──耳鳴り。
「氷川とやってると惨めになるよ」
「……明日のライブはどうするの?」
「やめる」
「プロデビューの目標は?」
「俺達には無理だ。……お前はやれるかもな」
「……そう。じゃあ、さようなら」
何度目かの解散通告。一年近く居座ったこのバンドも結局か、と諦念を肺底から吐き出す。私が年下だからどう、とか、プライドなんかに邪魔されて、私をバンドのギターに居座らせることが耐えきれなくなったらしい。
15年ぽっちしか生きていない小娘に折られるプライドで、よくもまあ青天井のプロの世界なんて夢見れたものだと思うが、もうどうだっていい。
あと2週間早ければキリが良かったのに、と文句を言いつつ、今後の予定が空白になったことで、また新しいバンドを探さなければならないという現実にげんなりする。
──耳鳴り。
ああ、ギターが弾きたい。
すっかり消沈して、ギターケースを手に夕暮れの街を彷徨う。家に帰るまでの無為な時間稼ぎが途中で虚しくなって、1時間ほどで踵を返した。ぐちゃぐちゃに踏みにじられた桜のかけらを、ローファーの底で踏みつけて歩く。
家の玄関前に着くと、扉の向こうから駆け寄ってくる爪の音が聴こえる。玄関を開けると、黒白の毛並みのボーダーコリーがおすわりの姿勢で待ち構えている。
「……ただいま。散歩は少し待ってね」
自室に戻って私服に着替える。安物のスキニーとパーカー。女子高生としてはどうかと思うが、ファッションにかけられるお金は無い。
洗濯物をカゴに放り込んで、キッチンへ。朝食の分の洗い物を済ませたら、夕食の支度。冷蔵庫にある分の食材は使っていいことになっている。
コンロの脇に置いてある灰皿の中身を生ゴミの袋へ。
少し早めのいんげんを豚コマ肉と炒めて1品、ワンコインサラダと、豆腐とわかめの味噌汁、惣菜のアジの南蛮漬けで夕食分には足りる。味噌汁に味噌をとかした後に火を止めて、夕食の準備はおしまい。それから浴槽を磨いて、ようやく一段落。
リードと散歩用の袋、足を拭くためのタオルを用意して、ずっとあとをついて来る末っ子に声を掛ける。
「おまたせ、行きましょう」
赤い首輪にリードをつけて、私も黒いスニーカーに足を突っ込む。履き潰される1歩手前の柔らかさに、そろそろ買い換えなければという思考がよぎった。
再び夕暮れの街に繰り出す。歩様を私の速度に合わせた彼が一歩後ろを歩くのを、短く保ったリードの感触で受け止めながら、頻繁に目を合わせる。散歩に連れていくのも、食事を用意するのも、シャンプーをするのも病院に連れていくのも私なのに、一番懐いているのは私じゃないのが憎らしい。おやつをくれる人間が1番に決まっているものね、と頭を撫でれば、何も分かっていなさそうな顔で蒲公英の匂いを嗅いでいる。
──耳鳴り。
いつもの散歩コース。ジョギングに勤しむスポーツウェアの男女とすれ違いながら花咲川沿いの堤防へ。名前も知らない低木から白く小さな花が生えていた。
ここは桜の名所だったことから花咲川と改められたそうだけれど、桜が終わってしまえば緑に染まったただの河川敷だ。あれほどひしめいていた花見客もほとんど居ない。
スピカ、と名前を呼べば、上目遣いでこちらを向く。
「貴方といるのもあと3年ね。……ちゃんと気を遣って貰えるといいのだけど」
牧羊犬や猟犬をルーツにする犬種に必要な運動量は凄まじい。長時間の散歩と、ドッグランや公園に通って思い切り走り回らせる時間と、食事の管理と。賢いから躾は容易だけれど、こちらが誤ると手が付けられない暴君に育つ可能性も秘めている。幸い今は上手くいっているけれど、私が家を去ったらどうなるだろう。それだけが少し心配だった。
2時間ほど連れ回してから家に戻ると、とっくに夜8時を回って家人が揃っている。玄関で待たせていたスピカの足を拭いてから廊下にあげて、リードから解放する。
リビングへ入っていく背中を尻目に、3人が夕食を摂っているのを確認して脱衣所へ。洗濯機のスイッチを押してから、手早くシャワーを浴びる。髪を乾かすのに時間がかかるから、入浴して身体をやすめるよりもとにかく身を清めることを優先している。
無駄に伸びた髪をドライヤーで乾かしてすぐに自室に引っ込む。高校に入ってからはほとんど課題が出なくなったから助かっていた。
耳栓を挿して生活音をシャットアウトする。相も変わらず金属音のような耳鳴りは鳴りっぱなしで、逃げたくてたまらなくなるけれど、代わりの居場所がある訳でもない。
