色褪せた空の下で   作:おいかぜ

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《21´》ネオ・アスペクト

 精神の均衡を保つための拠り所として、少なからず音楽に依存してきた自覚がある。

 

 音楽性を褒められることはあるけれど、私の音楽性なんて大したものじゃない。蝉が片割れを求めて鳴くように、最後の一羽になっても鳥が歌うように、本能なのだと思う。自己表現でもあるし、不安からの逃避でもある。

 

 そして、私はそれ以外を知らない。

 

「紗夜。貴方が演奏を歪める必要は無いわ。私は全て織り込み済みで貴方を誘ったのだもの」

「それでフェスに落ちたとしても?」

「今のRoseliaで無理なら、どの道今年は目がなかったということでしょう」

 

 帰りの電車で、湊さんが訥々と言った。

 

「他の3人を妥協で選んだと言うつもりは微塵もないけれど、私が自分からバンドに誘ったのは貴方なのよ? ……寧ろ、貴方についていけない実力不足を反省すべきね」

 

 湊さんの物差しでは、私が高く買われているらしい。実際に技術の幅や精度で言えば、まだ歴の浅いほかの三人よりは幾分上手く弾けるだろうけれど、醜態を晒してここまで庇ってもらえる程だろうかと首を傾げる。

 

「貴方の水準で全員が演奏出来ていれば問題なかったはず。そこまで持っていけなかった私の失敗でもあるし、戦略ミスでもあるわ。即戦力を集めることを諦めて、成長分で補おうとしたのだけど……結果として間に合わなかった」

「三人を腐すのはやめてください。少なくとも今回は、足並みを揃えられなかった私に原因があると言われたのだから、それを受け止めます。来年に向けて再編成するのなら……いえ、これは私が口にすべきではありませんね」

 

 クビにして貰っても構わない、と言おうとして、口を噤む。安直に誰かを排除するという選択肢が全体に与える悪影響を考えれば、これを口にしても良いのは湊さんだけだ。

 私をクビにしたとて他のあてがあるとも限らないし、他のメンバーのモチベーション次第ではバンドそのものが瓦解しかねない。メンバーを切り捨てるという選択肢がバンドに入り込むことで、過度な緊張に支配されたバンドになってしまうようなことは避けたい。

 

「……反省会は明日にしましょう」

「残念でした会やる? やけ食い的な」

「私はパスさせてください」

 

 丸山さんから入っていたメッセージに返信して、最寄り駅から少し離れた駅で一人列車を降りた。夏休み中だから、この時間に帰ってもどうせ私の居場所は無い。それなら外を彷徨っていた方が余程マシだった。

 

 夕暮れの駅の人並みに紛れて、広場の片隅に背中を預ける。弾こうか弾くまいか迷って、今日はもういいかと路上ライブの準備をしている同業者の背中を眺めることにした。

 

 

 

 ♦

 

 

 そして私は、飛び方を忘れ、歌い方を忘れた。

 ギターに触れれば、機械的に指先は動く。些かの衰えもなくスケールをなぞり、ギターリフを奏でて、私は操り人形のようにギターを演奏する。

 自覚する限りぎこちなさなどは無く、ただ機械的に無感情な演奏が何処か遠いところから聴こえてくるような感覚。弾いているのが私じゃないみたいだ。

 

 日に日に耳鳴りと偏頭痛の症状が酷くなってきて、なんとか睡眠時間を増やしてはみたものの改善の兆しが見られないまま夏休みも後半に突入する。

 

 こんなにヤワだっただろうかと自問してみるも、この不調の原因として思い至るのは、先のフェスのオーディションしかない。

 音楽性を否定されようと、ギターそのものが下手だと言われようと、今更堪えなどしないと思っていた。事実、それらは遠い過去に通り過ぎたもので、焼き直しのように同じ目に遭おうとも傷付くはずがない。

 

 ──と、思うのに、私が爪弾くギターは決して歌おうとはしなかった。

 

