ある日の朝、賈駆はひとつの書簡を眺めながらニヤついていた。
それは汜水関から送られてきた戦勝報告である。
最初は安堵の方が強かったが、日増しに実感が現れ、達成感のようなものがこみ上げてくるのだ。
再度、書簡に目を落とす。
――やったぜ狂い咲き! 武威やねん! 334
それは高度に暗号化された文であり、末尾の334という天竺数字は賈駆であっても意味が読み取れなかった。
結局、孔明に訊くこととなったが、この334という暗号は、圧倒的勝利を意味するらしかった。
(ボクの出身地にかけてくるなんて洒落てるじゃない)
賈駆は涼州武威郡の出身である。
書簡の意味を解読した賈駆は興奮冷めやらぬまま董卓に報告した。
長安に退くことも想定して準備を進めていたが、それも白紙に戻した。
いざという時は、皇帝旗の使用も請うつもりであった。
だがそれは、董卓の威信に傷をつける諸刃の剣でもあったのだ。
袁紹が逆賊であることは公布したが、袁紹はそれを偽勅であるとし、自身が逆賊であることを認めてはいなかった。
帝の玉体を確保さえできれば、何とでもなると思っていたのだろう。
だがそれも無駄な努力に終わった。袁紹は負けたのだ。
(ざまーみろだわ!)
賈駆は心の中で拳を握った。元々賈駆は名家名族というものを快く思っていなかった。というのも、この時代では能力のある者が出世できるわけではなく、主に金とコネによって出世するのが当たり前だったのだ。
賈駆が子供の頃から涼州と中央には大きな溝があり、大人たちはそれを仕方のないことだと、半ば諦めてもいた。
それでも漢帝国に対する忠誠心だけは失わず、異民族の脅威と戦い続けてきたのだ。
正直なところ、今回の連合軍も最初は軽く考えていた。袁紹の兵力は確かに厄介だが、鍛え抜かれた涼州兵とは兵の質が違う。
そして古来より、戦とは攻める側よりも守る側の方が有利と決まっている。
とはいえ兵数の差というのも侮れないもので、それは孫子も説いているところである。
予想兵力が二〇万とはじき出された時、賈駆の目の前は真っ暗になった。この時点で、賈駆の思考は狭まり、守ることに注力されるようになる。
しかし外部協力者の助言により、賈駆の考えは大きく修正された。しかも強敵と想定されていた公孫賛と孫策がこちらについたのは僥倖だった。
特に公孫賛は自分たちと同じく、異民族の脅威と戦い続けてきた剛の者だ。その兵は当然のように精強だろう。
こうして状況は好転した。しかも目障りだった十常侍の勢力も一掃でき、賈駆の中に光が溢れた。
彼らはこの洛陽という伏魔殿で、権謀術数をめぐらせて生き抜いてきた魑魅魍魎どもである。
しかしいつの世も小賢しい策は力によって潰されるもの。
(やっぱり最後にものをいうのは武力よね)
最強の武を誇る呂布、そして張遼や華雄といった歴戦の武将を前に、十常侍の持つ兵力など塵芥でしかなかった。
この大改革によって、董卓は洛陽に確固たる地盤を築いた。
また董卓は弱々しい見た目をしているが、血風舞い散る涼州で生き抜いてきた女である。馬上で弓を射ることも容易く行い、その見た目から狙われることも多く、無手での格闘術も心得ている。
実際、窮地に陥った十常侍が彼女を人質に取ろうとしたが、逆に関節を極められて制圧されている。
この事件で董卓を見下していた者たちの態度も一変した。
洛陽の澱みを取り除いた賈駆は、貸し出された青龍隊の兵たちに加えて、十常侍に嫌われて割を食っていた者や、追放されていた者たちを職場に戻した。
再び権力闘争が発生する危険はあったが、低下した政治力を回復させるためには仕方ないことだと割り切ることにした。
(でも力に頼りすぎるのは危険だわ)
この漢帝国では武官よりも文官が重用されてきた。確かに軍事も重要であるが、やはり国の根幹を成すのは行政なのだ。
そして力による支配は、いずれより大きな力によって潰されるということを賈駆も理解していた。
本当の戦いはこれからなのだ。
(それにしても……)
賈駆は黙々と仕事をこなす青龍隊の兵たちに疑問を持った。いや、疑問というよりは興味だった。
一兵卒が読み書きできるというだけで稀有なことだというのに、算術の心得まであり、書類仕事までできるのは異様というより異常だった。
その時間を訓練に当てた方が効率的だと思ったのだ。
そのことについて、賈駆は孔明や士元に訊ねてみた。
彼女たちが言うには、意識改革の一環なのだそうだ。
