次は紗夜視点の予定です。
字には性格が出る、という話を、小学校の担任がよくしていた。
もともとは国語の担当らしく、教室の後ろには図書館のものとは別に私物の児童書が置いてあったのを思い出す。
「紗夜ちゃんって、字が綺麗だよね」
「幼い頃に硬筆教室に通っていたから、その名残りね。あまり癖が付かなかったんでしょう」
高校に入ってから、露骨に勉強が難しくなった。メジャーデビューが決まって、これから芸能界で生きていくことができるのなら大学進学は必須ではなくなる。とはいえ今の時点で勉強を放り投げて選択肢を狭める必要もないだろうから、結局は勉強も頑張るしかない。
早速躓いている数学を見て見ぬふりする訳にもいかず、紗夜ちゃんに泣きついた。
勉強ができそう、という偏見に基づいての救援要請だったけど、案の定紗夜ちゃんは勉強がよくできた。授業中に当てられてもいつも澱みなく答えているし、そもそもエリート校出身だ。
「丸山さんは丸っこい字ね。イメージ通りというか……苗字の通り?」
「字には性格が出るらしいよ」
「多少は読み取れるものもあるでしょうね。手相や血液型占いよりは頷けるかも」
ノートに書き記された数式を眺めながら、文字についての話題を振ってみた。一区切り着いたところだったからか、特に嫌な顔もせず息抜きに付き合ってくれる。
紗夜ちゃんの字は、少しこじんまりとしていて、活字かと思うくらいに丁寧だ。
「私の字の特徴……小さい事かしら。昔はよく注意された記憶があるわ。今でこそ意識して大きく書いているつもりだけれど」
「字が丁寧だから、几帳面なんだろうな、とか。私は思ったりするんだけど……」
「字が小さいのは、自分に自信がないからかしらね。少なくとも自信家ではないから」
「謙虚なのは美徳だよ!」
「……そうね、ありがとう」
恐らくは本心だろう自虐まじりの言葉に、それこそが美徳だと返す。実際に、心の底からそう思っていた。
能力があって自信も備えている人には、カリスマのような何かを見いだせることがある。私も芸能界の端っこに足を踏み入れているわけで、そういう人は沢山見てきたように思う。
じゃあ能力があって謙虚な人は、と言うと……安心する? 倫理観を信頼できるというか、人間としての規範を見せられているような心地にさえなる。
「長所も短所も、特定の条件下における指標でしかないと思うの。……つまらない持論だけれど」
「長所は短所にもなり得るし、その逆も、ってこと?」
「そうね。丸山さんが肯定してくれたように、私の謙虚さは美徳でしょう。同時にこの卑屈さは、リーダーシップを発揮する場面だとか、能力を求められる場面では短所でもある。……難しいところよね。模範や正解があれば、それを目指すこともできるのに」
紗夜ちゃんの指先でくるくるとペンが踊る。イメージにそぐわないような気がして、ちょっとドキリとした。紗夜ちゃんもそういうことするんだ、みたいな。
ペン回しをかっこいいと思う時期もあったけれど、現実には退屈な授業中の手慰みでしかない。むしろ不真面目な印象を強くする特技だとも思っていたから、意外だった。
もちろん私はできない。真面目だからじゃなくて、不器用だから。
「それで、朝から悩ましげな表情をしている理由を聞いてもいいのかしら」
「そんな顔、してた?」
「ええ。……守秘義務に引っかかると言うのなら、もちろん私なんかに話してはいけないけれど。聞いてもいい範囲でなら、愚痴を聞くくらいのことはできるわ」
覗き込まれた瞳に純然たる心配の色が宿っているのを見てとって、僅かに安堵する。日菜ちゃんは私と紗夜ちゃんの仲を「一方通行じゃない」と言ったけれど、そうは言ったって私が向けている感情の方がよほど大きい気がするから、紗夜ちゃんからの感情が返ってくると嬉しくなる。
「えっと、デビューが決まったんだけどね。それで少しブルーになってるというか、ナーバスになってるというか……」
