ようやく朱里と雛里が帰ってきた。ひとまずは洛陽も落ち着いたということだろう。
空白になっていた冀州には劉虞が入ることになったようだ。空いた幽州牧には公孫賛が収まるらしい。
これは俺にとっても良い配置換えだ。
史実と違って劉虞は異民族排斥派だったからな。俺とは相性が悪いんだ。これからは今まで以上に公孫賛との関係を密にしておこう。
とりあえず、お祝いとして馬と食糧を贈っておくか。
まあそれはいい。問題は……というほどの問題でもないが、俺の新たな部下となった者の話だ。
「お初にお目にかかります、中郎将様。姓は張、名は奐、字を然明と申します」
洛陽に麗羽の助命の文を送った後、俺は使匈奴中郎将に任命された。あと里の統治が正式に認められた。うん、完全に頭から抜けてたわ。言われてみれば、俺のやってることって不法占拠だよな。朱里が上手くやってくれたようだ。
でも別に公孫賛の下に入っても良かったのよ? 劉虞とは音楽性の違いで相容れなかったけど、公孫賛とは異民族に対する考え方が似てるから、里の統治も上手くやってくれるだろう。そしたら俺も隠居できたかもしれないのに。まあ今さらか。
そして俺の属官としてやってきたのが張奐だった。
先触れから朱里がまとめた張奐の資料を受け取っていたが、主に若い時の経歴だった。朱里も配属が決まって慌てて調べてくれたのだろう。
つか生きとったんかワレェ!
みんなが汜水関でわちゃわちゃやってた時何してたのよ。皇帝が土下座してでも出陣を請うくらいの英傑だよ。
いや、たしか張奐って宦官を蛇蝎の如く嫌ってたはずだから、普通に出陣を固辞したのかもな。
で、宦官が誅滅されたから戻ってきたって感じか? 宦官は嫌ってたけど、忠義心はあったと思うし。
そんなことよりもだな、さっきから凄い殺気を感じるんだが。華麗に受け流してはいるが、正解かどうかは分からん。こっちも殺気を返した方がいいのか?
でもなぁ、こんなおばあちゃんにガチの殺気向けるのも気が引けるし、ただでさえ朱里と雛里が冷や汗流しながら、はわわあわわしてるのに、殺気のぶつかり合いの余波を喰らったら卒倒しかねんぞ。
「うむ。私は異民族融和を掲げている。お互いに理解し合い、良き交易相手となれるならば、漢帝国にとっても利のあることであろう。張奐殿、いや然明よ。これからよろしく頼む。私を支えてほしい」
そう言って頭を下げる。はわあわする声が聞こえてきたが、上の人間が頭を下げることに意味があるのだ。
お、殺気が消えたな。やったぜ。
◇
「ご主人様、張奐様にはお気をつけください」
然明を雛里に任せて退出させた後、朱里がひどく真面目な顔で告げてきた。
「分かっているさ。中央の紐付きだと言いたいのだろう。推したのは誰かな?」
「王允様です」
王允!? また意外な名前が出てきたものだな。彼女は三公の一席である司徒を務めていた女性だ。責任感の強い婆さんで、陛下の
後は若い者に任せると言って隠居したと聞いていたんだがな。
首輪にお目付け役、ツーアウトってところか。まあ王允の差し金である然明はともかく、あの皇帝ちゃんの性格を考えれば、中郎将は単なる善意の可能性もあるが。
――やっぱりあの時は遠慮してただけだもん。官職につけてあげるもん。みんな欲しがるんだから、きっと喜ぶもん
うーん、これは……普通にありそう。王允に丸め込まれた可能性はかなり高いな。悪意からくるものならどうとでも対処できるんだが、善意からくるものはなぁ。あの皇帝ちゃんも難しいお年頃だし。
「王允様はご主人様を危険視しているようです。あの七星宝刀も、王允様から託されたものでしょう」
伝説の七星剣か。さすがに面会の時には佩いていなかったからな。後で見せてもらおう。
「気持ちは分からないでもない。彼女もまた、国家の安寧を願っているのだ。力を持ちすぎている俺を警戒するのは当然と言える」
「しかしご主人様は……」
「うむ。俺にそんなつもりはない。だからこそ中央と距離を取ったのだが、逆に警戒されてしまったのかもしれん。彼女にはありのままの俺を見て判断してもらうしかないな」
「はい。きっと伝わると思います!」
俺の答えに、朱里は満足したように笑顔を浮かべた。だがその一瞬後、少し表情を曇らせた。
「それとご主人様、例の構想ですが、もう少し時間がかかりそうです。申し訳ありません、私の力不足です」
例の構想ってなんぞ? こっちが何でも知っている
「焦る必要はない。じっくりとやれば良い」
そう言って朱里の髪を撫でる。とその時、外から歓声が聞こえてきた。
「なんでしょうか?」
