ロンシャン競馬場で開催されている凱旋門賞。いよいよ大詰めを迎えようとしていた。
会場から湧き上がっているのは悲鳴にも似た歓声。凱旋門賞の行く末をファンは見守る。
《最後の直線!先頭で入ってきたのは
最後の直線にミルリーフが集団の先頭で入ってくる。他も追走するが、ミルリーフとの差は徐々に開いていく。これがミルリーフの能力の高さだろう。
ミルリーフの騎手であるガリア・ロイスの表情には焦りが見える。
(バカな……ッ!何が、なにが起きているッ!?)
先頭を必死になって逃げている。鞭を入れて、ミルリーフの脚を止めないようにしていた。
《しかしっ、しかし……ッ!》
いや、ロイスだけではない。他の騎手もまた、驚愕に目を見開いていた。
「どうなってやがるっ!?」
「我々は、魔法でもかけられたのか!?」
「とにかく追いつかねば!早く、早くッ!」
現地のファンも目の前の光景に理解が及ばない。
「ど、どうなってるんだ?なんで、なんでっ!?」
「これは悪い夢よ、きっとそうに決まっているわ!」
「こんなこと、あってたまるか!」
現実を受け入れられない。目の前で起こっていることは何かの間違いだと、そう自分に言い聞かせる。
しかし、目の前の光景は変わらない。お前達が見ているのは現実であると突きつけられる。
「何故……何故ッ!」
ロイス達が必死に追いかけるもの。それは。
《レースの先頭カミノライザンの姿は遥か前方!圧倒的だ、まさに圧倒的な走り!集団の先頭ミルリーフとの差は10馬身以上は空いている!日本のカミノライザンが悠々と逃げている!追いつくことはできるかミルリーフ!?追いついてくれミルリーフぅぅぅぅ!》
「何故だぁぁぁ!?」
彼らの遥か彼方を走っている、青毛の日本馬──カミノライザンだ。
◇
ガリア・ロイスはレース中、
(なんだ……。ペースが、少し遅い?)
ほんの少しの違和感。先行集団に追走する形でレースを展開しているが、そのペースが少し遅く感じたのだ。
(気のせいか?いや、しかし……)
そのことが、ロイスの心に迷いを生み出す。現在はレースの半分を過ぎたところ。先頭を走るのは……日本という競馬後進国からやってきた青毛の馬カミノライザン。その馬にオシアンが競りかけている。どうやら、カミノライザンは意に介していないようだが。
ロイスの心に生まれた迷い。この違和感の正体は何なのかを考える。
(しかし……ラビットはラビットだ。それ以上の理由などない。いや待て、そう断言していいのか?)
ロイスがそう考えている間もレースは進む。結局ロイスは、言いようもない違和感を抱えたまま、先行集団を追走する道を選んだ。
そしてロンシャン競馬場の名物でもあるフォルスストレートに入った頃だろうか。すでに先頭をオシアンに譲っていたカミノライザンが進出を開始した。
(この状況でスパートだと?だが、あの馬はもうスタミナが残っていないはずだ。最初から先頭で走っていたのだから)
いずれにしても、最後の直線でスタミナは枯渇する。ロイスに限らず、他の騎手もそう判断した。
《フォルスストレートを迎えます。ここでカミノライザンがオシアンを躱す!オシアンも負けじと競りかけますがこれはカミノライザンが抜け出した!カミノライザンが先頭に立ちます!オシアンから離されて9馬身程の差!この位置に先行集団はつけています!フランスのピストルパッカーがこの位置だ!オーティスにブルボン、カロもこの位置にいるぞ!そしてその先行集団を見る形でミルリーフ!1番人気ミルリーフがここにいる!先頭に立ったカミノライザン、しかしこれは厳しいかもしれません!》
先行集団は最後の直線に向けて足を溜め始める。そうしている間にも、カミノライザンはグングンと差を広げていた。
(……待て、何故あの日本馬は
ここで、ロイスは気づく。感じていた違和感の正体に。
