第1話
ざざぁ、ざざぁ……
微かに響く穏やかな水の音。視界一面に広がる青い海? 少し見上げれば遠くに見えるのは大きな大きな入道雲。邪魔するものが一切ない、広い広い空。
横を見ればポツンと突っ立っている案内板。表面の塗装が剥がれ落ち、錆色に染まっていて何が書かれているか分からないその板は、暑い日差しの中で必死に立ち続けている。横に青いベンチも見かけたが、長い間人が座った形式はなく、表面の色があせてしまっている。
背後には先程まで俺が呑気に眠りこけていた電車が止まっている。
「どこだ、ここ」
ゆっくりと周りを見渡した後、思わずそんな言葉が口から出てしまった。
いつの間にか俺は無人駅にいた。しかも何年も放置されたような廃れきった無人駅にだ。
あまりにも特異な状況にもはや混乱も、恐怖も全てがこの熱さによって一緒に溶けていってしまったように汗を垂らしながら青々とした空を呆然と見上げてしまっていた。
■夏の惑星
俺の名前は「三枝迅」。取り立てて語るようなことはないパッとしない人生を送る社会人だ。両親は健在だし、自身も特に大きな事故も病気もなく今日まで健康的に生きている。仕事に関してもブラック企業というわけではない。似たような仕事をする会社はいくらでもある至って普通の会社で、あまり目立った功績もなく働いている。
そんな生活に不満はない……というわけではないが、精々人並みの不満しかない。誰でも心の内に秘めているようなお金や人間関係の悩みを抱えてるだけ。
将来の目標も大してなく、「お金手に入ったら遊んで暮らしてー」なんて絵空事を酒の席で嘯いては、友人達と笑い合う。
そんなどこにでも居る人間が俺だ。人混みに入れば「群衆」なんて一塊にカテゴライズされ、顔なんて覚えてもられない。ただただ世間と社会に振り回され続ける有象無象。
(はあ、良かった)
その日、市民Aの俺は内心安堵のため息を漏らしていた。現在朝7時5分。平日の電車内でシートに座っていた。電車の中はスーツを着たサラリーマンや、学生らしき若者がぎっしり隙間もない程立っている。絶賛通勤ラッシュ中である。今日は偶然前の座席が空いたため、そこに座ることができた。
通勤中に電車の中で立ちながら行くか、座りながら行くかでは仕事中のテンションも色々変わる。出来るなら出勤前から疲れてるのは勘弁したい。
俺は席に座りながらスマホでSNSを眺める。自分の好きなゲームの公式アカウントや、フォローしている知り合い。SNSのトレンドを流し見る。
(お、みなちゃとさん今日配信か)
SNSのタイムラインに流れているコメントの1つに目が留まる。
みなちゃとさん。それは自分が好きな配信者の告知だった。登録者数はそこまで多くないが俺が好きなゲームを中心によくゲームの実況を行っているためよく配信を見ている。彼女の声は聞き取りやすく、ゲームの内容に反応しつつコメントも上手く拾ってくれ、個人的にとても気に入っている配信者だった。
そんなみなちゃとさんの配信予定時刻は今日の夜。残業などがなければリアルタイムで見ることができるだろう。
(って思ったけど……)
今日定時過ぎに会議があることを思い出し、思考が憂鬱に変わる。会議の内容は俺にはそう大したものではない。ほとんど自分には関わりがない議題だったはずだ、ただ情報共有も含めてと参加者に自分も加えられていた。
(なんて間が悪い)
思わず内心舌打ちをする。みなちゃとさんにではなく過去の自分に。会議の話が来たときに理由をつけて断っておけば良かった。そうすれば関わりが薄い自分なら欠席できたはず……とはいえ、時既に遅し。過去に言ってしまったことは変えられないし「動画を見るから欠席します」なんて上司に言えるわけがない。
(まあ、別に動画が見れないわけじゃない。アーカイブを見返せばいい)
そう心の落とし所を見つけると、スマホを閉じた。今までだってリアルタイムで見れなかったことは何度もある。そう気に病むことではない。俺は膝の上に載せたバッグの上にスマホを置くと目を閉じる。視界は暗くなり、電車の走行音と振動だけが五感に響く。
その揺れがなんとも言えずに眠気を誘う。……そういえば最近は少し忙しいからか、中々長い時間眠れないことが多い。だからか今日は異様に眠い。
ガタンゴトン、ガタンゴトン
電車の揺れが体に響く。規則的な振動のせいか、シートの柔らかさか、体が気づかないうちに疲れていたのか……要因はわからないが、思わず俺の意識はゆっくりゆっくりと沈んでいく。
(駅に着く前に起きなく……)
頭の思考は理性に反してどんどんと消えていく。そして、最終的に俺の意識は夢の中へと落ちていった。
次は〇〇、〇〇……。
すっかり眠りきった意識の中。電車案内の音声はいつもよりどこか遠くに感じていた。
ざざぁ、ざざぁ……
何処からか響く波の音で意識を覚ます。暖かな日射しが顔に突き刺さり、頬を汗が伝う。
(何の音だ?)
おぼろげな意識の中、思考する。水と砂が混ざるそぞろ歩きのように揺れる音。しばらくそれの正体を目を閉じながら考える。
とても穏やかで心が落ち着く。けれど、この音は?
