「雪蓮様! 張子布、ただいま戻りましたぞ!」
張昭は天に向かって叫んだ。正確には樹上に向かって、だが。その声に反応して、葉がガサゴソと音を立て、緑の中から褐色の肌が現れた。
「あら雷火。随分と早かったのね」
張昭の真名を呼びながら、雪蓮は笑みを浮かべながら枝から飛び降りた。
「賊も減ってきましたからな。道中は穏やかなものでしたぞ」
「そういう意味じゃなくて、もっとあっちでゆっくりしてきても良かったのよ?」
「わしがおらぬと怠ける者がおりますからな」
「ああ、あはははっ……」
雷火は目つきを鋭くして目の前の人物を睨みつけた。それに対して、雪蓮は目を逸らしながら愛想笑いを返す。
「でもさあ、別にあなたが行かなくても良かったんじゃない? 書簡のひとつも送れば十分でしょ?」
「それは出立する時にも申したでしょう。義理を欠いては孫家が蛮人の集まりだと思われますぞ。仁は人の心なり、義は人の路なりといいましょう」
「え? ああ、うん。そうね。孫子ね、孫子」
「孟子でございます。なんでも孫子というのはやめなされ! もうあなた様は州牧なのですぞ。無頼のままでは困りますな!」
「もー、分かってるわよ。で、将軍様の様子はどうだったの?」
雪蓮はうんざりしたように顔をしかめた後、露骨に話題を逸らした。
「将軍職は返上しておりますよ。今は中郎将様です」
「あー、そうなんだ。そういえば将軍って臨時職だもんね。いよいよ乱世も終わりって感じねぇ」
雪蓮はしみじみと嘆息した。一言で将軍と言っても将軍にはランクがあり、その号数は一二五にも及ぶ。最上位は大将軍であり、その下に三将軍(驍騎将軍・車騎将軍・衛将軍)がある。彼の就いていた征南将軍というのは、実はそれほど高位の将軍職ではない。
「なにやら残念そうですな」
「そんなことはないけど、やっぱりね。私ってほら、今さら言わなくても分かるでしょ?」
にんまりと笑みを浮かべ雷火を見つめる。雷火は呆れたようにため息を漏らした。
「ところで気になってたけど、あなたが剣を佩くのは珍しいわね。不敬だなんて言うつもりはないけど、それに持っているのは……帽子?」
「どちらも中郎将様からの贈り物でございますよ。まずはこちらを」
雷火は麦わら帽子を手渡した。雪蓮は物珍しそうに眺めた後、それを頭にかぶった。
「……ふーん、なかなか涼しいじゃない。中が蒸さないように風通しが良くなっているのね」
「はい。しからば、その帽子にどのような意味が込められているか分かりますか?」
「え? 帽子の意味なんて日除け以外ないでしょ」
「分かりませぬか。中郎将様は、頭を冷やせとおっしゃりたいのですよ。雪蓮様の突撃癖、見抜かれておりますぞ」
そう言われて、どうも釈然とはしないものの、図星であるために反論の言葉が出てこない。仕方なく雪蓮は次の話題に移った。
「で、そっちの剣は?」
「どうぞ」
恭しく両手で差し出された剣を受け取ると、雪蓮はスッと剣を抜いた。
「これは……」
その美しさに、雪蓮は息を呑んだ。なにしろ剣を通して雷火の顔が見えたからだ。こんな剣を見たのは初めてだった。
「
「はい。武器というよりは美術品に近いですな」
「……違うわ。これは武器よ」
雪蓮はすぐにその剣の本質を悟った。この剣は、ひどく見えにくいのだ。打ち合うのではなく、奇襲用の剣と言えるだろう。
雪蓮は雷火にそう説明した。
「なるほど。戦闘に関しては鋭いですな。ならば中郎将様の伝えたいことは、奇襲に気をつけろということですかな? それとも、その剣を使いこなせるように修練しろということでしょうか?」
「どっちにしたって愉快な話じゃないわね。というか、帽子のことといい深読みしすぎなんじゃないの? ただの贈り物でしょ?」
と雪蓮は言ったが、雷火はふるふると首を横に振った。
「雪蓮様、貴族の方々は直截な物言いはせぬものです」
「……あの人、貴族だったの?」
「大秦帝国の貴族との噂ですぞ」
「噂ってことは本人に訊いたわけじゃないんでしょ。てか秦ってあの秦?」
「あの秦がどの秦かは、まあ予想はつきますが、違いますな。遥か西方の国です」
「ふーん」
硝子の剣を振りながら、雪蓮はそっけない返事を返す。彼女の知る西方とは涼州のことで、それより西についての知識はほとんどなかった。
