猛田は頭を悩ませていた。その理由はクラシックの初戦、桜花賞が近づいてきたということ。
もっとも、猛田を悩ませているのはレースの展望や他の有力なライバル候補達のことではない。カミノライザンならば問題なく勝てると思っているし、それだけの実力があると自負している。後はプレッシャーに弱いカミノライザンの体調がどうなるかが焦点であり、それ以外は特に気に入らない状態だった。
猛田が頭を悩ませている理由、それは……馬主である保茂の意向。
(ホンマに……ホンマに、どうすべきなんや?俺は)
クラシック五冠への挑戦──その答えを、猛田はまだ出せないでいた。
時間が経てば記者の連中が今日こそは!と押し寄せてくるだろう。なにせ、今の今までカミノライザンのクラシックに関しては明確な答えを出してこなかった。
「まずは一戦一戦大事にいこう思うてます。クラシックは……まぁ追々ですね」
「クラシックは固い思うてますよ。少なくとも、一冠は確実でしょうね」
「ま~……今は目の前の勝負に集中しよう思うてます」
クラシックのローテをどのように組むか?桜花賞からオークスへと直行するのか?それとも2レースとも前哨戦を挟むのか?猛田文男はどのようなローテを組むのか?……飽きるほど来た質問だ。
カミノライザンという馬の期待値はすでに凄まじいものだ。惚れ惚れするような馬体、美人な顔つき、シンザン産駒で最も期待されている牝馬……概ね世間での評価はそんなところだ。しかも勝ち方やレース後の振る舞いがシンザンに似ているためか、ファンは期待している。牝馬三冠も夢ではない、まだクラシックは始まってないのにそんな声が上がるくらいだ。
だからこそ、悩ましいのだ。果たしてこのまま、保茂の言うままクラシック五冠へ挑戦してよいものか?
クラシックの連闘。猛田の脳裏によぎるのはミスオンワードのことだ。
当時無敗でオークスを制し、無敗の二冠牝馬に輝いたミスオンワード。そのミスオンワードはオークスから連闘でダービーへと挑んだ。
結果は……17着惨敗。圧倒的強さを誇っていたミスオンワードは、ダービーで初黒星を喫した。
今でも当時のことは覚えている。それだけ印象に残っているのだ。
(一応、オークスとダービーを勝った牝馬はおる。やけどそれは……)
クリフジ。オークスとダービー、そして現在の菊花賞を制して変則三冠馬となった名牝だ。
だが、クリフジの時代はオークスが秋開催。現在のオークスはダービーの前週開催であり訳が違う。そして桜花賞と皐月賞を同時制覇した牝馬は……いまだにいない。
これだけだったら、保茂の要求など突っぱねてしまえばいい。自分がいかに無謀なことに挑戦しようとしているかを説き伏せて、現実的ではないと一蹴してやればいい。それでも食い下がるだろうが、無理なもんは無理と突っ返せばいいのだ。
現実的ではないローテ、ミスオンワードの敗戦、これからのこと──それらを総合すると、夢物語で終わってしまうようなこと。諦めろ、と断言した方がいいものだ。
(やけど……俺は……っ)
しかし、猛田は
悩む猛田。そんな猛田の下に。
「あれ?どうしたんですか、猛田さん。何か悩んでいるみたいですけど」
「……トミか」
富永が訪れた。
◇
場所を変えよう、ということで移動した猛田と富永。途中で粟田も加わり、3人での話し合いとなった。
「それで、どうしたんですか?猛田さん。凄く悩んでるみたいでしたけど」
「それにしても、富永も呼ぶのは珍しいですね。人の心配してる暇あんなら騎乗技術磨けや!とか言いそうなのに」
「あ~確かに」
場を和ませようと冗談を言う粟田だが、猛田は神妙な顔つきを崩さない。これは冗談を言っている場合じゃないな、と思った粟田と富永は猛田の言葉を待つことにした。
猛田は、落ち着いた様子で話を始める。
「……姫のことや」
姫のこと、その言葉で富永と粟田はすぐに何のことか分かった。猛田がかなり頭を悩ませて、なおかつそれがカミノライザンのこととなると
「クラシック五冠の件……ですか」
粟田の言葉に頷く猛田。やはりか、という表情を浮かべる粟田と富永。
「……率直に聞くわ。お前らはどう思うてる?保茂さんの言う、姫のクラシック五冠について」
「俺は反対です」
猛田の問いかけに、真っ先に反対の声を上げる粟田。
「ミスオンワードのこと、覚えてるでしょう?ミスオンワードは強い馬でした。ですが……ダービーでは惨敗した」
「俺も、よう覚えてるわ」
「だったら、止めるべきです。別に姫の箔に傷がつくとかそういうんじゃない、クラシックの連闘は厳しいもの。それを身をもって知っているわけですから」
現実的な見方をする粟田。
それに対して、富永の意見は。
「俺は……
「……富永」
厳しい目つきで富永を見る粟田。富永を非難するような目をしていた。
富永はしどろもどろになりながらも己の考えを告げる。
「も、勿論、俺だってジョッキーの端くれです。クラシック五冠がどんなものかはちゃんと分かっています」
