年が明けて。カミノライザンは休暇を終えて関西へと戻ってきていた。
「お~しおし。久しぶりやな~姫。元気にしとったか?」
「ブルルル」
「心なしか……いや、ダメだなこういうのは。とにかく今日からまたこっちだな!よろしく姫!」
「ヒヒ~ン!」
猛田と刈谷は姫を歓迎する。早速調教をしていこうと考えていた。とはいっても、今日は帰ってきたばかり。ゆっくりしてもらおうと考える。
「ひとまず馬房へ案内したれ刈谷。今日はまだゆっくりさせとくべきやわ」
「分かりました。じゃあ姫~、俺についてきてくれよ?」
刈谷にひかれて馬房へと向かうカミノライザン。猛田はその姿を見送った後──溜息を吐いた。
「今年もえらい年になりそうや……」
そう愚痴をこぼす猛田。その理由はただ一つ、カミノライザンのローテである。
つい先日、オーナーである保茂から今年のカミノライザンのローテについて教えられた。そのローテというのが……。
「京都記念で復帰戦、その後天皇賞・春に出走。宝塚記念に出走した後海外に渡って~、凱旋門賞とワシントンDC!最後に有馬記念ってローテで行こうと思ってるんだ!」
猛田としては遠征には反対派である。シンザンの時代、リユウフオーレル*1の一件があったためシンザンも海外遠征させなかった猛田。そのことが一瞬脳裏にちらついたものの……。
「まぁ姫やし大丈夫やろ。身体頑丈やし、遠征かて苦にせんし。さすがに遠いけど、姫なら環境に対応できるやろうし」
これまでのことを考えたらいけるのではないか?と思い、このローテを承諾した。カミノライザンの海外遠征は割と軽い調子で決定したのである。
カミノライザンの屋根に関してだが、これもすぐに決まった。富永である。
「現地の騎手乗せるぐらいなら俺も向こうに渡ります!」
……まぁ、カミノライザンの手綱を誰にも握らせたくないということで富永で決定した。猛田もカミノライザンの手綱を握らせるならもはや富永以外には存在しないだろうと考えていたので好都合ではあるのだが。これで騎手も決まりである。
後は日程。検疫の都合や諸々を考えたら、8月末か9月の初めに向こうに渡り、凱旋門賞を走った後ワシントンDCを走ることになる。かなりの強行軍に加え、現地の人達の協力を得られるものだろうか?と思わずにはいられなかったが。
「大丈夫大丈夫~。こう見えて、海外にも知り合いはいるからね~」
と。保茂は早速連絡して受け入れ先を用意していた。受け入れ先曰く。
「ミスター保茂の馬がこちらに来るのが楽しみだ!」
「カミノライザンはそっちのクラシック五冠馬なんだろう?来るのが今から待ちきれないよ!」
かなり心待ちにしているようである。なにより、保茂の交友ネットワークが海外にまで広がっていることに驚きを隠せないわけだが。
話は変わるが、厩舎の警備というのはかなり厳重である。馬は繊細な動物であり、厩舎外の人間が紛れ込むだけでも不安になる生き物。体調に影響を及ぼす場合がある。馬に万が一があってはならない。ゆえに警備は厳重でなければならない。
カミノライザンの馬房、というよりは栗東トレセンもそうである。万が一が起きないように、しっかりとした警備体制が敷かれている。
……だが。どれだけ警備を厳重にしていようが人の手によるものである限り限界がある。だからこそ、事件は起こった。
◇
調教も順調だし、次のレースに向けて順調順調ってな~。
「姫、今日もお疲れ様!ゆっくり休んでくれ!」
刈谷が頭を撫でて場を立ち去る。よしよし、後はもう何にもないから馬房の奥でゆっくりしとくかね。
にしてもな~。こっちに戻ってきてもいろいろとあったもんだ。年度代表馬に選出されたわけだし!戦績的には8戦7勝のクラシック五冠だしな!対抗だったのは古馬のスピードシンボリだ。スピードシンボリも凄い馬だよな~本当。
(今年も頑張りますかね!)
