色褪せた空の下で   作:おいかぜ

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《9´》あを、白鳥、月の羅針盤

 

「ママ達は日菜のこと応援するけど、絶対に危ないことに首を突っ込んじゃダメよ。日菜は賢いから、分かるわよね?」

「うん、大丈夫」

 

 生物学上の母親の話を聞き流す。

 継父は、テレビで流れている野球の特集を眺めていた。

 

 一見は家族団欒の風景にしか見えない食卓は、虚飾に塗れている。

 

「ご馳走様。あたし宿題やってくるね」

 

 世界で1番嫌いな人間と一緒に暮らすストレスは、思いの外大きい。おねーちゃんが作ってくれた夕食を食べ終えて、食器を流しに置く。洗い物くらい、と思うのに、あたしが手を付けると余計におねーちゃんが嫌な思いをすることになるからなにも出来ない。

 

 廊下に出ると、おねーちゃんがシャワーを浴びている音がした。

 洗濯機の横のカゴに目を奪われる。おねーちゃんが脱ぎ捨てたシャツ……いや、流石に今日はダメだ。もし露見してこれ以上おねーちゃんに嫌われても困る。とっくに好感度は底をついていると知っていても、嫌われるのは恐ろしい。

 

 黙って自室に引っ込む。

 何もかも歪んだこの家で、お人形遊びの道具にされるのも飽きた。

 何もかもがつまらない。いっそ、逃げ出してしまえたらいいのに。

 

 ……なんて、それができたらとうにおねーちゃんがやっている。児童相談所から帰ってきたあとのおねーちゃんの目を見れば、概ね、世界はどこも同じなんだろうと察してしまう。

 

 母親が離婚して、ほぼ同時に再婚するまで、あたしたちは仲の良い姉妹だった。面倒見が良くて、興味が湧くところに突っ走っていくあたしをいつだってフォローしてくれるおねーちゃんのことが、あたしは大好きだった。

 

 あたしたちの苗字が氷川になってから、あたしとおねーちゃんは会話を禁じられた。それでも学校では隙を見つけて話すあたしたちを、保護者懇談会のときに聞きつけてはおねーちゃんを痛めつける母親に、あたしたちが言葉を交わす頻度は急激に減っていった。

 おねーちゃんが家事のために部活を辞めて、代わりとばかりにギターを始めて。学校では別のクラスになったから、さらに話す機会も無くなって。そしてとうとう学校まで変わってしまったから、会話の機会は絶無になった。

 

 そうでなくとも、おねーちゃんがあたしを疎むようになったことには気がついていた。そりゃそうだ、と思う。あたしたちは双子の姉妹なのに、あたしだけ親に愛されて、何不自由なく暮らせて、好きなように時間を使える。一方のおねーちゃんは奴隷扱いされて、目を合わせることさえ無い。

 そんな境遇の中で、あたしのミスでおねーちゃんが罰を受けたり、これみよがしにあたしをダシにつかって責められたりすれば、どうやったって嫌いになるに決まっている。

 

 おねーちゃんだって、母親に仕向けられたことには気が付いているだろう。仲が良かったあたし達を引き離すために、話してはいけないなんて決まりを作ったのは明白だった。

 あたしは負荷を押し付けられなかったから、フラットなまま。おねーちゃんは、母親の思惑に逆らわなかった。虐げられる自分を庇いもしない誰かなんて、好きになるはずがないからそれは正しい、と思う。

 

 つまらない。

 

 あたしはおねーちゃんさえいればいいのに、4人がけのテーブルには空白がひとつ。

 廊下から、犬が脱衣所の方へ歩いていく音がした。家では構って貰えないのに、馬鹿だなぁ。

 

 ベッドの脇のギターが目に付いた。おねーちゃんが3年前くらいから熱中しているから手を出してみたけれど、これも他と同じでつまらない。

 ……そろばんほどじゃないか。暗算より遅いのにわざわざそろばんを(はじ)く意味が分からなかった。

 

 綺麗な音を出すことを意識して、一般にテクニックと言われるものの大半を習得して、これは確かに芸術に近いなと理解した。絵を描くのと同じように、技術が尊ばれるのではなくて、表現が尊ばれるところとか。

