カミノライザンの主戦騎手、富永紘一は何もカミノライザンだけに騎乗しているわけではない。勿論別の馬にも騎乗する。
今日も富永は別の馬に騎乗してレースに出ていた。現在13頭立ての7番手。馬群は固まっている。富永が騎乗している馬の位置は丁度馬群の中、抜け出すのに手こずる位置にいた。
富永が騎乗している馬に進路はない──そう思っていた次の瞬間だった。
(ッここだ!)
富永が進出を開始する。前は阻まれている。進路はないはずだった。
しかし、富永が進出を開始したのと同時……その進路が不思議なくらいあっさりと開いた。富永は馬を押し出してその空いた道を駆け抜ける。
急に富永が接近してきたことで、前を走っていた馬の騎手は仰天していた。一体いつ差を詰めてきたのかと。
驚いている間にも、富永は先に行っていた。第4コーナーで馬群から抜け出し、最後の直線では先頭に迫る。
富永は馬に鞭を入れた。スパートの合図をかける。
「「「わあああああぁぁぁぁぁ!!」」」
大歓声に包まれる競馬場。馬券による紙吹雪が舞っていたり、馬券を握りしめて歓喜の声を上げる者がいたりと様々だ。
富永が騎乗している馬は前を走る馬を捕らえ、先頭へと躍り出る。そのまま後続を突き放して見事に勝利を収めた。
全レースの日程が終わり、富永は猛田と合流する。猛田は片手をあげて富永を労った。
「お疲れさんトミ。今日も絶好調やったな」
「お疲れ様です、猛田さん。今日も順調にこなせました」
照れくさそうな笑顔を浮かべる富永。だが、次の瞬間には気を引き締めた表情になる。
「だけど油断はできません。みなさん俺に期待して騎乗を依頼しているわけですから……これに胡坐をかいて、勝ちを取り逃すことがないようにしないと」
勝利しても慢心はしない富永の言葉。猛田は満足げな表情を浮かべる。
(えぇ傾向や。これやったら問題はないな)
富永は現在3年目。昨年の勝ち星が評価されてか、彼に騎乗を依頼する馬主が増えてきた。
さらには兄弟子である粟田や廉田の存在も大きい。彼らの助けもあってか、富永は良い馬に騎乗する機会が増えた。
その信頼に応えるように、富永は結構な勝ち星を稼いでいる。これは富永にとっても良い経験になっているだろう。喜ばしいことだ。
ただ、調子に乗るのはダメだ。調子に乗って勝ちを取り逃すことがあれば方々に面目が立たない。もし調子に乗っているようであればシメようと思っていた猛田だが、その心配はないと判断する。
「それでえぇ。ちゃんと分かっとるようで俺は嬉しいで、トミ」
「はい。カミノライザンの一件で懲りましたからね」
苦笑いを浮かべる富永。猛田はその一件に関してはノーコメントである。
今日のレースの反省会をしながら、猛田は富永の
「しっかしトミ。お前はホンマにコース取りが上手いよな」
「コース取り、ですか?」
頷く猛田。
猛田もそうだが、富永を知る人々は彼の騎乗技術には舌を巻いていた。まだまだ荒っぽさが見え隠れしているが、最近ではその荒さも鳴りを潜めている。
そんな彼の長所の1つとして、コース取りの上手さが挙げられていた。富永が取った進路は、
前が閉じていると思っていても、富永がそちらに舵を取った瞬間その進路が開く。後々レースを見ればちゃんと理由があるのだが、富永はレースの中でそれを判断しているのだ。しかも、寸分の狂いもなく一瞬で。
「俺は自分がここだ!って思った進路を迷わず取っているだけですよ」
謙遜するように答える富永。しかし、この一瞬の判断力は間違いなく他の騎手よりも上だと豪語できる、富永の長所だ。
2人の話は間近に控えた桜花賞に変わる。
富永はカミノライザンに騎乗して桜花賞へと臨む予定だ。この桜花賞で対抗馬に挙げられているのは──関東のタマミだ。
「西はタニノタマナーで東はタマミやけど……前評判はウチの姫が圧倒やからな。油断せぇへんかったらほぼ負けんやろ」
「問題は
「どうしても慣れんよなぁ姫は。しゃあないとこあるわ」
2人の言うアレとは、カミノライザンのプレッシャー負けである。ここまでレースをこなしてきたが、ほとんどレース前に体調を崩している。もっとも、レース当日にはなんとか体調を戻しているので支障はないのだが……それでもやはり気になるだろう。
桜花賞において、カミノライザンは普通に勝つ分には問題ないだろう。それが2人の共通認識だ。
桜花賞の前哨戦を制したタマミがそのルックスと勝ちっぷりから話題を呼んでいるが、カミノライザンならば問題はない。そう考えている。
だから問題は次。桜花賞を制した後──皐月賞だ。
「東のアローエクスプレスに現在姫と1勝1敗のタニノムーティエ……コイツらを下して勝つ必要がある。しかも、
「関西から関東へすぐに移動ですからね。レース疲れに輸送の問題……桜花賞は、
桜花賞という大レースが終わった後に関東の中山へと移動。このご時世ではかなり厳しいものだ。どうしても馬にストレスがかかるし、レースの疲労をできる限り残さないようにしなければならない。カミノライザンがいかにタフで頑丈とはいえ、万全な状態で送り出すことはほぼ不可能だろう。