 弾くのと歌うのは違う。弾くというのはつまり、今の私のような無機質な演奏のことだ。電子ピアノの自動演奏のように、譜面にドと書いてあるから四分音符のドを鳴らし、Cメジャーと書いてあるからドとミとソを押さえる。ただそれだけ。DTMソフトにサンプルとして入っている音源と大差ない。

 

 譜面を見ても、ただの記号の羅列にしか見えない。

『LOUDER』のスコアを見たときに感じた、エネルギッシュな情動も、今は無機質なモノクロにすり替えられている。雨垂れの夜をスポーツカーで走る情景が──深夜の幹線道路も、眠らない街の灯りも、赤とオレンジのランプも、全て褪せてしまった。

 

 おそらくは、スランプの一言で言い表せてしまう現象なのだろう。私には死活問題なだけで。

 

 立ち止まっていても日はまた昇る。Roseliaは『SWEET MUSIC SHOWER』というイベントに参加することになった。イベントの運営から招待を受けて、アマチュア枠──ようはオープニングアクト、前座だろう。

 

 ギターを弾いても心が震えない。

 これまでの人生で最大規模のステージに立って、ハウリングしないギリギリを攻めた大音量をぶちまける。

 宇田川さんのドラムに従順に。ほんの少し走っているのは緊張からだろうか。演奏自体の完成度は悪くない。宇田川さんが苦手なフレーズも上手く叩けているし、今井さんも白金さんも上手く流れに乗れている。特に白金さんはいつもよりも音が前に出ているように聞こえた。音量の問題じゃなくて、表現の幅が主張を大きくしている。

 

 観客の反応は良いとは言えないけれど、それなりに関心を引けているのではないだろうか。前座なんて無視されて当たり前だと思っていたから、思ったよりも真摯に聴いてくれる客が多いことに驚いた。

 

 宇田川さんの集中が切れかけたのを察知して、わざとストロークを粗くすることで注意を促す。今まではホームでの演奏ばかりだったから、アウェーな空気に飲まれているのかもしれない。余裕がある分、私がこういうところに気を張っておくべきだろう。

 

 しかし私は、この時間を楽しいと思っているのだろうか。

 

 味気なくとも、弾き続けるしかない。あの音楽の世界に戻れる可能性を閉ざす訳にはいかない。けれど、どうにも苦しい。

 

 またあの世界に飛び立ちたい。私という殻を破って、私の心が自由になる感覚。

 苦しいと叫べる。楽しいと叫べる。痛くて、苦しくて、泣きたくて、認めて欲しい。そんな心の叫びを、音楽の中でだけ許してやれる。

 

「お疲れ様でした。……緊張してましたか? 以前聞いた時と随分印象が違いましたが……」

「あはは、すみません」

「いえいえ、十分盛り上がっていましたし、私どもとしては文句はありませんよ。まだ高校生ですしね、……この後の演奏も自由に聴いていってください。──では、本日はありがとうございました」

 

 湊さんの表情は固い。演奏が終わって楽屋に引っ込んだ後、イベント運営のスタッフに話しかけられても口を重くしていた。礼を失するほどではないが、気をつかって今井さんが話に加わる程度には。

 

 皮肉なことに、フェスの審査員がRoseliaに求めた演奏が、今はできている。私がまともに演奏できなくなった一方で順調に成長している三人。この演奏ならばオーディションに通っただろうか。

 

「私は、納得しないわ」

「友希那?」

「演奏中に席を立たれるのは屈辱よ。たとえ前座だとしても、己の実力不足を嘆くべき」

 

 帰宅の準備をしている私に、湊さんの視線が向けられる。

 

「今日の演奏は、確かに技術的には良かったかもしれない。スコア通りの丁寧な演奏に、瑕疵はなかったでしょう」

「なら、いいんじゃないですか? あこもちゃんと叩けたと思いましたし……」

「それだけでは観客の心を掴めないということよ。中身のない演奏は、BGMのように観客の耳をすり抜ける。私たちは、聞いた傍から忘れられるような引っ掛かりのない演奏をしてしまった」

 

 息を吐く。

 どうしたものかと思う。私だって好きでスランプに陥っているわけではないのだ。湊さんには当てつけのように見えているのかもしれないが、私にはどうにもならない。

 

