「ガンダムから入ったけどTNOわからないよ〜」といった方々向けにもわかりやすく書かれているので、どうぞ遠慮せずお読みください。
TNO側世界観説明:超大国編
歴史とは、一本の巨大なレールの様な物である。
選択肢は膨大に見えて、環境や状況によって著しく制限され、決定した分岐点から全く違う道が存在するのと同じように、歴史というものは選択によって全く違う結末を迎えてしまう者なのだ。
例えばオスマン帝国の台頭が無ければ、大航海時代は有り得ず、アメリカ大陸の発見も遅くなっていたかもしれない。
もしナポレオンが大陸封鎖令を実施しなければ、フランスでは未だに帝政が続いていたかもしれない。
それでは、この世界ではどのような分岐点でどのような選択がされたのだろうか。
まず、この世界の最初の分岐点はソ連の指導者についてであった。
史実ではスターリンが政争に勝利し書記長として君臨したが、この世界ではニコライ・ブハーリンという男が勝利した。
彼は穏当な社会主義化を望んでいたが、数年に及んだ内戦で混乱し荒廃した国内を纏め上げることは出来なかった。
次にアメリカ大統領選である。
この世界ではフランクリン・ルーズベルトが史実のような長期政権を保つことは出来ず、3期目は別の大統領が就任してしまった事である。
この分岐点での変更はこのまま世界が平和であったならば何事もなかったであろうが、そうはならなかった。
史実と同様にナチス・大日本帝国が台頭し、日中戦争・第二次世界大戦が勃発すると分岐が致命的な効果を発揮した。
アメリカ大統領は孤立主義を貫き日中戦争・第二次世界大戦に深入りするようなことはせずに連合国を不利な状況に陥れた。更に、ソ連ではブハーリン自身の軟弱な指導力が原因でナチスに敗退に敗退を重ねて半年でモスクワが陥落。
その後ソビエト連邦は崩壊した。
日本の真珠湾攻撃に合わせて漸くアメリカも第二次世界大戦に参加するも時すでに遅く、イギリスはアシカ作戦によって降伏、アメリカは単独で戦い抜くもハワイに投下された原子爆弾によって戦意を喪失し降伏した。
この世界は、個々の分岐が第二次世界大戦と言う特別列車の行く末に大きな影響を与え、歴史を大きく変貌させたのである。
もちろん、その後も平和が訪れることはなく、混沌とした歴史が続いた。
以下に記されているのは、この世界での冷戦という世界を舞台にしたチェスゲームにおける、もっとも優秀かつ駒が豊富な指し手たる三つの超大国のこれまでの歴史である。
第二次世界大戦に勝利したドイツは自らの国名を大ゲルマン帝国に改め、早速支配領域の再編を開始した。
軍門に降った国々の中で大ゲルマン帝国の西方にある国々には傀儡政権を、西ロシアを含む東方の地域には並の植民地よりも数倍現地住民に対して残忍な『国家弁務官区』をそれぞれ打ち立て、前者の国々はドイツを宗主国とする同盟『統一条約』にまとめ上げられ、後者の地域では非アーリア人と見做された現地住人の奴隷化とドイツ人の入植が推し進められた。
ヒトラーの『東方生存圏』構想はついに叶ってしまった、そう世界には思えた時期もあった。
しかし、ヒトラーの妄想じみたこれらの構想を叶えるに当たって、第三帝国は莫大な対価を支払った。
どの支配地域でも抵抗運動の火は消えることなく燃え続け、その対処で軍備拡大は止めることが出来ず、財政状況は悪化の一途を辿り、さらにヒトラー政権の様々な無謀な外交によってかつての同盟国達との関係は悪化していく一方であった。
そうして迎えた1950年代前半、ついに千年帝国の幻想は崩れ落ちた。
前々から無謀な経済政策ばかりを推し進めていたドイツ経済は完全に崩壊したのだ。
またこの時期に、イタリアなど南欧の元同盟国は独自の同盟『三頭連合』を打ち立てて離反した。
そんな状況を絶好の好機と捉え、かつて打ち滅ぼされたソ連の後継国で、西ロシアに残存していた赤軍将校達によって統治される『西ロシア革命戦線』は、第三帝国の領有する東方生存圏で最も東にある『モスコーヴィエン国家弁務官区』に対し、旧領奪還のために全力侵攻を開始、ここに『西ロシア戦争』の火蓋が切られた。
