私は見聞を広めるために大陸を旅していた。
その旅程で、私は失望を禁じえなかった。
どこに行っても賊は存在しており、その討伐も追いついていない。というよりは、真面目に対処している役人が少ない。
これを正すには、やはり出世するしかない。故郷に戻って官吏になろう。せめて地元の人間には平和を享受してもらいたい。
そう思い始めた頃、奇妙な噂を耳にした。
幽州の奥地、深山幽谷に楽園あり、というものだ。
ただのおとぎ話、民衆の妄想、願望であろうと切って捨てるのは簡単である。しかし私は、妙に後ろ髪を引かれるものがあり、幽州へと向かった。
そして幽州に入ると、情報も増え始めた。
いや、情報が……多い!
なんだこれ!? 東だったり西だったり、山の方だったり海の方だったり、深山幽谷ってことは山じゃないの!?
むぅ……一度情報を整理しよう。情報には規則性があるはずだ。人を近づけたくない場合はどうする? こっちにはないよ、というはずだ。
つまり私は……試されている。
ふふっ、面白いじゃあないの。この
情報の真贋を見極めるのだ。その中心に楽園はある。
見えたっ! あの村だ! 周辺の村とは明らかに違う!
ていうかデカッ! 村に似つかわしくないごっつい門だな。いきなり射かけられたりしないよね。
とりあえず門番に話しかけてみよう。
「ど、どーもー」
「むっ、ついに辿り着いてしまったか」
「え?」
なんか知られてるっぽい?
「いや、あれだけ聞き込みをしていれば目立つぞ」
「あ、そうなんすね」
そうか。周辺の村とも繋がっていたか。領主みたいなことやってるのかな? この辺の領主ってあんまりいい評判聞かないし、村人たちもこっちに靡いているのかもしれない。
「で、ここに何の用だ?」
「えっと、楽園は本当にあるのか確かめたくて……」
「ああ、そっちか」
そっち?
「いや、確かにここは、楽園と言えなくもない。飢えることはないし、賊が来ても追い払えるだけの戦力も持っている」
「……なるほど」
このご時世に、それは確かに楽園かもしれない。今は大陸の治安も悪い。寒村の農民はいつだって税と賊に怯えている。
そういえば税はどうなってるんだろ? さすがに払ってる……よねぇ。
「それを踏まえた上で、おまえはどうするのだ?」
「え? どうする、とは?」
「物見遊山で来たというのなら、入れるわけにはいかない。楽園はあった。それでいいだろう。速やかに帰るがよい」
なぬっ!? まだ壁と門しか見てないのに、そんな殺生な!
「じゃ、じゃあ入るためにはどうすればよいのですか?」
「我らの仲間になってもらうしかないな」
仲間とな? う~ん、さすがに
「ああ、一応言っておくと、ずっとここに居ろってわけじゃないぞ。しばらく暮らして、合わないと感じたら出ていってもらってもかまわない」
「あ、そうなんですか」
随分緩いなぁ。まあ賦役じゃあないんだから、それが普通だよね。
「じゃあしばらくご厄介になります」
「うむ。おまえ文字は書けるか?」
「はい。大丈夫です」
「なら、ここに名前と出身地を書いてくれ」
「はい」
習禎文祥、荊州襄陽群、と。
「ふむ。なかなか綺麗な字だ。計算もできるなら"館"でも働けるかもな」
「館……ですか?」
「ああ、それも今から説明する」
その後、場所を詰所に移し、簡単な説明を受けた。
まず農民。畑を耕すのが仕事だ。一番安全な仕事で、実入りは少ないが、飢えることは絶対にないらしい。
次は家畜の世話係。生き物相手ということでかなり気を遣う仕事らしいが、鶏卵とか牛乳が飲めるので意外と人気らしい。
いや、鶏卵はともかく牛の乳って美味しいのかな?
次に職人だけど、これは無理。不器用ってわけじゃないけど、経験ないし、職人になろうなんて思ったこともない。
次は兵士。訓練が厳しく、辞めて農民に戻る人も多いらしい。外敵と戦う危険な仕事であるが、危険手当や討伐報酬などもあり、畑を耕すよりも稼げるらしい。
最後に館に従事する仕事。いわゆる頭脳労働だ。
館の仕事がいまいち不明瞭だが、新参者にいきなり重要な仕事なんて任せないよなぁ。
ここまできて畑を耕したり家畜の世話をするのもなんだし、無難に兵士かな? 武はそれなりに自信あるし、そっちの方が早く出世できるかも?
