『自分』はどこにいるんだろう
『自分』ってなんだろう
ずっと前に考えた私という存在の証明
たとえ同じ自分であろうと、いま思い出してみれば信じ難い選択を取っているものである。
数ある分岐を通る前の私など、今の私を構成する1つの面でしかない。
私の『自分』は、もはや過去の私と区別できるもので、答えを探し続ける私以外に『私の自分』なんて存在しない。
──私はここにいる。
…だから、変わってしまった過去の私なんて知りたくもなかったのに。
閉じていた瞼を貫いて瞳に反射する光を認めると、自分が何者なのかを思い出す。差し込む光は朝日だろうか。
意識がハッキリとしたのでベッドから身体を起こすが今の状況が掴めずに辺りを見渡す。
住み慣れたワンルームマンションの一室、幼少期から使っているベッド、服は最近買ったばかりのはずの寝間着、意識を失う前についた傷は見当たらない…
ナギサ様は無事だろうか?
桐藤ナギサ様、私が物心ついた時から彼女の付き人として共に育ってきた、誠実で不器用な一面が愛おしい御方。
私がトリニティの高等学部に入る前の日にも2人きりでお買い物をしていて…それで、暴動に巻き込まれて…
──私は彼女を護れたのだろうか?
急いで布団を蹴り飛ばしベッドから出る。
ここからいち早く無事を確認できるとすれば携帯電話だろうか、立ち上がった体勢のままで周囲を一瞥する。
スマホが見当たらない。目覚めるまでにどこに置いたかなんて分かる筈もないし…ベッドの隙間に落ちたかもと思い、床に伏せてベッドの下を覗くがスマホらしき物は見当たらない。
いつ家に戻って来たのかも覚えてないので、玄関に置きっぱなしの可能性もあると思い、相変わらず手狭に感じる玄関に向かう。
やはりだが、スマホはどこにもない。こんな事なら置き場所を決めるか最初から直接会いに行く判断をすべきだったと後悔をする。
スマホを諦め、外に出掛けるための支度をするべく部屋の中に意識を向けたと同時、カチャリ、と扉の鍵が何者かに開かれる。
すぐさま身体を反転し警戒の構えをとるが、開けられた扉からは見知った顔が見え身体が硬直した。
なぜここに?と呆けるばかりである。
「おはようございます、サクラちゃん。もう起きていらしたんですね」
入ってきたのは肩に掛からない程度に揃えられた薄桃色の髪を横でひと房結びし、見慣れない白の制服に身を包む見知った少女。鷲見セリナちゃんであった。
侵入者と思い警戒した分、誰かと敵対する図が想像もつかないセリナちゃんと対面したことで暴走一歩手前だった思考が一度その足を止める。
私の一瞬の放心の間に、セリナちゃんによって部屋の中の方まで背中を押され、セリナちゃんは私の体温と血圧を測定していた。
「ちょっと待ってください、もう理解が追いつかなくって…え?今何が起きているんですか?」
「サクラちゃん」
「えっはい」
「サクラちゃんが戦車の主砲を頭に受けた日から、今日までに少なくない月日が経っています」
「えっ」
「外傷等はもう問題ありませんが、その際に前向性健忘症と呼ばれる記憶障害が残ってしまった状態です」
「まってください、健忘症?記憶障害ってどういうことですか?」
「それは、この日記を読めば理解できると思いますので詳しい事は後ほど。その前に朝食を用意しますね」
こちらを、と1冊の分厚い本を手渡して来るセリナちゃん。
記憶障害と伝えられ現状を飲み込めていない私を心配する彼女の表情から、事情をある程度察せられて不安になるが、それを表に出したとしても状況が良くなるとは思わないのでぐっと堪えて日記を預かる。
手渡された日記は藤紫色の厚いカバーで、表紙を開く前から、使い込まれた本特有の弛みが見受けられた。色こそ違えど確かに私が使い込んでいた日記と同じ物だと分かるものだった。
「大丈夫です、もし読むのが怖くても私がついてますから。せめて一文だけでもお読みになる方が良いかと」
そう言ってなだめてくれるセリナちゃん、表紙の端に指をかけると混乱した頭が抑えきれない不安を表情に出しセリナちゃんに見せてしまった。
すると震える私の手にセリナちゃんの手が重なる。手に伝わる温もりにひとつの頷きをもって返し、私は日記を開いた。
