通りを歩いていると、色んなお店の軒先でその文字が見える。そして色んなお店から、その甘い香りが漂ってくる。
息を思い切り吸い込んでみる。どこから漂ってきたのか分からないけれど、チョコレートの甘い香りが全身に巡っていくのが分かる。
「んー。今日はなおさら、いい香りがしてますねぇ」
特に今歩いている通りは、通称『スイーツ通り』――と放課後スイーツ部のみんなで呼んでいる。和菓子屋、洋菓子屋、カフェや軽食屋と、甘いものを探すにはもってこいの場所。
そこが今、チョコレートの香りで満ちている理由はただ一つ。今日が2月の14日ということ。バレンタインデーと呼ばれている今日は、しかも休日ということもあって、チョコを求める生徒でごった返していた。
杏山カズサとの予定は特になく、放課後スイーツ部の活動も特にないこんな日は、杏山カズサとのスイーツ勝負の題材を探す旅に出るに限りますね、と通りをなんとなく歩いていたところ――。
「ん。…………んー?」
見たことのある後ろ姿を見つけた気がして、思わず二度見の後に数歩バック。
「あれは…………そう、ですよね。杏山カズサ、です、よね?」
ガラス窓の中に映る、猫耳パーカーのフードを被った女の子。あのヘイローの形は、あの後ろ姿は間違いなく、杏山カズサその人。
ちょっとだけ体を引いて、お店の看板を見る。そのお店は、何回か杏山カズサに連れて来て貰ったこともある洋菓子店だった。
名物の苺ケーキがほっぺがとろけるほどおいしかったし、二回目と三回目に連れて来て貰ったときの、季節限定のフルーツタルトやモンブランも、一口目で思わず笑っちゃうくらいにおいしかった。特にこのお店の生クリームは絶品で、ふんわりとした口当たりの軽さと、口の中で溶けちゃう感覚は、思い出すだけで思わずほほが緩む。杏山カズサお勧めのお店と言うだけはある、ものすごいお店。
その中の、持ち帰り用のショーケースの前に、杏山カズサがいる。
――しかもなんだか……その姿は、思い悩んでいるように、見えた。
ケーキが入っているガラスのショーケースは、大きく3つに分かれている。ショートケーキが入っているもの、フルーツ系のケーキやタルトが入っているもの、そして季節のケーキが入っているもの、の3つ。
杏山カズサは、左側のショーケースを覗き込んでいたかと思うと、その隣へ。じぃっと見て、さらに隣へ。そこを見ていたかと思うと、最初のショーケースへと戻っていく。ショーケースを移る時に見える杏山カズサの横顔は、眉間に皺が寄っていて、口元はすぼめられていて。あまり見たことがない表情をしていた。
「…………あんな杏山カズサ……。初めて、見ます……」
杏山カズサが悩んでいるなら、助けになりたい。いつも助けになってもらっているから、私だって――。そうは思っているけれど、今杏山カズサの前に行くのは、なんだか違う気がして、足は動かない。
私がカフェでメニュー表を前に悩んでいたときに杏山カズサが声をかけてくれたみたいに、私も声をかけるべきなのかな――と思うけれど。あの時は杏山カズサがよく知っているお店だったから声をかけた、と後から聞いた。とすれば、このお店をたった3回くらいしか来てない私が入っていくのは、きっと違う。
だから私は、杏山カズサが顎に手を当てて、ショーケースと睨めっこをしているのを、見ていることしかできなかった。
◇◇◇
杏山カズサが、何やら決心した顔で店員に話しかけたのは、それから30分くらいが経ってからだった。ショーケースの中のひとつを指差した杏山カズサは、こくこくと何度も頷いていた。
店員から笑顔で紙の箱を渡されて、振り返った杏山カズサの口元は、抑えようとしても抑えきれない、といったくらいに横に広がっていた。
――バレンタインですし、先生にでも渡す、んでしょうか?
こんなに嬉しそうにケーキを買う杏山カズサを見て、その向かう先が先生なのかなって思うと、ちょっとだけ、胸がちくりとする。
チリン、と音がしたのは、その時だった。
同時に、すぐ隣のドアが押し開かれるのが視界の端で見えて。
――やっば!
