宝塚記念が終わってから数日が経ったある日、廉田と谷瑞は対峙していた。お互いの表情は暗いまま、気持ちは一緒なのだろう。
重苦しい空気の中、谷瑞が口を開く。
「……廉田」
「……はい」
沈痛な面持ち。谷瑞は──己の考えを述べる。
「安田は回避や。なんの得にもならん……あんな怪物に、勝てるかっちゅうねん」
安田記念の回避。それが、谷瑞の結論だった。
谷瑞の言葉に反発しようとする廉田。
「けど!……けどっ」
しかし、二の句が続かない。廉田とて、内心は分かっているのだろう。谷瑞の気持ちが。
2人は、というよりは誰もが気づいていた。これは、明らかな
普通ならば憤るだろう。舐めやがって、とか後悔させてやる!と思うかもしれない。しかし……谷瑞達にはそんな気力すら湧かなかった。その原因はやはり、
宝塚記念。得意のレーススタイルに戻した。最後方からの大外一気、ムーティエ街道と呼ばれたそのスタイルに戻し、今度こそはと意気込んでいた。そしてその意気込みは──容易く粉砕された。
「前でレースしたら搦手で翻弄、後ろやったら差を広げられる……どないせいっちゅうねん、あんなバケモン」
「そ、れは……」
「モノがちゃうわ。あれこそホンマもんのバケモンや。あんなバケモンに……付き合ってられるかっちゅうねん」
谷瑞は自嘲気味に笑った。カミノライザンにこれ以上負けるのはもう勘弁だ。臆病者、卑怯者と罵られようがどうでもいい。最早カミノライザンに挑む気力など……なくなっていた。
それは、廉田も同様である。廉田も、カミノライザンと富永という怪物コンビに挑もうなどという気概は無くなっていた。これまで打てるだけの策を打ってきた。後方からがダメなら前で、前でもダメなら自分達のスタイルを押し通してでも。絶対に勝つという気概とともに挑んできた。その気概は──度重なる敗北とともに消えていき、宝塚記念で跡形もなく砕け散った。
……それでも、廉田の心には燻りがあった。思い出されるのは、宝塚記念後のタニノムーティエの様子。
カミノライザンを睨みつけ、悔しさを滲ませていた。次こそは勝つと、そんな言葉すら聞こえてきそうな気迫を感じた。そのことが、廉田の脳裏によぎる。
このまま折れていいのか?このまま、負けを認めたままでいいのか?そう思わずにはいられない廉田。そう考えたら、思わず言葉にしてしまう。
「……やけど、ムーティエは悔しそうにしとったんです。カミノライザンを睨みつけて、ホンマに悔しそうにしてました」
「……だからなんや?何が言いたいねん?」
廉田を睨みつける谷瑞。廉田は、絞り出すように自身の考えを告げる。
「こんまま逃げて、ええはずがないです。やから……」
「廉田ァっ!!」
一喝。谷瑞の一喝が、廉田の言葉を止めた。息を荒げ、廉田に対し怒りの表情で睨みつける谷瑞。
「逃げてええはずがない、やと?やったらお前……あんな見え見えの挑発に乗るんか!?」
「そ、それは……っ」
「第一!お前自身分かっとるやろうが!あんなバケモンに勝てるわけないって!」
「ッ!」
自身の心を見透かしたような言葉に、廉田はドキリとする。まさにその通りだった。
今廉田が提案したのは、ただの虚勢。何の根拠もない、ただ挑発に乗って負けに行くような姿勢だった。そんな廉田の考えを、谷瑞は見透かしていた。そんな状態の騎手の提案を、谷瑞が受けるはずもない。断られて当たり前だった。
(やっぱり……ダメ、か)
俯く廉田。谷瑞は怒りが収まらない様子のまま、廉田を睨む。
「失せろ、廉田」
「……」
「とっとと失せろっ!」
谷瑞の言葉に、廉田は──反論することなく部屋を後にした。
◇
廉田と谷瑞の話し合いからまた少し経ったある日のこと。廉田は1人、手持ち無沙汰で関西にいた。
(……もう安田記念まで2週間。ホンマに出す気はないんやな、谷瑞さん)
タニノムーティエもまだ
カミノライザンはすでに関東へと移っているらしい。安田記念に向けて、関東に遠征していた。
今朝購入した新聞を広げる。そこに書かれていたのは──【タニノムーティエ臆病風に吹かれたか!?安田記念に出走せず!】。デカデカとそう書かれた言葉を見て、思わず笑いそうになる廉田。
「外野は好き勝手言えるからええよな……こっちの苦労も知らんで」