 蝉も最期の日には歌えなくなるものだろうか。ギターケースを担ぎながらそんなことを考えた。

 

 

 

 ♦

 

 

「休憩してみてもいいんじゃない?」

「ギターを弾かない日を作るということ?」

「うん。それでまた自然と弾きたくなったときには、全部戻ってたりして」

 

 夏の間、何度か丸山さんの家にお呼ばれしていた。家に居づらい私の現状を知っていて、ついでに学校がないから会える頻度が下がることを危惧した丸山さんの提案に私が甘えている形だ。

 

「それはそれで恐ろしいわ。全く弾けなくなってしまいそうで」

「大丈夫だと思うけどなぁ。紗夜ちゃんは音楽に生きてるって感じがするし」

 

 ギターを弾かずにいると、私の中の釣り合いが崩れてしまいそうな気がする。なまじ今の私は、ギター以外の逃避先を見つけてしまっていて、そちらに全てを委ねてしまいかねない。

 

 甘い香りがする部屋。丸山さんの私物は可愛らしいものが多くて、彼女の質感が滲み出ているような気がした。ピンクのクッションとか、花柄のブランケットとか、ベージュのローテーブルとか。ナチュラルカラーとパステルカラーがほとんどを占めていて、この中に丸山さんが隠れていても気付かなさそうだと思った。

 

 つけたばかりのクーラーがガタガタ音を立てる。差し出されたクッションに座って、ベッドに背中を預ける。麦茶が入ったグラスが、コースターの上でカランと音を立てた。

 

「叫んでいるだけなのよ。誰もいないトイレで嗚咽するように、もしくは河原で一人声を上げて不満を口にしてみるように。でも今は、それを咎められてしまったような感じがする」

 

 アームカバー越しに、左手首の傷跡を撫でた。新しく横線が増えることはないけれど、癒えてくれることもない。丸山さんが買ってくる薬を無下にすることもできなくて一応塗ってはいるものの、これは果たして消えるものなのだろうか。

 

「泣き方が分からなくなっちゃった?」

「そうかもしれない」

 

 左手を絡め取られる。私よりも少し小さな右手が、ぎゅっと指先を包み込んだ。

 

 溺れるような心地で、私は水面を探した。冷たい夜のプールのようだった。泳げるはずだと思ったのに、思わぬ冷たさに身震いをして、肺の中の空気を吐き出してしまった。暗がりに水面が分からなくなって、どちらへ泳げばいいのかも滲む視界では捉えられない。水をかいても白い泡が立ち上るばかりで、進んでいるような心地がしなかった。時々プールの底を蹴るのを励みにはしてみるけれど、やはり滑って力が入らない。

 

 もがいている。息が出来ない人生で、水面の方向まで見失ってしまった。

 

「私は、紗夜ちゃんの心に的確なアドバイスなんてできないけど……それでも、受け止めて受け入れることはできるよ」

 

 それが、恐ろしい。

 全てを許されてしまえば、もう抜け出せなくなってしまうような予感。それから、私のアイデンティティを確立している全てがなくなってしまうことへの恐れ。

 

 そして、嫌われたくないという感情。

 

 ギターを弾くことしかできないのに、ギターの弾き方を忘れてしまった。

 息の仕方を忘れてしまうような矛盾を処理できないまま、澱のように積もった不快感に囚われていく。

 

「……私にはギターしかないのに」

「私がいるよ!」

「……ふふ、そうね。ごめんなさい」

 

 不貞腐れた振りをする丸山さんが少し面白くて、息がこぼれた。むぅ、とむくれた表情のまま、足を崩して座る私の膝を跨ぐように丸山さんが私の正面に移動してくる。左手を繋いだままカーペットに押し付けられて、私たちは至近距離で見つめあった。

 

「私は紗夜ちゃんのことが好きだから、ちょっとはずるい事を考えたよ」

「……たとえば?」

「ギターに注ぐ熱を、もうちょっとこっちに分けてくれたら嬉しいな、とか」

 

 左手から体温が伝染る。持ち上げられた拍子にアームカバーがズレて、傷跡が露出した。私はあまりこの傷に固執したり劣等感を覚えたりはしていないのだけれど、丸山さんは傷跡に触れるのが好きらしかった。