「……それでもなお、お前は姫をクラシック五冠に挑戦させようとしているのか?」
咎める目つき。圧されそうになる富永だが、負けじと自分の主張を続けた。
「確かに厳しい道です。いや、厳しいなんてもんじゃない……頂上の見えない山に登るようなものかもしれない。でも!ライザンならできるんじゃないかって!俺は思っています!」
「……根拠は?」
「ライザンのレーススタイルです!」
はっきりとそう答える富永。
「ライザンは無駄な力は使いません。身体も頑丈だ。連闘しても問題なく走れることからそれは分かります。それにライザンは心肺機能も高い。息が整うのも他の馬よりも格段に早いですから」
「それは分かっている。だが」
「それに!ライザンは今まで余力たっぷりに勝っています!実力的に申し分ありません!」
「だが危険な道だ」
粟田と富永の押し問答。どちらも譲れない主張を語っていた。
姫の身体はどうする?細心の注意を払います!もし大事になったらどうする?そうなる前に競走を中止します!どうやって判断する?姫の様子を見てです!と、お互いの意見をぶつけ合っていた。
少しの間押し問答が続いて、決着つかず。
「……そうだ。猛田さんはどちらなんですか?」
「出走に賛成か、反対か。勿論反対ですよね?猛田さん」
肝心な猛田の意見を聞いていないことを思い出して尋ねる。猛田の意見次第で、天秤は傾く。2人はそう感じていた。
無言を貫く猛田。猛田の言葉を待つ2人。
長い沈黙を破り、猛田が自分の意見を述べた。
「反対……」
笑みを浮かべる粟田。やっぱりか、という表情の富永。その2人の表情は、次の瞬間崩れ去る。
「……って、言えたらええんやけどな」
「「え?」」
思わずキョトンとした表情を浮かべる2人。猛田は、辛そうな表情を浮かべていた。
「テキとしては勿論反対や。馬の負担が凄いことになるし、姫の身体を考えたらやらん方がええ」
「まぁ……そうですよね」
「それに粟田の言うように、俺らはミスオンワードの一件がある。どうしても、クラシックの連闘は躊躇してまう」
「……」
でもな、と前置きをする猛田。絞り出すように己の心情を吐露する。
「どうしても……夢見てしまうんや。姫の調教を見る度に、姫のレースを見る度に……思うてしまうんや。姫やったらいけるんちゃうか?って」
「猛田さんっ」
「アホみたいな夢や、バカげた理想や。言葉では簡単に片づけられる。反対する理由なんざ、いくらでもある。やけど、それでも俺はっ」
自らの表情を手で覆い隠し、絞り出す。
「姫やったら……カミノライザンやったら!今まで到達しなかった領域に到達するんやないかって。そして、この馬がどこまでいけるんやろうか?って。そう、夢を見てしまうんや……」
辛そうに吐き出す猛田を、粟田と富永はただ見つめるしかない。猛田は自嘲気味に笑う。
「テキとしては最低や。そんなもん理屈では分かっとんねん」
「「……」」
「それでも、夢を見てしまうんや。姫やったら五冠挑戦どころか、五冠全部勝てるんやないかって。自惚れでもなんでもなくそう思うてる」
「それ、は」
粟田も心当たりがあるのか、気まずそうに視線を逸らす。
カミノライザンの実力は誰もが知るところだ。ここまで6戦5勝2着1回。しかもレースの勝ち方も無駄に着差を広げない、疲労が溜まらないようにしているレーススタイルだ。勝てばいい、勝てばどんだけ着差がつこうが関係ない。レースというものを理解しているかのように勝つ。
加えてカミノライザンはプレッシャー負けで体調を崩すことはあっても、レースには勝つ。大きな怪我どころか細かい怪我もほとんどしない頑丈な身体。
粟田とて、猛田の気持ちは分からないでもない。反対こそしているが、カミノライザンのポテンシャルを高く評価している。だがどうしても、常識という壁が邪魔をする。
桜花賞から皐月賞の中0週連闘、それから1ヶ月後にはオークスからダービーの連闘。無謀、無理、無茶。そんな言葉が頭をよぎってしまう。
猛田もそれは分かっている。それでも夢を見ずにはいられないのが現状だ。カミノライザンという馬のポテンシャルは、どこまであるのか……それを見てみたいという気持ちが、競馬に携わる1人の人間として抑えきれない。
しかし、それはあくまで
「いくらなんぼでも、姫が可哀想や。調整やったらともかく、俺らのエゴで連闘に次ぐ連闘なんて……」
「……」
猛田と粟田は揃って俯く。
クラシック五冠は所詮、猛田達側のエゴに過ぎない。そのエゴに、カミノライザンを巻き込むのはいかがなものだろうか?そう考えると、どうしても反対せざるを得ない。これが猛田が躊躇している原因だった。
そんな中、富永は。
「そうだ!」
妙案を思いついた、とばかりに手を叩く。怪訝な表情をする猛田と粟田に、富永はさも当たり前のように告げた。
「ライザンに聞いてみればいいんじゃないですか?」
そんな富永の言葉に、猛田と粟田はなんとも言えない表情を浮かべるしかなかった。
イクイノックス君も引退かぁ。お疲れ様でした。ガチで強かった……。