武に優れた者は文を軽んじ、また逆も然り。武と文は両輪であり、どちらが欠けても、人として欠けていることになる。
文武両道こそが烈士の証であると。
青龍隊の兵士たちは、厳密には一兵士ではない。里には本当の意味での兵卒がおり、青龍隊は上位の部隊だと言った。
(組織の在り方が洗練されているのよね)
例えば儒学。儒学と政治は切り離すという考えは、言わば儒学の思想に支配されている漢帝国にはできない考え方だった。
政教分離は国家の堕落の防止であり、例えば喪に服すことは孝と考えられているが、立場のある人間が仕事を放棄して長期間喪に服すことは非効率的であると教えている。
とはいえ、それが効率的であったとしても、儒学に染まった人間は反発する。なので喪に服すこと自体は否定的ではない。だが期間は短めで、立場にもよるが里では最長で一ヵ月と定められている。
また喪に服す期間が短くとも、非難されることはない。
(だからこそ危険でもある)
賈駆の頭に浮かんだのは韓信だった。文武に優れ、国士無双と呼ばれた英傑。漢帝国の祖、劉邦を支えた三英傑の一人であるが、晩年に反逆を企て、処刑された。
賈駆がそうイメージしたのは、彼から愛国心や忠義心が感じられなかったことにある。いつか裏切るのではないか、という不安だ。
出会って間もない間柄でありながら、裏切るもないと思うのだが、実際に彼は一度漢帝国に弓を引いている。
賈駆のもとに届けられた黄巾の乱終結の報告では、討ち取った張角が四人、捕縛した張角が五人というものだった。その後、捕縛した五人の全てが、髭の大男を張角と認めたため、その男の首が朝廷に届けられた。
無論、その時に上げた報告書には、張角が複数いたことは記されていない。
しかし賈駆は未だにその理由を聞けずにいた。
だがその時はすぐに訪れた。洛陽がひと段落した折、孔明と士元との三人で飲む機会があった。里から送られてきた酒は甘くて口当たりが良く、酒精も弱いため、賈駆の酒も進んだ。
そこでつい口が滑ってしまったのだ。
しまったと思った時には遅かった。いま里の勢力が全て離反したら、政務は大混乱になるだろう。連合軍は退いたとはいえ、まだ袁紹の勢力は残っている。彼が反旗を翻したら、状況は逆転する。
賈駆の額に冷たい汗が流れた。
しかし孔明と士元は気分を害した様子もなく、むしろ賈駆の慌てた姿が可笑しかったのか、二人して笑みを浮かべていた。
「反逆する理由がありません」
続けて、そもそもご主人様は権威を求めてはいません、と答えた。そろそろ付き合いも長くなる二人は、自分たちの主の権勢欲が極めて低いことに気づいていた。
里の主、言ってみれば小国の王のような立場でありながら、偉ぶった様子もなく、部下や民とも近い場所で接してくれる。
そして数々の裁量を部下に任せている。それがまた二人の不安でもあった。その振る舞いはまるで、自分がいなくなっても里の運営に支障が出ないようにするための配慮のように思えてしまうのだ。
さすがにこれは、賈駆に話すことはなかったが。
「もし、ご主人様が反逆するとしたら、理由はひとつしかありません」
「……理由、あるんだ」
「あなた方が
「……
晏嬰とは春秋時代に、衰退しつつあった大国斉を再び興隆させた政治家である。
晏嬰は斉の宰相として管仲と並び称され、春秋時代を見渡しても一、二を争う名宰相とされている。
主君を諫め、国を想い、民を慈しみ、最期の瞬間まで社稷の臣であり続けた。
また晏嬰は、儒家の始祖である孔子を登用しようとした主君を諫めていたりもする。宗教家に国の政治を任せてはいけないということに気づいていたのだ。
孔明が政教分離を掲げる彼に心酔する理由のひとつであった。
「ですが、文和様のお気持ちも分かります。ご主人様は、皇帝陛下を恭敬してはおられますが、崇拝してはおりませんから」
「……詳しく聞かせてもらえる?」
「はい。ご主人様は、皇帝陛下は統治機構の一端でしかないとおっしゃいました」
その言葉に、賈駆は目を丸くした。酒の席でなければ、不敬罪で切り捨てられてもおかしくない発言である。いや、酒の席であっても、捨て置けるような言葉ではなかった。しかし、賈駆は信頼関係があってこその発言と受け取った。
つばを飲み込み、そのまま続きを促す。
「暗君が国を滅ぼした例はいくつもあります。代表的なのは紂王ですね」
紂王とは、酒池肉林の名で知られる放蕩や暴政が有名であり、暴君の代名詞ともなっている、殷の最後の王である。
