──日菜にできることが、なぜお前にはできないの。
──お前の目が嫌いなのよ。許されるのなら潰してやりたいくらいに。
母の常套句だった。
私が額を地面に擦りつけている間は、溜飲が下がるらしい。
母の再婚の後、タダでお前を養うのは我慢がならないという母の言葉で、家事の一切は私が引き受けることになった。最初は難色を示していた義父も、楽な方に流れた。
養ってもらえるだけマシだと思うようになるまでには時間がかかったような覚えがある。私という存在が家族から欠けたぶん、犬のブリーダーから新しい家族を迎え入れて、氷川家には釣り合いが戻った。
嫌味たらしく芳野さんなどと呼ばれて、リビングへの立ち入りを禁止されたり、共に食事をすることを拒否されたりもしながら、徐々に諦めの数を積み上げていく。絶望であり、失望でもあり、自己否定の数と同じだった。
ギターに出会ったのは、中学に上がってすぐ。
耳鳴りが止まらなくなって、原因を調べた。金属音みたいな耳鳴りは、ストレスが原因で引き起こされ易いらしい。心当たりがありすぎてどうにもならなかった。病院にかかることも不可能だったから、耳鳴りによって引き起こされる不眠も含めて、ドラッグストアの市販薬で誤魔化した。
効き目が薄くなったら量を増やして。翌日まで続く眠気と吐き気に耐えながら、どうしようもなくなったら薬を変える。結局耳鳴りはどうにもならないまま、しばらく過ごしていた。
楽器を触っている時、耳鳴りが止まることに気が付いたのは、音楽の授業での事だった。私物の楽器か、音楽室のギターやピアノで班ごとに小さなコンサートをする授業。あいにく私は楽器経験なんてほとんどなかったから、余り物のギターを手にした。ピアノのコンクールで賞を取ったことがある子がピアノを、吹奏楽部員の子がフルートを選んで、数週間の練習の後に発表会。
比較的簡単な譜面のギターパートを用意してもらって、流行りの邦ロックの曲を弾いた。C G Am F/Emとか。サビはもう少し複雑だったけれど、ギターってこんなものか、と思うくらいには容易に手に馴染んだ。カノン進行って言うんだよ、と班員に教えてもらったのを、今でも覚えている。
貯金のほとんどをはたいてギターを買った。
小遣いも貰えない中で今後苦労するのは分かりきっていたけれど、この地獄から逃れられる可能性があるならどんな細い糸にだって縋り付きたかった。
家で楽器を弾くことは当然許されなかったから、専ら外で練習した。スタジオを借りるお金なんてないから、思い切り屋外だ。
それからバンドに参加して、とにかくギターを弾き倒した。耳鳴りが聞こえない、ただそれだけが救いだった。結果的に収支はプラスになったし、私のことを気に入ってお古のギターやエフェクターなんかを譲ってくれる人も現れた。
弾いて、弾いて、ひたすらに弾いて。それしか関心がなかったから、嫉妬されようと、嘲笑されようと、バンドが崩壊しようと心は動かなかった。次を探すのには少し、困ることがあったけれど。
嫉妬は……そんな感情を向けられてもどうしようもない、という気付きを得られたのは良かったかもしれない。妬むしかない弱者が悪い、というのは人生を掛けて育んできた価値観だったから、それが否定されなかったのはプラスと言えるかも。
音楽の中でしか、息ができなかった。
学生バンドは、仲が良くなると結局、音楽の道を外れる傾向にあることがわかった。練習ではなく遊びに行くことが増えて、私が他のバンドのサポートに行くだけで揉めるようになって、結果的に仲が拗れる。
上昇志向のバンドの方が、居心地は良かった。恋愛沙汰とか、将来のこととか、嫉妬とか、夢破れる絶望とか、そういうきっかけが訪れるまで好き勝手やれる。
久しぶりに、友人ができた。
アイドルを目指しているというクラスメイト。
正直なところ、アイドルというものにさしたる興味はなかった。音楽そのものは好きだから、人気の曲を聴くことはあるけれど、その程度だ。私を救ってくれるわけでもない。