ぼーっと時間を潰す。ギターは弾けないけれど、左手の運指の練習をしたり、ストレッチをしたり、読書をしたり、音楽を聴いたり。日によってやることはまちまちだ。最近は専ら、スコアを読み込んだり、音楽関係のことばかりしている。
夕方に食べ損ねたら、家人が寝室に引っ込むまでは夕食がとれない。月曜日だから早く済むだろうと当たりをつけて、23時頃に耳栓を外した。乾燥まで終わった洗濯物を畳んで片付け、灯りの消えたダイニングに移動する。
残り物を温め直して食べる。ご飯がなくなっていたから、先に米を研いで明日の分を炊いておく。
──耳鳴り。
途端に味がしなくなった夕食を飲み込む。どうせ知っている味しかしない。
耳栓を付け直した。4人分の洗い物を済ませて、薄暗い廊下を自室へ戻る。
「おねーちゃん……?」
──嗚呼、煩わしい耳鳴り。
どうせ眠れないから、睡眠改善薬を飲み込む。本当は睡眠導入剤が欲しいけれど、不眠で病院にかかるなんて許してくれそうにないから仕方がない。
空っぽの心を抱いて、ベッドに蹲った。
朝の陽射しは憂鬱の始まり。薬を飲んだ翌日の倦怠感と目眩に揺られながら、苛立ち混じりの起床。
スピカが起き出してくれば朝の散歩に行くし、行く気が無いなら朝はフリーになる。顔を洗って、朝食にパンを焼いて、歯を磨く。今日はどうやら行く気がないらしいので、時間にかなり余裕があった。
とはいえ朝はやれることが限られている。夕食の用意だけしておいて、いつもよりも少し早く家を出た。
ほとんど人がいない校舎に入って、教室に荷物を置く。
月ノ森ほど広くも綺麗でもないけれど、花咲川も大概大きな学校だ。普段は立ち寄らない棟を歩いてみて、部活の募集ポスターなんかを見る度に部活をやっておけばよかったかと少し後悔する。とはいえ、今は難しいだろう。帰りが遅くなって家事が滞ろうものなら何を言われるか分からない。
武道場にはさすがに入れなかった。廊下の突き当たりにある扉のノブを引っ張ってみて、無為なことをしたと引き返す。
……イヤホンを忘れた。
昔、耳鳴りを打ち消すためにイヤホンを使っていたことがあった。結局、耳鳴りがイヤーワームに変わってしまって、好きだった曲が嫌いな曲になってしまう結果でオチがついたが、それ以来あまり頻繁にイヤホンを使わないようにしている。
そうは言っても音楽は好きだし、好みの曲を聴けば気分を入れ替えたりできるから、程々にという具合だろうか。
学校の授業は退屈だ。月ノ森よりも進度が遅い。特に数学。あちらは高校の範囲まで少し触っていたけれど、こちらは中学の復習から。内容も簡単になっているから、余計にそう感じる。
反らせた指の背でシャーペンを回す。……退屈でも、息がつまらないだけマシだった。ここでは息ができる。
消耗して生きるか、退屈に生きるか。無為なのは同じでも、後者の方が良いに決まっている。
あっという間に放課後、帰りのショートホームルームを聞き流して、クラスの全員が席を立つ。各々が部活へと赴く中、邪魔にならないように少し遅れて教室を出た。
気は進まなかったけれど、今日ライブをやる予定だったライブハウスまで足を伸ばした。バンドリーダーだった彼が諸々の謝罪は済ませているはずだから、ライブに関する用件ではなくて、次のバンドを探すため。
「次のバンド〜?」
「はい。弾ければどこでもいいので」
「私が口きけるような所は……あるにはあるけど、しばらく時間かかるかもねぇ。とりあえず掲示板に募集貼っておきなよ」
弾ければどこでもいい。技術のレベルも問わない。プロを目指していようと、臨時のギタリスト募集であろうと、なんでも。
「それと、今日スタジオ空いていたりしませんか」
「今日は埋まっちゃってるね。明日以降なら空いてるけど、どうする?」
「じゃあとりあえず明日、お願いします」
「オッケー。いつもと同じ時間でいい?」
「はい」
掲示板にはいくつかの募集が貼られている。今ちょうど良いギターの募集は無かったが、以前は何度かお世話になった。
フォーマットに合わせて連絡先やら備考を書き込んで、空いたスペースにピンで刺しておく。
スタジオが借りられそうなら、と思ったが、残念ながら埋まっていたのでそのままライブハウス「CiRCLE」をお暇する。