 ギターの種類、部品、個体差によって音が違う。ピッキング一つでも、奏者の癖で音が変わる。そこにエフェクターなんかの機材の差も加われば、奏者の個性ともいえる唯一無二の音が生まれる。……似せることはできるだろうけれど。

 

 そんな唯一無二の個性を曲に乗せて表現する。もちろん技術は前提になるけれど、評価されるのは表現だ。

 おねーちゃんが好むわけだ、と納得した。

 家族にさえ存在を認められないおねーちゃんに許された、唯一の自己表現なんだろう。自覚しているかは別として。

 

 そして、あたしにとってはつまらない。

 おねーちゃんの音は聴けないし、あたしの音は自分で聴いたって面白くないから。

 

 ベッドに寝転がった。

 明日はライブだったっけ、と今更思い出す。目覚ましをかけて、明日の集合場所を確認した。

 

 おねーちゃんに渡したチケットは、一応受け取って貰えていると思う。

 一緒に渡した軽食は手付かずのままだったのがちょっと悲しいけど、チケットは破かれていなかったから大丈夫。あたしの、じゃなくて彩ちゃんのライブだから手に取って貰えたんだろうと分かってしまうのが、複雑なところ。

 

 ──実の姉と仲良くしたいって、そんなに烏滸がましい願いなんだろうか。

 

 ああ、今日は悪夢を見る日だ。寝る前からそれがわかって、憂鬱になる。

 おねーちゃんが家を出ていく夢。おねーちゃんが手首を切る夢。吊られた白百合が折れる夢。幾度となく見てきたそんな夢の類型が、今日もあたしの脳みそを撫でるに違いない。

 

 おねーちゃんの部屋の方を向いて眠る。

 おやすみなさい。またいつか、名前を呼んで欲しいな、なんて。

 

 

 

 

 ♦

 

 

 バンドのオーディションを受けたのは、実力を測るためだった。技術は自覚できても、表現力は自分だけじゃ測れない。結果として、あたしのたった1ヶ月間の手慰みは、一足飛びにあたしをプロミュージシャンの世界へと連れ込んだ。

 

 レコーディングの仕事を何度か触って、その後に回されたのは何故かアイドルの仕事。何故か白鷺千聖と一緒のグループで、これはこれで面白いからいいかと思っていたのに、待っていたのは当て振りのライブ。おまけに、幼稚園の頃よく遊んでいた彩ちゃんも同じグループにいて、しかもおねーちゃんと友達になっているらしいと来た。

 

 つまらないし、ムカつくし、気に食わない。

 

 彩ちゃんがおねーちゃんを絆せた理由はなんとなく分かる。

 あたしたちは、何もかも正反対だ。髪の色も、性格も、能力も。自称するとおり、彩ちゃんは要領が悪かった。あたしが一回で覚えた歌詞をいつまで経っても(そら)んじられないし、振り付けを覚えるのも遅いし、なんか鈍臭い。

 

 彩ちゃんを見てあたしを連想することもなければ、根本的に面倒見が良いおねーちゃんと手がかかりそうな彩ちゃんの相性は良さそうだと思う。

 

 それは、まあ、いい。目障りだけど、おねーちゃんは最早違う学校に行ってしまったから、交友関係をいちいち洗うすべは無いし、彩ちゃんはきっとマシな方だから。

 

 何よりも腹が立つのは、おねーちゃんを助けたいだなんて宣ったこと。

 

 それができるなら、あたしがとうに成している。救われる手段があるのなら、おねーちゃんはとうに逃げ出している。

 今更外野からずけずけと入り込んできて、内情も知らないまま大言壮語を吐く世間知らずに、日に日にフラストレーションが溜まる。

 

 見ればわかる、彩ちゃんは円満な家庭環境で、ひたすらに愛されて育った子どもだ。そんな人間に、何ができる。

 月ノ森で散々見てきた。余計なことばかりする人間たち。そのせいでおねーちゃんの苦しみがどれだけ増したことか。当人は責任を負うことさえできないくせに。

 

『日菜ちゃんは、紗夜ちゃんのことどう思ってるの?』

 

 好きだって答えれば満足だった? 