それよりも、ひたむきに好意を向けてくれるのに応えたいという思いがあった。氷川日菜の姉だから、という理由でもなく、利用価値があるからでもなく、ただクラスメイトとして仲良くなりたい、私を知りたいと言ってくれるその感情に、絆されている自覚がある。
寝癖をつけたまま学校に来たり、忘れ物が多かったり、根本的にズレていたりする天然なところは直した方が良いと思うけれど。
私が自分の話をあまりしないからか、いちいち質問をするのにも悩んでいるのがおかしくて笑ってしまったり、バンド活動の方は上手くいっていないという話をしたり、勉強を教えたり、アイドルデビューが決まったら誘って欲しいと言ったり。
お互いの好きなものを教え合うこともあった。好きな曲のプレイリストの交換をした。好きな食べ物は、映画は、色は、服は、アニメは。そんな取り留めもない話も。中学校の話や、家族の話、アイドルスクールの話。丸山さんが生きている世界は温かくて、その端に触れる度、指先から温もりが伝わってくるように錯覚した。
オーディションに落ちた話や、レッスンが難しいという話、日々の愚痴さえも刺々しくはない。
私はと言えば、ほとんど話せることがなかった。家族のことなんて言えるわけがない。バンドの話も、もうとっくに解散したバンドの話を連ねたって聞き苦しいだけだろう。
スピカの写真くらいか。ドッグランで駆け回る動画を見て「これ、紗夜ちゃん捕まえられるの?」とコメントしていたのが忘れられない。……呼べば帰ってくる。
アイドル活動の方に進展があった、とソワソワしながら帰っていく背中を見送った翌週、朝から数学を教えて欲しいと言われて勉強の手伝いをしていた。
休憩のタイミングで字の綺麗さについての話題を振られて、改めて自分の書いた字を見つめてみると、まあ確かに私の悪い所がよく出ているような気がする。自分をよく見せようと外面を整えて、小さな虚栄で自己を保っている。おのれの心が弱く小さいから、字も小さくなるのだろう。丸山さんに言った通り、血液型診断よりは見えるものもあると思う。結局はバーナム効果、あるいは連想ゲームに過ぎないのだろうが。
それから、長所と短所の話をした。悩ましげな表情をしているからてっきり、芸能界で生きていくことの是非についてでも悩んでいるんじゃないかと、話題を提議したかたちだ。
「それで、朝から悩ましげな表情をしている理由を聞いてもいいのかしら」
「そんな顔、してた?」
「ええ。……守秘義務に引っかかると言うのなら、もちろん私なんかに話してはいけないけれど。聞いてもいい範囲でなら、愚痴を聞くくらいのことはできるわ」
丸山さんの瞳を覗き込んだ。桜色の瞳に映る感情は、そう深刻そうでもない。もしかして余計なお世話だったか、と思うも、まあ、愚痴を聞くくらいはという趣旨は変わらない。
「えっと、デビューが決まったんだけどね。それで少しブルーになってるというか、ナーバスになってるというか……」
「それは──いえ、まずはおめでとう。応援するというほど長い期間を見てきたわけではないけれど、嬉しく感じるものね」
まともに話すようになってから、1ヶ月も経っていない。一緒に出かけたのも2回ほどで、丸山さんの努力の跡を見たことがあるわけでもない。
けれど案外、私の胸の内に込み上げた感情は喜びだとか祝福だとか、そういう言葉で表せるような色をしていた。凄いじゃない、と言うと、丸山さんは曖昧に笑った。
……もしかして、デビューの条件が相当に悪いものなのだろうか。普段のイメージなら、褒めて褒めてと頭を差し出してきそうなくらいには緩いのに。
「ありがとう。……でも、事務所のイベントに混ぜてもらう形でデビューすることになったから、その、チケットはもう捌けちゃってて……紗夜ちゃんとの約束、守れないかも……」
「いいのよ別に。1回きりのライブでもないでしょう。親御さんを招待することはできたの?」
「あ、それは何とか……」
「次があるとしたら……シングルのリリースイベントとか、オープニングアクトとかになるのかしら。楽しみにしているから、デビュタントも頑張って」
