──4歳牝馬ステークスから数日が経った。
タマミが所属している笠本厩舎。陣営は沈痛な面持ちだった。その理由は、先日行われた4歳牝馬ステークスの結果にある。
タマミは2着。1着のカミノライザンにクビ差の2着だった。
カミノライザンは今年のクラシックにおいて最も期待されている牝馬。そんな相手に、今まで目立たなかったタマミがクビ差の2着に食い込んだのだから大健闘だろう。
しかし、レースの内容を見れば一目瞭然。惨敗に近い内容だった。
「何なんだ、あの馬は……!」
思わずそう漏らした笠本調教師。だが、それを咎める者はいない。
笠本達はレースを見ていた時勝った、と思っていた。その理由はカミノライザンが逃げていたからにある。
カミノライザンが関東で走ったのはまだ一度だけだが、その時は先行策だった。また、関西でも逃げ馬を見る形での先行策を好んで取っているのを覚えている。そんな馬がタマミと同じ位置にいたのだから浮足立っていた。
タマミの逃げに併せる形でカミノライザンはレースを逃げていた。掛かっているのか?暴走か?それともマークしているのか?どちらにせよ、笠本達はタマミの逃げにそれなりの自信を持っていたし、同じ逃げならタマミに分がある……そう、思っていた。
だが蓋を開けてみればどうだ?カミノライザンはタマミの逃げに悠々と付き合っていた。タマミのペースに合わせる形でレースを支配し、まるで問題ないとばかりに追走していたのだ。それが第4コーナーを越えても続いた辺りから、笠本達は自分達の旗色が悪いことに気づいた。関西の馬が苦戦するという東京の坂も、カミノライザンは全く苦にしていなかったのだ。
そして最後の直線。カミノライザンは……残り100mで抜け出して勝利を収めた。
後から聞いた話だが、カミノライザンとタマミはレコードタイムを記録したらしい。本来であれば喜ぶべきことなのだろうが、笠本達はそれどころじゃなかった。
「関西のカミノライザン……凄い馬だって言うのは聞いていました」
そう漏らすタマミの騎手を務めた真村。そして、絞り出すように言う。
「まさか、あそこまでだなんて……ッ!」
真村は一番近くでカミノライザンの実力を体感していた。だからこそ、より恐怖していたことだろう。カミノライザンという馬の底知れなさに。
タマミの新馬戦は逃げて勝利を収めたものの、それからは5連敗だった。理由はレーススタイルが定まっていなかったこと。先行の抑える形のレースをしたら惨敗続きだった。
ならばと、いっそのこと吹っ切れて新馬戦のように逃げてしまったらどうだ?ということで年末の寒菊賞は逃げた。すると4馬身差をつけての快勝だった。
この勝利をもって、レーススタイルは決まった。
「タマミは逃げてこその馬です!これからは逃げで行きます!」
そう進言した真村の言葉を調教師の笠本は笑顔で肯定した。
「よし!それじゃあここからクラシックまで突っ走るぞ!」
タマミは逃げ馬で行くことに決まった。
その矢先にこれである。カミノライザンという馬の実力を目の当たりにして、心が折れそうになっていた。
連敗から見えてきた逃げという光明。このスタイルなら勝てると、確信をもって臨んだ4歳牝馬ステークス。結果は──同じレーススタイルで、なおかつ実力差を見せつけられる形での敗北。
タマミがスタミナ切れを起こしたから負けたというのであればどれだけよかっただろうか?現実は、カミノライザンが余興は終わった、とばかりに抜け出しての勝利。折れない方が無理だろう。
重い雰囲気が漂う笠本厩舎。それを破ったのは──真村騎手の言葉だった。
「次こそは……ッ!」
「どうした?真村」
「次こそは!逃げ切ってみせます!」
決意を決めたかのような真村の表情。驚いている笠本達を前に、真村は堂々と宣言した。
「確かに実力差を見せつけられた負けでした……だけど!まだ1回負けただけです!」
「そ、それはそうだが……」
「なら!次戦う時は負けません!同じ逃げで、今度はタマミが逃げ切ってみせます!