 ふわふわピンクのお人好しは、あたしのことまで救おうとするだろうか。……流石にそれは、冗談だけど。

 

 会場入りして真っ先に(千聖ちゃん主導のもと)挨拶回りを済ませたあとは、麻弥ちゃんと一緒に音響の機材を見に行った。このアンプがどうとか、サブウーファーがどうとか、このディバイダーは云々。会場の音響機器はとあるメーカーの機材で統一されてはいるけど、こちら側の持ち込みの機材とは相性が悪いかもしれない、とか、細かい部分まで教えてくれる。

 

 フラグじゃない? と思ったけど黙っておく。あたしの悪い予感は当たるから、このあときっと何かが起こるんだろうけど。

 トラブルが起きて困るのはあたしじゃなくて彩ちゃんや千聖ちゃんだし、嫌な予感なんて根拠を信じるのがあたし自身とおねーちゃん以外にいないから仕方がない。

 

 楽屋に戻ってからはガチガチに緊張した彩ちゃんをからかったり、カオの違いも分からないセンパイ方の歌を聴いたりしつつ時間を潰して、ようやく一番最後、あたしたちの出番が回ってくる。

 突っ立ってジャカジャカやってるだけにならないといいなぁ、というのはただの願望だったけど、何かが起こるという確信はあった。

 世界が動く瞬間の匂いを、あたしは知っている。

 

『はじめまして、《Pastel*Palettes》です!』

 

 ステージに立つと、存外迫力があった。視野角160°くらいを埋め尽くすサイリウムの草原に、人の熱気。沸き立つような感情が空気を揺らす。

 

 しゅわりん☆どり〜みんのイントロが流れて、Aメロに入る直前。

 ぶつりとノイズが走って、音が止んだ。

 

 ああ、やっぱり。

 よりにもよって初回でこんなトラブルが起こるのは、運がいいのか悪いのか。この場合、彩ちゃんが引き込んだ流れのような気がするけど、今日はあたしがいるから、トータルで見れば運が良いのかもしれない。今後を考えると、という話ね。

 

 ザワつくフロアに、動揺して黙り込む彩ちゃん。ここで「歌う」と言ってくれればあたしとしては大喝采だったんだけど、やっぱり無理だよね。おねーちゃんを助ける方が、きっとよほど難しいよ。助けを求めるように千聖ちゃんの表情を窺ったのも減点。

 

『みなさん、申し訳ありません! 機材のトラブルで、演奏ができなくなってしまいました! ですから──』

 

 即座に千聖ちゃんがマイクをつけて、フロアに声を張り上げる。機材トラブルと言い訳をつけて、即座に引き揚げる。あとはプロデューサーを筆頭としたスタッフが後始末をしてお終い、SNSなんかで改めて個人的な謝罪も出して丸く収めようって魂胆かな。千聖ちゃんの視点での最適解はそれだと思う。もちろん批判は受けるだろうけど、あたしたちに責任が及ばない部分でのトラブルだし、被害を最小限に抑えられる手段だろう。

 

 生演奏じゃなかったのか、という野次が飛んだ。……生演奏でも音が途切れることはあるけどね。生音だけでライブをやるわけないんだから。とはいえ、無知でも声が大きい方が強い。

 

『──だから、10分だけ待って貰えないかな。それで機材が直らなかったら、あたしたちだけでなんとかしてみるから』

『……日菜ちゃん?』

『折角のデビューライブでこんなことになるのは不本意だし、今後にも響くと思うから……もし許してくれるよって人は、ペンライト振ってくださーい!』

 

 さっさとあたしに都合のいい流れを作っておく。この瞬間、この場での最高権力者はあたしになる。そう、声が大きい方が強いのだから。野次のひとつが、マイク越しの声量に敵うはずもない。

 

「どういうつもり? 私たちでどうにかなる問題じゃないのよ」

「んー、でも、パスパレが潰れたら千聖ちゃんのキャリアもおしまいなんでしょ? ここでデビューが失敗するのは困るんじゃないの?」

「だからといって、勝手なことを──」

「まあまあ、千聖ちゃんに無茶振りはしないから。……あたしが助けて“あげる”よ」

 

 だんだん面白くなってきた。

 さっき、運がいいと言ったのは、このタイミングでなら理想的な筋書きでPastel*Palettesが今後長期的に活動するための土台を作ってあげられるから。

 