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見返しの部分に愛用の万年筆によって書かれていた一文、見慣れた私の筆跡により書き出された記憶にない、求めていた答え。
求めた答えに安心した私は、全身から力が抜け冷たいフローリングの床にへたり込んでいた。
「サクラちゃん、平気ですか?」
「…えっと、はいちょっと緊張の糸が切れただけです」
こちらを心配するセリナちゃんに大丈夫だと伝え、続きを読み進める。過去の事件の概要とその顛末。7日間の昏睡、目覚めた後の検査により前向性健忘症の発覚、それから1ヶ月続いた検査入院。
睡眠をトリガーに事件以後の記憶を失い続ける私によって記され続けた日記。今日までにおよそ3ヶ月分綴られたそれらを軽く読み進めていく。
「とりあえず現状は理解できました。私が目覚めるまでに何が起きていたのかも」
「なにか、お聞ききしたいことはありませんか?私が応えられる質問であればお答えしますが」
「今は、この事態にどう向き合うべきかで頭がいっぱいで特には……ただ」
「ただ?」
ただ、ナギサ様に関しての記述が初めの一文だけしか無かったことが引っかかったが、それを口に出す勇気はなかった。
セリナちゃんに用意された朝ごはんを食べ終えた私は、自室のソファに腰を預けながら、食器を片付けているセリナちゃんの白い制服の…今も揺れるスカートの裾をジッと眺めていた。
「その制服…救護騎士団の」
「はい、現在は救護騎士団に所属していますから」
「そっか、ずっと看護師目指してるもんね」
「はい、覚えていてくれてたんですね」
「教えてくれたの確か5年前くらいだっけ、もう懐かしいな…」
何も考えずこぼした言葉に返事が来たことに少し面くらいつつ、セリナちゃんの目標が私の知るものから変化していない事に安堵した。もしも今は違いますとか言われたら自分はどうなっていたか想像し、背中に冷たいものが流れたような気がした。
「日記、もう一度読んでもいいでしょうか」
「はい、負担にならない限りは目を通しておくようにと…」
「そうですよね、…なら行ける所まで読むことにします」
私の日記なのに書いた記憶もなければ内容もさっぱり想像がつかない。自分が書いたはずの日記を誰かに読んでもいいか相談してしまうくらいに、今を夢か何かだと思ってしまう心が残っていた。
取り敢えず読むべきと言われた日記も、ご飯を食べて落ち着きを取り戻してから再び読むことにした。
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考える事は多々ありますが、まずは再びこうして日記を綴れるようになった事を幸運に思います。
お医者様によると私は7日もの間意識を取り戻さなかったようです。普段の私の治癒力を考えるとにわかには信じがたい事ですが、お医者様の見解は違いました。
私は盗難されたトリニティの主力戦車の一撃を頭に受け気絶中にも被弾してしまっていたそうで、院内に運び込まれた時点での外傷は相当なものであったそうです。身体に傷はもう無いので、退院が今から待ち遠しいです。
朝目覚めて外傷の有無を確認していたら看護師さんが来たので何日眠っていたのかを尋ねると、お医者様を呼ばれ問答の後に記憶障害だと診断されました。
正直、もう書くのをやめてすぐ横になりたいのですが、何とか堪えて今日の事を記していこうと思います。
昨晩退院したらしく学校に通えるようになったものの、今は新学期のはじめから既に1ヶ月経っているので既に交友関係は固まりつつあると言うことで話し掛ける気力が湧きませんでした。何より今は覚えていられない友人を作るよりも今持てる関わりを大切にしたいと心から思いました。
覚えていないとはいえ、2ヶ月もあの方の元から離れているというのは初めてのことです。本日お茶会に招いてくださったミカ様は私を傷付けたくないナギサ様の配慮であると慰めの言葉をいただきましたが…。どうにも上手くのみ下せませんでした。
知らない人が私を知っている事を前提に生活するのは結構疲れてしまいます。本日は何事も無く一日を終えることができましたが、下手を打てないプレッシャーを毎日私は感じているのでしょうか…?