 普段は隠している私の弱さの名残り、という意味では確かに、丸山さんにしか見せることを許さない私の心そのものではある。

 

「距離を置くことも大事だとは思ってるよ。歯車がズレたままギターを弾き続けるのは、きっとよくないと思うから」

「でも、弱みにはつけ込むのね」

「うぅ……」

 

 手首に触れる唇。上目遣いでこちらを窺う瞳が、どうにもお預けを食らったスピカみたい。

 人差し指を耳元に寄せれば、真っ赤になった耳たぶが火傷しそうな程に火照っていた。

 

 こんなにもドキドキするのは、これまでの日々で丸山さんに私も絆されているから。

 決して逃避の感情ではないと思いたい。ギターの代わりではなく、真っ当に人を信じられるのだと、誰かを愛せるのだと思いたい。

 

 心が触れ合う。距離がゼロになって、桜色の瞳の中に私が反射する。

 

「嫌だったら、その、拒んでもいいんだよ……?」

「……確かにズルいわね。最後のひと押しを私に委ねるのは」

 

 唇が触れる。感情が流れ込んで溶け合う。

 

 いい加減にこれを恋と名付けても良いような、まだ保留しておきたいような。

 溺れてしまえたらいい、と思うのに、こんな時でも私の心は振り切れなかった。それが少し、寂しい。

 

 

 

 

 

 ♦

 

 

 結局、ギターに触れないという選択肢は選べなかった。独りでいる時はいつもすがってしまう。

 

 湊さんのフラストレーションが溜まっているような感覚はあった。『SWEET MUSIC SHOWER』での敗北感、オーディションでの落選、私のスランプ、音楽に対する意識の違い。その他、細かく湊さんを苛立たせそうな事象はいくつか転がっていて、けれど私にはどうにもならないから傍観するしかなかった。

 

 耳に残る演奏を。観客を惹きつける音を。

 そうは言っても、技術は前提だ。まずは練習するしかない。各々の音楽性を最優先事項に持ってくることはできない。

 

 湊さんが言う()()がなんなのか。

 音楽性であり、個性であり、癖であり、主張であり、そして歌なのだろうと思っている。

 

 湊さんは、他人に求めるそれを、自らで備えていた。

 私は湊さんのことをあまり知らないから決めつけきったようなことは言えないが、湊さんの音楽の根幹は、強さへの渇望に見える。

 弱さを切り捨て、心の贅肉を削ぎ落とし、折られても立ち上がる。高みを目指し、羽ばたくことを至上とする精神性が、歌詞にも歌にも表れている。

 

 伸びやかで、力強く、ブレがない歌唱。あくまで弱さには寄り添わない立ち姿。

 

 それが湊さんの音楽なのだろう。

 

 じゃあ、他の三人はと言うと、あまり表出しない。湊さんの歌詞や曲に殉じているのもあると思うし、求められる技術水準に追いつくことを優先しているというのもあるだろう。当然ながら演奏に余裕がなければ、まともに表現なんてできようはずもない。

 

 そんなことを考えていたのは、演奏に余裕があったから。

 

 朝から頭痛が酷かった。効き目のない薬を気休めで服用してステージに立つも、音楽は私にその輝きを見せてくれない。

 宇田川さんのドラムに合わせてストローク。また私が楽器隊の先頭に立てば何か変わるだろうか。ピッキングも、運指も、リズム感さえも変わっていないはずなのに、どうして私の演奏はこんなにも違えてしまうのだろう。

 

 無意識下で感情に合わせて音を調節していたとでもいうのだろうか。ビブラートの間隔、和音のほんの僅かなニュアンスの違い、ピッキングのゆらぎ。あるとすればそんなところだろうけれど、元の姿が分からないのだから再現できるはずもない。

 スコア通りに弾いているだけとはいえ、そこには手癖も多分に入り込んでいるというのに、私の演奏は無機質に聴こえる。

 

 私が無機質に聴こえるように演奏している? 