「うーん、そんな感じはしなかったけどなぁ。いやまぁ、私も大秦帝国の人間を知ってるわけじゃないけどさ」
「なんぞ事情があるのでしょう。人には触れてはならない痛みがあるのです。軽々しく踏み込むべきではありませぬ。しかしあの教養の高さからして、上流階級のお人であることは間違いないでしょうな」
「なるほどねぇ」
ひとしきり剣の感触を確かめた後、彼女は横薙ぎに剣を振るった。風切り音が雷火の耳朶を打つ。
「これ、ただの硝子じゃないわね。それなりの強度はありそうだわ」
「そうなのですか?」
「ええ、さすがに鋼と比べるわけにはいかないけれど」
人差し指で刀身を弾いて、雪蓮はゆっくりと鞘に納めた。
「さて、早速だけど
「ほぅ、穏が忙しく働いているというのに、雪蓮様は樹上で隠れるように昼寝をしておったと?」
しまったという風に、雪蓮は顔をしかめた。
「いや、ほら。私は部隊を率いて出撃しなきゃならないじゃない? その時のために身体を休めてたのよ。戦場で不覚を取らないためにも、休むのも仕事なのよ」
「咄嗟の言い訳にしてはたいしたものですな。まあいいでしょう。雪蓮様、新型船を造ろうと思います。後ほど計画書と予算案をお持ちしますので、決裁をお願いします」
「新型船? うん、それはまあいいけどさ。それも彼の里で学んできたの?」
「はい。それ以外にも、得るものはありましたぞ。治水や開墾、農業や産業、税収や統治法、わしの想像以上でした」
「へぇー」
気の抜けた返事を返し、雪蓮は樹上に目を向けた。緑の中に紅が見える。南にもようやく秋が訪れようとしていた。
「へぇー、ではありません! 州牧としてもっと治世のことを……」
「ねぇ、雷火。彼はどうだった?」
「真面目に……え? なんですか?」
「彼よ。中郎将様。二回目でしょ、会うの。なにか感じた?」
「なにか……と言われましても」
一度目は汜水関に向かう途中、闇夜に紛れての密会だった。必要なことだけを話した。緊張していたというのもあったし、まじまじと眺めるのも失礼だとも思った。
「彼はね、たぶん……普通の人よ」
「普通……普通ですとっ!? 武は白起、智は管仲に並ぶと言われているお人ですぞ!? 他にも衛青や
「どこの誰から聞いたのよ。英傑の名を並べればいいってものじゃないでしょうに。それに范蠡は絶対違うと思うわよ?」
呆れたように雪蓮はため息を落とした。范蠡は越の国に仕えた鬼才で、呉との戦いで囚人部隊を突撃させ、敵の目の前で自刎させたことで有名である。
現代人にとっては何が何だか分からない作戦であろうが、当時の人間にとっても何が何だか分からない作戦だった。だがそれこそが范蠡の狙いであり、この囚人集団自殺によって敵軍に虚を作ったのである。
「まぁ、なんとなく、だけどね」
雪蓮はひと目見て直感した。あの優しい目は将として大きな欠陥を抱えている。
彼は兵の死を前提とした策は取れないだろう。しかし、だからこそ約定を違えないと雪蓮は思ったのだ。
たしかに雪蓮の見抜いた通り、彼の性格は策の幅を狭めるだろう。だが兵を使い捨てないということは、兵との間に信頼関係が生まれる。そういった兵は、多少劣勢であっても逃げ出したりはしないものだ。
一概に欠点と切り捨てられるものでもなかった。
「……はぁ。さすがは雪蓮様ですな。あのような才人を凡人と断ずるとは」
「別に凡人とは言ってないじゃない」
「同じような意味でしょうが。そんな戯言を言っている暇があれば、仕事をして下され。さあ行きますぞ!」
雪蓮の腕を取り、雷火は歩き出す。
「怒った? ねぇ怒ってるの?」
「怒っておりません! 呆れているのです!」
「怒ってるじゃないのよぉー! あ、それよりお酒は? 噂の火が付くほど酒精の強いやつ! ちゃんと買ってきてくれた?」
雪蓮を引きずりながら、相変わらずの呑兵衛ぶりに雷火は小さく嘆息した。
「はいはい、買ってきておりますよ。仕事の後で存分にお飲みくだされ」
「今すぐ飲みたい! のーみーたーいーっ!!」
「だまらっしゃい! まずは仕事でございます!」
「いいやぁぁーーっ!!」
雪蓮の叫びも虚しく、彼女は執務室へと連れ戻された。
もしかしたら雪蓮とは意外と相性は良いのかもしれない。