結果的には領土の失陥はモスコーヴィエン国家弁務官区のいくらかだけにとどまり、西ロシア革命戦線が内部崩壊を起こすまで持ち堪えたといえた大ゲルマン帝国だったが、その内情は悲惨なものだった。
総統ただ一人に忠実であるはずの親衛隊、通称SSはこの戦争中にトップのハインリヒ・ヒムラーを筆頭にクーデターを計画・立案しており、それはもし国防軍のハンス・シュパイデルがこのことを暴いていなければヒトラーは葬り去られていたであろうと言われるほどのものだった。
結局当時の大ゲルマン帝国にはSSを相手するだけの体力も残っていなかったため、彼らは北フランスの一部領土を自由に統治していい─要は半ば封じ込めの左遷である─との条件でヒトラー政権と和解した。
なお、このSSの直接統治が許された領域は、自らの率いていた組織と共に実質的に国外追放されたヒムラーの命令で『騎士団領ブルグント』と命名され、20年程後の崩壊まで内情は殆どの外部の者に知られない国として『ヨーロッパの黒い傷跡』と呼ばれる様になった。
また、西ロシア戦争が終わった後の国防軍自体もボロボロで、国防軍そのもののトップであったヴィルヘルム・カイテルを筆頭として一部の主要人物が戦死し、またヒトラー直々の任命でカイテルの後釜に座ったシュパイデルの派閥と、フェルディナント・シェルナー元帥率いる軍国派が権力闘争を繰り広げるようになった。
60年代初頭になると、大ゲルマン帝国を纏める最後のもの…ヒトラーの健康状態も悪化し始め、彼の後継者問題を巡って党内での各派閥間の分裂も明白になり始めた。
それでもヒトラーは自分の目が白いうちにこの帝国の存続を図るのだと言わんばかりに、少しずつ改革を進めようと考え始めていた。
しかし、米日がハワイ危機から抜け出したのを尻目に、第三帝国が人類初の月面着陸に成功した1962年、その後の歴史を変える大きな事件が起きた。
ヒトラーの命令で帝国議会が召集されようとしていた時に、日本人─事件の10年以上後に実はブルグントからの刺客だったことが発覚した─が、ヒトラーの執務室に押し入り彼に銃弾を撃ち込んだのである。
ヒトラーは一命をとりとめたものの、その日から彼の健康状態は急速に悪化し、総統の後継者争いは激化、黒い鷲の帝国の混沌はその度合いを増していくこととなった。
この頃になると、ヒトラーに近しいある四人の人物が後継者候補として有力視されるようになっていた。
ヒトラーの秘書を務めつつ、現在ナチ党党務のNo.2であり、帝国内の保守的かつ腐敗した官僚・エリートたちの首領である『褐色の枢機卿』マルティン・ボルマン。
元空軍大臣であり国家元帥という唯一無二の称号を抱えながらも、国防軍に深く根付く軍国派の傀儡と化した『帝国の叔父』ヘルマン・ゲーリング。
かつて帝国の版図内の奴隷制を構築したがそのことを隠し、60年代になってから帝国内の様々な場所で徐々に力を得つつある改革諸派の急先鋒として政界に躍り出た『帝国の設計者』アルベルト・シュペーア。
ヒムラーが国内で失脚したあと、帝国本国において再編されたSSの全国指導者を務めているものの、ブルグントのSSとの繋がりも噂される『金髪の野獣』ラインハルト・ハイドリヒ。
ヒトラーは結局、老衰し認知症の兆しを見せつつも改革諸派の顔となっていたシュペーアを指名、その数日後に死去した。
しかし、他の候補者達の派閥はその遺言同然の発言に従わず、三人の誰もが正当な帝国の後継者を名乗り、彼の死後それぞれに忠誠を誓っていた者達を武装させ蜂起、それに伴いかつてベルリンと呼ばれていた帝都:ゲルマニアはシュパイデルに忠誠を誓った部隊が占領し中立を宣言、ドイツは文字通り内戦状態に陥った。
結局シュペーア派は他三つの派閥に打ち勝ち、他の派閥の戦闘員と違い中立地帯ゲルマニアの兵士たちをを平和的に武装解除して内戦の終結を宣言、ここに名実共にシュペーア政権が誕生した。
シュペーア政権の初期の改革は、それまでとは比べものにならないほど希望の兆しのあるものだった。
まず経済方面においては、経済大臣ルードヴィヒ・エアハルトの提示した経済復興案の下、従来の経済方式を取りやめ自由経済を取り入れると共に、旧来の通貨であったライヒスマルクを新しいものへと刷新し、帝国の経済を徐々に上向かせた。