いや、そもそもこの楽園の実態が分かってないのに出世も何もないだろうけどさ。
後から転職もできるみたいだし、とりあえず兵士かな。
◇
「……ちゃん、
私は
「頭領について行けなかったのは残念だけどさ、こっちも頑張んないと。いやぁ、洛陽の書類ってホント面倒だよね。統一感がないっていうかさ」
狼ちゃんは辟易したように愚痴を零した。宦官一掃事件(ホントに一掃したわけじゃないけど)は宮中に大きな衝撃を与えた。
太尉の文和様は前々から宦官を忌々しく思っていたのだが、手が足りないという理由で渋々残しておいたらしい。
そんな時に、手がやってきたというわけだ。
狼ちゃんの言う通り、洛陽の書類は統一感がなくて不備が多い。ウチの里だったら拳骨落とされてるよ。せめて書式くらいは揃えて欲しいな。
洛陽の役人なんて憧れの存在だったけど、実態はこんなものか。やっぱり槍を振るってる方が良かったなぁ。連合軍ってのがどんなものかも見てみたかったし。
……はぁ。
「まぁたため息」
「うぅ、なんで私はあの時、石を出したのかな?」
「いや、そんなん言われても。鏡花ちゃんはホント石拳弱いね」
石拳とは頭領が考案した子どもの拳遊びだったのだが、いつの間にか大人の間にも広まり、何かあったら石拳で決めることが多くなった。まあ決着も早いからね。なぜか私は弱いけど。
「
「いやいや、洛陽で呉竜府は無理でしょ。道具も持って来てないし。まあ鏡花ちゃんの気持ちも分かるけどね。あたしもどっちかというと武人肌だし。あー、久しぶりに海でも見たいなぁ」
故郷を想うように、狼ちゃんは目を閉じて天井を見上げた。
里に来る前、狼ちゃんは青州で漁師をやっていたらしい。でも漁師だけじゃなくて、塩の密売もやってたみたい。
でも官吏の締め付け(要するに賄賂だ)に嫌気がさして飛び出したとか。里にやってきたのは、同業だから噂程度は知っていたとのこと。
まああの頃はもう隠れ里って感じじゃなかったし、商人同士の繋がりとかもあったんじゃないかな。
うん、私も里が塩の密売をやっていると知らされた時は吃驚したなぁ。いや、塩の密売は公然の秘密みたいなものだから、別に驚くようなことじゃない。驚いたのは、山で塩が採れるってこと。
塩なんて海か塩湖から採るものだと思ってたからさ。
頭領は、ここら辺は昔海だったから塩が採れる、なんて言ってたけど。
信じられないなぁ。昔だって山は山でしょ。
なんか騙されてる気がする。
「ねぇねぇ鏡花ちゃん。連合軍の大将って袁紹って人なんでしょ? 冀州の豪族だっけ?」
狼ちゃんが筆を動かしながら訊いてくる。
「そうだよ。三公を輩出したっていう名門。嫉妬ってのは怖いよねぇ」
家臣の人たちは誰も止めなかったのかな。
付き合わされる兵もかわいそうだよ。名門の兵から反逆者の兵だもの。洛陽に兵を向けてるんだから反逆者だよね。
勅も出てるみたいだし。つまり向こうが悪者で、私たちが正義ってわけ。
まあ頭領が言うには、世の中に正義と悪の戦いはなく、別々の正義が戦っているだけ、らしいけど。
あっ、ここ間違えてる。なんでこんな簡単な計算を間違うかなぁ。
「そんなに権力なんて欲しいかなぁ。文和様とか見てると偉くなるのも考え物だよね」
「まあ、偉くなるほど責任も増えるからねぇ。私も昔は官吏になって出世したかったけど、やっぱりほどほどが一番だよ」
党錮の禁なんて例もあるし、ホント洛陽は魔窟だよ。
結局里に落ち着いた私は、荊州から家族を呼び寄せた。頭領の言葉がなければ、そんなことしなかっただろうな。まさかここまで世が乱れるとはね。頭領の予言を信じて良かったよ。
時々わけわかんないこと言うけど。
「まあそうかもね。でもお給金が増えるのは――」