 彩ちゃんのマイクをスタンドから外して、千聖ちゃんに手渡す。このマイクは、一応壊れていることになっている。細かい粗は潰しながら、引き続きこの1万人を騙し続ける演目を続行する。

 

「これを持って音響スタッフさんのところに行ってきて。生音でやるから調整よろしくって宣言してきてくれるだけでいいよ。生音を拾うのにもっといいマイクがあるならそっちを貰ってきて。別になかったらこのマイクをそのまま持って帰ってきてくれればいいから」

「……はぁ。何をするつもり?」

「何って、ライブだよ。……イヴちゃん、今から楽屋に戻ってあたしのギターケースからアコギ持ってきてくれない?」

「えっと、わかりました!」

 

 イヴちゃんには楽屋からアコギを取ってきてもらうように頼んで、今度は自分のマイクの高さを調節する。麻弥ちゃんもあたしの意図を汲み取ってくれたのか、ドラムの音を確かめていた。この辺りは流石に場馴れしている。

 

「パスパレがコケれば、千聖ちゃんの女優人生はおしまい。なんとなくそうじゃないかと思ってたけど、やっぱりあってる?」

「日菜ちゃんはどうしてそれを──」

「あ、彩ちゃんは聞かされてたんだ。あたしはそうなのかなーって思ってただけだよ。だって、女優の仕事が取れるんならこんなアイドル企画に参加する必要ないじゃん。最初は不本意そうだったのに、今は真剣にベースの練習してるし、千聖ちゃんにはあとがないんじゃない?」

 

 バンドを名乗って当て振りと口パクを続けるなんて不可能だ、と何度も煽ったのはあたしだけど、それにしたって千聖ちゃんは熱心だった。最初にあたしたちが顔合わせした日の反応は不本意そうなものだったのに、今では彩ちゃんよりも熱心に練習している気さえする。

 女優の仕事を続けられるのなら、きっとそんな行動は取らないはずだ。アイドルの方は適当に流すか、断るかするはず。

 

 賞味期限切れの子役、という言葉が脳裏に過ぎる。よく使われる言葉だけど、千聖ちゃんもそのパターンなんじゃないかと予想していた。

 

 まあ、それもあたしにとってはどうだっていい。救ってあげる義理があるかは怪しいところだけど、もののついでだし、あたしにとっての千聖ちゃんは、まだ綺麗だった頃のおねーちゃんとの思い出の端に映り込む存在でもある。

 

 麻弥ちゃんの調整は問題なさそうだった。

 あたしと麻弥ちゃんで、あたし達が「生演奏ができるバンド」であることを印象づける。彩ちゃんに歌わせて口パクの疑惑も晴らしつつ、今後は当て振りじゃなく生演奏で活動していくための実績を作っておく。機材トラブルなんて致命傷もののやらかしをしてくれたんだから、そこの口出しを許さないくらいの取引材料にはできるだろう。

 

 デビュー初日にトラブルが起こったのは、むしろ都合が良かった。影武者バンドの演奏のクオリティが知らしめられるほど、初心者の千聖ちゃんやイヴちゃんに課せられるハードルも上がっていく。演奏のクセが変わったことも、わかる人には容易に見抜ける。

 

 なにより、ずっと当て振りなのは困る。

 せっかくあたしの音をおねーちゃんに届けられるチャンスなのに。

 

 彩ちゃんの歌なら、おねーちゃんは聴くだろう。ギターがあたしの音だと知っていても、きっと。

 だから今後一切、このバンドでのあたしの演奏は、おねーちゃんへのメッセージになる。

 

 白紙にプロットを引き終えたところで、彩ちゃんに向き直った。

 

「ねぇ、なんで歌わなかったの?」

「なんで……って」

「音が切れちゃったときでも、彩ちゃんのマイクは使えたよね。千聖ちゃんやあたしのマイクが使えたんだから、スピーカーの問題じゃないみたいだし。なら、彩ちゃんは歌えたでしょ?」

「アカペラで、ってこと?」

「うん。だって、そうじゃないとデビューできないじゃん。アイドルになりたいんじゃなかったの?」

 

 答えを聞く意味はない。勇気がなかったから。覚悟が足りなかったから。それ以上でも以下でもない。

 