それ以外の方面では副総統のクルト・ゲオルグ・キーシンガーの提案の下、教育や医療の改革が進み、先ほどの経済と合わせて十数年ぶりに初めてライヒの臣民の生活水準は上昇した。
外交についても、外務大臣のヘルムート・シュミットが冷戦での対立相手であるアメリカと日本をはじめ、様々な国の首都を電撃訪問し、各国にそれまでの『傲慢で軍国的なナチス』とは違うという印象を与えることに成功した。
これらの改革を前に、ライヒは自由化への道にあると期待する人も出た。
無論、その後を示唆するかのような不穏な傾向もないわけではなかった。
シュペーア政権内部でも派閥争いがあるとの噂がまずあった。シュミットとエアハルト、キーシンガー、そして国防軍最高司令部総長に任命されたヘニング・フォン・トレスコウら『四人組』は、実はシュペーアと完全に利害が一致していないとの噂があった。
帝国議会議長をヒトラー政権末期より務め続けているテオドール・オーベルレンダーも、改革派でありながらもシュペーアと違いリベラルな方向性の改革派ではなく、またエアハルトによる自由市場導入に大反対の議会演説をするなど、帝国内で国家社会主義の改革を支持しながらも自由化は支持しない人々の支持を得ていた。
それらの噂を後押ししたのが各国へのシュミットの電撃訪問の後、シュペーアは彼の反対を押し切って、あえてアメリカではなく政治体制の近い日本との関係強化を決め込んだことだった。
また、国内でシュペーアの意向に反対する者が『特別法廷』と称される公開法廷で死罪を宣告されたり、ラインハルト・ゲーレンを首領とした帝国諜報局が設立され、ゲルマン帝国のそれまで脆弱だった諜報網が格段に強化されたりもした。
内戦中にレジスタンスが武装蜂起し、旧傀儡政府が転覆されたポーランドについても、シュパイデル率いる国防軍を国境に貼り付けつつ食糧支援なども行うという、飴と鞭の政策で統一条約に再加盟させた。
しかし、『ライヒは自由化・民主化の途上である』と言う国際的な見方を本格的に綻びさせたのは、彼らが国家弁務官区オストラントをどう再獲得したかが全世界に伝わった時であった。
オストラントはかつて『バルト三国』があった地域とベラルーシ地域を強制的に一つにした国家弁務官区であった。
ドイツの内戦中は、ここも他の東欧の国家弁務官区同様内戦に陥ったが、その勝者は─ウクライーネのように共産主義者でもなければ、モスコーヴィエンのように正統派のナチでもなく、ましてやコーカサスの発狂して自らを王であると宣言した前総督の勢力でもなく─民主改革派の学生やそれを支援する企業グループの連盟である統一オストラント連盟だった。
彼らは国家弁務官区を民族自決のもといくつかの民主国家に再分割することを提唱しており、それにあたってドイツとの交渉を望んでいた。
ドイツは改革派が勝ち、民主化への道を辿っているのだから、きっと彼らに対しては暖かく接するに違いない─オストラントの人たちも含め、誰もがそう思っていたが、現実は違った。
リーダー格のアンドレアス・マイヤー=ラントルートは、憧れていたシュペーアとの会談の後にゲシュタポによって反逆罪の罪状で逮捕された。
オストラントの一度は根付いた希望は、このようにしてあっけなく終わりを迎えた。
その後、他の国家弁務官区があった地域もトレスコウの命令の下軍事侵攻により奪還され、東欧におけるドイツの覇権は正式に戻った。
東欧の中でそれまで国家弁務官区・傀儡国のあった地域では、保護領となったコーカサスと軍政が敷かれたモスコーヴィエン─『ルスラント軍管区』と命名され、軍国派の将校達の左遷先となった─を除き、新たに政権の意向を強く受けた自治州の『帝国直轄州』が4つ編成された。
旧ポーランド地域の帝国直轄州ポーレン、バルト地域の帝国直轄州バルティクム、ベラルーシ地域の帝国直轄州ヴァイスルテニエン、ウクライナ地域の帝国直轄州ウクライーネがそうである。
これらの地域では旧来のゲルマン化政策こそ続行されなかったものの、そこに住むドイツ人とそれ以外の現地民は対等ではなく、アメリカ南部の白人と黒人のような扱いの差を受けることになる。