カミノライザンはずっと先頭に立って走っていた。それにオシアンが競りかけていたのも見ている。そのオシアンは徐々に下がってきていた。追走しているが、カミノライザンとの差は開いていくばかり。能力差で片づけることもできるだろうが、それではどうにも説明がつかない。
考えて考えて……思い至る。
「ッ!?ま、待て……まさか、まさかッ!?」
気づいたその瞬間、ロイスの判断は早かった。ミルリーフに鞭を入れて、すぐさま進出を開始する。
《ここでミルリーフも動いた!さぁミルリーフが動いたぞ!それを見て先行勢もさらにペースアップだ!先頭を走るのはカミノライザン!先行集団との差はかなりの差、かなりの差です!このリードを守り切るのは少し難しいと思われますが、さぁどうなるか!?オシアンは落ちてきている!オシアンは落ちてきた!ペースメーカーのオシアンに先行集団が襲い掛かる!ここでミルリーフがピストルパッカーらを躱して先頭に立った!まもなく最後の直線、ミルリーフが集団の先頭に立った!オシアンはもう無理だ!》
ミルリーフが集団の先頭に立つ。ロイスの表情は──焦りで染まっていた。
現在。ミルリーフは先頭に立っている。だがそれは──
レースの先頭を走るのはカミノライザン。ミルリーフよりも10馬身以上先にその姿を確認できる。落ちてくる気配は……ない。
騎手達に焦りが生まれる。悪態さえつきそうなこの状況、ここからどう逆転するか?そればかりが頭を支配していた。
ロイスは後悔する。己の過ちが生み出した、この状況に。
(追いかけるべきだったのだッ!少しでも疑問の余地が生まれたあの状況で、私はあの馬を追いかけるべきだったのだ!)
後悔しても、もう遅かった。
(彼らは最初から
「やってくれたな……!」
ロイスは気づいてしまった。カミノライザンはもう垂れてこないのだと。
ラビットの役割はペースメーカー。レースの先頭に立って全体の流れを作るのが主な役割だ。つまりは……ラビットになれば
欧州において、ラビットというのは死に役だ。確かに後続が全滅した結果、ラビットが棚ぼた的に勝利を収めることもあるだろうが、そんな例はごく少数。あってないようなもの。有力馬のために死に役に徹する……それがラビットなのだ。
富永はそこに目をつけた。ラビットになればペースを支配できる、そうなればカミノライザンが負けることは絶対にない。そう断言できるから。
ロケットスタートで先頭を奪ったのもラビットとして動くため。後は他のラビットがどう動くかが問題に挙げられるが……それも問題はなかった。
もし無理にでも先頭を奪うなら風除けに使えばいい。後ろにつけて自分は脚を溜める。競りかけてくるようなら悠々と逃げればいい。逆にペースを落としてこっちの思い描く展開に引きずり込む。二通りのパターンを用意していた。
(彼らにとっての最悪手は先行集団が距離を詰めること!しかし
「我々は、
欧州のジョッキー達にとってラビットはそう珍しいものではない。無理に追おうとするのは同じラビットぐらいのものだろう。ラビットは有力馬のための死に役……そこを突かれたのだ。
もっとも、今更気づいたところで後の祭り。現在先頭を走るカミノライザンを追いかける他ない。
「あってたまるか……そんなことが、あってたまるか!」
ロイスを突き動かすのは意地。本場の、欧州競馬で活躍する騎手としての意地だ。カミノライザンをなんとしてでも負かして自分達が勝つ、その一心で手綱を動かす。
その思いが通じたのか、カミノライザンとの距離はグングンと縮まってきていた。
《先頭を走るカミノライザンしかし!ミルリーフだミルリーフだ!ミルリーフがグングン差を詰めていく!10馬身はあった差がどんどんと縮まっていく!すでに200を通過!この差を埋めることがっ、できる!これはできるでしょう!カミノライザンとミルリーフの差がグングン縮まっていく!やはり力尽きたかカミノライザン!