真村が宣言したのはカミノライザンよりも前に立って逃げ切るということ。それがいかに難しいことか。
タマミはスタートが上手い。だが、カミノライザンもまた同様に上手い。故に、出遅れによるアドバンテージなどないに等しい。
今回は競り合って負けてしまった。しかも、カミノライザンはまだ余力があるように感じられた。そんな相手を前にして、真村は堂々と逃げ宣言をしたのだ。今度こそは前に立つと。次戦う時は負けないと。
真村はまだまだ見習いの騎手だ。しかし、その度胸に笠本は笑みを零す。
(まだ折れてなかったか……全く、自分が恥ずかしい)
カミノライザンの実力を目の当たりにして折れそうになっていた自分を恥じる笠本。
腹は決まった。目の前で気合を入れている真村に、笠本は──言いづらそうに告げた。
「おそらくだが、カミノライザンはもう関東では走らないぞ?関西では違う騎手の人に依頼予定だし」
時間が止まったような感覚が笠本達を襲う。
しばらくして、正気に戻ったであろう真村の声が響き渡った。
「……そうだったぁぁぁぁぁぁ!?」
真村騎手。まだまだ見習いなので関西での騎乗は任せられないようである。
◇
ところ変わって猛田厩舎。すでにカミノライザン陣営はこちらへと帰ってきている。
こちらもまた神妙な顔つきをしているメンバー。猛田と粟田、そして富永である。富永だけは気まずそうにしているが。
猛田は1つ溜息を吐くと、富永へ確認する。
「……ちゅうことは、あれはホンマに暴走やなくて姫なりの考えがあった、っちゅうことやな?」
「そ、そうです。京都3歳ステークスではライザンの邪魔をしたせいで負けたので、今度はいきたいようにいかせました」
「成程なぁ」
いつ怒鳴られるか気が気でない富永。なお、猛田は怒る気はさらさらなくただの確認だったのだが。
猛田達もカミノライザンの逃げが暴走ではないことは分かっていた。ただ、騎手の富永の視点からアレはどうだったか?を確認したかっただけである。
結果として、富永としてもアレはカミノライザンの暴走ではなく意図したものであることが判明。となると、その理由についてだが……猛田はおおよその見当がついていた。
(十中八九、タマミが関係しとるんやろな。保茂さんが警戒しとったぐらいやし)
カミノライザンはタマミの逃げを警戒していた、それが理由だろう。
これで負けようものならどうかと思ったが、カミノライザンはキッチリと勝った。しかも、
猛田達も思わず舌を巻いた。
「逃げ馬を徹底的にマークして、最後にはひょいっと抜き去るもんですから。やっぱえらい馬ですよ姫は」
「ホンマにそうやな。タマミに思わず同情してもうたわ」
「アハハ、乗ってる身としては、結構ギリギリだったんですけどね」
そう歓談する猛田達だった。
そしてカミノライザンだが。今は軽めの運動をこなしている。猛田達も様子を見に来た。
カミノライザンを担当している刈谷に尋ねる。
「どや?姫の調子は」
「猛田さん。良い調子ですよ、あのレースの後だって言うのに」
カミノライザンの調子は良好。さすがに疲労は見え隠れしているものの、回復傾向だ。全く問題がない。
カミノライザンを撫でながら猛田は喜びを隠しきれない声を上げる。
「いや~ホンマに賢いなぁ姫は。こらシンザン並やで」
「大人しいし、輸送の影響も微々たるものですからねぇ……食い意地だけは凄いですけど」
「刈谷、お前そんなこと言うてるとまた姫に蹴られるで」
猛田がそう忠告する前に、刈谷はカミノライザンに蹴られそうになっていた。
「危なっ!?」
紙一重で躱した刈谷。もしかすると、カミノライザンが当たらないように調節していたのかもしれない。そう思わせるぐらいには、猛田達はカミノライザンは頭が良いと評価していた。
「あーあー、姫が機嫌悪うなっとるで?デリケートな問題に口ツッコむからや」
「ホンマですね。反省した方がいいですよ刈谷さん」
「き、肝に銘じておきます……」
からかうような口調で刈谷を責め立てる猛田達。刈谷も胸に手を当ててドキドキとした様子だった。
カミノライザンの軽めの運動を眺めながら、猛田は呟く。
「姫はホンマに賢いよなぁ」
「今更どうしたんですか?猛田さん」
富永の言葉に、猛田は気になっていたことを教えた。
「いや、姫はこっちの言葉理解しとるんやないか?と思うてな」
瞬間、カミノライザンがびくぅ!と反応したような気がしたが。気のせいだと思い猛田達は触れないでおいた。
猛田の言葉に富永も同意する。カミノライザンはこっちの言葉を理解している節があると。
「俺達の言うことに凄い素直ですもんね。基本的に言うこと聞きますし」
「レースっちゅうもんを分かっとるからな。そんだけ賢いんやったら、ホンマに俺らの言葉が分かってる節があるわ」
笑いながら雑談する猛田達。刈谷にはどことなくカミノライザンが焦っているように見えたが、気のせいだと思うことにした。
そしてカミノライザンの内心だが。
(あれ?俺ちょっと疑われてる?大丈夫だよな?……まぁそれだけ賢いって思われてることだし、いい……のか?)
少しだけ気が気でなかった。
ちょっと疑われる主人公である。