「それは──いえ、まずはおめでとう。応援するというほど長い期間を見てきたわけではないけれど、嬉しく感じるものね」
土曜日に、サポートの人に会った。私と同い歳の大和麻弥ちゃん。事務所で働いているスタジオミュージシャンらしく、ドラムの腕は一流なのだとか。私にその巧拙が理解できているとは言い難いけれど、日菜ちゃんが楽しそうにしていたから本当に上手いんだと思う。
機材にも詳しいらしく、そちらにも日菜ちゃんが食い付いていた。今度ライブの機材を見学しに行くらしい。千聖ちゃんがいかにも疲れたような表情で2人を見ていたことを思い出した。
それから、日曜日には衣装のフィッティングをして、千聖ちゃんが麻弥ちゃんに勧誘をかけた。サポートじゃなくて正式なメンバーとしてやろう、ということらしい。
メガネを外して軽く髪をセットした麻弥ちゃんは確かにアイドルとしてなんら不足のない美人さんだったし、私としても話していて良い人だとわかるから大歓迎だった。
衣装を着てみて、宣材写真も更新して、Pastel*Palettesのホームページができて。メンバーが揃って、来週にはイベント全体の通し練習がある。そして再来週にはもう、私たちはデビューすることになっている。
行き場のない不安が胸を圧迫して、夜のベッドの上で感じる焦燥が日に日に大きくなる。
「ありがとう。……でも、事務所のイベントに混ぜてもらう形でデビューすることになったから、その、チケットはもう捌けちゃってて……紗夜ちゃんとの約束、守れないかも……」
「いいのよ別に。1回きりのライブでもないでしょう。親御さんを招待することはできたの?」
「あ、それは何とか……」
「次があるとしたら……シングルのリリースイベントとか、オープニングアクトとかになるのかしら。楽しみにしているから、デビュタントも頑張って」
紗夜ちゃんを誘えなかったのが、心残りだった。
事務所の周年イベントでのお披露目だから、既にチケットはほとんど売れてしまっている。私たちが主役のイベントというわけでもないから融通もあまり効かないし、むしろ親族用の招待チケットを貰えただけラッキーな方らしい。
と、そんなことを考えていたら、今までなんで気が付かなかったんだろうと思うくらいに単純なことに気が付いた。
「……あ、そういえば紗夜ちゃんも家族用のチケット使えるかも!」
「丸山さんの親族になった覚えはないのだけど」
「そうじゃなくて、日菜ちゃん! 私ね、日菜ちゃんと同じグループなの」
「……日菜?」
感情の変化を空気という言葉で表すことがあるけれど、今日ほどそれを肌で感じた日もないと思う。日菜ちゃんの名前を出した瞬間、紗夜ちゃんから感情の色が一瞬、抜け落ちた。
ああこれは失敗したやつだ、と後悔するもあとの祭り。すぐに表情を取り繕った紗夜ちゃんに何を言うこともできず、言葉に詰まったまま。呼吸が苦しくなるくらいの感情の圧を受ける。
「丸山さんに、もし、これからも私と仲良くしてくれるつもりがあるのなら……いえ、これも言い訳がましいわね。……彼女の話はしないでくれる? 貴方のことまで嫌いたくないの」
「えっと、ごめん……」
「謝る必要はないわ。特に悪いことなんてしていないでしょう。むしろ謝るべきは私の方」
気を遣わせてごめんなさい、と続けたあと、お手洗いに行くと言って席を立った紗夜ちゃんは、去り際に私の肩を撫でていった。
やらかした。なんとなくわかっていたのに、日菜ちゃんの空気に騙された。これも言い訳かな。
話題に出されるのも嫌なくらいに姉妹仲が悪い? でも、日菜ちゃんは紗夜ちゃんのことを嫌ってはいないように見えた。だとしたら、紗夜ちゃんが日菜ちゃんを一方的に避けているだけ? 日菜ちゃんが私に感情を見せていないだけの可能性もあるから、判断し難い。
一応千聖ちゃんにも注意喚起しておいた方が良いかな。千聖ちゃんなら私と違って事前に察せそうではあるけれど、万が一ということもあるし。