「そしてご主人様は、血にも重きを置いておられません。高祖も元をたどれば、沛県の亭長でした。属尽の方々も皇族の血を引いておられるはずですが、彼らの厄介さは文和様もご承知でしょう。ご主人様は、王は王に相応しい者がなれば良いと考えられております」
「完全な皇族批判だけど、今は聞き流しておくわ。でもその理屈だと、自分が王になろうとするんじゃないの?」
「ふふっ、そう思われるのも仕方ありません。そう考えていた時期が私にもありました」
孔明は小さく笑って、視線を横に滑らせた。隣で飲んでいた士元は、酒が回ってきたのか、船を漕ぎ始めていた。
「わたしも同行したかったのに!」
いきなり叫び出した士元を孔明は優しく宥めた。肩を撫でながら、眠りへと
士元の言うように、孔明もまた連合軍との決戦に臨むつもりであった。しかし――
――鶏を
と言われては、二人もおとなしく従うほかなかった。主に頼む、とまで言われたのだ。二人は洛陽の政治体制を正常化するために奔走した。
そもそも、その時点で大筋の戦略は決定していたし、あり得そうな展開は全て献策していたので、二人が汜水関に行ってもやることはあまりなかっただろう。
「ご主人様は、結構面倒くさがりなんですよ」
「め、面倒……」
皇帝の仕事を面倒の一言で片づけた孔明に、賈駆は軽くめまいを覚えた。
実際この時代の政治制度は儒教と深く絡み合っており、めちゃくちゃ面倒なのである。
礼だの仁だの孝だのと、時には占いで国家政策を決めたりする。儒教そのものを否定するつもりはないが、政教分離を掲げる彼にとっては、占いで政策を決めるなど狂気の沙汰であった。
里の運営システムを知っている孔明も、洛陽の政治制度がヤバいことに気づいていた。そして実際に体験したことで、想定していた以上にヤバいことに気づいた。
これを改革するには途方もない労苦と時間がかかることも容易に想像できた。しかし急激な改革は反発も大きい。始皇帝がそうであったように。
神様には近寄らず、遠くで崇めておくくらいがちょうどいい。そんな言葉を孔明は思い出していた。
「それでも、権威は権威よ。確かに漢帝国の力は弱体化したかもしれない。でも皇帝陛下の威光はまだ健在だわ」
「確かにそうでしょう。表立って陛下に剣を向ける愚か者はおりません。袁紹さんも、周囲に担ぎ上げられたか、あるいは事態を深刻に考えていなかっただけかもしれません」
袁紹の心中など孔明には与り知らぬところであるが。
だが賈駆の疑いも、あながち的外れというわけではなかった。
もし袁紹が自ら彼のもとに交渉に来たのならば、彼は袁紹に協力していたかもしれない。
もし袁術が自ら彼のもとに来て、力を貸してたもれー、と言ったのならば、あっさり
尤も、名門である彼女たちが、商人如きに頭を下げるなどありえないことだが。
国は興り、滅びるものというのは彼自身の言葉だ。
漢帝国が滅びたならば、しゃーない、切り替えていこう、とでも言うのだろう。
孔明はそんな予想をしていた。
「生き物は頭を潰せば倒れます。ですが、そうならない場合もあります」
「そんな生き物はいないと思うけど……言いたいのはそういうことじゃないのよね。それは国家の話?」
「いえ、曹操さんと袁紹さんの話です」
「……なるほどね」
賈駆はしばし考え込み、孔明の真意に気づいた。
孔明が考える以上に、彼は曹操を警戒していた。だが曹操軍は、曹操が斃れれば瓦解する。すぐさまそうはならなくとも、確実に機能不全に陥る。
対して袁紹軍は、そうはならないだろう。袁家には有能な家臣団がおり、豪族の力も侮れない。何より、袁紹が斃れれば、彼らは袁術を主と仰ぎ、一大勢力として結束するだろう。
「だから孫策か」
「はい。袁紹さんと袁術さんを、同時に討つためです」
袁家を南北に分断して、各個撃破する。それが孔明の策だった。
「北に龍を、南に虎を、そして西に麒麟を置く。これをもって国家の安寧とします。天下三門の計とでも名付けましょうか」
孔明は小さく笑った。
この中華は古来より異民族という外敵に悩まされてきた。彼らと戦うにせよ、共存するにせよ、必要なのは圧倒的な武力だ。平和とは常に武力の上に成り立ってきた。武器を捨てれば相手も武器を捨ててくれるという考えは、夢想家の妄言でしかない。
「皇帝陛下は、幼い方です。ですが、人の上に立つお方ならば、それに相応しい能力が必要です。それは文和様のお仕事であり、董卓様のお仕事ですよ」
「……責任重大ね」
賈駆は小さくため息をこぼした。
それから話は政務へと移った。
「文和様は、文祥さんをご存知ですよね」