「訓練場の方だな」
「張奐様のお弟子さんたちが腕試しをすると言ってましたが……」
朱里がコテンと首を傾げる。ふむ、然明の弟子か。ただ者じゃないんだろうな。
「行ってみよう」
「はい」
朱里を従えて訓練場へと向かう。俺の姿を確認した兵たちがザッと道を開ける。おぉう、まるでモーセの海割りみたいだ。
訓練場の中心では、然明と鈴々が木剣を構えて向かい合っていた。
むぅ、これは……。
「うりゃぁーー!」
鈴々が然明に向かって攻めかかる。高速の連続攻撃。だがその全てを然明は躱し、捌いていた。
「鈴々ちゃんの攻撃が全然当たらない……」
朱里が感嘆の吐息を漏らした。一寸の見切りと、絶妙のいなし。極限まで熟達した人間の
「うぬぬぬ、当たれば一発なのに!」
鈴々が悔しそうに臍を噛む。確かに鈴々の怪力ならば、当たればあの枯れ枝のような腕は一撃で骨折するだろう。しかし、当たらない。
熱くなった鈴々の攻撃は次第に雑になり、カウンターで勝負は決まった。然明の握る木剣の切先が、鈴々の首筋にピタリと当てられる。
「ま、まいったのだ」
強いというよりは、
「お、おい」
「あの人、もしかしてここの頭領か?」
「思ってたより優男ね。あたしでも勝てそう」
こちらに気づいたのか、然明の弟子たちがざわつき始めた。優男とか久しぶりに言われたな。たしかにムキムキマッチョマンではないが。
前に出ようとした朱里と雛里の頭にポンと手を置く。
「見事な腕前だな」
「いえ、お見苦しいところをお見せしました」
然明が拱手して頭を下げる。
「あ、おっちゃん! 鈴々の仇を取って欲しいのだ!」
このおバカちゃん! 今そういう空気じゃないでしょ!
おまえはおとなしくして、なんで負けたか明日までに考えときなさい!
「お師様と里の頭領が戦うのか! どっちが勝つかな?」
「お師様が負けるはずないわ!」
「この馬鹿女郎ども! 頭領が負けるはずねぇだろ!」
ほらみろ。なんか戦う空気になったじゃないか。然明は黙ってこっちを見ている。適当にごまかして場を治めることもできるが、勝負から逃げたと噂されると恥ずかしいし……仕方ない。
その変化を感じ取ったのか、先に口を開いたのは然明だった。
「では一手、ご指南頂きたく」
「……うむ」
これで然明の申し出を俺が受けたという形になった。細かいところだが、結構重要だったりする。
鈴々から木剣を受け取り、中央へと歩みを進める。お互いに脱力の構えで向かい合った。そのまま、しばらくの時間が流れる。
「なるほど。そう来ましたか」
鈴々との戦いを見て、ある程度手の内は分かった。然明の戦法は、いわゆる後の先を取るカウンタースタイルだ。攻めっ気の強い鈴々には相性の悪い相手だろう。ならば、こちらから攻めなければいい。という安直な手だが――
「ではこちらから攻めましょうかね」
まあそうなるわな。カウンター使いが攻められないわけではない。然明がスタスタと無造作に歩いて来る。隙だらけのようにも見えるし、全く隙が無いようにも見える。
こちらから攻めたくなるような絶妙な空気だ。
間合いの一歩外で一呼吸おいて、然明が動いた。
――速い!
ギリギリで攻撃を回避する。速度自体はそれほどでもないが、予備動作が全くないのだ。だから軌道が読み難い。
「無拍子か」
「……恐ろしいですな。我が極意を一瞬で見破られましたか」
無拍子とは、一言で言うと筋力ではなく、自重を使って加速することだ。身体を崩した時に発生する位置エネルギーと自身の加速を合わせることで、脱力状態からの素早い動きを可能にする。
動きが読み切れない。アニメで1コマ飛ばされた時の感覚と言えば分かるだろうか。
しかも、一撃が重い。攻撃する一瞬だけに気を込めているのか。これなら体力の消耗も抑えられる。衰えた身体でどう戦うかを研究しつくしている。
「我が"絶界"、どこまで持ちますかな」
攻撃の瞬間以外は気を抑えているため、気の流れがほとんど感じられない。今は反射神経と直感だけで凌いでいるが、このままではいずれ
恋を"動"の極致だとすれば、然明は"静"の極致だな。木剣だから多少の被弾覚悟で攻め込めないこともないのだが、真剣だったら……と言われても
「おいおい、そちらの頭領さん防戦一方じゃないか!」
「勝負はこれからなんだよ! 黙って見てろってんだ!」
おーおー好き勝手言いなさる。
予測の難しい攻撃を、紙一重ではなく大げさに躱す。そうすることで相手の油断を誘う。今は我慢の時間だ。反撃の機を見極めろ。
要はタイミングだ。相手の動きに合わせて……よし、このタイミんにゃぴ!?