日菜ちゃんが紗夜ちゃんのことを「おねーちゃん」と呼ぶのも、少し不思議だなと思っていた。私の知り合いの双子はみんな、姉妹や兄弟の序列なしにお互いを名前で呼ぶ。歪な姉妹仲の示唆だったのかもしれないし、そうは言っても分からないよ、とも思う。見えてる地雷だって千聖ちゃんなら言うかな。そんなに意地悪じゃないか。
……でも、気になる。
だって、紗夜ちゃんは良い人だ。冷静だし、理知的だし、面倒見が良い。一方的に人を嫌うようには思えない。
じゃあ、日菜ちゃんが何かをやらかしたんだろうか。それは無い、と断言できるほど私は日菜ちゃんを知らないけれど、それはないと思いたい。
日菜ちゃんの苗字が変わっていたことと、関係があるかもしれない。つまりは離婚か再婚か。
「うーん、踏み込めないよ……」
開かれっぱなしのノートを見つめる。丁寧で、少し小さめの文字。
悩み事が増えたような。
家族のいざこざに赤の他人が踏み込めるはずもない。けれど、私は日菜ちゃんともこれから仲良くなっていきたいと思っているし、紗夜ちゃんとももっと仲良くしたい。
両方と関わりのある私が、2人の仲が改善されることを望むのは変だろうか。気まずい思いをしたくないという自己防衛と、姉妹仲がよくないのは不健全だという、決めつけにも似た感情。
「さて、続きをやりましょうか」
5分も経たずに戻ってきた紗夜ちゃんが、なんでもなさそうに席に着いた。私もこれ以上何か言葉をかけることができなくて、曖昧に返事をする。
「好意的にとらえるのなら、紗夜ちゃんにとって彩ちゃんがそれくらい大切だったということでしょう」
「え?」
「だって、あの二人は同じ中学にいたんでしょう? 散々話題には出てきたはずだし、今更それを受け流すすべを紗夜ちゃんが備えていないとも思えない。……紗夜ちゃんが日菜ちゃんを嫌っている、という前提の話だけれど」
向かう先も、レッスンの時間も同じなのだから、必然的に帰りは千聖ちゃんと同じ道を歩くことになる。パーソナルな情報を広めるのはどうかと思いつつ、千聖ちゃんなら大丈夫だろうとか関係性を円滑にするためとか、言い訳を連ねて千聖ちゃんに話してみた。
「貴方と親しいままでいたかったからあえて予防線を引いたんでしょう。私だったら、面倒な人間関係はさっさと薄めてしまうかも」
「掘り下げたらまずいかな?」
「……暴きたいの?」
「日菜ちゃんのことに触れないまま紗夜ちゃんと仲良くし続けるのは難しいよ。パスパレの話もできないし、だんだん気まずくなるのは目に見えてるし……」
「友人とグループメンバーを一度に失くすかもしれないとわかっているのよね?」
「覚悟があるわけじゃないよ。だから迷ってるんだし」
夕方の時間も随分と伸びた。まだ夕焼けが空に色濃く残っていて、少しだけ励まして貰えるような心地になる。
千聖ちゃんは私の言動に呆れ顔で、どう説得したものかと考え込んでいるようだった。自分でも大概トンチキなことを言っている自覚はある。私はこんなに積極的な人間だっただろうか。デビューが決まって浮かれているのだろうか。たぶん、それもある。
「どうしてもと言うなら、日菜ちゃんにアプローチしてみた方が目があるんじゃないかしら」
「一言で突き放されそうな気がする……」
「なんでそこで弱気なのよ」
「ちょっと怖いんだもん。あんまりやる気がないのもわかってるし……」
「……そう。それが困るのよね。日菜ちゃんに気まぐれで抜けられでもすれば、私にはどうしようもない」
「だから焚きつけるってこと?」
「そこまで上手くいくとも思っていないわ。日菜ちゃんのモチベーションのことは別で考えるけれど……現時点で私たちは日菜ちゃんの事をあまり知らないでしょう? 今後彼女に接するヒントになるかもしれないし、そもそも、紗夜ちゃんにアタックできないなら選択肢はひとつしか残っていないじゃない」
打算で人が動かせたら苦労はしないわ、と呟いて、それっきり千聖ちゃんは黙ってしまった。