まずは放牧で体重が増加したし、それを絞ることから始める。ベストな体重に戻して京都記念に臨まねぇと!
この京都記念にはまたタニノムーティエが出走してくるらしい。なんだお前?俺の事大好きか?まぁタニノムーティエは年明け早々アメリカジョッキークラブカップに出走し優勝。アカネテンリュウをぶち抜いての勝利だ。向こうは年明けから絶好調、ってことだろう。
おっしゃあ!こっちもこっちで負けていられねぇぞ!京都記念、気合がっ?
(うん?なんだ?なんというか……変な気配を感じるぞ?)
足音が聞こえてきたのだが、少なくとも刈谷ではないはずだ。刈谷はさっき出ていったばかりだし。何か物を持ってきてたわけじゃないから、忘れ物の線はないだろう。
それに、足音は
「ちゃんと警備の目はごまかせてたか?」
「だ~いじょうぶだって。それに、この時間は厩務員が外しているのも確認済みだしな」
「それに、こっちはちゃんと取材許可の証明書を持ってるんだ。万が一見つかっても問題ねぇよ」
……うぅん?何やらスゲェきな臭い感じがするぞ?
そのまま聞き耳を立てていると、足音はどんどん近づいてきていて……おぉい!俺のところにどんどん近づいてんじゃねぇか!?なんだなんだ!?
ちょっと震えながら待っていると現れたのは──カメラをもってニタニタと笑っている男達である。誰だお前ら!?とりあえず馬房の奥に引っ込んで自衛だ自衛!
「お、いたいた……つっても、馬房の奥に引っ込んでんな」
「安心しろ。人参で釣ればいいだろ」
「ほ~らほら、怖くないよ~」
怖いわド阿呆が!お前知らんヤツから餌ぶら下げられてホイホイついていくのか!?こっちくんな!
「……ッチ。こっちに来ねぇな」
「大人しくこっちに来ればいいのによ。最悪馬房に入り込むか?」
「ま~写真のためだ。仕方ねぇ仕方ねぇ」
「ヒヒーン!?」
いやー!!誰か大人の人呼んでー!!!
お前精神状態が成人男性なのになんで怖がってんの?と思うかもしれないだろう。でも考えてもみろ!見覚えのない大人が複数人、餌をぶら下げて俺のことを呼んでるんだぞ?挙句の果てには馬房に入ってこようとしてるんだぞ?
もっとわかりやすく言うなら、部屋でくつろいでいたら我が物顔で入ってきた侵入者達がニヤつきながらこっちを見てるんだぞ?恐怖しか感じねぇわ!成人男性でも怖いもんは怖いんだよ!
と、とりあえず叫ぶしかねぇ!叫べば間違いなく厩務員がここに来るはずだ!
「ヒヒーン!!」
「おい、叫ぶんじゃねぇ!クッソ……とにかく写真を撮るぞ!」
「つっても、あんな馬房の奥に引っ込んでちゃな。やっぱ入るしかねぇよ」
ちょっと待てぇ!頼むから待って!入ってくるんじゃねぇ!いやー!誰かー!
今まさに馬房の扉を開いて入ろうとする──その時だった。
「何やってんだお前らッ!!」
き、救世主きたー!刈谷がこっちに戻ってきた!どうやら俺の異変を察知して戻ってきたみたいだ!
