いわきの温泉にやってきた俺達。温泉に浸かっているわけだがこれがま~気持ちいい。疲労が吹っ飛ぶってもんよ!
(実際には全部が吹っ飛ぶわけじゃないけど、少しでも回復できる。ダービーまでに体調を整えねぇとな!)
「姫も良い感じにリラックスしてますね。やっぱ温泉が好きなのか?」
「やろうな。めっちゃ気持ちよさそうに浸かっとるわ」
刈谷と猛田がついてきているわけだが……珍しくクソ神がいないな?
(どうしたんだ?前回は来てた気がするが)
普通に考えて用事だろうが、ちょっと気になるな。
……って、いかんいかん。リラックスしに来てるのに考え事はいかんだろ。温泉に浸かって疲れを癒すぞ~。
「それにしても、保茂さんは急用が入ったみたいですね」
「らしいな。姫の生産牧場のオーナーとの話し合い言うてたわ」
「ふ~ん……なんですかね?」
「そこまでは分からんわ。俺らが気にする……いや、気にした方がええかもしれんけど、保茂さんが教えてくれると思うで」
あ、やっぱ急用なんだな。疑問が解消して一安心。
いわきの温泉で寛ぐ俺。できる限り疲れ取れてくれよ~俺の身体~!
◇
僕の会社のオフィス。一触即発の空気だ。
ライザンちゃんの生産牧場である五十嵐牧場。そのオーナーである五十嵐さんが僕の目の前にいる──明らかに怒っている様子で。
ひとまず宥めようか。うん、そうしよう。
「やぁやぁ五十嵐さん。ひとまず落ち着こうか、そんなに興奮してると身体によくないよ?」
「……誰のせいでっ」
まぁ、うん。僕のせいだよね。さすがにそれは分かるとも。
「でもさ、まずは落ち着いて話をしようよ。僕に怒りをぶつけるのはその後からでも遅くないはずだ」
「……」
お、一理あると思ってくれたのかな?少しばかり落ち着いたみたいだ……相変わらず僕を睨んでるけどね。
ま~仕方ない。彼にとって僕は、それだけのことをしでかしてるとんでもないヤツだ。しかも、現在進行形でね。
「お茶を用意するよ。なにが良いかな?」
話は長くなりそうだし、そう提案するけど。
「いりません。手短に済ませますので」
すげなく断られちゃったよ。こりゃ、かなり頭に来てるね。
ならしょうがない。早速話し合いをするとしようか。
「残念……それで、五十嵐さん。僕に一体何の御用でしょうか?」
「とぼけないでください。用件、分かってますよね?」
「う~ん……まぁね」
こりゃこれ以上刺激しない方がいいね。
「カミノライザンの日本ダービー出走取り止め……だろ?五十嵐さん」
深く頷く五十嵐さん……やっぱり、そうだよねぇ。
五十嵐牧場の人達はライザンちゃんをとてもかわいがっていた。そんな子が今、どんな状況にいるか?そう考えたら彼らの怒りはもっともだ。現に今も、ライザンちゃんは疲労でかなり苦しんでいるからね。いわきの温泉でリラックスできていればいいんだけど。
五十嵐さんは相変わらず僕を睨みつけている。その目には怒りを宿していた。
「三姫は、今疲労が凄いでしょう?」
「……誰から聞いたの?」
「レース後を見れば分かります。オークス後の三姫は、凄く疲労が溜まっているようでしたから」
観察眼が凄いねぇ。もしくは、それだけ疲労の色が濃かったのか。どっちもかな?
「疲労が溜まっている、そんな状態で日本ダービーに出走する……三姫の将来を案じるのであれば、出走を取り止めるべきです」
「ま~ごもっともだね。五十嵐さんの言い分は分かるよ」
というより五十嵐さんの方が正論だ。こんな無茶なローテ、ライザンちゃん並じゃなければ無理だね。一応海外には同じローテどころかライザンちゃん以上にヤバいローテしていた牝馬がいたけど*1。
五十嵐さんはちょっと表情が明るくなる。もしかして、僕が出走を取り止めようとしていると思ったのかな?