と、急に狼ちゃんが口をつぐんだ。突然訪れた静寂の中、扉の外から足音が響いてくる。この感じは……文和様だね。耳が良いというか、勘が良いというか。
「習禎、管承、進捗はどう?」
「はい。順調です。定刻には終わると思います」
「そっちが決済済みで、そっちが不備のあるやつです」
「ありがとう。やっぱりアンタたちって手際良いわよね。賄賂がないと動かない腐れ役人どもとは違うわ」
いや、それが普通では? むしろ里では年長者が下の者に奢ったりしてたけどなぁ。若いやつらって大体薄給だし。里で飢えることはないんだけど、やっぱりお酒とか甘味とか欲しいし。
そういえば洛陽のお酒っていまいちだよねぇ。甘味も少ないし、それほどいいところじゃないのかも、洛陽って。
「いえいえ、孔明ちゃんや士元ちゃんに比べたらまだまだですよ」
「……あの二人か。確かに別格よね。なんでまた商会の帳簿係なんてやってるのかしら……って、こんな言い方は失礼よね。謝罪するわ」
「いえ、お気になさらずに」
この方って太尉だったよね。雲の上の存在のはずなんだけど、そんな感じしないなぁ。最初に会った頃は目の下にすごい
確かに睡眠時間を削って仕事をすれば、仕事は減ったように見える。けど睡眠不足が続くと、心身に不調が現れ、病気にも罹りやすくなる。集中力も低下するので、結果的に効率が下がるのだ。
それに夜仕事をすると目も悪くなるし、どんなに忙しくても睡眠はしっかり取った方が良い。
全部頭領の受け売りだけどね。
まあ仕事を先送りにして眠れるほど図太い性格じゃあないんだろう。すごく精神的な重圧を感じてたんだと思う。
だって噂通りなら、地方の一官吏が、いきなり太尉になったんだもの。喜びより不安の方が大きいよね。
あと孔明ちゃんと士元ちゃんて、帳簿係だけじゃなくて、里の運営にも関わってる重役なんだよね。実際にどんな仕事してるかまでは知らないけど。
頭領はあの二人のことを、自分にとっての管仲と子房って言っちゃうくらい評価してるからなぁ。あの言葉で二人とも頭領に心酔しちゃったんだよね。
実際にすごくて、孫子を始めから終わりまで諳んじた時は鳥肌が立った。私も孫子は目を通したけど、完全に理解したとは思っていない。もちろん諳んじることなんてできない。
そのことを二人は誇るわけでもなく、時間をかければ誰でもできること、私たちは他の人より少しだけ記憶力が良いだけ、なんて言ってたけど。
私より後に来たはずなのに、完全に追い越されちゃったなぁ。まあ別にいいけどさ。
「商人たちも戻ってきたし、これで洛陽は甦るわ!」
「ようやく経済封鎖が解けたんすね」
袁紹の仕掛けた経済封鎖。要するに洛陽に物資が届かないようにして、孤立させようって策だ。
人は武器がなくても戦えるけど、食べる物がないと戦えないからね。
でも
これで袁紹はかなり苦しくなったはず。
「そういうこと。あ、そうそう。前線から文が届いてね。作戦は順調だそうよ。アンタたちの頭領も、予定より早く帰って来るかもね」
「それは良いご報告ですね」
「そっすね。あたしも書類仕事より槍振るう方が性に合ってるんで。早く里に帰りたいっすよ」
「あー、やっぱりアンタたち、帰っちゃうのよね」
文和様が悲しそうにつぶやく。感傷的になっているのではなく、政務が滞るという現実的な問題だろう。
「商会の人間が国を回しているというのは、色々とマズいですからね。マズいというか異常ですよ。今の状態は、あくまで緊急措置です。まあいきなりいなくなったりはしないですから。代わりが見つかるまでは協力しますよ」
「……代わり、見つかるかなぁ」
文和様は遠い目で外を眺めた。
とりあえず頭領、早く帰ってきて。