くっ、こいつ! 察知できないほど極小の気弾をぶつけてきやがった!
だがまだだ! たかがメインカメラをひとつやられただけだ!
視覚だけに頼るな。全神経で捉えろ。
あの動きを捉えるには、こちらも最小限の動きに抑えるしかない。
最速で最短で、真っ直ぐに一直線に!
――落ちろよぉぉーー!!
然明の攻撃に合わせて、瞬撃特化の一撃を繰り出す。しかし水月を突くはずだった高速の突きはジャンプでかわされ、俺が突き出した木剣の上に然明がふわりと飛び乗った。
これマンガでよく見るやつだ!
俺が木剣を払うより先に、然明の前蹴りが放たれる。その一撃をのけ反りながら回避しつつ、軽く跳躍しながら回し蹴りを放つ。脚は俺の方が長い。ギリギリ届くはずだ。
足の甲は然明の大腿部を捉えた。しかし、手応えがない。
正確には足応えだが、然明の身体は俺の足を支点にしてくるりと舞っていた。凄まじい技量だな。あの体勢からでもいなせるのか。
間合いが離れる。距離を取って俺たちは対峙した。
そこで、静寂から一転、歓声が上がった。
「す、すげぇー!」
「全然見えなかった!」
「さすがお師様!」
「演武みたい!」
「最後の動き、なんだあれ!?」
防御型同士が戦うとこういうことになる。ここらが潮時かな。
「このままでは千日手になるな。お互いの力量も分かったことだし、終わりにしようか」
「……そうですな。先に体力が尽きるのは、私でしょうな」
やっぱり気づいてたか。俺が捉まるのが先か、然明の体力が尽きるのが先か。予測の難しいところではあるが、おそらくは勝てる……と思う。花を持たせたつもりだったんだが、余計なお世話だったか。
やれやれ。視力も戻ってきたな。一時的なものでよかった。危うく独眼竜になるところだったぜ。まあ失明するほどの攻撃的な気だったら、さすがに察知できただろうが。
「中郎将様。強さとは……なんでしょうか」
知らんがな。そんなことを俺みたいな若造に聞くんじゃないよ。
ここで言う強さとは、単純な比武ではなかろう。インテリは考えすぎるんだよ。哲学なんて究極的に言えばアホらしいの一言で片付くんだぞ。頭からっぽの方が夢詰め込めるだろうが。
もっと肩の力抜いて生きようぜ。
「宦官に失望して、国に絶望して、それでも忠義心だけは捨てられず、隠居して弟子を育てて、未来に繋げようとして、旧友の頼みを断り切れず、最後の奉公と思って幽州くんだりまでやってきて、まだ迷っているのか?」
一息に告げると、然明は絶句したように沈黙した。弟子たちも言葉を失っている。
「私はもう……老い
あれだけ動けて老い耄れたもないだろ。それにあんた、いざという時は俺を抑えるつもりだったんだろうが。
「だから労わってほしいのか? だから慰めてほしいのか? 先人たちに申し訳ないと思わないのか? 弟子たちに恥ずかしいと思わないのか?」
「貴様ッ!! 黙って聞いていれば――」
激昂した弟子の一人が叫びをあげたが、然明がそれを手で制した。
「あなたは、私にどうしろと?」
「私はあなたに何も
「……厳しいですな」
「かつて天下を震わせた白起も、晩年は愚痴をこぼすばかりで王の不興を買った。愚痴なら墓場で言えばいい。今から数十年前、異民族の脅威から国を救ったあなたなら、その魂をまだどこかに残しているはずだ」
そこで俺は言葉を切った。
それで納得したのかは分からないが、然明は押し黙った。
「……強い、ですね。中郎将様は」
「強くなどないよ。自分は強いと、特別だと、勘違いすればいずれそれは傲慢に変わる。そうなれば人心は離れていく。私は弱者だ。みんなに
周囲から息を呑む音が聞こえる。
まあ始皇帝は世間の評判ほど独善的ではなかったそうだが。度量衡を統一したのは良いと思うが、焚書坑儒はやりすぎだろう。正確に言うならあれは李斯の献策なのだが、承認したのは始皇帝だしな。
細かいことを言えば、度量衡の基礎を作ったのも始皇帝ではなく商鞅だ。
「人間はどう足搔いたって神様にはなれないんだよ。機能しない名ばかりの英雄よりも、夢を語り続ける凡人の方が、意外と人はついて来るものさ。今度聞かせてくれ。あなたのやりたいこと。あなたの夢を」
そう締めると、ようやく然明の表情がほころんだ。
なんだよ、笑うと結構かわいいじゃねぇか。
然明が拱手して膝をつく。弟子たちもそれに
史実の張奐は黄巾の乱の時点で故人だったので、三国志には登場しないんですよね。
まあ恋姫時空ということで。