「じゃあ!」
「だけど出走を取り止めるつもりはないよ」
おーこわ。さらに顔が怖くなったね。僕が原因だけども。
「確かにレース後のライザンちゃんの疲労は濃かった。それは事実だ」
「なら!」
「だけど今のライザンちゃんは回復傾向だ。いわきの温泉で今も疲れを癒しているし、ダービーまでには出走できるくらいに回復するだろうね」
連闘で挑んだ皐月賞も問題なかったんだから、と付け加える。これで大人しく引き下がるとは思えないけど、前例というものは大事だ。
ライザンちゃんには連闘の前例がある。普通の連闘ならば突っぱねられるだろうが、桜花賞と皐月賞を連闘して勝利しているんだ。オークス・ダービーと同じ八大競走を連闘してどちらも勝利した。その前例がある以上、下手なことは言えないはず。
五十嵐さんは……顔を歪めている。
「……けど!三姫が可哀想だとは思わないんですか!?」
今度は情、か。……ぶっちゃけ、一番効果的だ。
「勿論思うさ。酷なことをしていると思っている……それでも、僕は見てみたいんだ」
「何をですか!?」
「誰も到達したことがない偉業が達成される瞬間を、その歓喜を。不可能だと思っていたことが現実になる瞬間を……僕は見たいんだよ」
歯ぎしりをしている五十嵐さん。だけど僕は止まらないよ。なにより、ライザンちゃんからも釘を刺されたからね。絶対に止まるなって。
「勿論、他の馬にこんなローテをやらせるつもりはない。特別頑丈で、回復が早くて賢いライザンちゃんだからこそやらせるんだ」
「……」
無言の五十嵐さん。僕はただ、自分の言葉だけを五十嵐さんに告げる。退く気はないと。
「五十嵐さんだって分かっているだろう?ライザンちゃんの賢さと頑丈さ。そして回復能力の高さをさ。レースを見れば分かるはずだ」
「……てますよ」
ぼそりと、呟く。良く聞こえなかった。
だけど五十嵐さんは、耐え切れないとばかりに叫んだ。
「分かってますよ!そんなことは!」
空気が震えたと錯覚するほどの声。興奮気味の五十嵐さん。次々と言葉を紡ぐ。
「分かっていますよ!三姫の頑丈さも!賢さも、回復能力も!全部が全部!三姫は飛び抜けている!」
「……それで?」
「競走能力だって高い!クラシック三冠だって取れる、いや!保茂さんの言うように、クラシック五冠だって取れるかもしれない!皐月賞はそう思わせてくれた!」
でも!と、五十嵐さんは──目尻に涙を浮かべている。
「やっぱり納得できないんです……!」
……ま、そうだよね。
ライザンちゃんの出産は、それはもう困難を極めていた。月海だって死んじゃうかもしれないって状況だったし、母子ともに危険だった。気が気でなかったよ。無事を祈ることしかできない自分に、腹立たしさも覚えた。なんとか回復してくれたと聞いた時には、安堵しすぎて腰が抜けたのを思い出せる。
月海は今まで不受胎が続いていた。そんな中ようやく受胎して産まれたのがライザンちゃん。ちなみに、ライザンちゃんに他の兄弟や姉妹はいない。ライザンちゃんが最初の子だし、おそらくこれから先も望めないだろう。
五十嵐さん達がライザンちゃんのことを話す時の目は、いつだって穏やかで優しい目をしていた。まるで娘のように扱っていたことは僕だって知っている。僕も楽しく聞いていたから。彼らはちゃんと愛情をもって育てているのだと、僕は知っている。
月海自身、身体がそんなに強くない。ライザンちゃんとは真逆だ。身体の弱さゆえに競走馬デビューを諦めたわけだから。そんな月海とライザンちゃんの関係は良好、離乳するまでは一緒にいることが多かったらしい。
(そりゃあ反対されるさ……五十嵐牧場の人達からしたら、今の僕は功名心に駆られた外道だから)
実際にはライザンちゃん自身が納得していること、覚悟を決めていることだ。でもそれを知っているのは僕だけ、他の人達は勿論知らない。というか教えたところで信じてもらえないだろうし。
情に訴えかけられると、正直かなりキツイ。僕だってライザンちゃんは大事な訳だからね。僕の馬で……なにより友達だ。向こうはどう思っているかは分からないけど。クソ神ってよく言われるし。
でも、ライザンちゃんは言った。
(日本ダービー諦めたら蹴り飛ばすからな、か……ハハ、そんなことされたら死んじゃうって)
だけどまあ、
