東京競馬場は日が昇り切る前から列ができていた。
「いや~今日の一戦を見るために徹夜しちまったよ!」
「分かる分かる。今回のダービーはなんとしても見ねぇと!って考えると当然だよな!」
「俺は東北からきたけどあんたは?」
「俺は関西やな!今日はえらいレースが見れるで~!」
今回の日本ダービーにかかっている偉業……その偉業を前にすれば、どれだけの時間並ぼうとファンにとっては苦にならなかった。
カミノライザン──現在クラシック3つを勝ち、このダービーを勝てばクラシック五冠に王手をかける牝馬。人々の目的は、カミノライザンのレースを見るためにあった。
初めの内は誰もが笑い飛ばしていた。バカげた夢だと、アホみたいな理想を掲げるなと、誰もが指を差して陣営を笑っていた。時には批判、脅迫などもあった。
しかし、カミノライザンはそんな世間の声を一蹴するがごとく桜花賞・皐月賞・オークスを手中に収めた。日本ダービーで四冠目、前人未踏の領域であるクラシック五冠に王手をかけることになる。
「でも厳しいよな~。確か、オークスの疲労が抜けきってないんだろ?」
「らしいな。新聞だとどこもカミノライザンは敗戦濃厚なんて言われてるし」
「ま~オークスはタフなレースだったし、今回のダービーは厳しいだろう」
ファンの中にはカミノライザンの体調を心配する声も上がっている。前走のオークスが雨の影響で不良馬場開催となり、加えてハイペースで流れたためかかなり消耗の激しいレースだった。カミノライザンの体調も思わしくないと各社が報道しており、さすがにダービーは厳しいだろうという見方だ。
さらには他陣営の気合の入りようである。皐月賞でカミノライザンに敗北したのが余程効いたのか、どの陣営もカミノライザンを注意すべきとコメントを残していた。執拗なマークにあうことは想像に難くない。
「ぶっちゃけ、どの馬が勝つと思うよ?俺はタニノムーティエだな!」
「ま~カミノライザンが調子落としとったら大本命やな!今度こそ勝ってくれるで~!」
「いやいや、NHK杯を勝ったアローエクスプレスだって負けてねぇぞ?スピードならどの馬よりも上だ!」
「アイアンモアも悪くねぇぞ。皐月は着外だったけど、NHK杯は4着!実力は十分だ!」
ほとんどのファンはカミノライザンではなく、他の馬が来ることを予想していた。偉業がかかっていてもそれはそれ、これはこれ。新聞でもかなり評価を落としていることから、カミノライザンは来ないだろうという評価がなされていた。
気づけば日が高く昇り、会場の時間が迫ってきた。
「まもなく開門で~す!」
開門と同時に、我先にとファンは飛び出す。まさしく雪崩のようだった。警備員が必死に呼びかけているものの、止まらない。転ばないように注意喚起するのが精一杯だった。
この時は誰もが思っていた。カミノライザンは苦しい戦いになる、さすがにダービーは勝てないだろう……と。
──そんな評価は、カミノライザンのパドックを見た時に吹き飛んだ。
「うわ……」
「ま、マジか……!?」
誰もが息をのむ。カミノライザンの馬体を見て、誰もが感嘆の声をもらした。
カミノライザンの馬体は──
これにファンは驚く。カミノライザンは先週オークスに出走していたはずだ。オークスに出走していた馬ほぼ全頭が疲労の色が濃かったあのレース。カミノライザンも出走していたはずである。だからこそ、疲労の色が見えるはずだった。
だが現実はどうだ?カミノライザンは……
「……これ、買いやないか?」
「いやいや、いやいやいや!だけどオークス後だぞ!?さすがに来ねぇ……はずだよな?」
「……俺は夢を買うぞ!カミノライザンの単勝に全ぶっこみだ!」
その佇まいに、ファンは大丈夫なんじゃないか?もしかして、勝つんじゃないか?と期待を寄せる。それでもオークスからの連闘はキツイという声、カミノライザンなら勝てるという声で分かれていき……最終的に、カミノライザンは単勝1番人気に推された。支持率は40.1%。オークスからの連闘、タニノムーティエやアローエクスプレスら強敵相手に良い支持率を叩き出した。
……勿論、カミノライザンの疲労は
しかし、カミノライザンは問題がないように振舞う。それが、カミノライザンにとっての意地のようなものだった。
(……弱弱しく見せてちょっとでも油断してもらった方がいいかな?……いや、無理だな。皐月賞っていう前例があるから普通にダメだわ)
内心は微妙に違ったが。
パドックを終えた競走馬達。現在東京競馬場のターフに集まり、返し馬を済ませている。
この日東京競馬場に集ったファンの数──実に20万人近く。どこもかしこも人で溢れかえっていた。それほどまでに見たかったのだろう……伝説が達成されるかもしれない瞬間を、世紀の一戦になること間違いなしのこのレースを。
カミノライザンは順調に返し馬を済ませている。そんなカミノライザンは、他の騎手から鋭い目で見られていた。
(もう勝たせない……今度こそこっちが勝つ!)