手持ち無沙汰でそのまま近くをさまよっていたら、たまたま映画のポスターが目についた。ほかのスタジオを当たろうかとも考え始めていたが、映画でも良いかと思い直す。小学校以来、映画館には来ていない。気分転換にはなるかもしれない。
「……紗夜ちゃん?」
「ああ、丸山さん。奇遇ね」
大して何も考えずに入った映画館で、名前を呼ばれた。振り返れば、出会って未だ2週間かそこらのクラスメイト。正確には幼稚園が一緒だったから、全くの初対面ではないけれど。
自己紹介のときに妹と仲が良かった子と名前が同じだ、と気が付いて、とはいえその程度の薄い縁をわざわざ話題に話しかけるのも変かと遠慮していた相手。丸山彩さんだった。
パステルピンクの髪にウェーブをかけて、小動物のような瞳でこちらを窺う彼女に、特に何を思うでもなく挨拶を返した。
さっきぶりだね、という切り出しから相伴に誘われて、2人で同じ映画を観ることになった。アクション色の強いハリウッド映画だ。
ポップコーンはどう、とか中学校はどう、とか部活はどう、とか取り留めのない話をしながらチケットを買って、シアターに入る。
「丸山さんは、部活には入っていないの?」
「うん。実は私、アイドルを目指してて……外部のスクールに通ってるんだ。だから部活には入ってないの」
「アイドル……凄いわね。私には想像もつかない世界」
「デビューもまだだから、本当にひよっこ未満なんだけどね。つい最近も、オーディションに落ちちゃったし」
アイドル、という話題が出て少し驚いた。イメージに合わないとかそういう話ではなく、自分の中では選択肢にも上がらないような進路、夢だったからだ。
月ノ森には役者としてデビューした同級生がいたっけ、とふと思い出す。あちらではそういう芸能活動も珍しくは無かったし、殊更にチヤホヤしたり貶したりするようなことでもない。
淡白な反応を返してしまったか、と少し反省したけれど、丸山さんはそれに何か気を悪くした風でもなく、私に質問を返してくる。
「……紗夜ちゃんは、部活に入らないの? 花女は一応、部活は強制じゃないけど……」
「弓道部が気になってはいるけれど、どうかしら。放課後に時間を使いたいから、入らないかもね」
弓道の話をして、それからバイトの話、バンドをやっているという話なんかをしている間に上映時間が近付く。何故だか1番食いつきが良かったのはバンドの話で、ギターなら弾けると言うと目をまん丸にしていた。
タイミングがタイミングだっただけに、ライブに行ってみたいという要望には「またいつか」なんて曖昧な答えを返してしまったけれど、丸山さんに興味があるのなら誘うのは吝かでは無い。
それから、幼稚園の話もついでに話題のテーブルに載せておく。もしかしたら、とは思ったが、さすがに丸山さんは私のことを覚えていなかった。芳野紗夜と名乗ったならわかったかもしれないが、そこまでは必要ないだろう。
それよりも、丸山さん自身に少し興味が湧いていた。クラスで見ている中では、人間関係の中心にいるいじられキャラタイプだな、というくらいの解像度で受け止めていたけれど、彼女はひどく素直で感情表現豊かだ。
自分の言葉が軽んじられない感覚が久方振りすぎて、麻痺しているのかもしれない。
映画そのものは、普通だった。話題性に負けない映像美と名演だったけれど、それ以上でも以下でもない。期待値通りの面白さ、というか。
基本的にストーリーが私の好みでは無いということもあるのだろう。
「挫折から立ち上がる主人公に、あまり共感できないのよね。故にこそ、そこにヒーロー性や憧れを見出したりするわけだけれども」
挫折から立ち直れていない私は、ひとりでに立ち上がる彼らがひどく眩しく、羨ましく見える。
失ったものを取り戻そうとしているわけではない。私はとうに、血の愛だとか情だとか絆だとか、そんなものを信じるのはやめた。苛立たしいのは、私には手に入らないものがいつまでも私を縛ってやまないこと。
鎖で雁字搦めにされたまま底なし沼に立たされているようなこの状況で、私はどうすることもできないのに、画面越しのヒーローはまた立ち上がる。そこには希望があって、私には無い。
「私の場合はすごく感情移入しちゃうなぁ。何度挫けそうになっても折れない姿に勇気づけられるし、私もそうなりたいって思うから」
「……そうね、アイドルはきっと、そういうものなのでしょうし」
この辺りは考え方の違いだろうか。それとも、目指すものがある丸山さんの方が前を向けているだけ?