「きらきらしたアイドルになるんじゃないの? 他人を勇気づけられるような存在になりたいって言ってたのに、これくらいで折れるのかってガッカリしちゃった」

 

 八つ当たりが半分、発破をかける意図が半分。流石にこのあと「歌えません」と言われたら困る。そうなればあたしが歌うけど、面倒なことになるのは想像に難くない。

 

 ついでだからおねーちゃんの話もしておこう。あたしにとってもウィークポイントになり得る話題だけれど、彩ちゃんがどんな反応をするのか見たかった。

 ちらりと関係者席の方へ目をやる。流石にここからじゃ見えないけど、あそこにきっといるのだろう。

 

「そういえば、今日はおねーちゃんも来てるよ」

「紗夜ちゃんが、すすんで来るって言ったの?」

「まさか。おねーちゃんはあたしに話しかけたりしないよ」

「じゃあ、日菜ちゃんが?」

 

 沈黙を返す。

 あたしからおねーちゃんへの感情については、今のところ話すつもりが無い。

 

「──助けになりたいって、言ったよね。おねーちゃんと、仲良くしたいって」

「……うん」

「あたし、すっごくムカついた。何も知らないくせに、不幸の一欠片も知らないくせに、上辺だけの浅い覚悟をひけらかすんだもん」

 

 彩ちゃんにいったいどうして欲しいのか、実の所、自分でもよく分かっていなかった。完全無欠に救ってくれるのなら、それに越したことはないけれども。

 そんなデウス・エクス・マキナは現実には存在しないわけで、じゃあ義憤に駆られる彼女の衝動の落とし所を、考えておかなければならない。

 

「歌わないアイドルが、いったい誰を救えるの? 歌えないアイドルが、いったい誰の心を癒せるの? ねぇ、教えてよ」

 

 ムカつく、というのは本心。

 自分の夢さえ自力じゃ叶えられない癖に、よくもまあ大言壮語を吐けたものだと呆れる。

 

 ──犠牲。思い浮かぶのは、そんな単語だ。或いは、代償。

 大切なものを全て掬いあげることは、誰にだってできない。身の丈に合わないものを望めば、その分だけ何かを取りこぼす。

 

 あたしの目が人を写せないように、おねーちゃんが泥濘の道を歩くように、千聖ちゃんが谷へかけられた吊り橋を渡ることを強いられているように。得たものには代償が伴う。光を掴むためには、暗闇に何かを忘れていく必要がある。

 

 それに気がついてもいない甘さに、虫唾が走る。

 

「……ああでも、歌えなくて惨めったらしく挫折したほうが、おねーちゃんには慰めてもらえるかもね」

 

 これも本心。

 可哀想な彩ちゃんを、きっとおねーちゃんは慰めるだろう。夢敗れた人間に追い打ちをするような人じゃない。あたしとの繋がりも切れて、おねーちゃんの心にひとつの安寧をもたらすだけの人形にでもなればいい。

 

「……これは八つ当たりだから、黙っていても救ってあげるよ。……千聖ちゃんも可哀想だし」

 

 だから選んで、とだけ優しく言葉をかける。斜め上に暴走されたら困るけど、そんな勇気がないことはあたしが知っている。

 

「マイクを誰が持つのか、彩ちゃんが決めていいよ。彩ちゃんが立てないのなら、あたしが歌ってあげる」

 

 イヴちゃんからギターを受け取る。マイクを通して弾いてみれば、案外と綺麗に響いた。アタック音が少し荒れるけど、許容範囲ではあるかな。弾き方によっては悪目立ちするかもしれないから留意しておく。

 

「私が、歌う。……このポジションは、日菜ちゃんにも譲れない」

「そっか。じゃあ、頑張ってね」

 

 千聖ちゃんが戻ってくる。彩ちゃんの前にマイクを置いてから、相変わらず不機嫌そうな表情であたしの前に立つ。

 

「今日は踊らされてあげるわ」

「えー、ただの親切なのに」

「……ええ。だから余計なお世話を返してあげると言っているのよ。近いうちに、必ずね」

「あたしが千聖ちゃんの助けを必要とすることなんてなさそうだけど」

「さあ、どうかしら」

 

 うーん? 