デビューに来てもらう約束が、と言われて拍子抜けした。もちろん、残念だなという思いはあるけれど、私が行くか行かないかなんて些事だろう。また次の機会で構わないし、そこは気にしていないと伝えると、丸山さんは露骨にほっとした表情になった。
ふと思ったが、事務所の大規模なイベントでデビューできるのって結構すごいことなんじゃないだろうか。ほかの例を知らないからなんとも言えないけれど、バンドだったらそういうことはあまりないような気がする。
少し籠った空気が、誰かが開けた窓から流れていく。ガラス越しの陽気に暖められた教室に、背筋を正すような風が入り込んだ。
「……あ、そういえば紗夜ちゃんも家族用のチケット使えるかも!」
「丸山さんの親族になった覚えはないのだけど」
「そうじゃなくて、日菜ちゃん! 私ね、日菜ちゃんと同じグループなの」
「……日菜?」
──耳鳴り。
聞き間違えたかと思った。否、そうあって欲しいと願った。
どうして、こんなところにまで影が差す。
ぐらぐらと煮え立つ苛立ちと悲しみを、つとめて隔離する。無表情、無感情を装うのには慣れたはずだ。
殺せ、殺せ、感情を殺せ。途端に顔が見えなくなった丸山さんの影に、わざとらしい表情で言葉を返す。
「丸山さんに、もし、これからも私と仲良くしてくれるつもりがあるのなら……いえ、これも言い訳がましいわね。……彼女の話はしないでくれる? 貴方のことまで嫌いたくないの」
「えっと、ごめん……」
「謝る必要はないわ。特に悪いことなんてしていないでしょう。むしろ謝るべきは私の方」
精一杯の虚勢。
謝罪の言葉を残して、席を立った。彼女の肩に触れた右手が、恐ろしい程に冷たい。御手洗いに行くと言って廊下に出たものの、本当に洗面台で手を洗うだけに終わった。合間にスマホで調べてみれば、Pastel*Palettesと書かれたアイドルグループのホームページに丸山彩と氷川日菜、ついでに白鷺千聖の文字が。
Gt.の文字に苛立ちが募る。私の唯一の救いにさえ、邪魔をしに来るのか。
私の音楽にさえ。
鏡に映った私は、醜い顔をしていた。
──双子の妹が嫌いだ。
私よりも32分遅れて産まれた妹は、私が欲しいものを全て備えて世界に降り立った。
嫉妬の感情は、幼い頃からあったように思う。私よりも後に始めて、あっという間に私を抜き去っていく妹を疎む感情は、ずっと私の心の薄暗いところで燻っていた。
あやとりも、折り紙も、硬筆も、習字も、そろばんも、水泳も、弓道も、勉強も全て、私は妹よりも劣等だった。そして何よりも、私と唯一似ていない目元が、心底羨ましかった。
どうして私は愛されないのだろう。
妹よりも劣る出来損ないだから? そうかもしれないし、違うかもしれない。私の方が出来が良かったテストは、きまってビリビリに引き裂かれた。
目元が父に似ているから? どうしてそこだけは私の真似をしてくれなかったんだろう。
鍵の閉められたベランダから、カーテン越しに眺める家族の団欒が妬ましかった。
褒められて素直に笑う妹が妬ましかった。
心が傷まないわけが無い。10歳の私に突き付けられた現実は、この世界には救いなんてないという純然たる事実だった。誰も私を愛さない。愛されない人間に、生きる価値なんてない。変わらない、変われもしない今日が終わることを願って
何もかも持ち得ない私を慕う振りをする妹が、心底疎ましかった。
──妹が嫌いだ。
唯一私に向けられるあの瞳が、憎くて仕方がない。
唯一私に話しかけるあの声が、頭の中で繰り返されて吐き気がする。
愛されているくせに、どうして私に構うのだろう。後をつけられる度に自尊心をへし折る材料にされて、自分を肯定する手段をひとつずつ失っていく。
私がひとつずつ積み上げた努力を無価値にして、私が必死で作った居場所を踏み荒らして──
ようやく逃げ出したというのに。
たかだか友人の一人にさえ、自分の影を滲ませずにはいられないのか。
ようやく私があの家で「存在しないもの」になったのに、まだ私を見るのか。
信じられなくなっていく。私が日菜を差し置いて誰かに愛されることなど無いと知っているが故に。足元が崩れていくように錯覚した。私は──私は、どこへ行けばいい?