これには不法侵入者共も慌て始める。リーダー格の男は慌てながらも。
「クソッ!ずらかるぞ!」
その声でアイツらは引き上げていく。
「待てッ!……クソ、今はアイツらよりも姫だ!」
刈谷は追いかけようとするが、俺の方を優先してきてくれた。心配するように俺を見ている。
「大丈夫か姫!アイツらに怖いことされなかったか!?」
た、助かった……マジで助かった。本気で恐かったぞあれは……。馬房の奥から離れて、顔を出して刈谷へと近寄る。刈谷は安心させるように俺を撫で続けていた。
「アイツらめ……ッ!」
その顔は、先程の侵入者に対する怒りの感情で真っ赤だったが。
◇
事務所にて猛田の怒号が飛ぶ。
「ウチの姫に何してくれんのやゴラァッ!!ぶち殺すぞおどれらぁ!!」
電話口の相手は謝るばかりである。
《いや、それはもう弊社としましてもなんといいますか……監督不行き届きといいますか……》
歯切れの悪い返事。それが余計に猛田の神経を逆なでする。
「監督不行き届きでしたぁ……やと?そんなんで許されると思うてんのかクソボケ共が!」
《ヒィィィィィィ!?》
「何恐がってんのや大の大人が!なっさけないのう!ウチの姫はお前らの何倍も怖い思いをしたんやぞ?そこんとこちゃんと分かっとんのか!」
謝るしかない電話口の相手。その相手というのは勿論、今回不祥事を起こした新聞会社の上役である。
今回起こった事件。それはカミノライザンの馬房への無断侵入である。
ことの経緯としては、新聞会社に所属する記者数名がカミノライザンの馬房へと侵入。カミノライザンの写真を撮ろうとしていた。
しかし、カミノライザンはすでに餌の時間を終えて馬房の奥へと引っ込んでいた。写真を撮ることが難しい状況にあったのである。そこで考えたのが、餌をぶら下げてカミノライザンを釣ろうというもの。ただ、ここでも誤算が生じる。
カミノライザンは餌をぶら下げられても警戒して馬房の奥へ引っ込んだままだったのだ。これに業を煮やした記者側は馬房へと立ち入ろうとする。侵入しようとしてきたことを察したカミノライザンは鳴いて自分の窮地を報せた。そこに担当厩務員である刈谷が駆けつけてきたわけである。
記者達は逃亡。刈谷は追おうとしたものの、カミノライザンを優先。怖がるカミノライザンをなんとか宥めた後、今回の一件を上に報告した。これが事の顛末である。
報告を聞いた猛田達が真っ先に感じたのは怒り。当然だ。自分達が大切にしている馬を怖がらせた挙句、無断で写真を撮ろうとしていたのだ。憤るのも当然である。
それだけではない。馬房にいるのは勿論カミノライザンだけではなく、他の馬だっている。その馬達も怖がらせたも同然だ。競走馬達を愛情持って管理している厩務員、並びに関係者からしたら怒髪天を衝くほどのことだ。
「自分とこの社員もしっかり管理できひんのかおどれらは!教育できひんのやったら記者なんぞ辞めちまえ!」
《それはもう、はい。しっかりと言い聞かせておきますので……》
「言い聞かせるだけじゃ足りんわアホンダラ!クビにしろやその連中!」
《そ、それは私の一存では……》
「クビにできひんのやったらお前らんとこの取材は今後一切ッ!受けへん!ちゅーか、この件は他の調教師んとこにもしっかりと連絡入れさせてもらうわ!」
他の調教師にも連絡を入れる。その言葉を聞いた相手は露骨にうろたえた。
《そ、それは困ります!そうなったらウチはっ》
「お前らのことなんぞ知るか!こんなバカげたことやらかすボケ共雇ってるようなとこ、潰れて当然やろがい!」
ヒートアップする猛田。そこに仲裁の影が入る。
「まぁまぁ落ち着いてよ猛田さん。僕に代わってくれないかな?」
保茂だ。いつも通り、飄々とした様子で現れた。
怒りに身を任せている猛田は保茂を睨みつけている。しかし、それでも保茂は態度を崩さない。
「……なんですか?保茂さん。今クソボケ共のことについて争っとるんですけど」
「事は全て聞いたよ。ウチのライザンちゃんに乱暴しようとしたんだって?」
どうやら保茂の耳にも入っていたらしい。猛田は合点がいき、保茂の目を見た後──電話を保茂に代わる。
「どうも、新聞社さん。今回は大変なことやってくれたねぇ」
《あ、ほ、保茂オーナー!こ、これは違うんです!社員が勝手にやったことで……》
