──皐月賞当日。中山競馬場には多くのファンが詰め寄っていた。その数実に12万人。朝の開門前から並んで、少しでも前の方でレースを見ようと詰め寄る。
「楽しみだな~。今年の皐月はどうなるかね?」
「俺はアロー軸だな。関西のムーティエなんか一蹴してくれるさ!」
「こっちはムーティエ軸だ。前走を見たらそりゃあな」
「俺はカミノライザンだな。やっぱ期待しちまうよ!」
皐月賞で期待されていたのはアローエクスプレスとタニノムーティエ。そして……カミノライザン。この3頭が三強を形成している皐月賞だった。
とは言っても、カミノライザンはアローとムーティエよりは劣る評価。それはライザンのローテと牝馬であるということ。この2つがファンの間でカミノライザンの評価が落ちている理由だった。
「三強、いや二強対決やな。さすがにカミノライザンは切りだろ」
「桜花賞からの直行だろ?勝った馬今までいねぇしな~」
「そらそうだ。つい先週阪神を走ってたんだぞ?コースの造りから違うし、何より牡馬と牝馬じゃレベルが違うよ」
新聞では三強と目されていたこの皐月賞。実際には二強対決だとファンの間ではもっぱら評判だった。
桜花賞からの直行ローテ。このローテで制した日本の牝馬は今までいない。まさしく前人未踏の領域である。
後は牡馬と牝馬のレベル差。牡馬の方が能力的に強いと考えられているので、カミノライザンの評価が落ちるのも仕方のないことかもしれない。
──だが彼らの評価は、カミノライザンのパドックを見た瞬間に覆ることになる。
「見ろよ、あの馬体……!」
「本当に桜花賞から直行してるのか?全然疲れが見えねぇぞ?」
「いや、さすがに疲労はあるだろうが……これ、もしかしたらあるんじゃないか?」
カミノライザンがパドックに姿を現した瞬間、ざわめき立つ。カミノライザンの調子は、
毛艶も悪くなく、威風堂々とした佇まい。入れ込んだ様子もなく、問題らしい問題が見受けられなかった。
これにはファンも考える。このままカミノライザンを除外しても良いものか?と。
「……俺、カミノライザンの単勝に賭けるわ」
「は!?マジかよ!チャレンジャーだな!」
「いや、あの状態見てると案外いけるんじゃねぇかなって思い始めてきたわ」
カミノライザンの枠番は7枠11番。外枠だった。枠番も悪くない。
1人がカミノライザンの調子が良いことを口にすると、他のファンもカミノライザンの調子を確かめるように視線を送る。全員が、カミノライザンの調子は良さそうだと感じた。
観客達は色めき立つ。もしかしたら、自分達は伝説の生き証人になるのではないだろうか?そんな期待を、僅かながらに抱いていた。
中山競馬場。各馬順調に返し馬を済ませている。
皐月賞の1番人気は──タニノムーティエ。前哨戦であるスプリングステークスの勝ち方とこれまでの戦績を評価されての1番人気だった。
とは言っても、3番人気までは差がない。2番人気のカミノライザン、3番人気のアローエクスプレスまでほぼ横並びだった。前評判では評価を落としていたカミノライザンだったものの、パドックでの調子が良さそうだったのとやはり偉業が達成される瞬間は誰もが見たいというところから支持を集めた。口ではなんだかんだ言いつつも、期待せずにはいられないのだろう。
《中山競馬場第10R皐月賞。最も速い馬が勝つと言われているこの競走、芝2000mの戦いが始まろうとしています。馬場の状態は重馬場発表。これがどう影響するか?注目を集めているのは本レース唯一の牝馬カミノライザンでしょう!つい先日に桜花賞を制してからの直行ローテ!いまだかつて桜花賞と皐月賞を同時に制した牝馬はおりません!その先駆けとなることはできるのでしょうか!?期待せずにはいられません!》
実況の言葉とともに歓声が沸き上がる中山競馬場。12万人を超える観客が返し馬を見守っていた。