それでも、やると決めた以上は勝つ。そう意見が一致していた。
「仲村さんにもえらい渋い顔されたわ。お前正気か!?ってな」
「そりゃそうですよね。俺らがやろうとしていること、バカげているにもほどがありますし」
お互いに顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。しかし、すぐに気を引き締める2人。
「だけどまぁ──勝ちますよ。俺とライザンで、絶対に勝ちます」
「その意気やトミ。俺らも姫の体調を万全の態勢で整える。少しでもえぇ状態でお前に騎乗させるわ」
そう言葉を交わす2人だった。
◇
関西へ遠征しているタマミ陣営。彼らは自信を深めていた。
クイーンカップを制したタマミは桜花賞に出走するために関西へ遠征。最初は馬房で一頭だけポツンといたためか食欲不振に陥り、体重がかなり減ったが他の馬が馬房にやってきてからは食欲も戻り体調は整った。
その後桜花賞の前哨戦である阪神4歳牝馬特別*1に出走。4馬身差つけての快勝だった。
特に、関西のリーディングジョッキーである貴端に騎乗依頼できたのが大きい。まだ桜花賞に騎乗する馬が決まっていなかった彼は、タマミの騎乗も快く引き受けてくれた。
だが、いくら自信を深めたとはいえ彼らの不安は拭えない。それは──ある馬の存在。
「……率直に聞きます、貴端さん」
「何でしょうか?」
神妙な顔つきの笠本。貴端に対して、尋ねる。
「タマミは……カミノライザンに勝てますか?」
笠本の不安要素。それは、猛田厩舎に所属しているカミノライザンの存在だった。
タマミとカミノライザンは1度対決したことがある。そのレースでタマミは……格の違いというものを見せつけられた。
今まで抜群のスタートを決めて逃げていたタマミ。そのタマミが唯一逃げれなかった相手。それどころか、悠々と追走されて残り100mでポンと抜け出された相手だ。
忘れられない苦い思い出。笠本にとっての不安要素は、カミノライザンという馬の存在だった。
「別に、貴端さんの腕を疑ってるわけじゃないんです。でも……あのレースを思い出すとっ」
「ま~気持ちは分からんでもないですよ」
悔しそうに歯噛みする笠本に同情する貴端。彼はカミノライザンという馬の実力をよく知っている。
「あの馬は、ホンマに強い。関西でタニノムーティエと二強を形成しとるからな」
「……」
「まず、王道も王道やから崩すことが難しい。馬自体がま~賢いからな。ちょっとやそっとのつっつきにはまず反応しませんわ」
カミノライザンが賢いことは周知の事実。どれだけ競りかけられても動じないし、己のスタイルを崩さない。故に競馬ファンの間では、カミノライザンは山のようだ、とまで言われている。
「おまけに騎手も騎手で凄いからなぁ。絶賛ブレイク中の富永君。この子もま~えらい騎手ですわ」
「……若手なのに、カミノライザンのクラシックでも手綱を握っているからよく存じています」
普通ならば騎手を変えてもおかしくない。だが猛田厩舎はカミノライザンの鞍上を3年目の富永のコンビで継続することを発表している。これがまた世間で大きな話題を呼んだのだが割愛。
改めて、カミノライザン陣営の凄さを語られて肩を落とす笠本。そんな笠本を安心させるためか、不敵な笑みを浮かべる貴端。
「やけど──タマミかて負けてへんですよ」
「……え?」
顔を上げる笠本。笑みを浮かべている貴端の顔が目に映った。
「タマミのスピードは一級品です。やから戦法は変えません。逃げて逃げて逃げまくって……カミノライザンに影すら踏ませませんわ」
「……逃げたタマミは、負けないと?」
「笠本さんかて同じ気持ちやろ?タマミが無事逃げれたら、まず負けんて。やから
安心させるようにそう告げる貴端。
(確かにそうかもしれない……けど)
笠本はどうしても直接対決での敗戦のイメージが頭から離れない。あの時の敗北が、脳に焼きついている。
しかし笠本は思い出す。関東で主戦を務めていた……真村の言葉を。
(カミノライザンよりも前に立てば、必ず勝てる……か)
真村の言葉を思い出す。そして、不安を抱えていた自身を叱咤する。
(ダメだな……また不安になっていた。これじゃダメだ、タマミの実力を……信じてやらないと!)
タマミなら勝てる。タマミのスピードがあれば、カミノライザンにだって勝てる!笠本は自らの心を奮い立たせた。
それと同時に、笠本の表情にも笑みが戻る。
「貴端さん」
「なんです?笠本さん」
先程までの不安な表情はどこにもない。自信に満ち溢れた表情で貴端を見据えていた。
「桜花賞……お願いします。カミノライザンに、勝ちましょう!」
貴端もニっと笑う。
「任せてください!関西牝馬の代表カミノライザン……タマミで負かしてやりますわ!」
お互いに拳を突き合わせる。
──クラシック一冠目の桜花賞は着実に近づいてきていた。
どこもかしこも気合十分。