「せーの、はいっ!」
朱里と雛里は同時に手の平を見せ合った。そこに書かれていた文字は、ピタリと同じだ。
「意外……雛里ちゃんはそこを選ばないと思ってたのに」
「朱里ちゃんこそ。もっと堅実なところを選ぶと思ってたけど」
雛里は師から贈られた帽子のつばをギュッと握りしめた。二人は水鏡女学院に通う生徒であり、つい先日、師である水鏡から能力を認める証である帽子を贈られた。
それは世に出て実力を示しなさいという意味も含まれていた。
「やっぱり興味はあるよ。十年前までは名前も聞かなかった商会を、大家まで成長させた手腕は」
「……呂不韋、だね。朱里ちゃん」
「ふふっ、やっぱり雛里ちゃんも同じこと考えてたんだね」
奇貨居くべし、の言葉で有名な呂不韋は、優秀な商人であると同時に優秀な政治家でもあった。
位人臣を極め、相国まで登り詰めた才人。こうして権勢を極めた呂不韋であったが、後に始皇帝となる秦王との政争に敗れて追放された。
しかし呂不韋が傑物であったことに変わりはない。
二人はまだ見ぬ宝山商会の会頭に、その姿を重ねていた。
「上手く動かせることができれば、天下を差配する人になるかもしれない」
朱里は頂点に立つことに興味はない。自分の才は王者ではなく王佐であることを自覚していたからだ。
「でも、どんな人なんだろうね。会頭さん」
「それは……想像もつかないね」
宝山商会の会頭の情報は、世に溢れていた。情報を隠すのではなく、敢えてばら撒いているのだ。
若い男性、若い女性、老人、矮躯、巨漢。様々な情報が錯綜している。
「商会本部の場所は大体分かってる。ちょっと遠いけど」
商会本部、里と呼ばれることもあるその場所は、幽州の奥地にあった。商会は自前の兵も有しており、異民族と戦っていたり、あるいは交易をしているとの噂もあった。
漢帝国の北部には始皇帝が建設した大長城が広がっているが、現状の王朝では維持が難しく荒廃したままとなっており、ほとんど放棄されている状態だった。
一昔前までは里の存在は隠されていたが、商会が大きくなるにつれて防衛戦力も高まり、交流や更なるマンパワーの獲得のために、会頭は情報を広めていた。
そんな理由もあって、こうして二人の耳にも噂が届いたのだ。
「じゃあ行こうか、雛里ちゃん」
「うん、朱里ちゃん」
二人は意気揚々と、目的地に向けて歩き出した。
◇
「…………」
「…………」
二人は言葉を失っていた。
これは村でも里でもない。城塞都市と呼んでも差し支えないほどの大きさだった。
二人は水鏡女学院の首席と次席を名乗ったが、その実態は実績のない女学生である。無論、二人もそのことは理解していたが、金もコネもない二人にとって、利用できるものはこのくらいしかなかった。
師である司馬徽は人物鑑定家として世に知られており、水鏡の二つ名を持つ名士である。
師の名を利用しているようではあるが、商会の会頭と会うためには仕方のないことだった。
それが功を奏したのか、二人は会頭のいる館に招かれた。二人を迎え入れてくれたのは会頭の補佐を務める女性で、劉岱と名乗った。
ちなみに、兗州刺史と同姓同名であるが、別人である。
応接室に通された二人は、供された飲食物を興味深げに眺めていた。
「これは馬乳酒……かな? 朱里ちゃん」
「うーん、でも酒精の匂いはしないよ。むしろ甘い匂いがする」
獣の乳を飲むと獣になる、という迷信があるが、もちろん二人は信じていない。涼州の方では馬乳酒が飲まれていることも知っているが、知識として知っているだけで、実際には馬乳も馬乳酒も飲んだことはなかった。
しかし出されたものに手を付けないのは失礼にあたる。朱里は意を決して、白い液体を口に運んだ。
「――ッ!?」
「ど、どう? 朱里ちゃん」
「ふぁぁぁっ、あ、甘くておいしいよ。雛里ちゃん!」
「ほ、ほんとに? あわわっ、すごく甘いよ朱里ちゃん!」
二人の口の中に幸せの味が広がる。
(香りも味も鮮烈なのに、少しもきつくない。舌触りもまろやかで、この馬乳との相性も抜群です。このずっしりとした重みすら感じさせる甘みは、蜂蜜に違いありません!)