東欧での覇権の再確立の後もシュペーアの改革は続いた。
倫理的にも経済的にも問題が噴出し、かつて軍需大臣であったシュペーアが創設に関わっていた─このことは何重にも偽情報を重ねて隠蔽されている─奴隷制を廃止するために、二段階からなる計画が作成された。
まずは、第一段階としてそれまで殆どが大企業の私有財産だった奴隷の国有化をすることによって、彼らをライヒによる人道的な保護を受けられる状態にし、第二段階として奴隷の名簿を元に出身地域の帝国直轄州に臣民として送り返す、そのような計画だった。
また、この計画の実施と同時並行でミッテルシュタンド─いわゆる中小企業である─の復活及び再活性化、東欧への出資及びそれらの地域の住民の保護など、さまざまな改革が図られた。
奇妙なことに、オーベルレンダーも彼自身の理念上奴隷制を嫌悪していたらしく、政治的には帝国中央のどの派閥も協力的であった。
この第一段階が実行に移されると、帝国の影響圏たる統一条約内で経済を牛耳っていた四つの大財閥─すなわちIG・ファルベン、国家工場、ダイムラー・ベンツ、そしてジーメンスである─は猛反発したが、彼らは一つ一つエアハルトとシュペーアの命令の下に裁きが下されていった。
一番温情が与えられたのはジーメンスだった。彼らはあまり奴隷に頼ることなくハイテク産業でそれなりの利益を上げており、また社長のエルンスト・フォン・ジーメンスも改革派寄りの人物で非常に改革にも協力的であったことから、ジーメンス社だけは解体されることなく統一条約内での特権廃止だけで済んだ。
その次に解体されたIG・ファルベンはそう幸運ではなかった。ヘルマン・ヨーゼフ・アプスに率いられるこの財閥は、帝国の戦時経済確立に重要な貢献をしたものの、その後は帝国内の奴隷を最も多く所有するなど、『奴隷の血に塗れたドイツ産業』というステレオタイプの顔となっていた。
彼らは帝国諜報局も用いた、文書化すれば何百ページにも及ぶ徹底的な不正暴きの後に容赦なく解体されたが、アプス本人は逮捕を免れ、その後もドイツにある程度の影響力を持ち続けた。
戦争経済指導者のエドムンド・ガイレンブルグ率いる国家工場─内戦以前は『ヘルマン・ゲーリング国家工場』という名を掲げていた─は鉱石の採掘と鉄鋼の生産を担っており、IG・ファルベンほどではないものの巨大で多くの奴隷を抱えていた。
彼らは幸いにも国営企業であったため、資産の移送が行われる前に解体命令を出すことでなんとかなった。
最後に残ったのは、ダイムラー・ベンツとその首領たるフリードリヒ・フリックであった。
彼らは会社の規模こそ他に比べて小さいものの、かつて内戦時の敵たるハイドリヒを支援していた親衛隊との深いつながりがあり、実際に彼らの工場に突入した国防軍部隊は武装親衛隊と交戦することとなった。
フリック自身は自分の財閥の解体命令に対して猛反発したものの、彼を労働キャンプに送るのに十分な証拠を使い脅すと渋々認めた。
最終的に解体により接収された資産は払い下げが実施され、全てドイツ本国の様々な中小企業に還元された。
財閥解体に成功したシュペーア政権は、それ以外のことにも目を向けた。
外交面においては、シュミットはシュペーアを説得し、いくつかのドイツ側からの譲歩と引き換えに、アメリカ率いるOFN諸国からの禁輸措置を撤回してもらうことに成功した。
また、前々からシュペーアが大幅な関係修復を狙っていた日本との交渉において、経済・軍事・技術的なものなど多数の合意を引き出すことにも成功した。
研究の方面においても、それまで10年以上他国に遅れをとっていた科学研究の遅れを大幅な投資によって挽回し、『ネッツラム』と呼ばれる相互情報交換ネットワークを開発し、帝国全土に適用することに成功した。
また国防軍も、トレスコウによる大改革が実施された。
陸軍には腐敗していてかつ残虐な軍国派、海軍には保守的なボルマン派の残党、空軍にはゲーリング派の影響力が残っていて、かつ軍部そのものが高度に政治化していたため、まずはそれらの影響の排除及び軍の非政治化から改革は幕を開けた。