《しかしここで立ちはだかるのは牡馬達。もっとも勝利を期待されているのは1番人気タニノムーティエ!関西の総大将、弥生賞とスプリングステークスを制しての本レース、やはり大本命はタニノムーティエでしょう!関西勢に後れを取るわけにはいかない、人気は譲ったが一着は譲らないぞ!3番人気のアローエクスプレスも気合十分といった様子!鞍上は【闘将】甲賀騎手に替わっております。皐月の冠を手にすることができるのか?》
カミノライザンと同じく注目を集めているタニノムーティエとアローエクスプレス。こちらも問題はなさそうだった。
返し馬を済ませながら富永は考える。この皐月賞を、どうやって勝つかを。
(桜花賞のように上手くはいかない。後方の控えるムーティエと、血統の問題からスタミナが不安視されているアロー……ロングスパートが考えられるけど)
そのロングスパートをどこで仕掛けるか?これが重要になってくる。
桜花賞のようにはいかない。相手は一線級の牡馬達が万全な状態で挑んできている。対してこちらは、大レースの連闘で多少なりとも疲労が残っている状態。圧倒的に不利ということは明白だ。
それに、富永自身八大競走の出走経験が少ない。かなりプレッシャーがかかる状況だ……普通ならば。
富永は不思議と落ち着いていた。不利な状況、八大競走の出走経験の少なさ、プレッシャーを感じてもおかしくない状況なのに……富永は、
(不思議だな。プレッシャーは感じても、お前と一緒なら大丈夫だと思えるよ)
カミノライザンの首を撫でる富永。自信に満ちた声で、カミノライザンに声をかける。
「勝とう、ライザン。このまま連勝だ」
「ブルル」
おう、とばかりに応えるカミノライザン。お互いに不安はなかった。
そんな富永達を睨みつける騎手……アローエクスプレスに騎乗している甲賀だ。
(今回が初対決……一応資料は確認している。桜花賞からの直行、輸送の影響もあるだろうが)
それでも警戒しておくべきだろう。それが甲賀の見解だった。直感のようなものだろう、カミノライザンは警戒しておくべきだろうと。
甲賀はマークする相手を定める。カミノライザンをマークをすることに決めた。
タニノムーティエに騎乗する廉田もカミノライザンへの警戒を強める。
(こん前の借り……返させてもらうで、富永!)
気合を入れる廉田。その中には、弟弟子には負けていられないという感情があった。
返し馬は順調に進んでいった。
返し馬も終わり、続々とゲートに入っていく。全ての馬がゲートに収まった。
《見果てぬ夢、桜花賞と皐月賞の同時制覇。誰も成しえたことのない偉業に挑戦する牝馬カミノライザン。選ばれた優駿達を前に、桜の女王はどのようなレースを見せてくれるのか?全頭ゲートインが完了しました。第30回皐月賞、まもなく発走となります》
一瞬の静寂が訪れる。静まり返った中山競馬場。その空気を切り裂いて──ゲートが開く音が鳴り響いた。
《ッゲートが開きました!皐月賞スタートです!》
カミノライザンにとってのクラシック二戦目、皐月賞が幕を開ける。
◇
大きく出遅れた馬はいない。綺麗なスタートを切った。
《逃げ馬はおりません皐月賞。果たしてハナを切るのはどの馬か?メジロムサシがわずかに出遅れた。4番のアイアンモア、そして内から3番のアローエクスプレスが果敢にいきました。内からアローエクスプレス、7番のプランジャーも行きますアローエクスプレスに並ぼうとしている。アローエクスプレスこれはどうするか、っと無理にはいかない様子。むしろ控えました。プランジャーが先頭に立ちます。そして4番のアイアンモア、外から11番のカミノライザン。カミノライザン先行集団につけます。タニノムーティエは中団です》
ハナを切ったのはプランジャー。それに続くようにカミノライザンとアイアンモア、カミノライザンを見るようにアローエクスプレスの隊列。タニノムーティエは中団に控える形で第1コーナーへと向かっていった。
アローエクスプレスに騎乗する甲賀はカミノライザンを見る。時折併せるようにして動くが……
(気持ちも十分落ち着いてるってことかい。厄介なことだ)
崩すのはかなり難しい。甲賀はそう判断した。そうなると、能力差で勝つしかなくなってくる。
一瞬の判断ミスが敗北に繋がる……甲賀はカミノライザンを徹底的にマークすることにした。