「ちょっと、氷川さん!? 酷い顔してるよ? 大丈夫? 保健室に──」
「いえ、大丈夫よ。気にしないで」
「いや、だって──」
「もう帰る時間だし、少し貧血でふらついただけだから。心配してくれてありがとう」
──耳鳴り。
曖昧に笑うのは得意だったはずだ。平気なフリをして生きてきたんだから、とうに染み付いている。うわべを
後ろから心配する視線を感じながら教室に戻った。
「さて、続きをやりましょうか」
「うん……」
丸山さんの表情は、最後に鏡に映った私の表情によく似ていた。
ライブハウス「CiRCLE」から電話があった。今日予定が空いているなら、バンドメンバーを紹介できるかもしれないという連絡。それに了承を返して、ギターを背にライブハウスへ向かう。
「お、来た来た。……機嫌悪そうだけど、大丈夫?」
「大丈夫です。……すみません」
「いーよいーよ、そういう日もあるって。それで、ほら、バンドまだ決まってないんでしょ? この前アテがないこともないって言ってた子と連絡が取れたから、紹介するね」
「ありがとうございます」
スタッフの月島まりなさんは、いつになく愉快そうに笑っていた。学校での一幕を引きずったまま現れた私に気を悪くした様子もなく、スタジオの方へと歩いていく。
その後ろをついて歩きながら、そういえばどんな相手なのか聞いていなかったことに気がついた。
「それで、どんなバンドなんですか?」
「バンドって言うか、バンドを作ろうとしてるボーカリストかな。ユキナって聞いたことない?」
「いえ、全く」
「ほんと、弾くことしか興味ないんだから。……前からお似合いだとは思ってたんだー。ユキナの要求レベルを満たせるギタリストはあんまりいないし、逆に紗夜ちゃんに釣り合う子も中々いないし。バンドを組むかどうかは二人の自由だけど、とりあえず引き合わせられてラッキー、って感じ」
「……向こうの実力は気にしません。私が向こうの要求水準を満たしているのならそれで」
「……でも、練習熱心でストイックだって言うし、相性いいんじゃないかな?」
「そうだといいですけど」
3番のスタジオ。角部屋の少し狭い部屋だ。
月島さんが3度ノックして中に入ると、銀髪の少女が一人座っていた。
「おまたせ〜! こちら氷川紗夜ちゃん。私の一押しのギタリストだよ。それで、こっちは湊友希那ちゃん。同じく凄腕のボーカリスト」
言うだけ言って、仕事があるからあとは2人で、と去っていった背中をつかの間見送った。
湊友希那と紹介された少女は、私を無表情で見つめたかと思えば、ギターを指さした。
「弾いてみせて。それで決めるわ」
「話が早くていいですね」
ケースからギターを取り出す。チューニングは合わせてきたから、ズレていないはず。シールドを挿して音量調節。一応音程も確かめて、スツールに腰掛ける。
前のオーナーが白百合と呼んでいたストラト。ネックに白百合の意匠が刻まれていて、それが渾名の由来なのは明白だった。正式な名前は忘れてしまった。どこかに書いてあるはずだが、どうせ売りに出す時くらいしか使わないだろうから気にもしていない。
ペダルボードにも繋いでいるけれど、強くは
「……大抵は気を悪くするのだけど」
「どうでもいいです。……弾いてもいいですか?」
「ええ。遮って悪かったわ」
弦の冷たさに愛おしさを覚える。この頭痛も、耳鳴りも、煩わしさも、全て吹き飛ばして。振り下ろした右手が、私の心に血液を送り出す。
♦
帰宅して早々、散歩を心待ちにしていたらしいスピカと共に再度外へ繰り出す。2時間だけのバカンス、月に追われながら川沿いを早歩きで歩いて、補導のために哨戒している警察官から逃げるように家へ帰る。リビングからはテレビの音が聞こえていた。まだ食べられないな、と諦めて先にシャワーを浴びる。とうに浴槽のお湯は抜かれていた。……入るつもりもなかったけど。
髪を乾かしてもリビングの明かりはついたままだった。食べ損ねた、と陰鬱な気分で自室に引っ込む。
部屋に入った瞬間、机の上におにぎりが2つと、チケットが置いてあるのが目に入った。誰の仕業かは考えなくとも分かる。
手もつけずにベッドに寝転がった。明日の朝に捨てればいいか。
……丸山さんは日菜に訊いてしまっただろうか。
口止めをしていたわけではないから、日菜はきっとある程度話してしまっただろう。だからこそ、こんな真似をしているのだろうし。
明日、丸山さんに会うのが恐ろしい。彼女の瞳が、私を取り巻く無数の悪意と同じ色に染まってはいないかと疑うことになりはしないか。
薬を飲んで、目覚ましをセットする。
明日が来なければいいのにと思いながら、耳鳴りから逃れるように枕に顔を
希望なんて持たなければ良かった。