「うんうん、大丈夫。ぜ~んぶ分かってるから」
朗らかな口調で答える保茂。しかし、この場にいる猛田達には分かっていた。
(あ~あ、保茂さん……
保茂の怒りは、自分達の怒りすらもはるかに超えていると。
それも当然で。カミノライザンは保茂にとって大切な愛馬であり友達だ。馬房に来てはいつも話しているし、楽しそうにしている。保茂にとって大切な馬だというのは明白だろう。
そんな相手を怖がらせたのだ。怒らないわけがない。そしてその怒りは……猛田達の怒りすらも超えていた。
笑顔というのは時として攻撃的な意味を持つことがある。今の保茂は──それはそれは素晴らしい笑顔だ。
「でもさ、ウチに不手際があったかもしれないけど。そもそもはそっちの教育指導不足だよね?そこんところはどう考えてるの?」
《そ、それはっ!》
「社員が勝手にやったことっていったけどさ、それを指導するのが君の役目じゃないの?その役目を、君は放棄したってわけだ」
淡々と、事実だけで詰めていく保茂。恐怖でしかない。
「ライザンちゃんはさ、僕にとって大切な子で友達なんだよ。その友達を……君達は傷つけたわけだ」
《そ、その……》
「だから僕としても許せないし、勿論猛田さん達だって許せない。大切な馬達を怖がらせたんだから当然だよね。だからこのことは、他のとこにも全部報告するから」
電話口からもがっくりとうなだれるような声が聞こえる。これで終わり──のはずがなかった。
「それにさ~、その人達は知らないのか分からないけどさ。ライザンちゃんって昔成田にあった御料牧場の血統の馬なんだよね~。つまるところは、天皇陛下に縁のある馬といっても過言じゃないわけだ」
《……え?》
カミノライザンの血統の話を始める保茂。その顔は、先程よりもさらに笑顔が深まっていた。
「現に天皇陛下の言葉を賜るぐらいだからね。少なくとも認知しているってことだし、気に入っている、といっても過言じゃない。君達が手を出したのは……そういう馬だよ?」
《っ!あ、あ、あぁ……!》
事の重大さに気づいたのだろう。電話口の声は恐怖で震えていた。
保茂が言いたいこと。それは。
「つまるところ君達は。天皇陛下お気に入りの馬に手を出したってわけだ。凄いね~、僕にはとてもできないよ。日本に住んでいながら、天皇陛下が気に入っている馬に手を出すなんてさ~」
天皇陛下はカミノライザンが出走した菊花賞について言及した。それは前人未踏の偉業がかかっていたというのもあるだろうが……一番はやはり、カミノライザンの血統が関わっているだろう。かつてあった成田の御料牧場の血統を凝縮したような馬、気にならないはずがない。だからこそ、菊花賞に言及したのである。
また、天皇に仇なすということは宮内庁も敵に回すということ。そして今回の無断での立ち入り、それによって農林水産省すら敵に回す行為である。中央競馬会も敵に回るし四面楚歌……どころではない。まさに全国民が敵に回るレベルである。
電話口の向こうで青ざめていることだろう。猛田達は容易に想像ができた。自分達がその立場になったら間違いなく死ねる。そう思っていたから。
「ま~とりあえず、
《……》
「ありゃ、だんまりしちゃった。まぁいいや、宮内庁や農林水産省、中央競馬会も敵に回したけど頑張ってね~」
電話を切る保茂。猛田達へと向き直り。
「……とりあえず、ライザンちゃんのケアを最大限やろうか」
「「「はいっ!」」」
カミノライザンのケアをやる。そう宣言した。猛田達も勿論同じことを考えている。すぐにでも準備を始めた。
◇
余談だが。カミノライザンの馬房へ無断で立ち入った新聞社のその後。
まず当然だが倒産した。当たり前だ。しでかしたことがデカすぎて他の部門にも影響を及ぼし、取材を受けてくれるところがなくなったのである。そうなると情報が集まらない。加えて今回の一件はすぐに全国へと広まり、その新聞会社の新聞は買わない!と団結。売り上げがなくなったことで倒産するのは自明の理だった。
そして今回の主犯格となった記者数名だが……
「どこ行ったんだろうね~?……フフフ」
その後の記者達の行方を知る者はいない。言葉通り彼らは消えたのである──全くもって
冷静に考えてこんなとんでもねぇ馬に手を出そうとした時点で終わりである。