私は薄暗い雲の中で生まれた。
この世界を厚く覆い隠した
薄暗くて悪辣な雲の中で……
それが夢だと気づいたのは、それから少し経った後。
目覚めて最初に見たのは夢で見たあの雲。
周りには雲と同じ暗い色をした建物。
その影が私を呑み込んでいたの。
私は裏路地に居たの。
汚れた薄い毛布一枚を被って眠っていたようね。
それはまるで袋に包まれた死体のようだったに違いないわ。
私はよく覚えていないから憶測でしかないのだけど。
少しぼうっとしていたようね。
日もすっかり上がってしまって、灰色の私を皮肉に明るく 照らしているわ。何時までもへたり込んでいる私は、太陽からも嘲笑われているようで、心底気分が悪くなったから裏路地から抜け出すことにしたの。
裏路地から出ることに恐怖は無かったわ。
開拓者は常に未開を恐れなかった筈よ。これは……私の持論だけど。後、私の持論には、未開は誰かの既知という考えもあるわ。私が知らないだけで、知っている者からすればオドオドしている馬鹿者と思われるのは勘弁して欲しいわね。
薄暗い路地を抜けて表に出てみたのに、そこに見えたのは裏路地と似たような荒れ果てた街の様子だったわ。
「拍子抜けね」
ふと声が漏れてしまったわ。だってそうでしょう? 誰しも未開に挑戦するのは既知とは違うことを見つけたいから。なのにその未開が既知を見逃していただけなんて……無駄以外の何物でもないわ。
私は知らなかったでしょうって?
例え私が知らなかったとしても、世界は知っているのよ。私は知れなかったかもしれないけど、その情報は世界の誰かは知っていて、未開を予想したり当てたりすることは当然出来る筈なの。
私が知らなかった情報を誰かが持っていて、私が確定出来ない未来を誰かが確定している。その誰かは、私を見ることもなく既知に失望している。それだけで私にとっては腹立たしいの。
そう、握りつぶしたいくらいにね。
話を戻すわ。
表に出たのに、そこにあったのは、どこを見ても薄暗い、終焉を待つだけの軽い街。軽いっていうのは中身が詰まっていないっていう意味よ。
中身が詰まっている街ってどんな街だと思う?
人がそこで何かの生産活動と消費活動を繰り返し、ぐるぐるカードゲームのターンを進めるように、生活が回っている街のことだと、私は思うわ。
逆に中身が詰まっていない街っていうのはね、本来回るべき生産活動と消費活動の片方が途絶えるかしてターンが進まなくなった街よ。……失礼。ターンが進まなくなった、というのは悪い例えだったわ。
ターンがこちらに回ってこない、と言うべきかしら。ずっと相手のターンなのよ。
何かを物として生み出すことを忘れて、消費することのみを考え続けた社会の成れの果てというか、考えなしに生産し続けて余剰か積み重なっていくコミュニティの末期というべきか。まあどう見なすかは自身で考えるべきよ。
そもそも生活という複雑な物を2つに適当に分けて語ることだって、きっと愚かかもしれないわ。生活が回るのは、まるで回路に電流が流れるよう。学校で習ったかしら。抵抗だったり、コンデンサーや、電磁石かもしれないわ。減衰させたり、溜め込んだり、影響を及ぼし合ったり。
……私? 私は子供だから難しいことはよく分からないわ。
難しいことは大人の仕事よ。まあ出来る大人が居るかどうかすら分からないのだけど。
何故って? だって見てご覧なさい。人一人すら居ないわ。
私を含めるとしたら一人だけなら居るわね。
こんなに広い通りで私だけが歩いている。劇場の舞台や、コンサートでもない、こんなに広い空間に私一人だけというのは最高のステージかしら。
私はまるで悲劇のヒロイン。薄汚れた体に布切れという名のドレスを纏って、街という灰色のジャングルの中をただ一人歩き続ける。
最高でしょう? 最高にみすぼらしい。劇がこれで終わるだけなら返金騒動でも起きるのは当然ね。でも劇は始まったばかり。悲劇のヒロインは常に報われる。そうでしょう?
ほら、向こうに明かりが見えるわ。濃い霧の向こうに煌煌と輝くライトが。
私が進行方向に飛び出すと、車は急に飛び出た私に驚いたようね。その巨体はタイヤから煙を出しながら、まるで見合わないような急ブレーキを掛けて私の目と鼻の先で止まったわ。
「そこのお前、一体何のつもりだ」
長身の女が私を問い詰めたわ。当たり前よね。私だってきっとそうするでしょう。私はあっけらかんと話したわ。
「遭難してるの。助けていただけないかしら?」
これでも精一杯の誠意よ。あいにく私はヘコヘコ話すのは不可能なの。どうしても途中で馬鹿らしくなっちゃうわ。
「一般人がこんな場所に居る訳が無い。ここで何をしていた」
彼女はそう言ったわ。こんな場所に居る訳が無いと言われたって、目覚めたのが此処なんだからしょうがないでしょう。
「此処で倒れていたの。ついさっき目が覚めて、偶然貴方達を見つけたから、助けてもらえないかと思って」
私は事実を淡々と話したのに、彼女は眉間に皺を寄せて私を疑うの。
「ふざけるな。そんな都合のよい話、有る訳無いだろう」
私は困ってしまったわ。都合のよいと言われたって事実がそうなっているし、嘘を着くのは嫌いなの。
私がどうしようかと悩んでいると、助手席から若い女の子が出てきたわ。
「まあまあリーデさん。悪意は感じられませんし、こんな場所に居るのでは彼女も危険です」
私は感激したわ。この世界で最初に話した人間の片方が、こんなに他人を思いやれる、それも少女なんて。
「モディファー、お前は疑う事を覚えろ。この世界で他人は敵と同じだ」
「分かっていますよ。……取り敢えず車の中に入りましょう。お話はそこで聞きます」
長身の女と少女は少し話し合った後、私を車の後席に座らせてくれた。外とは真逆で、車の中は暖色系の鮮やかで質感高く、高級であることが鈍い私にも良く分かった。私の眠っていたあの冷たい石畳の上とは大違い。思い返してみれば、彼女らの服装も私とは対象的な、モダンで安っぽさを感じさせない良さそうな服だったなと今更だが納得した。
少女が隣に腰掛け、私の目を見ながらゆっくりと話し始めた。
「名前を知らないとお互い不便でしょうし、軽く自己紹介でもしましょうか。私はモディファー·リグハンス、モディリステクニカルオアシスの最高責任者の一人です。……ほら、リーデさんも」
「はぁ……リーデレット·エリミシア、モディファーの部下だ」
「私の先生でもあるんですよ。リーデさんは、「モディファー?」あはは……それで、貴方の名前を教えてください」
私の名前を教えてくれと言われて気づいたけど、私は自身の体に付いていたであろう名前という名の識別マーカーを記憶領域で消失しているわ。つまり名前がわからないの。名前というのは生まれた人間が生まれた当初から今まで、脳での記憶の消失を避け続け定着した、与えられた情報だと私は考えるわけ。
私としての自我が発生したのは、私が目覚めた数時間前の話。この時間すら定かではないけどね。とにかく、私というボディが出荷段階で名付けられた名前は、今の名前をもたない、OSとも言うべき自我とは不一致で、自らを名前を持つ存在として定義できないの。できるのは人であるという一般的特定化で、名前を持つ個人としての限定的特定化には名前が必須。それを要求されているのよ。
無い物は創り出すしかない。忘れられたパスワードの再設定のようにね。だから数秒の後、私は私を限定化したの。
「……私はプローラ。この街で目覚めたわ」