最初は戯言から始まった物語。でも今は、僕にとって大事な目標に置き換わっている。絶対にやり遂げたい、みんなと叶えたいという目標に。
だから──覚悟を示す。引き出しから一封の封筒を取り出して、五十嵐さんに渡す。中身が分からない五十嵐さんは怪訝な表情をしていた。
「……なんですか?これは。賄賂でもするつもりで?言っておきますが「五十嵐さん。君の言葉は痛いほど分かっているよ」……なにがです?」
「月海の、たった一頭の仔だ。大事にしたいって気持ちはある。怪我なんてさせないために、万が一がないように今も頑張っているわけだからね」
「……日本ダービーの出走を止めれば済む話でしょう?疲労が溜まった状態で出走したらどうなるか!」
勿論分かっている。
「だからこそ、僕も
「っ!?」
「僕の実印も押してある。然るべきところに出せば、たちまち君は大金持ちだ」
代わりに僕は全てを失うけどね、と付け加える。ちなみにだけど、会社の存続についても問題ない。僕の経営ノウハウはちゃんと引き継いであるし、誰が社長になっても問題がないように教育してある。僕が退いたところで会社の経営が傾く、なんてことはないだろう。
五十嵐さんは封筒の重みに気づいてか、手が震えていた。そりゃそれなりに馬主をやっている企業の社長が、これが僕の資産全ての相続権だよーって手渡して来たら震えるよね。
「賄賂のつもりはないよ。それをどうするかは君の自由……だけど覚えておいて欲しい。僕は例え、全てを失ってでも突き進む覚悟だ」
「あ……う……」
「他にやりたいことがあれば、僕は全ての要求を飲もう。石打ちされろと言うのであれば素直に従うし、無一文になれと言われたらそうしよう。僕は君達の、全ての要求に従う。奴隷契約でも結んであげようか?」
必要とあれば書類を用意する。逃げ道なんてなくすために。
五十嵐さんは──困惑していた。信じられないものを見るような目で僕を見ている。
「……なん、で、そこまで」
なんで、か。
「決まっている──夢を掴むためだ。バカげた夢、ふざけた理想を叶えて……僕は全てのファンに教えてやるのさ。掴めない夢なんてどこにもない、ってことをね」
我ながら、あの戯言からよくここまできたもんだ。分からないもんだね、ここまでの気持ちを抱くなんて。
長い長い時間が流れる。事態を飲み込むのに必死なのかもしれない。僕はいくらでも待った。五十嵐さんが、納得する答えを見つけ出すまで。
しばらくの間、五十嵐さんは手元の封筒と僕の顔を交互に見た後──そっと封筒を僕に返してきた。おっと?
「いいのかい?」
そう聞くと、五十嵐さんは困ったような笑みを浮かべていた。
「……十分、覚悟は伝わったので。それにこんなもの手渡されても困ります」
「ま、だよね~」
そりゃこんなもん手渡されても困るだけか。意気込みを語るために作ったわけだけど。じゃあこれは厳重に閉まっておこう。
片付けていると、真面目な表情で五十嵐さんが僕を見ている。そして、頭を下げた。
「保茂さん……三姫を、よろしくお願いします。彼女がどうか、無事にレースを終えるように……お願いします」
五十嵐さんの心からの願い。深く頷いて、答える。
「勿論。それに……猛田さんとも話し合っている。本当にダメそうなら、出走を止めるって。だから、安心して欲しい」
「安心して欲しいなら、出走を止めて欲しいんですけどね?」
五十嵐さんはちょっと茶目っ気を出していた。ハハ、さすがにそれは無理かな?
これで五十嵐さんとの話し合いは終わり。さて、今日も厩舎に顔を出すか。
厩舎のライザンちゃんの馬房を訪れると──昨日よりも調子良さそうにしていたライザンちゃんがいた。
「や、ライザンちゃん。会いに来たよ。調子はどうだい?」
『お、よっすよっす。温泉に入って多少は楽になったな』
「それは良かった。ダービー前にもう1回入れそうだから、楽しみにしててよ」
『マジか!?保茂様~!保茂様サイコー!』
うんうん、やっぱりライザンちゃんとの話は楽しいね。それに疲労も回復傾向らしいし、良いことだ。
それからは時間の許す限りお話をした。奇異の目で見られることにはもう慣れたから気にしな~い気にしな~い。
保茂も割と覚悟ガンギマってます。ちなみに月海は別にインブリードが濃いわけじゃないです。