月海の子が生活する牧場。この牧場の最高責任者の男五十嵐は頭を悩ませていた。
「うぅむ、どうしたものか……」
視線の先にいるのは月海の子。すでに母である月海とは離乳済みであり離れたところで生活している。
月海の子単独で生活しているわけだが、五十嵐が難しい表情を浮かべている通りあまり芳しくはないようだ。
厩務員の1人が五十嵐のもとへ訪れ、その視線の先を見る。五十嵐の視線を辿っていき……彼もまた同様に難しい表情を浮かべた。
「あぁ、
「あぁ……
三冠馬2頭の血を受け継ぐ牝馬。それから連想してつけられた名前、三姫。牧場の人間達はそう呼んで可愛がっていた。
三姫は現在群れから離れた一頭で過ごしている。他の馬とは一切絡もうとせず、牧場を駆けまわっているのだ。
「相変わらず孤高の存在というか。他の馬と絡もうとしませんね」
「しかも、放牧中は常にといっていいぐらい走り回っている。ただ一頭黙々とな」
三姫はただ一頭で放牧地を走り回っている。このことに五十嵐達は頭を悩ませていた。
悪いことではない。競走馬という面で見ればむしろ好意的に見れるだろう。
だが、五十嵐達が見ている限りだと三姫は他の馬に絡みに行こうとすらしない。そんなことをする暇があるなら走り回る、そんな気すら感じている。
一頭で過ごすことを苦と思わない。むしろ近寄りがたい雰囲気を放ち、他馬を威圧している。
「三姫は気も強い。他の馬がちょっかいをかけたら追い掛け回すからな」
「舐められていると思っているんでしょうね。他の馬がバテバテになるのを見ると、勝ち誇るようにしていますから」
三姫もバテバテになってるんですけど、と苦笑いをする厩務員。他馬を追いかけ回す時の三姫は地の果てまでも追いかける、といわんばかりの勢いだ。その時の光景を思い出したのだろう。
「あの気の強さは競走馬として大成するかもしれんな」
「そうかもしれませんねぇ」
ははは、と笑い合う2人。
「それに、こっちの言うことには基本素直ですからね。全く手がかからない」
「しいて言うなら、走り足りなかった時は不機嫌になることだな」
「その後はご機嫌取りが大変ですよねぇ」
三姫のことで盛り上がる五十嵐と厩務員。
そんな時、ふと思い出したように厩務員が口を開いた。
「そうだ、五十嵐さん。今日は
あの人、と呼ばれた人物に心当たりがあるのか五十嵐は反応する。その反応は、心なしか嬉しそうだった。
「そうか、そうか。三姫のことを気に入ってくれると良いんだが」
「気に入ってくれれば、三姫も競走馬として……」
「あぁ。それじゃあ、早速出迎えの準備をしよう」
五十嵐は事務所へと向かう。あの人を迎え入れるため、三姫を気に入ってもらえるように。
◇
放牧地を1人、というより一頭ただ黙々と走り回る俺である。生まれてから結構な月日が流れたもんだ。
何してるかって?こうやって少しでも身体鍛えてんのよ。俺の目標はアレだし、今のうちにできる限りのことをやっておかねばならなん。
ちなみに母親とはすでに離れて暮らしている。こういう時って仔馬は泣いたりするもんだが、俺に関しちゃなぁ。寂しくない、と言えば嘘になるが。
放牧地では基本走り回るようにしている。目標……というか、俺がやらなきゃならんことを考えたら当然な訳だ。
(クラシック五大レース制覇。まず必要なのは頑丈な身体だ。ついでスタミナ、他は後回しでもなんとかなる)
とにもかくにも頑丈な身体を作らなきゃいかん。なので好き嫌いもせずしっかりと食べるようにしているし、食べたら食べた分だけ動くようにしている。
放牧地では他馬にちょっかいをかけられたりもする。な~んか俺のことをジッと見てくる馬が割といるのだ。
そんな中たまに、明らかに挑発するように俺の前を走るヤツがいるので。
(上等だテメェコラ!)