西ロシア戦争で敗戦しかけるという大失態を晒した陸軍には、プロイセンの伝統の復興と総統への忠誠が改めて仕込まれ、残虐な不適合者を廃して組織全体を刷新した。
兵器・戦術研究や兵士教育などについても刷新され、再び世界と張り合える陸軍が戻った。
賄賂などで有名だったゲーリングの影響を受け、三軍の中で最も腐敗が深刻だった空軍についても、それらの腐敗分子は徹底的に叩き出された。
海軍は元から予算が少なく小規模で、旧式艦ばかりでこのままでは使い物にならないことがわかっていた。
そのためまずは艦艇を新しいハイテクなものに刷新した上で、大西洋などで演習をさせて練度を上げ、国際的な責任を果たさせるなどの改革を断行。
最後に三軍合同の訓練を何度か行い、またヒトラー時代とは違い総統が好き勝手できない、ドイツ全体に使える組織であることを再確認させて改革は終了した。
彼らはこの改革が終わったすぐ後に、政府権力が崩壊し内戦状態に陥ったブルグントの殲滅作戦『黒作戦』に投入され、そこで90日以内に全勢力を殲滅し占領するなど、目覚ましい戦果を世界に見せつけることとなる。
上記の改革に加え、奴隷解放計画の第二段階である奴隷の本国送還に役立つ高速鉄道網も建設が終了、ドイツの改革は順調かに見えた。
しかし、それまでイタリアの傀儡国・植民地政府の統制のもと安定して輸出されていた中東製の石油の流通が、中東の殆どの国が内戦状態に陥ってしまったことで止まってしまい、様々な国の株式市場が暴落、ここに石油危機が幕を開けた。
急いで集められた閣僚たちの会議の中では、まず目下の危機が終了するまで奴隷の本国送還は一旦停止されることが決定された。
経済対策としては国内の貧困問題に焦点を定めて経済を復活させつつ、ドイツ国内の不安定状態をなんとか収めるために世界各国から石油を購入し東欧にはそれに半強制的に協力させるシュペーア案が可決された。
幸いにも、親独の国王が暗殺され内戦状態に陥ったイランを除いては、石油危機のきっかけとなった中東各国での内戦はドイツ支援の汎アラブ主義者たちが勝利したので収まりつつあった。
また、アメリカからの石油の購入交渉は拒絶されたものの、日本との交渉は上手く行った上に、新たにノルウェー付近で大規模油田が見つかったため、経済は回復した。
しかし、経済が回復したと言っても、その犠牲として東欧での締め付けは悪化し、奴隷の本国送還も一時停止されたため、奴隷たちの反乱は激化していく一方で、ついに彼らは東欧に潜伏していた反体制派パルチザンたちと結びついた。
瞬く間に東欧のあらゆる地域で奴隷の反乱が発生し、反体制派パルチザン群のリーダー:ヴィリー・ブラントは奴隷の反乱で絵支配された東欧全体をまとめ上げた。
軍管区ルスラントは、これらの混乱に乗じてかつて左遷された軍国派の将校団が掌握、そのリーダー格のシェルナー元帥は、『もしシュペーア政権が奴隷たちに対してすぐ行動を起こさなければ、東欧を進軍して奴隷を蹴散らしながら本国の政権を潰しに行く』という意図の声明を出した。
奴隷の反乱は自由を求めて起きたものであったが、結局それは完全には叶わなかった。
シェルナー率いる軍国派が本国からの派遣軍によって撃破された後、奴隷の反乱の指導者たちと単独で交渉に向かったシュミットは奴隷制の撤廃、劣等人種を定義するニュルンベルク法の撤廃については認めたものの、他の自由化・民主化についての要求は呑まれなかったか、慎重に検討すると答えることしかできなかった。
これで満足した奴隷の反乱は終結し、ブラントはアメリカに逃亡、シュミットは奴隷たちと勝手に交渉したせいで外務大臣の任を解かれ、後に遺体で発見された。
残りの四人組もトレスコウは国防軍最高司令部総長、エアハルトは経済大臣の任を解かれ、キーシンガーは副総統の人は解かれなかったもののシュペーアの力なき傀儡と化した。
また、シュミットがかつてブラントに約束した数々の民主化の話もシュペーアによって反故にされた。
彼は奴隷の本国送還こそ成したものの、一党制を変えはしなかった。
彼はナチズムを持続可能なものにすることを望んでいたのであって、民主化するつもりはさらさらなかったのだ。