 

 ぼんやりと浮かんだそんな思考を、すぐに打ち消した。まさか、そんなに器用なわけはない。無意識な自縄自縛で苦しんでいるのだとしたら馬鹿みたいじゃないか、とかぶりを振る。

 

 いつも通り、熱狂する観客たちを視界に捉える。湊さんの危惧は正しいのだろうか。今の演奏の方向性の方が、彼女の夢には近道のはずだ。オーディエンスだって楽しんでいる。ならこちらの方が、湊さんにとっては正しい道のはずだ。

 

 ……いや、視野狭窄に陥っている。

 音楽に正しいも正しくないも存在しない。少し前の私ならそう言っただろうし、実際その通りであるはずだ。

 答えを求めるあまりに正しさの偶像のようなものを作り出してしまっている。

 

 加速するオルタネイトピッキング。劈くシンバルの炸裂音を引き連れて、ピークに差しかかる。

 

 ──耳鳴り。

 

 ギターを弾いている途中に耳鳴りがなったことは今までに無くて、それ故に虚をつかれた。

 

 頭痛と相まって演奏が遠くなる。

 右目の奥が熱を持ったように痛んで、平衡感覚を瞬間、喪った。

 

 立ちくらみのように数歩ふらついて、左へ縒れる。

 コードを踏まなくて良かった、と思う間もなく光が遠ざかる。

 

 ──耳鳴り。

 

 何も聞こえない。眩む視界に今井さんが映った。

 ……どこを弾いていたっけ。

 

 居場所を見失ったまま、手が止まる。

 

 音が聞こえない。

 

 ズレているのか弾けているのか分からなくて、思わず止まってしまった。

 

 ──耳鳴り。

 

 復帰しようにも、今何処をやっているのかが分からない。

 湊さんがちらりと振り向いて、すぐにフロアの方へと向き直った。演奏は続いているらしい。

 

 赤い水滴が一粒、床にぐちゃりと潰れてみせた。

 ぼとぼとと滴る音がやけに鮮明に聴こえて、音が戻ってくる。

 

 乱暴に拭った左手が赤に染まった。口元まで垂れた鉄の味を努めて意識から排除して、ピックを握り直す。頭痛を助長するイヤモニを外して、床に取り落とした。血を入れないように鼻呼吸をしたいのに、鼻が塞がっているから浅い口呼吸になる。

 

 宇田川さんの16ビートに乗り直す。

 間奏と2番のAメロが抜けてしまったらしい。サビとソロでなくて良かったと思うべきか。

 丸山さんが来てなくて良かった、と最初に思うあたり、私も大概毒されている。

 

 衣装が汚れてしまったから、白金さんに謝らなくては。

 演奏を止めてしまったことも──これは、誰に謝ればいいのだろう。ぐるぐると回る思考。モノクロのスコアが踊る。左手がベタベタしてやりにくい。次の曲に入る前に一度拭かせてもらおう。

 

 眩む。

 足元がふらついて、力が抜けそうになる。

 

 目を瞑る。

 なんとか1曲を走り抜けた途端、今井さんが走り寄って来た。

 演奏を止めてまでこちらに来ようとしていたのを視線で制した意味はあったかもしれない、と呑気にも考えた。

 

「紗夜っ、血が──」

「演奏を止めてしまってすみません。手だけ拭きたいのですが、汚れてもいいタオルかウェットティッシュはありませんか」

「手とかそんなこと言ってる場合じゃないって! 保健室……、じゃなくて、ああもう、どうしてライブ続ける気なの!」

「鼻血くらい大したことではないでしょう」

「ふらついてたのも見たし、こんなに血塗れになって何言ってるの?」

 

 ステージ袖に押し出されて、丸椅子に無理やり座らされる。宇田川さんが水を持ってきてくれて、からからに乾いた鉄の味を喉の奥に流し込んだ。ティッシュを添えて、鼻を押さえる。

 

「体調悪かったんじゃないの? そういえば薬飲んでたよね」

「アレはただの頭痛薬です。……もう大丈夫です。黒いマスクなんかがあるといいんですが」

「いいから、ライブは中止! まりなさんが部屋貸してくれるらしいから、落ち着いたら移動するよ」

 