このままだと負けに行くようなものだ。そんな状態で挑むバカがどこにいるかという話だ。廉田は新聞を丸めて鞄に仕舞う。
空を仰ぐ廉田。天気は曇天、廉田達タニノムーティエ陣営の気持ちを表しているかのようだった。
「ま、常識的に考えて次は秋天に向けた調整やろ。何個かレース叩いて、それで秋天やな」
有力馬を見据えて秋天に向けた調整をする。それが
まぁ出走はしないだろう。カミノライザンが出走するわけだから。だから秋天に向けた調整をして、あわよくば勝利して。それが良い。
……そう、分かっているはずなのに。廉田の心は、燻り続けていた。
このままでいいのか?と。このまま、アイツらに勝ち逃げされたままでいいのかと。大レースで一度も勝てなくていいのかと……そう思わずにはいられない。
「……どうしようもないわ。谷瑞さんが出走せぇへん言うてる、それが現実や」
レースを決めるのは谷瑞。その谷瑞が出走しないと言っているのだ。なら、自分にできることなど何もない。廉田はそう結論づけた。
廉田はその足でタニノムーティエに会いに行った。そういえば、あのレースの後どうしているのだろうか?と気になっていたから。
(そろそろ調教再開してもおかしくない頃やしな)
いつ声がかかってもおかしくない。なので、様子見ついでにタニノムーティエへと会いに行こうとした、そんな時である。
「あぁ!廉田さんいたいたっ!」
慌てた様子の厩務員が廉田のところまで来たのである。少し驚いたものの、冷静さを保ちつつ廉田は厩務員に話しかけた。
「ど、どないしたんや?そないに慌てて。なんか変なことでもあったんか?」
「そ、それが……と、とにかく来てください!谷瑞さんも来てるので!」
「ッ!谷瑞さんも?」
頷く厩務員。とにかく急ぐことにした。その時廉田の頭によぎったのは──屋根の変更である。
(ま、こんだけ不甲斐ない結果を出したら当たり前やな)
すでに覚悟はできて……はいないが。仕方ないと割り切れる。厩務員の後に続くように、廉田は走った。
案内された先ではすでに谷瑞がいた。谷瑞は驚いた表情でなにかを見ている。疑問に思いながらも廉田が視線を辿っていくと。
「──あっ」
厩務員は谷瑞と廉田に説明を始める。
「そ、その……タニノムーティエはあんな調子で。ずっと走っているんです」
「……なんでや?お前ら、ちゃんと見とったんか?」
「み、見てましたよ!止めようともしました!でも、凄い力で暴れて……仕方なく」
バツが悪そうに俯く厩務員。廉田はタニノムーティエをジッと見つめる。
すると、タニノムーティエが廉田達の方を向いた。走るのを止めて、こちらへと歩み寄ってくる。
廉田の目の前で止まり、
「……えっ?」
戸惑う廉田だが、タニノムーティエはジッと座り込んだままだ。乗れ、そう言わんばかりに座り込んでいる。
恐る恐る、その背に跨る廉田。廉田が乗るのと同時に、タニノムーティエは立ち上がって走り出す。思わず振り落とされそうになった廉田だが、必死にタニノムーティエにしがみつく。
「うわっ!?ど、どないしたんやムーティエ!?」
慌てる廉田。なんとかしがみついてフォームを整える。そしてしがみついているうちに、タニノムーティエの気持ちが伝わってきたような気がした。
もう負けない。頑張るから、次は勝つから。だから走らせろ。アイツと、カミノライザンと。もう一度戦わせろ……そう、訴えかけているかのようだった。
しばらく走った後、またも座り込むタニノムーティエ。背中から降りて、廉田はタニノムーティエを真っ直ぐに見る。
(……ムーティエ)
タニノムーティエは強い意志の籠った目で廉田を見ていた。その目を見ていると──廉田は自分が恥ずかしくなってきた。
自分はどうするつもりだった?勝つ気じゃなかったのか?今までだって負けてきただろう?なのに、どうして今更一度の敗北でまた諦めようとしているんだ?
自信のあったスタイルで負けたから……そんなの、皐月賞の時もそうだっただろう。あまりにも負け過ぎたから……それこそ今更だ。絶対的な強さを見せつけられたから……だから逃げるのか?タニノムーティエはカミノライザンにだって負けていないと思っていた自分は、どこに行ったんだ?
