──日本ダービーは最も運のある馬が勝利する、と言われている。その理由はやはり、
他のレースと比べ、ダービーは出走頭数が多くなることが多い。20頭を割ること自体が珍しく、20頭を超える馬が出走することが普通の日本ダービーは、枠番が非常に重要になってくるのだ。
何故出走頭数が多くなるのか?それはダービーの価値にある。
ダービーはレースの中心のような存在であり、ダービーを勝つことは最高の栄誉、その称号を得ることは全てのホースマンにとっての目標や夢であると言われている。
そして、出走頭数が多くなるために、枠番による有利・不利というものが生まれる。枠が外、というだけでまず不利だ。有利な最内を走ることができないのだから。
加えて多くの馬が出走するために、後方でレースを展開するだけでもかなりの不利を背負うことになる。【日本ダービーは10番手以内につけなければ勝てない】という、ダービーポジションと呼ばれる格言が生まれるぐらいには展開に左右される。
枠番が重要であり、展開によってはチャンスすら与えられない……だからこそ、最も運のある馬が勝利するレースなのである。
大外枠に泣いた馬も多い。だからこそ、枠番は非常に重要となってくるのだが……。
非常にニコニコとした表情の保茂。彼は今カミノライザンの馬房にいる。
ニコニコとした様子の保茂が気になったのか、カミノライザンはその理由を尋ねることにした。
『どうしたんだよ?そんなにニコニコして。もしかして……ダービーで良い枠番でも引いたか?』
その話題に触れた瞬間、保茂の肩が跳ねる。この時点でカミノライザンは、ダービーに関係することだろうなと推察していた。
一瞬の沈黙。保茂が、口を開く。
「いや~……ダービーの抽選は激闘だったよ」
『くじ引くだけだろ』
ツッコみながらも保茂は笑顔を絶やさない。余程良い枠番を引けたのか?とカミノライザンも期待する。
そして保茂はピースサインをしながら──笑顔で告げた。
「ゴメン、大外枠引いちった」
『なにやってんだお前ぇ!』
……どうやら、嬉しい報告の笑顔ではなくもうどうにでもなれという笑顔だったようである。
◇
重苦しい空気、というには微妙な空気が流れている猛田陣営。この場には猛田と仲村の両調教師、カミノライザンの馬主である保茂、そして主戦騎手である富永が集まっていた。
この空気の原因は、日本ダービーの枠番にある。今年ダービーに出走する馬はカミノライザン含めて23頭。カミノライザンの枠番はというと……。
「23番……保茂さんもまぁ運がないというかなんというか……」
「いくらなんぼでも一番外を引くことないんやないですか保茂さん」
「いやぁそれほどでも」
「褒めてへんです」
カミノライザンは大外からのスタートとなる。ダービーにおいて、不利になる外枠に配置されていた。
無論、この場にいる全員がダービーにおける枠番の重要性、かなりの不利を背負っていることを理解している。しかし不思議と、落ち着き払っていた。
それは、枠番以上に重要なことがあったから。
「まぁ枠番はもうええですわ。今更喚いたところで変わらんですし。それよりも……姫の調子は良化傾向です」
「そうだね。さっきもちょっと会って来たけど、元気そうだった。
そう口にする保茂だが、軽そうな態度に反して嬉しそうではない。それは猛田と仲村も同じような反応だった。難しい表情を浮かべて、あまり嬉しくなさそうにしている。富永は1人でブツブツと何かを呟いているが。
カミノライザンは大レースの前は体調を崩していた。本番までには整えるものの、レースのプレッシャーに負けたのか体調を崩す。プレッシャーにとことん弱い馬だった。
そんなカミノライザンが今回は体調を崩していない。これは喜ぶべきことだろう……普通ならば。
猛田達にはある考えが頭によぎっていた。それは──プレッシャー負けがない原因が、
「ダービーのプレッシャーよりも、疲労が勝っている……なんて可能性もあるわけだ。おいそれとは喜べんな」
「ホンマですね。良化傾向言うても、目に見えん疲労はやっぱりある。一応出走ができるぐらいには回復しとりますけど……」
「タニノムーティエ達に勝てるかどうかは微妙なライン……ってとこだね」
保茂の言葉に頷く猛田達。
出走まではこぎつけたカミノライザンだが、それで勝てるかといわれたらまた別の問題だ。すでにクラシックレースの3つを勝っているカミノライザンは他馬から執拗にマークされることは間違いなしである。さらにはタニノムーティエやアローエクスプレスに始まる、世代の一線級の牡馬達が皐月賞以上に本気で来る……まさしく鬼門だった。
旗色が悪いのはどう考えてもこちらである。猛田達は溜息を吐くしかなかった。そこに加えて今回の枠番……不利に不利を重ねられたものである。
「ムーティエが10番、アローが14番なんがまだ救いやろうか。可もなく不可もない枠番やし……いや、言うほど救いか?」
「あんま救いになってないぞ猛田」
「最内よりはマシだって気概で行くしかないね」
もう枠番は決まったのでなるようにしかならない。それが猛田達の結論になった。後はカミノライザンが少しでも走れるように調整するだけである。
そんな猛田達の会話も露知らず。富永はずっとブツブツと何かを呟いていた。さすがに耐えかねた猛田が富永を咎める。
「おいトミ。さっきからブツブツと何言うてんねん。どうしたんやお前?」
そう声をかけた時だった。
「……いけるかもしれません!」
突然、声を上げてそう言った。猛田達は目を丸くする。
いけるとはどういうことだろうか?そう思った猛田は富永へと声をかける。