私をこうやって焚き付けるのは打算じゃないんだろうか、とも思ったけれど、どちらかと言うと共犯判定な気も。
交差点を渡って、事務所のエントランスへ。もうここを通る度に緊張はしない。
ごきげんよー、お疲れ様です、といつもの挨拶を交して練習が始まる。
土曜日から練習に加わった麻弥ちゃんのアドバイスのおかげか、それとも千聖ちゃんの並々ならぬ努力とセンスのおかげか、講師の人曰く見違えるほどに千聖ちゃんのベースは成長しているらしい。逆に苦戦しているのはイヴちゃんで、こればかりは鍵盤を譜面通りに叩けるようになるしかないからどうにもならないという話だった。
私たちの歌のトラッキング……レコーディングは来週で、それまでにボーカルレッスンが何度か挟まれる。私個人の歌はというといつも通りで、カタツムリのごとくゆっくりと坂道を上っている。
「日菜ちゃん、お話があります」
レッスンが終わったあと、思い切って日菜ちゃんに声をかけた。千聖ちゃんの後押しもあったけれど、Pastel*Palettesのためにという思いはほとんどない。ここ数日の日菜ちゃんは麻弥ちゃんとのセッションをそれなりに楽しんでいるらしく、あまり退屈した様子は見せていないから。
それよりも、個人的な興味と、友情への恃みが私を動かしていた。
「いーよ、どうせおねーちゃんのことでしょ。少しだけ教えてあげる」
あっけらかんと日菜ちゃんは答えた。みんながいるところで話をするつもりは無いのか、そのまま部屋を出ていく。
慌ててその後をついていくと、つまらなさそうな表情の日菜ちゃんが待っている。
「彩ちゃんももの好きだなぁ」
「どうして? 友達の助けになりたいとか、苦しみの原因を知りたいっていうのは普通の事じゃない?」
「そうなの? まあ、いいや。知らない方が幸せだと思うけどね」
「紗夜ちゃんにとって?」
「どっちも」
適当にフラフラと歩いていたかと思うと、人のいないレストルームに入る。すぐ終わるしここでいいか、とスツールに腰掛けて、日菜ちゃんは双眸を細めた。
「虐められてるんだよ」
「紗夜ちゃんが? それって月ノ森で──」
「ううん、家庭で。精神的虐待ってやつ?」
まるで他人事のように、日菜ちゃんが軽く言った。
精神的虐待。反芻してもなお飲み込めない言葉の重みに私が苦慮しているのをよそに、日菜ちゃんの言葉は続く。
「名前変わったって言ったじゃん? 芳野は前の父親の名前で、氷川は今の父親の名前。母親が前の父親のこと恨んでてさ〜、おねーちゃんは目元から父親似らしいから。理不尽だよね」
それだけだよ、と乾いた笑い。
具体的な内容を言うつもりは無いらしかった。知ってどうするのという話だし、聞いたって辛い思いをするだけだろうとわかっているけれど、一応はそれくらいの覚悟で向き合っているつもりなのに。
「久しぶりにできた友達に知られたくなかっただろうなぁ」
「学校なら親の影響は薄いんじゃないの? 紗夜ちゃんなら友達くらいたくさんできそうだけど……」
「んー、一応、月ノ森の子って賢いんだよ。制服がよれてるとか、日用品の質とか、家族も関わる行事とかで、おねーちゃんがあたしと差をつけられてることだって容易に察するの。憐れみや嘲笑を向けられてまで友達になりたくはないでしょ」
お前はどうなんだ、と問われているような気さえした。憐れみを向けてしまえば、対等な友達ではいられない。実感はないけれど、その理屈はなんとなく分かる。
「……日菜ちゃんは、紗夜ちゃんのことどう思ってるの?」
「おねーちゃんのあたしへの態度で分からない?」
話は終わり、とばかりに去っていく背中を見送った。
これ以上聞きたいならおねーちゃんから聞けば? という無理難題。知られてしまったら諦めもつくかも、という日菜ちゃんの補足は、たぶん善意の色を纏ってはいなかった。
「赤の他人がどうやっておねーちゃんを助けて“あげる”のか、楽しみにしてるね」