 良いようにされてるのが気に食わないのは分かるけど、それでこんなことを言うタイプだっただろうか。見誤ったかな。

 どうせあたしに人を見る目はないから、そんなにおかしなことでもないけど。

 

「……トラブルの原因はまだ究明中だそうよ。あと3分で復旧は無理ね」

「残念。じゃあ、あとは彩ちゃんが好きにしていいよ」

「……うん」

 

 彩ちゃんがマイクの前に立つ。

 そうせざるを得ない状況を作れば、歌うだろうとは思っていた。そもそもアイドルになりたいと言ってたくせに歌うことを躊躇するのがよく分からないけど、あたしの感覚がズレているのは分かっているからそういうものなんだろうと脇に置いておく。

 

『お待たせしてごめんなさい! 楽器編成はだいぶ変わっちゃうけど、リベンジさせてください! Pastel*Palettesで、《しゅわりん☆どり〜みん》!』

 

 麻弥ちゃんのカウントでイントロへ。出だしから声が震えているけど大丈夫かな。

 アコギでこの曲を弾くのは初めてだからどうしたものかと考えていたけれど、このぶんだとメロディを強調してあげた方が良さそう。

 

『手が空いている人は手拍子お願いします!』

 

 麻弥ちゃんもハンドクラップに反応してか、少し単調なアレンジに移行する。ベースとシンセがないから音そのものは随分薄くなっちゃってるし、ノリ易い8ビートにリソースを投資した方が盛り上がるという判断かな。

 

 イントロが明けると同時にピックを放り投げて指弾きに移行する。コードをジャカジャカやってる方が楽だし、それを土台にアレンジを加えていく方が楽しいけど、機材の問題でアタック音が耳障りになりかねない。パーカッションは既に盛り上がってるから、メロディを厚くして彩ちゃんをサポートしてあげた方が曲としても収まりがいい。

 

 ソロはどうしようかな、という思考と、彩ちゃんの歌に割かれる意識が半々。

 

 スポットライトに照らされた彩ちゃんの熱量が増していく。

 揮発性の激情を歌に乗せて、会場へ伝染(うつ)していくようだった。

 

 やれるなら最初からやればいいのに。それか、本当は本番に恐ろしく強いタイプ? 本番というよりも崖っぷちか。水際でピンクのネズミが高く跳ねるのを幻視した。

 

 歌唱の安定度が急に増して、声量も感情も、右肩上がりに大きくなっていく。

 

 アイドルという言葉にはなんの感情も抱いていなかった。

 テレビで見るアイドルに感動したこともなければ、憧れたこともない。見る度に顔も忘れているし、歌が大して上手いわけでもなければ、ダンスが際立っているわけでもない。中には歌手として、ダンサーとして高い水準にある人がいるのかもしれないけど、グループ単位なら平均化されるし、印象にも残らない。

 

 彩ちゃんの言葉に感じている薄っぺらさは、あたしのアイドルに対する悪印象に由来しているのかもしれない、とふと思った。

 

 炭酸の海に浮かぶ帆船。彩ちゃんの歌を船頭に、二酸化炭素の潮風を受けて漕ぎ出す。

 シャボン玉が上っていく宙、サイリウムが反射して、パステルカラーのあたしたちをケミカルに照らす。見上げれば二羽の白鳥が渡っていく。

 

 ……最大の目的はおねーちゃんにあたしの音を届けることだったのに、彩ちゃんの歌に引き摺られていることに気がついた。

 それがどうにも認めがたくて、コーラスのようにボーカルラインを掠めてみる。

 

 後ろ姿に、視線が引き寄せられている。つとめて視線を外した。サイリウムの色が薄い暗がり、関係者席の方に向き直って、目を凝らしてみる。

 

 あたしの唯一の光は、スポットライトに遮られてぼやけたままだった。

 (天井)を見上げる。目がくらんで、なんにも見えやしない。

 

 




スピカ
氷川紗夜の代わりに迎え入れられた犬。末っ子。
紗夜にとっては自分の代わりに家族に馴染む『氷川紗夜の写し身』だし、日菜にとっては自分の代わりに姉に可愛がられる『氷川日菜の写し身』

スピカは連星で、ふたつでひとつの星らしいですね。
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