「波?」
正体を理解し声が出る。それと同時に目を開ける。俺は電車のシートに座っていた……俺以外誰も乗っていない車内で。
「え」
思わず声が漏れる。そう、誰もいない。先程まで満員電車で、人が入る隙間なんてもう無い程の車内だったはずだ。なのに今人というものが車内に俺以外の一人もいない。そして電車は止まっており、その扉は開いていた。
「やば、終点まで寝てたのか!?」
状況に合点がいった瞬間、俺の体は反射的に動いた。慌ててバッグを持つとシートから立ち上がる。うたた寝のつもりだったが、どうやら思いの外熟睡してしまったようだ。このままでは会社に遅れてしまう……とりあえず何処の駅か確認したら下りの電車に乗らなくちゃ……。
そう考えて電車の扉を出る。
その瞬間、視界に飛び込んできたのは青い世界だった。
水平線まで続く青い海と澄み切った青空。そして燦々と降り注ぐ日射し。
そんなニ種類の青の間に放り込まれたようにぽつんと立つ無人駅。そこに俺は立っていた。
「……」
そして冒頭に話は戻る。太陽は思考がフリーズしかけの俺にも容赦なく日差しを浴びせ、思わず目を細める。コンクリート造りのプラットホームにも容赦なく反射して足元も熱を帯びている。
「暑い……」
思わずそう口に出た。実際暑い、温度計は手元に無いが、体感温度30度は超えてると思う。
朝の天気予報ではこんなに暑くなるだなんて言っていなかったはずである。むしろまだまだ肌寒くなるとすら言っていた。その忠告に俺は素直に従い、スーツの上着を羽織って丁度いいと感じていた程だ。いくら日が昇ったからってこんなに暑くなるのだろうか?
「って今何時だ!?」
ふと気がついて時計を見る。時計の針は9時を指している。始業には完全に間に合わない。遅刻確定である。
「こりゃあ先輩に怒られるな……」
と思わずぼやきを入れつつ下りの電車を探そうとする……が、辺りを落ち着いて見渡してこの駅の状況の不自然さに思わず思考が止まる。
そもそも、俺が乗っていた電車は首都圏を通る電車で、基本大きい都市か、住宅街付近の駅しか通らない。そして終点もある程度の大きさの駅だったはずだ。一度、仕事の関係で終点まで行く機会があったので覚えている。少なくともこんな秘境駅といって過言ではないほどの無人駅には着かなかったはずだ。
そしてもう一つ、自分は振り向いて駅に停まっている電車の方を見た。電車の表面はサビまみれになっていて長い間整備などがされた気配がない。更に車内は明かりついていないので薄暗く、燦々と輝く日光が四角い木漏れ日を規則的に作っていた。
……あまり電車を注視していたわけではないが、いくらなんでもここまで整備されていない、何年も放置されたような電車に乗っていたはずがない。
さらに極めつけにもう1つ違和感があった。
俺は電車の扉とホームの間を覗き込む。普通であれば何もない真っ暗な隙間があるだけのそこに何かが満ちている。
ゆらゆらと揺れ、時折日光を反射して白く輝く「何か」。とはいえその正体はすぐ分かった。
「水……?」
駅の線路はプラットホームにギリギリ溢れない程度の高さまで水で満ちていた。もちろん線路の上に停まった電車も水に浸かってしまっている。
(洪水?いや、雨なんてここ1週間降ってないし、ここまで浸水するような高さなら電車なんて動かない……じゃあ、なんで)
俺は立ち上がると横に目を向ける。電車から目を外し、駅の端までゆっくりと歩いていく。線路は水に浸っている。線路は2車線あるようで、少し離れたところに同じように廃れたホームが見えた。しかし、そこにも人はいない。
線路の水は透き通っていた。濁りは一切見えず、水に沈んでいる赤錆びた線路があらわになる。
それを眺めながら歩いていると俺は駅の端についた。端には申し訳程度に腰ほどの鉄柵がついていて駅と外を区切っている。
その鉄柵の上に手をついて駅の外を見た。瞬間、思わず見入ってしまった……というよりは驚愕のあまり固まってしまった。
普通であれば市街地なり山なり、何らかの景色が見えただろう、線路が水に浸かっているし、外は洪水みたいな有様になっていて、木々や家が流れているかもしれない、なんて貧相な想像力を巡らせながら俺は外を見た。
結果、駅の外には何もなかった。……いや、なにもないわけではない、広い広い透き通った海が広がっていた。線路に満ちた水はそのまま海と繋がっているのだ。水に沈んだ線路はそのまま海へと続いていて、一度も浮上することなく海の中へと進んでいる。
流石にこんな水に浸かっているところを電車が通ったとは考えられない。
(どういうことだ……)
思わず意識がフリーズしかける。あまりにも理解不能な状況過ぎた。通勤電車で居眠りをしたら、いつの間にか海のど真ん中の秘境駅に立っている?
大真面目な顔で状況を口にしたら病院に行くことを進められてしまうだろう。
ただ、少なくとも俺の現状にとってはこれが事実だった。
太陽は戸惑ってフリーズしてしまった俺を笑うかのように日光を降り注ぎ続けていた。