しかしどうせなら私も何かがある一日を過ごしてみたかった…なんて。
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日付けは毎日1日1ページ、そのどれもが昨年の晄輪大祭の時に書いた文量に差し迫る程の量を書き込んでいた。
はじめの方は病院生活や新たな学園生活を珍しさと好奇心により読み進めていたものの、今日までに大した変化はなく、どれも大差ない内容ばかりが並ぶようになり、つまらないものだった。
ただ、そのどれもから
「その様子だと日記も読み終えたみたいですね」
「はい、記憶を失っているということがどういう事か、よく分かりました…」
食器と観察用のノートを片付けたセリナちゃんがソファの反対側に座ってくつろぎはじめる。…何気に私以上にこの部屋に馴染んでないかこの娘…
「とにかく今日は何も無い日…なんだよね?」
「はい、学校はお休みですしお出掛けの予定も聞き及んでいません」
「そう、ちょっとラッキー…でもちょっとだけ散歩にでも行きたい気分かも…。セリナちゃんはこの後も仕事?」
「いえ、朝以外にやる事はありませんので今日はずっと空いています」
「なら、今からお散歩付き合ってくれない?」
「はい!私でよろしければ」
セリナちゃんにコーディネートしてもらい、支度を済ませて家を出たのが午前9時頃、既に陽の光は堂々とキヴォトスを照らし出しており、今が彼の季節である事を高らかに主張していた。
「もしかして、今日って暑い…?」
「あはは。今日はなんでもこの時期で過去最高の気温だそうですよ」
「えーなにそれ…起きてすぐこれなんて運が無いなあ」
「日が沈むまでの辛抱ですよ、はいどうぞ水分はこまめにとってくださいね」
「ありがとう…目的地本当にショッピングモールで良かった?」
「大丈夫ですよ、私も夏用の服を見たいと思っていたので」
「そっか、それならいいのかな」
いつの間にか移り変わりを見せている季節に驚きつつ、私達はトリニティ学園に一番近い大型モールまで話しながら歩いた。
モールに到着すると、既に夏期休暇向けの水着売場やアウトドア用品を扱うショップ周りが賑わっていた。
特にこの時期は水着の争奪戦も起きるようで、今年は銃火器こそ使用されていないものの、大勢がコレと決めた物を奪い合う光景はどうにも圧倒されてしまう。
私とセリナちゃんはそれら1階で勃発している喧騒を背に、気になるショップに立ち寄ってはこれがいいあれもいいだとかを話しながら半日を過ごした。…セリナちゃんはどちらかと言えば喧騒の方に気が向いていたけれど…。
「あ、この場所、こんな店できたんだ…」
「カジュアル系のアクセサリーショップですね、トリニティではあまり見掛けることが少ないですが、ミレニアムの地区で起業した会社だったはずです」
「へえ…ここにあった雑貨屋結構好きだったんだけどな」
「…少し見ていかれますか?」
「いや、いいよ……ごめんやっぱり見て行こうかな」
少し前に潰れた雑貨屋のことを想い、僅かに感傷的になっていたのだが、今の私では忘れる事を気にしている風に見えてしまうのか。セリナちゃんの表情が陰りをみせたので私は急いで意識を切り替える。
ショップに入ると、学生が気軽に手に取れるくらいの良心的な値段かつ華やかなもの中心に揃えられていたので取り敢えず気になるものが無いか目を通していく。
「あっこれなんか良いかも…」
「どれですか?」
「これ、このリボン」
そう言って手に取ったのはベースが黒の少し大きめなリボンだった。
「形はスタンダードなタイプだけど、リボンの端の方に金の線が差し込まれてるのがオシャレかなって…なにより結び目にある十字架の装飾が可愛いと思う…!」
「ふふ、サクラちゃんこのリボンが気に入ったんですね」
「うん、制服とかのリボンとしても、なんなら少し大きめのアクセサリーとしても使えそうな感じだしすごく良いんじゃないかな…どうしたの?」
「なんというか、少し意外です。普段白色のものを好んで身に付けるイメージがあったので、それに制服の改造も以前の学校ではしていませんでしたので」
「うーん、確かに白色中心で買い物しがちですけど、黒でも気に入るものは買う…かな?まあ、制服改造の方は確かにしないですけど…。なんででしょう、下の活気にあてられちゃったって言うか…」
「ふふっ、でもきっと似合うと私は思いますよ。」
似合う、か。実際のところ今までオシャレの為に制服を改造した事はないから私には判断できないけれど、セリナちゃんが似合うって言ってくれるなら改造してみたいとも思っちゃう不思議。
あーでも侍女として、浮ついた格好をするのはナギサ様に相応しくない?