(四冠目なんて取らせるかい!そないなこと許さへんわ!)
(勝つのは俺達だ!)
タニノムーティエの騎手である廉田、アローエクスプレスに騎乗する甲賀も同様に、カミノライザンと富永を睨みつける。
(クラシック四冠なんてさせへんぞ富永……勝つんは俺とムーティエや!)
(アローの調子は万全だ。後はカミノライザンを徹底的にマークする……もう皐月賞のようにはいかない!)
お互いに負けられないという思いを秘めて、返し馬は順調に進んでいた。
《ついにこの日がやってきました、東京競馬場第9R日本ダービー!天気は晴れ、絶好の良馬場日和です!芝2400m、誰もが憧れるダービーの栄誉を求めてこの東京競馬場を疾走します!返し馬は順調、しかしギラギラと闘志を漲らせています!この東京競馬場に集まった20万人のファンが見守る中、返し馬は順調に進んでおります!》
実況の声が響き渡る。ざわめき立つ観衆、誰もが期待に胸を膨らませていた。
《3番人気はアローエクスプレス!距離不安が囁かれていますが超特急は絶好調!関東総大将の意地を見せてくれるか!2番人気タニノムーティエ!関西牡馬の代表格、皐月賞にNHK杯と不発が続くムーティエ街道。今日こそは炸裂するか!?そしてそして!やはり1番人気はこの馬を置いて他にはいない!牝馬でありながら単勝1番人気!手にしたクラシック3つの冠は伊達ではない!変則三冠馬カミノライザン!オークスからの連闘、しかし全く問題なしのこの風格!期待をするしかないでしょう!日本競馬史上初、クラシック四冠馬の誕生なるか!》
富永は胸に手を当てる。深呼吸を繰り返し、今日の作戦を見直していた。
(この作戦は、スタートダッシュで全てが決まる……だからこそ、全神経を集中させるんだ!)