蜂蜜を得るには危険を冒す必要がある。尚且つ蜂の巣はそう簡単に見つかるものではない。そんな理由もあってか、蜂蜜は高価である。二人も口にしたことは数度しかない。
ちなみに、朱里は馬乳と勘違いしているが、その正体は牛乳である。
「こっちも食べてみよう。雛里ちゃん」
「う、うん」
(このふわふわの食感は、お饅頭とは少し違いますね。甘くはありますが、あっさりとした甘みはくどくなく、飲み物との調和が考えられています)
「あわわっ、このお菓子もすごくおいしい」
夢中になって舌鼓を打つ二人は、扉がノックされる音にも気づかなかった。
「……んぐっ、ぷはっ! お、お初にお目にかかります。水鏡女学院から参りました、諸葛孔明と申します!」
「お、同じく鳳士元と申しましゅ! あう、かんじゃった……」
やってしまった、と朱里は心の中で反省した。
部屋に入ってきたのは一組の男女だった。
前の男性が会頭で、後ろの武器を持つ女性は護衛であろうと朱里はあたりをつけた。
(かなり若いですね。尤も、本物である保証はありませんが……)
朱里は会頭がかなりの高齢であると予想していた。だが、目の前の男性の見た目は三十代前後とかなり若い。
(とはいえ、見た目通りとも限りませんが。あの歩き方、体格、武人であることは間違いないでしょう。それくらいでないと、異民族の相手はできないのでしょうね)
朱里は武人ではないが、武人と文人の違いくらいは判別できる。
そして武の一辺倒ではなく、会話の中から感じられる知性や、その所作からも、この会頭が一廉の人物だということは理解できた。
そしてこの会頭は、恐るべきことを口にした。
――漢王朝は滅亡する!
朱里にもその予感はあった。しかし断言できるほどではなかったし、迂闊に口にすれば不敬罪で命を失うことになってもおかしくはないのだ。
(器が……計り知れない……)
朱里は心の震えを隠せなかった。頭の中をよぎったのは、論語の一説だ。
孔子の弟子である子貢は、師である孔子を以下のように賞賛した。
『屋敷の塀に例えるなら、私の家の塀の高さは肩の高さぐらいでしょう。ですから、屋敷の中の小奇麗な様子が窺えます。しかしながら、夫子の家の塀は高すぎて、ちゃんと門から見ないと中の素晴らしい建物や召使の様子は知ることはできないでしょう』
朱里は門の中に入りたいと思った。そのために言葉巧みに誘導する。当初の目的は、会頭の抱えている武力を用いて、群雄の一人として立つことだったが、まずは商会の中へ入ることへと修正した。
だが、その会話の最中でさえ、見透かされているのは自分ではないかという錯覚を覚えた。
とはいえ、目的は達せられた。
二人は商会に雇われることに成功したのだ。
◇
二人は商会の帳簿係に任命された。商売において資金管理は要の部分であり、地味ではあるが、重要な役割であった。
その部署で二人は、衝撃を受けた。
(これは、革命かもしれません)
複式簿記の最大の利点は試算表にあるとされている。借方と貸方は必ず一致する性質を持つことから、双方の合算結果を比較することで、自分の帳簿に間違いがあればすぐに把握することができる。とてもシンプルなことではあるが、単式簿記や他の方法では不可能なことだった。
朱里もいずれはどこかに仕官することを考えていたので、帳簿のつけ方には心得があった。しかし、ここではそれが何の役にも立たなかった。
まず、アラビア数字が出た時点で、ここは常識の通じない場所だと理解した。
なぜ天竺の数字を使うのか疑問に思って質問したが、そっちの方が分かりやすいから、という至極単純な回答だった。
確かに最初は戸惑ったが、慣れてくるとこちらの方が便利に感じた。
帳簿だけではない。この里には朱里の知らない知識が溢れていた。
触れるもの全てが新鮮で、水鏡女学院に通い始めた頃以上の刺激だった。
朱里の灰色の脳細胞が、ギュルンギュルンと音を立てて活性化していく。
そんな日々を過ごしていた朱里は、度々働きすぎを注意されることもあったが、おおむね満足する待遇で迎えられた。