このタイミングでお店を出てくるのなんて一人しかいない。杏山カズサの姿がすぐ近くにあって、バレないようにダッシュで店の影へと隠れる。壁からこっそり杏山カズサの様子を窺うと、鞄からスマホを取り出していた。
――途端。
「わわわっ!?」
私のスマホが着信音を鳴らし始め、必死で店の影の、更に裏手へと走る。こんな時に誰ですか!? と発信者を見ると。『杏山カズサ」の文字。
「…………へ?」
画面を見て、ほんの数秒固まって。――我に帰って慌てて画面をタップする。
「どっ、どうしたんですか、急に、電話、なんかして」
「息切れてるけどどうしたの。逃走中?」
「だい、大丈、夫、です……。それ、で、どうした、んですか?」
「ま、いいけど。……ん、と。ちょっと、渡したいものがあって。これから時間ある?」
「――――――」
心臓が跳びはねるかと思った。
「は――はひっ、大丈夫です!」 ――噛んだ。
「そ、じゃあこれからって大丈夫? 大体30分後くらいとか。――あ、宇沢が時間あれば、だけど」
「いえいえいえ、行きます、大丈夫です! 集合場所とかありますか?」
「んー、と。……それじゃあ、いつもの踏切前で」
「はいっ! ダッシュで行きますのでっ!」
「いや、歩いてでいいから……」
杏山カズサの苦笑交じりの吐息が聞こえる。杏山カズサの声色は、いつも感じるときよりも幾分か柔らかくて。聞いているだけで胸が温かくなるのを感じる。
杏山カズサから聞いた場所は、ここから走って五分で行けるくらいの距離。一応家に居るということとして、家からいつもの踏切までの時間を頭の中で計算して、その時間に合うように、そして杏山カズサと鉢合わないようなルートを脳内で描き始めた。
◇◇◇
「おっ、おま、たせっ、しました!」
「宇沢、だから走らないでいいっていったのに……」
「きょう、やまカズ、サのお誘い、です、からね……。急がない、訳には、いかない、ですよ……」
走るまでもなく、普通に歩いても余裕で間に合う距離だった。――のに、その途中でトリニティの生徒がヘルメット団にからまれているところにばったり出くわしてしまい――『スーパースター』の呼び名の通り、即断即決で武力解決して、『名乗るほどでもありません、それじゃ!』と集合場所までダッシュすることになった。
結局、杏山カズサにこのような醜態をさらすことになったのだけれど。とにかく、間に合ってよかった。
電柱に手を添えることでなんとか立ってる私を見つめる杏山カズサは、とても優しい目をしている。目を細めて、優しい声で『そこまでしなくたって、私は待ってるよ』と言ってくれる。杏山カズサの細かな気遣いが、嬉しいって思う。
少しだけ時間を貰って、深呼吸。息も上がらなくなったところで、やっと「お待たせしました」と言うことができた。
「それで、どうしたんですか? お休みですし、どこかスイーツでも食べに行く感じですか?」
「んー、いや、そういうんじゃないんだけど……」
私の問いに、杏山カズサは途端に、そわそわしがちになる。目の瞬きが多くなって、居づらそうに視線を外し始める。それから数秒が経って、杏山カズサは。
「~~~~~~。これ。……はい」
ずい、と、私に紙製の箱を差し出してきた。
「…………え、」
「ケーキ」
これはなんですか、と言う前に。杏山カズサは口を開く。
「アイリたちにケーキを買ってく予定だったんだけどさ。なんかもうひとつ買うとお得になるらしくて。宇沢だったら食べてくれるかなって思って買ってみたの。ほん、とうに適当に選んだものだからさ、たぶんおいしいとは思うんだけど、食べたことないやつだし、宇沢がよかったら、ってくらいなんだけど」
「…………」
「や、今日はバレンタインだしさ。宇沢のことだから、ヨシミとか、自警団の先輩とかから、これよりもっとおいしいものもらったりするんだろうけど。もしもう貰いきれないってときは、私が食べるから」
早口でまくし立てる杏山カズサ。だんだんと、頬が赤くなっていくのが見える。
杏山カズサの耳が、ぴこぴこと揺れるのが見えて、さっきまで合わせていた視線も、あっちへ行ったりこっちへ行ったりして。紙箱を持っていない手は、先ほどから頬や顎下をぽりぽりと掻いている。