甲賀のプレッシャーを感じながら動く富永とカミノライザン。尋常じゃないプレッシャーだった。少しでも気を抜けば飲まれてしまいそうなほどに。
(だけど問題ない。俺達は俺達のレースをするだけ……)
「落ち着いていこうライザン。俺達なら大丈夫だ」
カミノライザンを落ち着かせるように指示する富永。第1コーナーを抜けて第2コーナーへと入っていった。
《第1コーナーのカーブを抜けて第2コーナーへ向かいます。ハナを切るのはプランジャー。2番手との差はありません、2番手タニノモスボロー外にカミノライザン。カミノライザンを見るように4番手アローエクスプレスとトレンタムであります。その後ろにアイアンモア、グランドブロス、クリシバという隊列。この中団外にタニノムーティエがおります。1番人気タニノムーティエはここ中団に位置しています。タニノムーティエの後ろハイプリンス、ウメノダイヤ、メジロムサシ、最後方アカネライサンという隊列です》
先頭から最後方まで差がなく固まる馬群。1馬身以上空くことはなかった。
ファンの声援に包まれる中山競馬場。第2コーナーを抜けて向こう正面へと入る。
富永は冷静にレースを俯瞰する。おおよそのタイムと流れをはじき出し、じっくりと機会を窺っていた。
(……早仕掛け。ライザンのスタミナなら問題なくいける)
重馬場ということもあってかペースは若干遅めだ。仕掛けも、まだ先だろう。
現在のカミノライザンの位置は先行集団の真ん中の位置。内にも外にも馬がいる状況だ。そして後ろには──甲賀が騎乗するアローエクスプレスがいる。
(俺が抜け出したタイミングで、開けた進路を通ってくるつもりなんだろう)
序盤からカミノライザンをマークすると決めていたと思われる動き。それでも問題ないと富永は自信を持って言える。
向こう正面中ほどに入るこの位置。残り1000mを切ったこの位置で──カミノライザンが動いた。富永が1つ鞭を入れて押し上げる。
「……ここで動くかっ!」
これは甲賀も予想外だった。しかしここはやはりトップジョッキー。すぐさまカミノライザンを追いにかかる──直前。
(ッ!待て、さすがにここから仕掛けたらアローのスタミナがもたない!)
追うのを止める。1000mからのロングスパートはさすがにアローエクスプレスがもたない。そう判断して、カミノライザンを追うのを止めた。カミノライザンの姿は先へ先へと進んでいく。
《向こう正面半分を過ぎました残り1000m、っと。ここでカミノライザンが動きました!カミノライザンがじわりじわりと先頭に並ぼうとしています!先頭にはプランジャーが立ちまして2番手にカミノライザン、カミノライザンであります!これを見てかトレンタムも押し上げますトレンタム3番手!アローエクスプレスはまだ動かない!アローエクスプレスはまだ窺う様子だ!レースが動きましたカミノライザンが動きます!》
他の騎手は、さすがにカミノライザンはもたないだろうと考える。この重馬場で1000mのロングスパート……いくら疲労が回復しているかもしれないとはいえ無茶だ。
冷静にレースを展開する。馬の暴走、騎手である富永の判断ミス。最後には落ちてくるはずだ。だからカミノライザンを無理に追う必要はない。そう考える……一部を除いて。
(なんや……この悪寒は!?)
タニノムーティエに騎乗する廉田は言いようもない不安を感じていた。まさかあそこから持つのか?と思わざるを得なかった。
現在タニノムーティエは中団。自分達も押し上げるか?と考えるが……さすがに思いとどまる。
(まだ、まだや……せめて第3コーナーを越えてからや)
タニノムーティエの代名詞であるムーティエ街道。それはまだ早いと考える。
甲賀も同様だ。廉田と同じように不安を感じる。
(……普通だったらあそこからはもたない。だが、アイツらは普通じゃない)
しかし、だからといって追うこともできない。そうなれば最悪自分達だけが倒れる。最悪のパターンが想定される。
皐月賞は進む。第3コーナーを越えて、カミノライザンは先頭に立っていた。
ロングスパートは決まるか?