ついに始まった菊花賞。熾烈な先行争いは終わり、隊列は落ち着いてきた。
「お~しおし!カミノライザンはいつもの位置や!これはいけるで!」
「いやいや。タニノムーティエが珍しく前につけてる。あそこからムーティエ街道の末脚が炸裂したらヤバいぞ~?」
「ええ位置につけとるわ~!そんまま押してけダテテンリュウ~!」
「関東の意地を見せろアロー、ムサシー!」
向こう正面へと入ったレース。先頭を走るのはシバンデンコウ。2番手のシュウチョウに1馬身の差をつけて向こう正面へと入る。3番手以下は変わらず。カミノライザンを真ん中に、内にアローエクスプレスとケイシュウ。カミノライザンを挟んで外にトワダホマレが走っていた。
《向こう正面に入ります。先頭はシバデンコウ、ハナを切るのはシバデンコウだ。2番手シュウチョウようやく折り合いがついたか?そして2番手シュウチョウから2馬身遅れて、この位置にカミノライザンだ。四冠馬カミノライザンはこの位置につけている。その内にアローエクスプレスとケイシュウ、外にはトワダホマレだ。カミノライザンをマークします、1馬身から2馬身後ろの位置にタニノムーティエ珍しい先行策。向こう正面に入った菊花賞、ペースはやや遅めか?ゆったりとしたペースで進んでおります》
富永はタイミングを見極める。どこで仕掛けるか?どこで行くのがベストか。
(タニノムーティエは俺達の後ろ……本当なら悪いんだけど、個人的には絶好の位置だ)
富永は考えを巡らせる。脳裏に浮かぶのは、菊花賞前に猛田達と交わした言葉。
富永はこの菊花賞にある一つの策を生み出していた。否、それはとても策と呼べるようなものじゃない。それだけではなく、下手をすればクラシック五冠を水泡に帰すような、そんな考え。
正直なところ、却下されてもおかしくないようなものだった。しかし、猛田から帰ってきた言葉は──肯定。富永の考えで行くことを決定した。
(ただ勝つんだったら、それこそたくさんある。姫は賢いから、どんな作戦だってとれる。だけど……)
言ってしまえば、個人的な我儘のようなものだ。その我儘で、これまでの頑張りが無駄になる可能性がある。だが、それでも……富永はこの作戦でいくことにした。策とも呼べない、この
冷静にレースを俯瞰する。後ろに控えているタニノムーティエの位置を気にしながら、向こう正面を駆け抜ける。
廉田は言いようのない違和感を抱いていた。ペースはやや遅め、それはまだいい。ただ……
(向こう正面やから脚を溜めとるのは分かる……やけど、いくらなんぼでも不気味や)
これまでカミノライザン陣営は様々な策を取ってきた。カミノライザンの賢さがあってこそ取れる選択肢、こちらの想像のはるか先を行くような作戦を取ってきた。それが、このレースでは全くない。
警戒を怠らずにいる。さっきから注意してカミノライザンを見ている。だが……本当に何もない。
(ホンマに何を考えとるんや富永……この展開やと、タニノムーティエの方が
しかし、ならば好都合。このままじっくりとカミノライザンをマークする。そして……カミノライザンが抜け出すよりも早くスパートをする。そうすれば、勝てる。
(皐月も、ダービーも……どっちも負けた。やからこの菊だけは絶対に負けへんっ!)