杏山カズサが恥ずかしいのと思ってるのが、あらゆるところから分かる。じっと杏山カズサを見ていると、「ん、」と更に私の方へと紙箱を突き出してきた。
杏山カズサが、いつもはまったく見せない様子を見せているのが、可愛らしくて、そして、それより前の杏山カズサを見ていたからこそ、嬉しく思えて。
受け取った紙箱を持つ手は、うまく力が入らなかった。
「ありがとう、ございます、杏山カズサ。……開けていい、ですか?」
「…………ん、いいよ」
紙箱を開く。中にはたった一つ、チョコレートケーキが入っていた。
チョコレートでコーティングされた茶色のスポンジを使ったショートケーキ。生クリームの上に大きな苺が乗っていて、断面にも半分に切られた苺がいくつも並んでいる。丁寧に作られているのが分かるし、見るからにおいしそう。ふわりと、チョコの濃厚な甘さと、苺の爽やかな甘い香りが香ってきて、自然と頬が緩んでしまう。
――これ。先生へのものじゃ、なかった、んだ……。
箱の中のチョコレートケーキを見て。じわじわと、嬉しさがこみ上げてくる。
私は知っている。
これが、決してアイリちゃんやヨシミちゃんやナツちゃんや、そして先生への購入の
これ以上の嬉しいものはなくて。ただただ嬉しくて。
杏山カズサを見る。
杏山カズサが視線を逸らして、頬をかきながら言葉を言うときは、大体照れ隠しの時で。
つまり、今の杏山カズサは――――。
「――――ふふっ」
「何笑ってんの」
視線を外したまま、杏山カズサはふてくされたような声を出す。それがまた、可愛いなと、思えてしまう。
「杏山カズサはかわいいなぁって、思っただけです」
「はぁ!?」
目を見開いて、噛みつくように私を見て。けれども頬の赤さは変わっていない。
そんな杏山カズサが――愛おしいなって思う。
「照れ隠しするのもかわいいなぁって」
「~~~~~~っ! やっぱあげたの無し。返して!」
「や、です」
べ、と舌を出す。
嬉しくて嬉しくて、顔の緩みが止まらない。意地悪っぽく杏山カズサに言いたいけれど、嬉しさが勝って、どうしても中途半端になってしまう。
杏山カズサが私の首に手を回して、締めてくる。手に持った大事な大事なケーキを揺らすわけには行かないので、抵抗は片手だけ。杏山カズサはいくら降参を示そうとタップしても許してくれないから、結局杏山カズサが満足するまでされ続けるしかないのだけれど――。
「ぎぶ! ギブです杏山カズサ!」
「うっさい! 人がせっかく~~~~もう!」
「そっ、そしたら杏山カズサ!」
精一杯の抵抗として、杏山カズサへと声を出す。
「一緒に食べましょ。私がコンビニで飲み物買ってきますから、公園のベンチでとか、一緒に、食べましょう!」
段々首が苦しくなってきていて、キツかった。杏山カズサは、私の言葉を聞き入れてくれたのか、その手の力を緩めて。
「ん、じゃあそうしよっか」
小さく息を付いたあと、私を解放してくれた。
◇◇◇
コンビニのホットコーヒーを二つ買って、フォークも二つ貰って、近くの公園へ。
お店がある区画からは離れているせいか、誰もいない。
何度か寝たことがあるベンチに隣り合って座って、箱の中からケーキを取り出す。
紙皿ごと手のひらに乗せて、フォークの側面で先の方を切って、突き刺す。
そして。
「はい」
「……や、はいって何。はいって」
「え? 折角杏山カズサに買ってもらったものなんですから、最初は杏山カズサに食べてもらいたいな、と」
「じゃあなんて宇沢のフォークに刺したケーキが私に差し出されてるのよ! 自分で食べられるから」
「杏山カズサ、私の分のコーヒーも持ってもらってますから。手、塞がってますよね。さぁ」
「………………どうしても、やる気?」
「はいっ」
満面の笑みで返す。杏山カズサは、観念したように大きくため息をついて。
目を瞑ったまま、口を開けて。
私のフォークからぶっきらぼうに、ケーキを抜き取った。
バレンタインイベントのカズサのチョコレートエピソードが最高に可愛かった。
ので、レイサが貰ったらどうなるか、というifの話を書きました。
エピソード自体のカズサも可愛すぎたし、アイテムのキャプションも可愛すぎて、よりカズサが好きになれました。愛おしさ溢れるキャラエピソード、きっと読めばあなたもカズサが好きになれます。