「うーん、ならセリナちゃんがこれを身につけてくれる気はない?」
「私、ですか?」
「うん、さっきも言ったけれど制服とか少し大きめの装飾として使うこともできますし、なにより…うん、とっても可愛いと思うのでプレゼントしたくて…ダメでしょうか?」
「…いいえ、短くない時間を共に過ごしてきたお友達として。いただきますね」
「あそっか、今は仕事相手でもあるもんね…受け取りにくかった?」
「もう、そういう事は口に出さなくてもいいんですよ!」
「あっは、ごめんなさい、じゃあ買ってくるから先に外出て待ってて」
「分かりました、お待ちしていますね」
…どうせならお揃いがいいな。
そう思いレジカウンターにいるオートマタに白のものは無いかを聞きそちらも一緒に買っておく。
「ふふっ。誰かとお揃いなんてはじめてだな」
ちょっとしたサプライズとして今度見せようと企みつつ、店を出るとセリナちゃんはモールの吹き抜けから下の階をじっと見つめていた。
郷愁を感じているかのような表情に魅入ってままもうしばらく見つめていようか迷っていたが、此方に気が付いたセリナちゃんとバッチリ目が合ってしまった。
「お待たせ」
「はい、大丈夫ですよ」
そう言って目と眉を下げ微笑んでくれる彼女の表情は普段の優しいとかよりも物憂げに映る。空を覆うガラスには和紙を染めてゆくような金朱と、昼の群青をわずかに残すばかりであった。
「もう日が暮れてしまいますね」
「そうだね、もう帰らなきゃだ…」
もう今日が終わろうとしている。それは、あと少しで私が今日を失うことでもある。
忘れたくないと奇跡を思い日記に書き遺した願いたち、そして自分達が現実であったことを、ようやく私の事であるのだと理解した。
しばらく2人で無言の時を過ごし、ワルツのメロディに促されるように帰路に着く。私達が家に着く頃には空が朱を含む紫陽花色となっていて、朱色の尾をひきずって沈む夕陽の寂しさに私は共感していた。
「セリナちゃんは毎朝来てくれてるんだよね」
「はい、目覚めて混乱してしまわないよう状況を説明するのと、朝の体調確認ですね」
「そっか、ならその後も私といてくれたのは?」
「それは私にとってサクラちゃんが大切なお友達だからですよ」
「えへへ、そっか…じゃあここでお別れになるのかな」
「家まで送りますよ?」
「いや、困らせたい訳じゃないの。ただ…。いつもありがとう、また明日…って言いたくて」
「サクラちゃん、その言葉だけでもうお礼は十分ですよ」
「…!うんっ!それじゃ「あっ待ってください!」
真正面からありがとうを伝える気恥ずかしさから逃げるように立ち去ろうとすると、腕を後ろから引かれて振り返る。彼女の意図が読めない私が不思議そうにしているのにも構わずセリナちゃんは制服の紐リボンを解いた。
「へ?」
「今日買ってくれたリボン、せっかくならつけてくれませんか?」
そう言って真っ直ぐ此方を見るセリナちゃん。
すごく優しい微笑みを向けられ思わず顔が熱くなるのだが、それを無視して彼女の制服に黒のリボンを通してゆく。
うん、見立て通りよく似合う。
「サクラちゃん顔真っ赤ですよ?」
「夏はこんな時間まで暑いんだなとだけ言っておきます…」
「ふふっすみません、サクラちゃんが可愛くてからかってしまいました」
「もう…」
「それで、どうでしょうか」
「…とっても可愛いよ」
そんな甘酸っぱい応酬にお互いくすぐったくなり、思わず2人で笑ってしまう。
その後少しだけ話をしてから私達はそれぞれの帰路についた。
「楽しかったな…」
家に帰ってから晩ご飯とお風呂を済ませ、自室のテーブルで寛ぎつつ今日の日記を書き始める。
内容は主にセリナちゃんと出掛けて何をしたかとか会話内容などの雑多な事だ。
「こんなものかな」
大体7割くらいを埋め終え日記を閉じる。あとは明日の支度をして寝るだけだが…明日…
明日の用事が無いか日記と予定表を読んでおく。
明日は、登校するだけか…
眠るべく床に就くものの、日記に書かれた言葉が頭から離れない。
日を追う毎に増えていく日記、積み重ねられる私の声なき叫び。
1ページずつ、私自身に爪痕を遺すための言葉をどうして無視することができるだろう。
その日を愛しむ私、惜しむ私、嘆く私、哀しむ私
初めに目を通した時に感じた違和感の正体。
私は日記の中の私を、自分とは違うと何処か遠巻きにみていた。だけど違ったんだ、今日を通し、移り変わった世界を肌で感じた今だから分かる。
これは私だ、私が知らなかった私の本性なんだ。たった1日、その1日しか私達に時間は無い。その日何かを感じても明日には続かない。私達はそれを今迄から知っている。
それではまるで死んでいるようだと思うと妙にしっくりくる。今の私にとって、日記は遺言のようなものだなんて考えて乾いた笑いが出る。
日記を再び開き、続きを書き込む。
今度は感じた事を…セリナちゃんと一緒にいて感じたこと、話をして思ったこと、夕焼けに染まる路地で彼女の笑顔を見たときの情景、リボンを贈った時に見えた彼女の表情やその愛しさ、今日私が感じた私だけの心を、忘れないようにひとつひとつ日記へと書き記す。
そうしていくうちに今日の分のページがあっという間に埋まっていた。
──忘れたくないな。
日記を指定の場所に仕舞い再び床に就く。肯定する他ない現実、否定できない
──やっぱり忘れたくない。
どれだけ願おうと身体を無理に起きようなんて気は全く無く、ゆっくりと暗闇しか見つめられない眼を閉じる…。
こうして私は安らかな死の淵に身を預けた。
できれば続けたいです
誤字脱字修正しました。