「ええ、習禎でしょ。優秀よね」
「はい。彼女は洒脱な方で、議論に巧みで、兵士よりも政治家の方が向いていると思うんです。まずは彼女を厚く遇してください」
「……隗より始めよならぬ、禎より始めよ、か」
「はい。商家の人間でも出世できると知れば、もっと優れた者が出世を求めて集まるでしょう。能力主義の公布にもなります」
孔明は能力本位の人材登用を行うべきだと告げた。
これまでにも登用試験自体はあったが、白紙で出しても受かるやつは受かるし、満点回答をしても付け届けを忘れると落ちるという、有って無いようなものだった。
また実力主義の昇進制度とすることを提案した。現状は金やコネで役職が決められている。その最たるものが売官制度である。金を作る能力、コネを作る能力を否定するつもりはないが、やはり売官制度は愚策であったと孔明は思っていた。
財政が窮乏した際の増収策の一環だと分かってはいたが、それが官吏の腐敗による末路だということも理解していたからだ。
「そして信賞必罰を徹底し、監察部も作るべきです」
「督郵みたいなものかしら?」
督郵とは郡守の命令で領内を回る監察官のことだ。史実では劉備にボコボコにされたことで有名だろう。この督郵という役職は、地方官である太守の配下で、下から数えた方が早い端役である。しかし重要な役割であり、仕事の量と重さに対して俸給が釣り合っていない。だからこそ汚職が生まれやすくもなっていた。
簡単に言うと、督郵とは大した地位でもないのに監察の権限で人の弱みを握ったり、でたらめを吹き込んだりして人を陥れる存在である。
と、多くの人が認識していたわけだ。
だからこそ劉備は、督郵如きに侮られたとキレてボコったのだ。
しかし真っ当な者を監察官にすれば、不正は減るだろう。
それからも話は続き、賈駆の不安を取り除いた孔明も酒で口が軽くなったのか、里のことについても語り始めた。
「先ほども言った通り、ご主人様に権勢欲はありません。田舎で静かに暮らしたいと思っているでしょう。しかし里の、塩のもたらす経済力は非常に大きいものです。今までは大陸が乱れていたためにあやふやにされていましたが、太平の世になれば、里に対しても何らかの処置が行われるでしょう」
「ボクたちにそんなつもりはないけど、先のことまでは分からないものね。じゃあ里の人間を官僚にすればいいんじゃないの?」
賈駆の指摘に、孔明はふるふると首を横に振った。
「官僚を里の人間で固めれば、それこそ国家の乗っ取りだと思われます。それよりも私は、漢帝国の外郭組織として、里は在るべきだと思っています。独立部隊ならではの機動力を活かして数々の有事に即応します。各州に対する独立捜査権を持ち、あらゆる事態に対応できる独立治安維持部隊。それが里の立ち位置として最適だと考えています」
「……要するに、大陸規模での警邏隊のようなもの?」
「そう考えていただいて構いません。国が主で、里が従です。国家に忠誠を誓うことで、里の立ち位置を明確にします」
塩というのは国家の重要な財源であり、春秋戦国時代にも秦と楚が塩をめぐって争った。
最後は秦の名将白起が楚の都、
塩鉄論からも分かる通り、塩と鉄は国家の最重要物資である。塩で戦争は起きるのだ。
孔明はそれを危惧していた。
「その構想は彼も知っているの?」
「いえ、まだ草案の段階ですので。ですが、同じような構想は持っていると思います。以前におっしゃったのです。"鐘"が必要だ、と」
「警鐘を鳴らす役目か。確かに、らしいといえば、らしいわね。でもそういった組織は……」
「はい。特権意識は傲慢を生みます。指揮官の選出は念入りに行うべきでしょう。どんなに清廉潔白な人間でも、魔が差すということはあり得ます。人の心は、そこまで強くありません」
「そこまで分かっているのなら、言うことはないわ。とはいえ、いくらかの時間が必要でしょうけど」
賈駆はクスリと笑った。
さらに孔明は、主のことについても語り始める。
西方との交易に興味を持っていること。
芸人のために歌や踊りを考えていること。
医療発展のために五斗米道を取り入れたこと。
空飛ぶ船を開発していること。
賈駆は空飛ぶ船のくだりがツボに入ったのか、机を叩いて大笑いした。
某戦艦のコック長も塩の重要性を説いています。塩は健康状態に大きく関係するもので、戦場にも大きな影響を与えます。
中国では塩税が原因でクーデターも起きています。まあこれは塩に重税をかけた国が悪いんですけどね。