シュペーアは名実ともに、民主化を心から望む四人組との権力闘争に勝利し、ライヒの唯一の権力者となった。
国家社会主義は近代化され改革され、今や内戦以前よりはるかに持続可能な代物となった。
民主化を望む四人組という希望は鎖で繋がれ、一度は燃え上がった自由の灯火はかき消された。
党内の守旧派や保守派もまた同様に黙らされた。
一人の総統の指導の下、黒い鷲の国は飛び続けている。
ナチズムの象徴たる鉤十字の旗は、今日も穢れも曇りもなくはためき続ける。
第二次世界大戦は枢軸国の圧勝で終わり、続く赤城条約の締結により、アメリカ合衆国は太平洋の諸島群とハワイ、そしてサンフランシスコなどの西海岸の主要軍港を全て大日本帝国に割譲を余儀なくされた。
幸いにも本土侵攻などはされなかったため、英仏とは違い傀儡国とされたり政体の変更を迫られたりはしなかったものの、これはアメリカ合衆国にとって初めての敗戦であり、その国内におけるショックは凄まじいものであった。
1948年度の大統領選挙では与党だった共和党の候補を押し退け、かつて第二次世界大戦時にスコットランド防衛戦の指揮をとってそれを成功させた、元将軍の民主党候補:ドワイト・D・アイゼンハワーが就任した。
彼は共和党出身の前大統領:トーマス・E・デューイが一度は骨抜きにしたニューディール政策を復活させ、ルーズベルトのやり遂げられなかったことを終わらせようとしたが、ドイツのポルトガル領アンゴラ侵攻への介入を巡ってウィーラー副大統領と対立、次の1952年度大統領選挙では危うく落選寸前までに陥った。
結局このことでかなり力を削がれた彼の政権の二期目は期待外れなものに終わり、これによって不満が高まった国内ではジョージ・パットン将軍を支持するタカ派の国民党が結成されるなどのことが起きた。
続く1956年度選挙では、進歩主義的だったが故に既得権益層から支持を得られなかった元副大統領に代わり、民主党からは穏健派のエステス・キーフォーヴァーが出馬、共和党も穏健派の候補を別に擁立した。
しかしこの穏健派二人の立候補により、既存の政党二つに不満を持っていた人々が国民党、あるいは何十年かぶりに復活した進歩党などに寄ることとなった。
結論から言えばキーフォーヴァーは辛うじて勝利を収めたが、その跳ね返りは2年後にやってきた。
その時行われた中間選挙─これはアメリカでは上院の三分の一、下院の全員が改選となる─では、何十もの新党の候補に票が入れられ、また得票率三分の一の議員が当選し、汚職や不正が疑われるなど、混沌とした状況となった。
この結果により、国民党系や進歩党系などの様々な新党は力を合わせれば既存の二大政党に打ち勝てることに気がつき、彼らは進歩党と州権党を中心に集い、便宜的な反主流派政党同盟である『国民進歩連盟』を結成した。
これにより存亡の危機に立たされた民主党と共和党も独自の連合『民主共和連合』を結成、1960年度選挙では共和党系のリチャード・ニクソン大統領を当選させ、その副大統領として民主党系のジョン・F・ケネディを就任させた。
ここにアメリカ政治史上初の、共和党と民主党の連立政権が成立したのである。
上院時代のニクソンは奇しくも、アメリカに史実と同じように大規模な闘争を与えた。
史実で行われた赤狩りに代わる「灰(ナチ)狩り」である。
そして、その動きを成功させたニクソンはこうして大統領に登り詰めた。
そんなニクソン大統領の在任中の主な政策はこのようなものだった。
・国民進歩連盟を批判
・プロパガンダに多くの資金を投入する
・人種問題に対して中途半端な政策を取るが、公民権法には署名した
・代理戦争への介入を実施
ニクソン政権は、特に冷戦では大きな成果を上げた。
日本軍占領下のマラヤでの代理戦争において、日本に勝利した上に、その日本がハワイに核ミサイルを配備したことで始まったハワイ・ミサイル危機においても、副大統領であったケネディがアメリカと日本の双方に攻撃を控えさせ、核ミサイルを合意に導いた。
また、封じ込め理論が採用され、アメリカをはじめとした民主国家の陣営『自由国家機構(OFN)』内のバランスを取りつつ、アメリカの優位を確立した。
