を伸ばすチャンスを窺っている。夏には大きなイベントが複数あるから、そこに関われたら経験値が積めるし、事務所の人との縁も増える。こんな貪欲で泥臭いことを考えてばかりいるのもどうかと思うけれど、漠然と努力を積み上げてきた結果がこれなのだから、身に迫る焦りも一入だった。
「楽しみにしているわ」
「うん。きっと、約束が守れるように」
──丸山さんのことばかり言っていられるほど、私も芳しくはないのだけど。
自嘲を教室の空気に溶かして、紗夜ちゃんが笑った。それから、思い出したようにぽつりと、「そういえば」と切り出す。
「後で構わないのだけど、丸山さんが好きなアイドルを教えてくれないかしら」
「えっ、紗夜ちゃん、アイドルソングとか聴くの!?」
「……いえ、殆ど知らないから、知りたいと思って。友人の好きなものを知りたいという動機は、変かしら?」
「ううん、全く。……どうしよう、すっごく嬉しい」
紗夜ちゃんの好きなバンドも知りたいと返せば、じゃあどれを紹介するか考えておくわと微笑みが返ってくる。
チョロいなぁ、私。これだけで舞い上がってる。
どれからオススメしよう、という思考で頭がいっぱいになった。Marmaladeの話をするのは確定で、じゃあどの曲がいいかな、と脳内アルバムをソートする。
チャイムがなったあとも、私は思考の海に浸りっぱなしだった。
♦
放課後、紗夜ちゃんと額をくっつけてプレイリストを交換し合ったあと、早速そのプレイリストを流しながら事務所への道のりを歩く。
いつもは先行きの見えない霧に覆われた道が、今日ばかりは斜陽に晴れ渡って見えた。
聴いている限りは、紗夜ちゃんは歌詞に重きを置いているような気がした。曲調は結構バラバラで、そこに一見統一感はないように思えるのに、シャッフルで流れていく曲の歌詞の一節がやけに心に質量を残す。劣等感を描いた歌詞が多いのも、何となくそれを後押ししている気がした。
おはようございます、とレッスントレーナーさんに挨拶をしてからウェアに着替えて柔軟。鏡張りのスタジオに立つと、嫌でも平凡な私が目に映る。
集中できているか否かは、最初に分かる。自分の細かなみすぼらしさを見咎めてしまったら集中できていない証だ。
観客を魅せるのがアイドルなのに、他ならぬ自分自身に輝きを見い出せていない時点で、やはり私は未だアイドル未満なのだと思う。だから、ひたすらに積み重ねていくしかない。
私が私に輝きを見い出すに足る根拠を、努力を、実績を、実力を。
私をアイドル足らしめる翼を。
1,2,ステップ,3エン,4エン,ターン。練習メニューになぞって身体を動かす。慣れ親しんだメニューだからこなせているけれど、これが後半になって新しい曲や難易度の高いダンスに変わると一転するのが分かっている。
フリを全うするのに必死で、魅せ方が疎かになる。指先、姿勢、目線、表情、血管の一本一本に神経を通すような精密な動作が、私にはなかなかできない。
基本的に鈍臭いのだ、とわかっている。考えることが多いとこんがらがるし、歌詞は飛びそうになるし、こればかりは生まれ持った資質の問題だろうから、嘆いても仕方がない。
幸いにして、訓練でどうにかなることは分かっている。考えても追いつかないのなら、思考を介在させずとも済むように反復して訓練すればいい。
要領が悪いのだから、才能がある子達のように一足飛びに輝く世界へ馳せることはできない。一つ一つ足場を積み上げて、積み上げて、積み上げて。スポットライトに照らされたステージに私が立てるとしたら、自分で敷いた舗装の先にのみ、そんな未来が実現し得ると思っている。
ダンスレッスンをこなして、それからボーカルトレーニング。走り込みで肺活量は増えているし、歌そのものも上手くなり続けているとは思うけれど、歌声一つで誰かの心を震わせられる領域はまだ見えてさえいない。
何もかも足りない。
自分の持ち物を確かめる度に、私にはここまでやってきたという過去しかないのだと悟る。
努力しかできないから努力をしてきた。言ってしまえばそれだけで、このままでいいんだろうかと自問するばかりの日々。
「丸山さん」
「はい!」
レッスンの合間の休憩時間、タオルで汗を拭っているところに声を掛けられた。レッスンを受け持っているトレーナーさんではなくて、スケジュール管理なんかの事務方の仕事をしているスタッフさんだ。私も何度か手続きのことでお世話になっていた。
「今週末、金曜日のレッスンなんですが、事務所でのミーティングに変更になりました」
「えっと……?」
「こちらのクリアファイルの中の書類に詳細が入っています。担当スタッフの名刺も入っていますから、落とさないでくださいね」
「それって、私も何かのプロジェクトに参加できるってことです、よね?」
「そうなります。申し訳ないのですが、私も詳細なことは何も知らないんです。どうやら事務所の、アイドル部の方で早急に動いている話のようで……ですが、丸山さんには大きなチャンスだと思いますし、頑張ってくださいね」
「はい、ありがとうございます……!」
手渡されたファイルには、アイドル部のプロデューサーの名刺と、集合場所の案内、契約に関する書類やら何やらが入っていた。肝心のプロジェクトの内容については、あまり情報がなさそうだ。『Pastel*Palettes』というユニット名の情報が出ていることからして、そう疑うものでもないのだろうけれど、些か不安ではある。
降って湧いた幸運に思考も感情も追いつかないまま、「分からないことがあればあとで連絡をください」と言い残して去っていったスタッフさんに頭を下げる。
世界の速度が、急に上がったような気さえしていた。