 湊さんがいたたまれなさそうに立ち尽くしていた。私よりも血色を悪くした白金さんに申し訳ない気持ちになりながら、いつになく押しが強い今井さんに押し切られる。宇田川さんにギターを取り上げられて、深くため息を吐いた。

 

「目も充血してるし、顔色も悪いし、これ病院に連れていった方がいいんじゃ──」

「んー、一旦休ませてからかな。その時は私が車出すよ。……ライブの方はあっちの彼と話し合ってみて。今回は全部任せてるから。中止するにも紗夜ちゃん抜きで続行するにも」

 

 慌ただしく戻ってきた月島さんに連れられて事務室の方へと移動する。

 大袈裟だな、と思っていたけれど、客からすると水を差された形になるのか。原因を一旦排除するのは合理的な判断かもしれない。

 仕切り直すにしても湊さんなら上手くやるだろうし、私が戻るのを今井さんは許してくれなさそうだから、あとはもう任せてしまおう。

 

 それと、Roseliaのメンバーを遠ざけてくれたのは少し助かった。過剰に心配されるのは苦痛だし、病院やら家に送り届けるやらといった話題に触れるとどうしても、話したくないことまで踏み込まれかねない。

 

 事務室というか仮眠室があって、折り畳みのパイプベッドに私は押し込まれた。

 

「……それ、いつも通りなの?」

「半年に1回くらいの感じです。……今回は、タイミングが悪かったですが」

「はぁ。……大人としては見過ごせないんだけどなぁ〜。もどかしいよ」

「……ありがとうございます」

 

 貧血と頭痛と、ストレス性の諸々。酷かった頃よりはマシだし、最近の中では結構重症のような。

 流石にクビにされるかもしれないな、と少し落ち込む。失態続きだ。私だったら、まともにギターを弾けないギタリストは要らない。

 

「……普段は月島さんが使ってるんですか、ここ」

「たまにね。……嫌だった?」

「いえ、別にそういうわけでは」

 

 10分くらいで血が止まった。白と赤に染まったゴミ箱に、よくもまあという感想が漏れる。

 病院に行ったり、家に連れていかれる方が面倒になっただろうから、ただ休ませてくれる月島さんが有難かった。

 

「……ギターを弾いているときは、あまり酷くはならないと思っていたんですが」

「最近調子悪そうだもんね」

「思うように弾けなくなりました。何を弾いても空虚に聴こえる」

 

 ペットボトルのスポーツ飲料を手渡された。よく冷えたそれをタオルでひと巻きして、額と首元に押し付ける。一向に平常に戻らない脈拍が、体調不良を訴えていた。

 

 これから先、同じようなことが起こっては困る。耳鳴りには慣れきっているけれど、音が聞こえなくなれば演奏はズレるし、和を乱す。完璧にリズムを刻めていれば問題ないのかもしれないが、今回のように不調が波となって押し寄せてしまえば完璧を保つことは難しいだろう。

 

「私はね、成長痛だと思うな」

「成長痛?」

「スランプもそう悪いもんじゃないってこと」

「年の功ですか」

「追い出しちゃうぞこんにゃろう。……ああそれか、丸山ちゃんを呼んでみようか」

「連絡先、知ってるんですか」

「そりゃあもちろん」

 

 丸山さんには個人情報の扱いに気をつけるように言っておこう。

 寝られるなら寝ちゃいなよ、と月島さんが言ってくれるのに、「不眠症なんです」と返すと特大のため息。

 

 成長痛、という言葉を心の中で反芻する。言いたいことは分かるような、分からないような。

 

 自分が寝ている横に誰かが座っていることが、なんだか落ち着かない。

 

「変化は痛いものなんだよ。それがたとえ良い成長でもね」

「……分かりません」

「そのうちわかるよ。……うーん、違う感情を奏でてみたりとか、どうかな。それこそ、恋とか」

 

 ニヤニヤと笑みを隠さない月島さんに、決して先の軽口を謝らないことを決めて、ペットボトルのキャップを捻った。こういうところが、微妙に尊敬できない。

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