タニノムーティエの強さを証明するためにも、負けるわけにはいかない。廉田はそう思いながら手綱を握る。馬が駆ける音が響いていた。
向こう正面も半分を過ぎる。隊列に大きな動きはない。
《向こう正面半分を過ぎて先頭は依然シバデンコウ、シバデンコウであります。隊列に大きな動きはありません。しかし、まもなく淀の坂が待ち受ける。二度目の淀の坂、この坂を上ることになります。じっくりと機会をうかがうカミノライザン。抜け出しのタイミングを計る各馬。最初に動き出すのはどの馬か?この3000mの長丁場を制するのはどの馬になるのか?京都競馬場は大歓声、大歓声であります》
向こう正面を半分すぎて。カミノライザンの内にいるアローエクスプレスが動いた。じわりじわりと前へ出る。その動き出しにつられるようにケイシュウもペースを速めた。それを見てか、隊列も乱れ始める。大きく動いていた。
カミノライザンとタニノムーティエは──動かない。まだジッと、耐えていた。ただ、じっと耐えるだけじゃない。カミノライザンはいつでも抜け出せるように外へと持ち出す。タニノムーティエもつられるように外へと動いた。
まもなく第3コーナーのカーブ。淀の坂に入る。平坦が多い京都競馬場のコースの中で、高低差があるこの坂を上るのは馬にとってはキツいだろう。それが3000mという長丁場を体験したことがない4歳馬ならなおさらだ。
第3コーナーのカーブ。ここで先頭はアローエクスプレスに変わった。アローエクスプレスが先頭に立ち集団を引っ張る。
《第3コーナーのカーブへと入ります。ここでアローエクスプレスが先頭に変わった!淀の坂を上って先頭はアローエクスプレス!しかしシバデンコウが必死に粘っております!2番手シバンデンコウその外に!タケオウカンが上がってきました!カミノライザンは、カミノライザンはまだ動かないか!?タニノムーティエも動かない!果たしてこの2頭はどのタイミングで動くのか、見ものであります!》
「いけいけー!」
「はよう上がれやー!間に合わなくなっても知らんどー!」
第3コーナーの坂を上る各馬。そして下りに入ったタイミング。ここで──
「ッ行くぞ、姫!」
カミノライザンが仕掛けた。隊列を押し上げ、外から上がっていこうとする。
そして、それとほぼ同じ……いや、
「逃がすかぁ!」
外へと持ち出し、大外から上がっていく2頭の馬。縦長の隊列はいつの間にか一団となっていた。カミノライザンとタニノムーティエが仕掛けたことで、声援はさらに大きくなる。
《坂を下ります先頭はアローエクスプレス!アローエクスプレス先頭だ!シバデンコウは少しずつ下がっております!メジロムサシにキシュウオーも上がってきた残り600m!ここでっ!ここでカミノライザンとタニノムーティエが大外から上がっていく!カミノライザンが切り開いた街道をタニノムーティエがともに上がっていく!大外からカミノライザンとタニノムーティエ!世代最強の2頭が上がってきております!先頭アローエクスプレスはリードを守り切れるか!?》
戦局が大きく動いた。
廉田は違和感に気づく。この展開は──
(
これらは全て、カミノライザンと富永紘一が生み出した展開。一瞬、頭に血が上りそうになるが……すぐに冷静になる。
(……ええで。お前らがそれを望むんやったら)
「お前らに土をつけたるわ!後悔するんやないでぇぇぇぇ!」
大外から上がるタニノムーティエ。集団の外にいるカミノライザンの、さらに外。ぶん回して上がっていった。
富永が立てた作戦はただ一つ──タニノムーティエを、真っ向から打ち倒すこと。タニノムーティエの全力を引き出して、そのうえで勝利する。それが富永の立てた作戦だった。
成程、これは到底作戦と呼べるようなものではない。相手を弱らせるのではなく、むしろ得意分野で全力を引き出させるなど。とても策と呼べるようなものではなかった。
しかし、この策を猛田達は了承した。その理由はただ一つ……カミノライザンと富永ならば負けないと信じているから。
(俺はそれに、応えないといけない)
富永は感じていた。外から上がってくる、強烈な気配を。もう何度感じたか分からない、凄まじい圧を。カミノライザンも同様だ。
クラシック四冠を取る上で、間違いなく最大の障害だった。最初は、真っ向から勝つことは不可能だった。だけど今は……違う。
(廉田さん……俺と姫は逃げも隠れもしない!)
「あなたたちを、真っ向から打ち倒す!勝負だぁぁぁぁ!!」
「思いあがるなやぁぁぁぁ!!」
大外から世代最強の2頭が上がっていく。会場のボルテージはさらに上がっていた。
《大外からカミノライザン!カミノライザンが上がってきました!さぁご覧ください!これがクラシック四冠馬の脚だ!大地が轟いております!しかしカミノライザンのさらに外!さらに外から道を切り開くタニノムーティエ!常識外れなど関係ない!我が道を往く末脚タニノムーティエ!アローエクスプレスは最短の内を行くがこれはすさまじい!?カミノライザンとタニノムーティエの末脚はすさまじいの一言に尽きます!最後の直線!先頭はアローエクスプレスですがっ、カミノライザンとタニノムーティエがあっという間に躱したぁぁぁぁ!!》