「トミ、お前……いけるって何がや?」
「日本ダービーです!ダービーを勝てるかもしれない、いや!勝てます!」
そう自信満々に宣言する富永。対して猛田と仲村の反応は冷ややかなものだった。
本気かどうかを疑っている目。しかし富永は自信を崩さなかった。
「ダービーを勝てるて……そないに甘くないぞ?ダービーは」
「分かっています。だけど、これならいけます」
自信たっぷりに猛田を見据える富永。強い意志が感じられるその瞳に、猛田は引き締めていた気が緩むのを感じる。
「……ま、ええわ。そこまで自信あるんやったら教えてみぃや、お前の考えてること」
「はい!まずは……」
富永から教えられるダービーでのプラン。それに猛田達は驚きを隠せなかった。
「……確かに、いけるかもしれん」
「姫の操縦性、スタートの上手さ、能力の高さがあるからこそできること……か」
「はい。ただ、うまく嵌るかは実践まで分かりません。そこは逐次対応していこうと思っています」
そう答える富永。猛田達は──富永の肩に手を置く。
「ええわ。お前のプランでいこか」
「ッ!」
「だけど覚えておけ。基本的には姫の身体優先だ。もし何か異常を感じたら……すぐに走るのを止めさせろ。いいな?」
「っ勿論です!分かってます!」
陣営のプランは決まった。そのことに保茂は喜ぶ。
「いや~良かった良かった。じゃあ当日も頑張ってね、富永君」
「はい……ライザンで四冠目、取ってきます!」
自信たっぷりに答える富永。ダービーは──近づいてきていた。
◇
タニノムーティエ陣営。物々しい雰囲気が流れていた。
その中心となっているのはタニノムーティエの調教師である谷瑞と騎手である廉田。この2人は、カミノライザンへ対抗心を燃やしていた。
廉田は谷瑞に謝る。NHK杯の一件について。
「ホンマにすいません谷瑞さん……NHK杯は、俺のミスで負けてしまいました」
廉田はNHK杯でアローエクスプレスに敗戦した。それも廉田の致命的なミスで。
NHK杯は東京で施行される。東京のコースになれていない廉田は、ゴールの位置を間違えて一瞬追うのを止めてしまったのだ。
「しまった!」
気づいた時には遅く、アローエクスプレスに先着を許した。到底許されない凡ミスである。
だが谷瑞は、タニノムーティエから廉田を降ろすことはしなかった。無論レース後には怒りをぶつけたが、屋根は続行。ダービーも引き続き廉田が手綱を握ることになった。
「過ぎたことはあんま気にせんでええわ。おまけにあの日のムーティエは万全やなかったからな……アローに勝てたかは五分。やけどしっかりと反省せぇ。ゴール間違えるなんて凡ミス、二度目はないで?」
「勿論分かっとります!絶対にやらかさんです!」
ならええわ、と谷瑞は話題を打ち切った。
そして2人の話題は本題へ──カミノライザンへと移る。
「向こうはクラシック3つとってダービーに来とる……正直に言うてみぃ廉田。勝つ自信は?」
「あります」
谷瑞の勝てるかという問いかけ。廉田は自信をもってある、と答えた。
「確かにカミノライザンは強敵です。やけど……ムーティエかて負けてません。皐月賞は届かんかったですけど、ダービーだけは絶対に取りますわ」
「えぇ意気や……おまけにムーティエの体調は万全やしな。皐月賞の時みたいにはいかへんわ」
「向こうは疲労が見えとるでしょう。オークスからの連闘ですから。やけど……もう絶対に油断はせぇへん。なにがなんでも勝ちに行きます」
皐月賞で痛い目を見た。だからもう、絶対に油断はしない。カミノライザンに勝ちに行く──タニノムーティエ陣営はダービー勝利に盤石の姿勢で臨んでいた。
対してアローエクスプレス陣営は、一抹の不安を抱えていた。
高末と甲賀は不安げな表情でアローエクスプレスを見る。
「脚の不安もそうですけど……血統的に厳しいものがありますね、やはり」
「えぇ。NHK杯の勝ちで見れば、ダービーでも持つとは思いますが……やはり勝つのはかなり厳しいですね」
アローエクスプレスは元々マイラー寄りの中距離馬。2400のダービーが持つかどうかが疑問視されていた。
加えて、デビューから抱えていたアローエクスプレスの脚部不安……それが高末達を悩ませていた。
タニノムーティエとカミノライザンという2頭の強敵。この強敵相手にどこまでいけるか……そう、不安に感じていた高末。
しかし、その不安を一蹴するように甲賀が告げる。
「ですが負けません。アローエクスプレスの脚は一級品だ。タニノムーティエとカミノライザンに勝って……アローでダービーを制してみせます」
自信たっぷりに、あの2頭相手に勝つと宣言した。
「まずは、カミノライザンをマークします。これは変わりません」
「……ですね。オークスからの連闘で疲労がある、とは思いますが」
「
カミノライザンという馬に対して最大限の警戒をする甲賀。その目には一点の曇りもなかった。
「絶対に油断はしない。他陣営もきっと、そう思っていることでしょう」
「はい……あの馬が一番の脅威ですから」
「だからこそ、徹底的にマークする……カミノライザンをね」
先程まで感じていた不安はもうない。アローエクスプレス陣営も、ダービーに自信を深めていた。
「では、より万全な状態で挑むために……」
「そうですね。悪くないと思います……」
2人で話し合う。
各陣営がダービーへの自信を深めている。勝つために、栄誉を得るためにそれぞれが最大限の努力をしていた。
そして。時間は過ぎていき──ダービーの日を迎えた。
当時の枠番としては最悪もいいとこの大外枠でござい。