「うおおおぉぉぉ!追いつけぇぇぇ!」
「ミルリーフの方が上だ!日本馬なんかさっさと追い抜け!」
日本からやってきたファン達も声援を飛ばす。カミノライザンの勝利を祈っている。
「負けるなぁぁぁ!ライザァァァァン!」
「日本だけじゃない、世界一になってくれぇぇぇ!」
「カミノライザンこそが最強だぁぁぁ!」
必死に声援を送るカミノライザンのファン。そんな中で埜平と輪田は信じられない気持ちでレースを見ていた。
「そんな……まさか、カミノライザンが……日本馬がッ!」
「カミノライザンが、先頭に立っている……!」
何度目を凝らしても同じ光景が目に映る。先頭を走るカミノライザン、その姿を両の眼が捉えていた。
しかし、ミルリーフの猛追が始まる。カミノライザンを捕らえんとその末脚を発揮する。
「逃げろぉぉぉ!逃げ切れぇぇぇ!」
「追いつけぇぇぇ!」
日本のファンはカミノライザンを、現地のファンはミルリーフを応援する。無情にも縮まる差に一喜一憂し、その度に悲鳴と歓声が上がる。
残り100を通過。ロイスは──気づいてしまった。
(まさか、コイツら!?)
おかしいとは思っていた。何故こうも
相手は脚を溜めていた。いくら早く仕掛けたといっても、まだ力尽きることはないはずだ。なのにどうして、こうも易々と差を詰めることができた?
能力差?違う、そんな単純なものでは説明がつかない。10馬身以上は開いていた差がどうしてこう易々と縮まったのか、そんなものでは説明ができない。
ロイスが出した結論は。
「
そう気づくがもう遅い。
《カミノライザン先頭!カミノライザン先頭!まさかこんなことがあっていいのだろうか!?ミルリーフ追いすがる!ミルリーフ追いすがる!必死に追いかけるミルリーフ!その差は後4馬身、3馬身!着実に差を詰めている!だがこれは追いつけるかどうか!?残り50m!これはまさかの番狂わせ!》
最後の直線で推定18馬身は開いていた差。その差を詰めることはできず……1馬身差まで追い詰めたところで、カミノライザンの馬体がゴールラインを割った。
《カミノライザンだぁぁぁぁぁぁぁ!!!日本の!牝馬の!大逃亡劇が炸裂したぁぁぁ!!美しく!華麗に!鮮やかに!他を寄せつけぬ圧倒的な強さを見せつけたぁぁぁ!ミルリーフは猛追届かず1馬身差の2着!3着のピストルパッカーはミルリーフからさらに遅れること7馬身差!日本からやってきた美しき青毛の女神が、ロンシャンに降臨したぁぁぁ!》
凱旋門賞を勝ったのはカミノライザン。日本の、格下に見ていた相手が……勝利を収めたのだ。
現地のファンはあまりの光景に言葉を失う。中には悲鳴を上げるファンもいた。
完全にノーマークだった馬。勝ち負けに絡むどころか、10着に入るかどうかすら怪しいと思われていた。レースの最初から暴走して、最下位になると指を差して笑っていた。
嘘だと目を覆い隠したくなる。しかし結果は変わらない。カミノライザンは……凱旋門賞を見事に逃げ切ったのだ。
現地のファンとは対称的に、日本のファンは大盛り上がりである。肩を抱き合って喜び、勝利の歓喜に酔いしれている。
「やったやった!勝ったんだ!」
「やっぱりカミノライザンはすげぇぜ!」
「おめでとーう!カミノライザーン!」
その祝福を受けながら、カミノライザンは──静かに佇んでいた。
決着ゥ!