そんな感じで喧嘩を買ったりしている。
喧嘩売ってきたヤツも俺のことをジッと見てたヤツも地の果てまで追いかけ回した。向こうの息が上がるまで追いかけ回してやったな。
これにも勿論意味がある。ぶっちゃけて言えばトレーニングの一環だ。ただ闇雲に追いかけていたわけじゃない。
向こうの息が上がるまで追いかけ回して、スタミナを鍛え続ける。ついでに追いかけ回してバテた馬に勝ち誇る。悲しくならんのかって?喧嘩を売ってきた方が悪い。後俺も同じ馬だし。
放牧地では他馬とは絡まずただ黙々と鍛え続けているわけだが。厩務員さん達とは良好な関係を築けているはずだ。
向こうの意見には逆らわず、大人しく従順について行く。ま、反発する理由もないしな。走り足りない時は露骨に不機嫌オーラを出すが。
厩務員さん達には三姫とか姫とか呼ばれて可愛がられている。しかし姫か……うん。
(牝馬だから仕方ないとはいえ、複雑な心境だよ本当に……)
だがこれで男だったら三王とかになってたりしたんだろうか?ちょっと気になるな。
さて、そろそろ息が上がってきたから休憩するか。
放牧地で寝っ転がって休憩……しながら今後の計画を立てていく。
(俺がどの年代に生まれたのか、それが問題だよな)
最優先で知るべきなのは、今が西暦何年か?ということだろう。
たまに人間達の会話を盗み聞きするものの、有力な情報は得られずじまい。確証には至らない。
だが、俺の母父がセントライトということから大体の年代は絞れている。
(1970年代のどこか、もしくは1980年代前半の可能性が高い。セントライトの種牡馬期間は定かじゃないけど、おそらくこの年代のどこかのはずだ)
この情報を踏まえた上で確率が高いのは1970年代だろう。そんな予想を立てていた。
1970年代のどこか、か。……とりあえず。
(75年クラシックだけは止めてくれ!ここだけはマジで止めてくれ!もう詰んだも同然だから!)
1975年のクラシック世代と同じだけは本当に勘弁してほしい!数ある世代の中でもぶっちぎりでクラシック五冠を取るのが難しいところだから!
1975年クラシック世代──この世代には最強筆頭格の馬が2頭いる。しかも、牡馬と牝馬両方に。
牝馬はテスコガビー、牡馬はカブラヤオーだ。……もうこの時点で昔の競馬を少しでも齧ったことがある人にはお分かりだろう!
(テスコガビーに勝った一週間後にはカブラヤオーに勝てってどんな無理ゲーだよ!?死ぬわ普通に!)
快速女王テスコガビー!桜花賞を10馬身は引き離して勝ったバケモン!狂気の逃げ馬カブラヤオー!競り合った馬の方が潰れるというトンデモ肉体の持ち主!
この世代にぶち当たったらガチの詰みゲーである。どんなに体を鍛えても勝てるイメージが全く湧かん。
次に嫌なのは76年クラシックか。分かりやすい言い方なら……かの
TTG。トウショウボーイ・テンポイント・グリーングラスの頭文字を取った世代。タレント揃いでありこの3頭が目立つものの他も強い。
(芝2000mのトウショウボーイに勝て、っていうのがまず難しい。ダービーのクライムカイザーもそうだし、グリーングラスは純粋なステイヤー。菊花賞で勝つのは至難の業だ)
後この世代は二冠牝馬のテイタニヤもいる。楽な戦いじゃない。
後は花の47年組と呼ばれている72年クラシック、タニノムーティエ擁する70年クラシック、世紀のアイドルホース・ハイセイコーとそのライバル、タケホープがいる73年クラシック。どこも楽じゃないが、抜けて嫌なのはこの辺だろう。
しっかしまぁ、俺のうかつな発言でこんなことになっちまうとは……来世がミジンコなのは嫌だから頑張るけどさぁ。
(そもそも競走馬としてデビューできるかどうかすら怪しいと言われてるんですけど俺!?無慈悲すぎんだろ!)