灰色の日常を生きている人々の心に色を付けるのがアイドルなのだとしたら、私のことも救ってくれないだろうか。……なんて、世迷言だ。
感想戦でカフェに入りたいという丸山さんを宥めて、映画の話をしながら2人夜道を歩く。
「私ね、スーパーマン的なヒーローよりは、たぶんスパイダーマンみたいなヒーローが好きなんだと思うんだ。確固たる信念があって強いヒーローよりも、挫けて、折れて、失って、揺らいで、それでもなお立ち上がれるヒーローが好き」
「そうありたいと思うから?」
「うん。だって、みんなそうでしょ? ずっと強い人なんて滅多にいない。みんな失敗して、後悔して、立ち上がれる機会を探してる。私がアイドルとしてそんな人たちの導になれるとしたら、私が彼らの先を歩いて道を示す以外には無いと思うから」
随分他人本位な夢だ。アイドルになりたいのは丸山さん自身の夢なのだろうけど、そこに至るモチベーションに、見ず知らずの他人が介在する。環境が良かったのか、天性のものなのか。
芸能界で生きるのに向いているとは到底思えないけれど、突き抜けて大成するのはこういうタイプなのかもしれない、とは思った。フィクションに毒された印象だとは自覚している。
信号待ちの沈黙。交差点を突っ切っていく車の風に前髪をゆらされながら、遠ざかっていくテールランプの赤を見送る。赤と黄色に彩られた夜の街で、青信号の緑がよく映えた。
「……初めて誰かと映画を観たの」
「お邪魔だった?」
「いいえ、楽しかった」
「じゃあさ、また一緒に観に来ようよ」
映画を観ただけなのに、本当に楽しかった。ずっと塞がったままぐるぐると回り続けていた暗い心に、そっと陽が射したようにさえ感じる。私の世界が受け止められないものを、彼女が代わりに受け取って見せたような。温かな感情とか、希望とか、私の手には余る、そういうものを。
「あ、あの、もし良ければって話で──、その、紗夜ちゃんの演奏も聴いてみたいし──」
「ふふっ。いえ、嬉しい。先程もだけど、あまり誘われる経験がなかったもので、驚いてしまって。……丸山さんが忙しくないタイミングで、是非」
なぜか緊張したような様子の丸山さんと、口約束を交わす。
久しぶりに純粋なあたたかい感情に触れたような感覚。まだ友情というほどではなくても、確かに私の心には温度が残っていた。
「勉強とか、習い事ばかりで生きてきたから、あまり友人と遊んだりしたことがないの」
「それじゃあ、色んなことしてみようよ! カラオケとか、カフェでお茶したりとか……」
習い事、という自分の言葉で嫌な記憶が蘇る。親の期待に応えようと足掻いていた頃。だんだん遠ざかっていく温かい感情に焦って、もがいていた幼い日の思い出。出来損ないの自分と、完璧な妹に当たるスポットライトの明暗。
無意味だったと断ずるには私の血肉として馴染みすぎていて、けれど忘れたい過去だった。
友達と遊ぶなんてこともしてこなかったと言ったら、丸山さんは行ってみたい店の候補をいくつも挙げて見せた。大抵は甘い物のお店で、あとはアンテナショップだとか、私が知らない類の店が並んでいる。
駅について、別々のホームに別れる。また明日ね、と大袈裟に手を振った丸山さんに、やんわりと手を振り返した。いつまでも振り返っては手を振る彼女に、どういう反応を返せばよいものかわからなくて、互いが見えなくなるまでぎこちない動作を晒したに違いない。
「ええ、また明日。今日は楽しかったわ、ありがとう」
──耳鳴り。
電車に揺られて自宅への道。だんだんと重くなる足取りを誤魔化すように息を吐く。
鍵を開けて靴を脱ぐ。暗い廊下から、明るいリビングに差す3人分の影が見えた。
「ただいま」
掠れた声は、金属音に阻まれて自分の耳にさえ届かなかった。