しかし平穏な日々は、いつまでも続かなかった。
黄巾の乱が本格化してきたのだ。
最初こそ官軍の優勢であったが、黄巾をつけた賊は減るどころか増え続け、その総数は官軍すら把握できないほど膨れ上がった。
ついに訪れた群雄割拠の時代。立つべき時が来たと朱里は気炎を昇らせた。
しかし、朱里の思惑は大きく外れることとなった。
(ま、まさか黄巾党の首魁が旅芸人なんて……見抜けませんでした。この諸葛亮孔明の目をもってしても……)
と朱里はガクンと肩を落とした。とはいえそれも当然の話で、朱里は商会の帳簿係であり、自前の兵や諜報員を持っているわけではない。得られる情報にも限りがあり、上から降りてくる情報にも制限がある。
ある意味仕方のないことではあった。
何となく毒気を抜かれたような気分だった。
結局、会頭は黄巾討伐のために立つのではなく、内情を探るために旅立って行った。
朱里は会頭には同行せず、留守を任されることになる。
「孔明、あなたの仕事ぶりは頭領も高く評価しています。よって、もっと重要な仕事を任せようと思います」
「ありがとうございます。公山様」
朱里は恭しく頭を垂れた。朱里は完全に里に魅せられていた。
「これからは顔を合わせることも増えるでしょう。私のことは
「畏まりました。では私のことは朱里とお呼びください」
「ええ。それと、そんなに畏まった物言いでなくてもいいんですよ。我らが敬うのは一人だけですからね。それ以外の者は、あのお方に仕えるという意味では同格です。無論、序列はありますが、そこを疎かにするほど愚かではないでしょう」
朱里が里に来て驚いたことのひとつは、派閥がないことであった。権力のあるところに腐敗は生まれ、組織が大きくなれば派閥が生まれるのは世の常である。
最初は雑用を押し付けられ、功績を掠め取られるくらいのことは予想していたが、そんなことは全くなかった。
有能な者が正しく評価される。改めて、この里の在り方に感銘を受けた。
「わかりました。では緑飛殿と」
「……それも他人行儀ですね」
そう言われて、朱里はクスリと笑った。
「では緑飛さん」
「ええ、そのように。基本的にあのお方以外は敬称不要ですよ。長幼の序はわきまえるべきですが」
「はい。ところで、緑飛さんは、会頭の真名をご存知なのでしょうか?」
朱里の言葉に緑飛の柳眉がピクリと動いた。
「そんな質問をするということは、真名の交換を断られたんだね」
「……はい。まだ信頼が足りていなかったようです」
「信頼か。それが理由なら、私たちは誰ひとり信頼されていないことになるわね」
「誰ひとり……ですか?」
それはもう答えのようなものであった。
「愛紗……関羽も、あのお三方ですらも、あのお方の真名を知らないのだから」
「愛紗さんは分かるのですが、お三方というのは?」
「ああ、愛紗とはもう真名を交換していたのね。お三方というのは岩塩の採掘場の責任者の方々であり、頭領と共にこの里を作り上げた最古参の三人よ」
「採掘場の責任者……えっ、あのおじさんが!?」
採掘場の責任者と聞いて、朱里はハッとなって思い出した。実はその中の一人と仕事で会っていたのだ。
見た目は平凡な中年男性で、例えるなら能力値が全て平均値のような、印象の薄い男だった。
「まああの方たちは、現場を離れるとただのおじさんだからね。現場では経験豊富で頼れる方々だけれど」
「ひとつの分野を極めたということでしょうか」
「そういうことになるかな。あと思い当たるとすれば、呪術を警戒している可能性もあるわね」
「……なるほど。ないとは言い切れませんね」
真名というのはその人の魂を現し、それを知っていれば呪術にかけることも出来ると言われている。無論、眉唾のような話であるが、絶対にないとも言い切れなかった。
「あのお方の真名についてはもういいでしょう。そろそろ仕事にかかりましょう。ついてきなさい」
「は、はい」
朱里は慌てて緑飛のあとを追いかけていった。