よくよく思い返せば、1970年代は外国の種牡馬が幅を利かせている時代だったはずだ。俺の父はシンザンで母親もおそらく内国産馬。血統的に走るかどうかは微妙な位置づけである。ロマンはあるけどね。
それを抜きにしても、俺の血統は日本の三冠馬二頭の血が流れている。競走馬として危うい道よりも繁殖牝馬として血を繋げる……なんてことも十分にあり得なくもない話で。
(そうなったら俺確定でミジンコじゃねーか!?誰かどうにかしてくれよ!)
というかあのクソ神!その辺のことちゃんと考えてんだろうな!?このままだと俺競走馬の前に母親になるぞ!?嫌すぎるわ!
あ~もう止め止め!やってられるかクソッたれ!こんなことしてる暇あるなら少しでも走ってっ?
(おん?厩務員さんと五十嵐さんと……誰だありゃ?見たことねぇスーツの人がいるな)
結構若そうだな。見た目だけなら20代、30代でも通用しそうだ。ここに来るってことは、多分もっと歳食ってるんだろうが。
知らんヤツだから警戒心MAXだ。なにされるか分からんからな。
「ちょっと気が立ってるな三姫……よ~しよし、大丈夫だよ~三姫。怖くない怖くな~い」
あ~、厩務員さんのナデナデが効くんじゃ。もっと撫でて。
「へ~、この子が……」
「はい、
保茂、と呼ばれた男は俺の馬体をジロジロと見ている。何ジロジロ見てんだ変態。
冗談はともかく、この人はお偉いさんか何かか?厩務員さん達もどこかかしこまった様子だし。
……だがそれ以上に感じる、
(少なくとも会った記憶はねぇはずだ。だが……どことなく
少し疑問を抱いていると、保茂と呼ばれた男は顔をほころばせていた。それはもう素敵な笑顔である。
「うん!良いね良いね!気に入ったよこの子!」
保茂の言葉に厩務員さんと五十嵐さんは嬉しそうな顔を浮かべる。
お、お?もしかしてこの人……馬主さんだったりするの?それでそれで!俺のことを気に入ってくれちゃったり!?
ちょっとウキウキだ!競走馬としてデビューできるかもしれねぇんだからな!
「そうですか!三姫のことを気に入ってくれましたか!」
「うん!早速諸々の手続きとかお願いしても良いかな?」
「えぇ、えぇ!早速準備を「あ、ちょっとこの子と触れ合っていたいからさ、準備ができたら呼んでくれる?」あ、はい。分かりました」
嬉しそうに去っていく五十嵐さん達。手続きとか準備とか言ってるから……これはもうあれだな!?
(この人馬主さんだ!間違いなくそうだ!)
よっしゃよっしゃ!これで俺もデビューできるんだな!第一関門突破だぜ!
『やったやった!これで俺もデビューだ!』
「嬉しそうだねぇ三姫ちゃん。俺が馬主じゃないって可能性を考えてないの?」
『いやいや!手続きって言うぐらいだし馬主さんだろあんた?』
もしくはなにか違う方だったりすんの?それすげぇ嫌なんだけど。
「ま、
『なんだよも~!不安にさせんなって~!』
「ごめんごめん!ここは茶目っ気ということで1つ」
『も~ガチで焦った……は?』
いや、ちょっと待て。なにナチュラルに俺と会話してんのアンタ?何、そういう能力者なの?
目の前の保茂さんはニヤニヤしている。その笑みは
おい、おい!コイツまさか……!
「いや~!元気そうだね〇〇くん!」
俺の前世の名前!?っつーことはコイツ……!
「それにしても、馬生を満喫しているようで何よりだよ!あ、ちなみに今はえ~っと……1968年で~、デビューは来年を考えてるから~……うん!君は1970年クラシック世代『テメェクソ神ぶっ〇してやらぁぁぁ!』あっぶなぁっ!?」
『避けんじゃねぇテメェ!大人しく蹴られろ!』
「ヤだよ!今の僕脆いんだからさ!」
あのクソ神じゃねぇか!ここで会ったが百年目!蹴り飛ばしてやらぁ!
俺と神様、お早い再会である。
早い再会ですね()。