国民進歩連盟の施設への盗聴事件と、そこから芋づる式に発覚した数々のスキャンダル、そしてそれらのせいで弾劾されそうになるとすぐさま辞任したことを除けば、ニクソン政権の功績は高いものだった。
ニクソンが大統領を辞任すると、副大統領だったケネディが大統領になった。しかし、そのケネディも任期中に暗殺されてしまった。
ケネディの後任として下院議長のマコーマック大統領が就任し、その後の1964年選挙では民主党系のリンドン・B・ジョンソンが大統領となった。
このジョンソン政権は、ニクソン政権時に始まった『南アフリカ戦争』への介入を拡大した。
『南アフリカ戦争』とは、かねてよりOFN寄りの姿勢だった南アフリカに対し、ボーア人が反乱を起こし、さらにそれを『アフリカの盾』と呼ばれるナチスのアフリカにおける国家弁務官区間の同盟がそれを前面支援したことで始まった戦争である。
この戦争においてアメリカは全面介入をしたのにも関わらず敗北、南アフリカは国家として消滅し、OFNは撤退した。
その一方、国内においてはジョンソン大統領は「偉大なる社会」と呼ばれる、総合的社会福祉政策で大成果を上げ2期目に入った。
さらに、ジョンソン政権時代に、アメリカ国内で1つの社会運動が成功した。
公民権運動と呼ばれるそれは、黒人に対する差別をなくすための活動であり、多くの黒人たちが立ち上がった。
そして、この運動は、ジョンソン大統領が最終的に史実のものよりも強力な公民権法を制定したことで成功した。
この公民権法は、それまでの法律では黒人の権利を守れなかったことを反省して制定されたものだった。この法律の制定により、国内の黒人の社会的地位は大きく向上することになる。
今現在大統領を務めているジーン・カークパトリックは、民主共和連合の出身で、アメリカ初の女性大統領である。
彼女は米国の外交政策を大きく転換させた「カークパトリック・ドクトリン」で最もよく知られており、その内容は単純に言ってしまえば『ファシストに立ち向かうために、親米独裁国家を世界中で打ち立てる』というものである。
1972年のアメリカ大統領選挙で、ジーン・カークパトリックは民主党候補としてリンドン・B・ジョンソンの後継者として指名され勝利した。
彼女は就任早々米国の各地への介入を強化し、その強力で効果的な外交は、世界におけるアメリカの影響力をある程度拡大させることに成功した。
カークパトリックは、今日までの2年間、なんとか成功を収め続けたが、ヨーロッパでの状況は悪化している。
大西洋の向こう側ではドイツとイタリアの下に秩序が成り立っていて、一方はドイツの経済と影響力を復活させたアルベルト・シュペーア総統が率いている。
もう一つはネオファシスト政権下の国家であるイタリア帝国であるが、こちらは一応民主主義国家であるため先述のドクトリンに基づいてアメリカが支援している。
カークパトリックは強い指導者である。
戦争に負け、日本に屈辱を受けたにもかかわらず、アメリカはカークパトリックのはるかに強力で攻撃的な政策のもとで成長し、再び上昇を続けている。
しかし、全てうまくいっているわけではない、日本はアジア一帯で経済的搾取を続け、ドイツも新総統の下復活した。
民主党や共和党による長期政権に嫌気が差し、国内の過激派に流れてゆく国民も出始めている。
だが彼女は、いやアメリカは諦めないだろう。
ファシストどもが完全に打ち破られ跪くまで、自由の守り手は星条旗の下に戦い続ける。
第二次世界大戦─ドイツのポーランド侵攻から始まった2度目の世界大戦─において、欧州からは遠く離れた地球の反対側では、東洋から出てし太陽が照らす国「大日本帝国」がアジアと中華大陸、そして米国に切りかかり、全ての敵国に対し戦勝を収めた。
戦後日本中心に設立された大東亜共栄圏の下では、表面上は植民地が解放され独立国となり、欧米帝国主義からの解放とアジアの独立が謳われたが、その実態は財閥支配と労務者制度による苛烈な新植民地主義的圧政・搾取で、いわば欧米に代わって日本が宗主国に代わっただけだった。