気を落ち着かせ、富永はカミノライザンに言い聞かせる。
「いいかい?ライザン。今日のレースはスタートが大事だ。そして……
しっかりと、強い意志の籠った言葉を贈る富永。それにカミノライザンは一鳴きして応えた。
分かった──そういわんばかりに。
返し馬が終わり、ゲートへと入っていく出走馬。ゲートインは順調に進んでいた。
《アローエクスプレスは最後にゲートインさせます。アローエクスプレスが最後にゲートに入って……態勢が整いました!全頭ゲートイン完了しました!日本ダービーは間もなく発走を迎えます!》
係員が左右に別れる。前に誰もいなくなり、静寂が訪れる東京競馬場。20万人のファンが静かに見守る中──勢いよくゲートが開いた。
《係員が左右に別れます。態勢整ってゲートが……開いたぁ……っとぉ!?こ、これはぁ!?》
まず東京競馬場に訪れたのは歓声……ではなく、驚きの声。それもそうだろう。
綺麗なスタートが切られると思った日本ダービー。だが一頭だけ、別次元のスピードで飛び出した馬がいた。
「んなっ!?は、速すぎだろ!?」
「あ、あれ!ゲートが開いたのとほぼ同時にスタートしなかったか!?」
「カ……カミノライザンのロケットスタートだ!」
他の馬がゲートを出るよりもさらに一歩早く。大外枠から──カミノライザンが勢いよく飛び出した。
ゲートが開いたのとほぼ同時としか言えないタイミング、そんなタイミングでカミノライザンは好スタートを決める。
《か、カミノライザンが圧倒的なスタートを決めた!綺麗なスタートしかし!カミノライザンがゲートが開いたのとほぼ同時に駆け出した!そして……そのまま先頭を奪いに行く!そのまま内へ内へと切り込んで先頭を走る!カミノライザンが逃げている!この第37回日本ダービーで……牝馬カミノライザンが逃げている!これは驚きだ!他の馬も急いで後を追う!楽には逃げさせまいと急いでいるが時すでに遅し!カミノライザン圧倒的なスタートで瞬く間に先頭を奪って最内へ!先頭はなんとカミノライザンだぁぁぁぁ!》
カミノライザンはスタートダッシュを決めると、最内へと切り込んだ。他の馬が追い上げてくるよりも速く走り、大外から最内へと切り込んできたのである。
他陣営も内への急襲は予想の範囲内だった。しかし、これほどまでのロケットスタートを決めてくるとは思わなかった。だからこそ、警戒こそしていたがどうしようもなかった。
(クソ!こっちがスタートするよりもずっと先にスタートしていたような感覚だ……!)
(あんなスタート決められてハナが奪えるか!?)
(なんにしても、このままじゃまずい!)
カミノライザンを急いで追いかける。序盤からハイペースの様相を呈していた。
そんな中、しっかりと状況を俯瞰しているのがいる。代表的なのはタニノムーティエに騎乗する廉田だ。
(……確かにあんだけのスタートは予想外や。やけど、そんままはちょいまずいんやないか?富永)
ロケットスタートに驚いたが、冷静に状況を見極めていた。しっかりと控えて前方の様子を窺う態勢を取る。
アローエクスプレスに騎乗する甲賀も落ち着いていた。
(落ち着け……焦って前に行く必要はない。しっかりと位置を見定めろ)
まだ先行争いが熾烈なゾーン。第1コーナーの手前だ。焦る必要はないと甲賀は判断する。それにあのまま行けば自滅すると甲賀は考えていた。ただでさえオークスの疲労が溜まっているのに、逃げで走るわけがない……とも考えていたが。
(逃げで走ったらその時はその時だ……マークは緩めない)
各馬が第1コーナーへと入っていく。
《さぁ注目の第1コーナー!先頭で入ったのは──カミノライザン!カミノライザンが先頭だ!まさかここから逃げるのか!?オークスからの連闘で逃げるのかカミノライザン!カミノライザンの1馬身後方2番手はアイアンモア!アイアンモアが無理矢理ハナを奪いに行って……?おっとカミノライザン無理に先頭は維持しない!カミノライザン徐々に後退していく!まさかアクシデント発生か!?もしくはこれも作戦なのか!先頭はアイアンモアに替わります!そして外からブランドオーとトレンタムそして内からはゴクウが上がっていく!》
第1コーナーを先頭で入ったのはカミノライザンだ。しかし、カミノライザンは無理にハナを奪う気はないようでアイアンモアにあっさりと先頭を譲る。最内に控える姿勢を見せた。
カミノライザンはズルズルと下がり、最終的には中団の位置に落ち着く。そして──アローエクスプレスと甲賀のマークを受ける形となった。
「……大丈夫さライザン。俺達ならやれる!」
己と相棒を鼓舞する富永。日本ダービーが開幕した。
ダービー開幕。果たしてどうなる?