(俺は、お前から逃げようとしてたんやな……)
そっとタニノムーティエを撫でる廉田。その胸には、様々な思いがあった。
色んな思いが交錯して──自然と谷瑞のところへと足を運んでいた。タニノムーティエも、廉田についてきていた。
「谷瑞さん」
「……なんや?言っとくが、カミノライザンと走らせろっちゅうんじゃ「そうです」ッ!」
カミノライザンと走らせろ。それを聞いた谷瑞は激昂した。馬を驚かせるわけにはいかないので大声は出さず、ただ廉田を鋭い目で睨んでいた。
「……なんべんいえば分かんねん。あんなバケモンに勝てるわけ「勝ちます、次こそは」根拠はあるんかッ!?」
「正直、ありません」
「やったらっ!」
「けど、迷いはもう振り切れました」
曇りのない、真っ直ぐな目で見据える廉田に、思わず気圧される谷瑞。廉田は──迷いなく続けた。
「やから後一回だけ、後一回だけカミノライザンと走らせてください。次こそは……勝ちますッ」
「ぐっ……ぬ……」
「それに、ええんですか?あのアホオーナーに好き勝手やらせといて」
さりげなくカミノライザンの馬主である保茂のことをアホホーナー呼ばわりする廉田。もっとも、当然と言えば当然かもしれないが。
「こんな見え見えの挑発されて、俺らは逃げて……こんままやとええ笑いもんですわ。それやとタニノムーティエの今後にも響きますよ?」
「それは……そうやけど……」
「やから、一泡吹かせたりましょうや。あのアホオーナーに……そして、あのバケモン共に」
ニっと笑う廉田。廉田の肚はもう決まった。後は、谷瑞の言葉を待つだけである。
うんうん唸る谷瑞。しかし……徐々に怒りが見え始めた。
「……そもそも、なんで俺らがこないに悩まなあかんねんッ!」
突然そう声を上げる谷瑞。タニノムーティエはすでにどっかに行っていた。
周りが驚いている中、谷瑞はまくしたてる。
「あんのアホオーナー!あんな見え見えの挑発しおってからに!なんや?どうせ出走するやろ~……なんて思てるんやろ!?なぁっ!?」
「まぁそうでしょうね。悔しいから絶対に来ると踏んでるんやないですか?」
至極冷静にそう答える廉田。その言葉に谷瑞はさらに怒りを見せた。
「……ええやないか。そん挑発、乗ってやろうやないか」
「谷瑞さん」
「やけどっ!」
握り拳を振り下ろさんばかりの勢いで、谷瑞は宣言する。
「ワシントンDC国際や!誰がアイツらの思い通りにさせるかっちゅうねん!ワシントンDCでアイツらシバいたるわッ!」
「うっし!やったら今後の予定全部変えましょうや!」
「おう!早速プラン変えるで!今日は寝れると思うんやないぞ!」
「はいっ!」
意気揚々と引き上げる谷瑞と廉田。2人の肚は決まった。
安田記念……には向かわない。ワシントンDCインターナショナル。そちらへの出走を決めた。天皇賞・秋を捨てて、カミノライザンとの対決を決めたのである。
◇
俺の目の前には冷や汗をダラッダラとかいているクソ神。さて、コイツどうしてやろうか?
『おいテメェクソ神コラ。なんか申し開きはあるか?』
「い、いやぁ……」
『お前なんつってたっけ?アイツらは確実に出走してくる?面白いこと抜かしたなぁお前』
目の前には新聞。そこに書かれているのは──【タニノムーティエ安田記念回避!大目標にワシントンDCの出走を表明!】の文字。一面を飾っていた。
『確かに出走してきたな──ワシントンDCの方だが』
「こ、こんなはずじゃなかったんだけどな~……」
『ぶち殺したらぁテメェ!』
柵を思いっきり蹴っ飛ばす!テメェふざけんな!関東遠征の意味がほぼ消えたじゃねぇかこのアホンダラ!
「お、落ち着いてよライザンちゃん!これは僕も予想外なんだって!?」
『知るかドアホ!関東遠征がほぼ無駄に終わったのにどうしてくれんだ!?安田記念だってタニノムーティエとの対決のためだろうが!』
「そ、それはそうだけど……」
『つーか!テメェが無自覚に煽ったせいだろうが!人の心が分かんねぇやつだな!』
「ま、元だけど神だからね!」
威張ってんじゃねぇよテメェ!このクソ野郎が!
……まぁ、この時の俺はお構いなしに暴れまくった。その結果どうなったって?
【カミノライザン調教中の負傷により安田記念回避!海外遠征に暗雲か?】
軽い怪我をして安田記念は白紙になりましたとさ。ちなみに怪我の程度はマジで軽いもの。1週間とかその程度あれば完治するぐらいのもんだ。経過観察はあるだろうけど、大事を取って安田記念は回避となったとさ。
クソ神?あの後猛田さんにしこたま怒られてたよ。
「俺ら完璧無駄足やんけ!どないしてくれんねん保茂さん!」
「ごめんなさいごめんなさい!もう二度とこのようなことは致しません!」
「当たり前やアホンダラ!シバきあげたろうかホンマに!」
クソ神は土下座で許しを乞いていた。なお、トミーも仲裁する気0である。なんならクソ神をめっちゃ睨みつけてた。
……まぁ。アホみたいな出来事はあったがそれはそれ、これはこれ。タニノムーティエとの対決はワシントンDCになった。ついでに、俺はこのまま海外遠征である……大丈夫なのかね?本当。
安田記念「残念だったな、トリックだよ」
ハーバーゲイム「許された」