その植民地での圧政・搾取と引き換えに日本本土は経済的に発展し、大政翼賛会内の各派閥による擬似的な民主主義の文民政権も復活し国内も安定したが、軍部も未だ政治に対する発言力を持ち、また戦前から国内で幅を利かせていた財閥や、戦後に勃興した新たな巨大企業:系列企業らと軍部・政治家の汚職も蔓延しているのが大日本帝国という新たな超大国の実態であった。
この現状が大きく変わり始めたのは、1960年代前半のことだった。
日本警察の尽力によって財閥の一つ:安田財閥が多数の軍部及び政治家との癒着が摘発され破産、そのかつての資産をめぐって共栄圏内に共在する財閥と系列企業間の経済戦争が始まり、財閥経済が崩壊した。
また外に目を向けると、共栄圏内の多くの地域─フィリピンやマレーなど─ではアメリカの介入によって反日独立派が立ち上がり、独立抗争が始まってしまった中で、安田財閥との癒着が発覚した井野首相が辞任し、新しい首相の座を狙って大政翼賛会内の熾烈な権力闘争が始まった。
結果的にこの次の首相の座を巡る権力闘争は、党内改革派の首領で海軍出身の高木惣吉や現状維持を図る党内保守派の池田正之輔を抑え、党内技官派の賀屋興宣が首相として選ばれた事で終わりを迎えた。
彼は元々大東亜戦争時、東条内閣の大蔵大臣を務めていた人物であり、日本経済の問題点をよく把握していた。彼は政策としては財閥の力を制限して軍部を懐柔し、官僚政治による政治と経済の効率最大化を声高に主張していた。
しかし、既存の問題を抜きにしても、まだまだ問題は山積みだった。
まず、彼の率いる技官派もそれぞれ目指す場所の違う二つの派閥が存在し、賀屋はどちらかの派閥に属す事を迫られた。
彼は結局福田赳夫率いる民政官僚派の側につくことを選び、彼は就任して早々『昭和の妖怪』こと岸信介とその影響下にある椎名によって率いられる革新官僚派との派閥争いへ突入した。
また、軍内ではかつての蒋介石時代の中華民国の諜報機関『軍統』の指導者『戴笠』が生きており日本に対してクーデターを引き起こすのでは無いかという噂が広まり、日本軍、特に陸軍は先述の摘発事件の事もあってパラノイア化していた為、賀屋はその対処にも追われる事になる。
結果的に後者の”大いなる陰謀論”については、包括的な調査の結果、戴笠本人が数年前に死亡しており、その時に軍統は解散している事が確定した為に公式に否定され、自身の政治的権益のためにこれらの噂を意図的に捏造して流布した憲兵隊は組織ごと粛清されることで決着がついた。
その後に賀屋は政治に専念、岸信介の影響を排除する為に奔走し、直接的に『昭和の妖怪』である岸信介本人と会談を行い彼の影響力を周到に抑え込んだ。
結果として岸信介は事実上椎名への支持を撤回せざるを得ず、賀屋興宣は自分の後継者として福田を無事据えることができた。
福田は貴族院と翼賛会に対して説得と演説を行い支持を獲得し、それを見届けた賀屋は正式に首相を辞任、福田は次期の総理大臣へ公式に選ばれた。
帝国の将来を担う者のバトンは、福田に渡されたのだ。
福田は首相に任命されるや否や、様々な改革を実行に移した。
国内の土地改革を実行し、貧困に喘ぐ本土の農家たちを救済に導いた。
財閥はある程度の行動の自由を与えられながらも、腐敗を防ぐために永続的に政府の監視下となった。
官僚たちも腐敗を防ぐために同様の監視体制下に置かれた。
外交的にも、共栄圏内の他の国々への締め付けをかなり緩め、ある程度の政治的自由を与えた。
日本、そして共栄圏はこれからも様々な困難に直面するだろう。
それは熾烈な冷戦下での超大国の運命であるが、しかし以前よりは日本は、いや共栄圏はよりよく対応できるだろう。
日の出ずる帝国が、永遠に輝けんことを。
民主党と共和党の連合が政権を維持し続け、自由民主主義の砦として力強く立ち続けているアメリカ合衆国率いる「自由国家機構」
ヒトラーの死後に一時は内戦にすら突入したが、内戦に勝利したシュペーア率いる改革派の下で効率化され、欧州を支配し続ける大ゲルマン帝国率いる「統一条約」
戦後の安田財閥の崩壊から始まった経済危機を乗り越え、力を取り戻しアジアを支配し続ける大日本帝国率いる「共栄圏」
果たしてこの冷戦の最終勝者は誰になるのか、それはまだ神のみぞ知る…