最後の直線でカミノライザンとタニノムーティエが抜け出す。ダテテンリュウとメジロムサシ筆頭に後続も上がってくるがタニノムーティエとカミノライザンには追いつけるかどうかといったところ。アローエクスプレスはもういっぱいいっぱいだった。
「「おおおおおぉぉぉぉぉ!!!」」
カミノライザンとタニノムーティエの一騎打ちの様相を呈する菊花賞。会場のボルテージもマックスだった。
「抜け出せー!ライザーン!」
「お前に賭けとるんやー!死ぬ気で追わんかーい!」
「いや、これ……どっちが勝っても全くおかしないで!」
「差せ!差せー!」
ダテテンリュウの騎手も必死に追う。
「脚は残っとるんや……!絶対に差したる!」
徐々に差は詰まっているものの……追いつけるかどうかは微妙なラインだった。
先頭を走る2頭。カミノライザンとタニノムーティエはお互いしか見えていない。熾烈な先頭争いが続いている。
カミノライザンが前に出れば、タニノムーティエが差す。タニノムーティエが差せば、カミノライザンがさらに差し返す。お互いに一歩も譲らない熾烈な戦い……プライドを賭けた戦いが始まっていた。
クラシック四冠馬の矜持、五冠という栄光へとたどり着くために。
スパルタの意地。これまで負け続けてきたからこそ、この最後の冠だけは譲れない。
湧き上がる歓声。どちらが勝つか全くわからないこの状況に、誰も彼もが興奮していた。
《残り200を切りました!残り200を切っても全く勝負が分かりません!カミノライザンが前に出れば!タニノムーティエが差す!タニノムーティエが差せば!カミノライザンが差し返す!どちらに軍配が上がるのか全く分かりません!クラシック最後の冠をかけた戦い菊花賞!クラシック四冠の矜持か!?スパルタの逆襲か!?カミノライザン富永紘一か!?タニノムーティエ廉田五佐雄か!?》
お互いのプライドを賭けた最後の直線。
「気張れや富永ぁぁぁぁぁ!!絶対に勝てぇぇぇぇ!」
「頑張れ富永さぁぁぁん!」
「……頑張れ、富永さん!」
猛田達も声援を飛ばす。
「絶対に負けんなぁぁぁぁ!廉田ぁぁぁぁ!ムーティエで菊をとれぇぇぇぇ!」
谷瑞も檄を飛ばす。
「譲らへん……!絶対に譲らへん!俺らが最強や、俺らの方が強いんや!」
必死にタニノムーティエを押し出す廉田。
「負けない、絶対に負けないッ!俺と姫が、最強だぁぁぁぁぁ!!」
プライドがぶつかる最終直線。勝負の行方は──
◇
スゲェキツイ。めっちゃしんどい。なんでこんなに走ってるんだろうと、思わなくもない。こうなってる元凶は、俺と競り合っているコイツ……タニノムーティエのせいで。
とっとと落ちろよ!って気持ちが出てくる。さっさと諦めて欲しいと願う。
だけど、そうはいかないわけで。俺に負けられない思いがあるように、コイツにも負けられない意地がある。だからこうやって競り合っているわけだ。
「もうちょっと……もうちょっとだ姫!あとちょっと、絶対に抜け出そう!」
「負けるか……!負けられるか……ッ!ムーティエが強いんや、ムーティエの方が強いんや!」
必死こいて脚を動かす。負けるのが嫌だから、ここで落ちるのはごめんだから。絶対に負けるわけにはいかない。
俺とタニノムーティエの競り合いが続く。残りどんくらいなのかは分からない。諦めたほうが楽なんじゃないか?と思わなくもない。そんな思いが出るたびに、自分を叱責して脚を動かす。
(負けるか……っ、絶対に負けるかッ!)
俺のためだけじゃない……俺達のために!
『絶対に負けるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』
駆ける。譲れない思いと、みんなの期待を乗せて。
◇
最後の直線の叩き合い。
「いけー!いけー!」
「ダテテンリュウも来とる!漁夫の利あるで!」
「負けんな……負けんな!ライザーン!」
冷めない会場の熱気。全力と全力のぶつかり合い。誰もが息をのむ。この勝負の行く末を見守る。
《カミノライザンとタニノムーティエ!カミノライザンとタニノムーティエであります!ダテテンリュウも上がってきたがこれはもう届かないでしょう!2頭の競り合い!最強2頭の競り合い!カミノライザンかタニノムーティエか!ライザンかムーティエか!?ライザンかムーティエか!残り100を切った!さぁまだ並んだまま!まだ並んだままでがっぷり四つ!400m続いたこの叩き合い!どちらが制するのか!?》
残り100を切る。そして──
カミノライザンが、タニノムーティエよりも前に出た
《ライザンが来ました!ライザンが来ました!ライザンが抜け出した!カミノライザンが競り落とす!カミノライザンがタニノムーティエを競り落とす!タニノムーティエ必死に粘る!タニノムーティエ必死に粘る!しかし、しかし!》
「いけっ!いけーっ!」
「負けんなー!」
カミノライザンが抜け出す。そのままタニノムーティエを躱し──
《カミノライザン!カミノライザンだ!カミノライザンが最後は抜け出した!桜に始まったこの旅も!菊で迎えた終着点!カミノライザン!カミノライザンであります!カミノライザンがタニノムーティエを競り落とし今……カミノライザンが競り勝ったぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!》
カミノライザンが誰よりも早く、菊のゴール板を駆け抜けた。
激闘終結。