「……ふぅ」
前が見えない程に深い湯気の中を進むと湯舟に体を浸らせる。少々熱めのお湯だが、久しぶりに感じる独特な浮遊感に日常に戻った懐かしさと旅行に来た時のような異郷感。その2つが混ざった感覚に思わず声があふれ出る。学校でシャワーを浴びたがこの湯舟に浸かる感覚は格別だ。1人暮らしになってからお風呂に入るのは休日位になってしまい基本シャワーで済ませていたが、出来るならお風呂に入りたい。
とはいえ
「まさか、温泉にも入れるとはね」
俺は辺りを見つつ呟く。広い湯舟が黄色い明かりによって照らされ、波がきらきらと反射している。
「そうだ、そろそろ温泉入れると思うけど、先に入る?」
狭野姉妹によって旅館の客室へと案内された後、俺達は彼女たちのその一言によって入る事が決定してしまった。
……流石に学校から2日。まともにお風呂に入っていなかった俺達はその提案に喜んで乗り、まずは温泉に入る事となった。
「あっちは楽しくやってるかね」
なんとなしに壁……女湯の方を見る。屋内の為のぞき見など出来はしない……するつもりもないが。あっちでは3人が温泉に入っている。十市さんは大丈夫だろうか? 襲われるといった命の危険はないだろうが、双子の独特なペースに振り回されてそうだ。まあ彼女達の事は十市さんに任せて俺は1人で温泉を独り占めする。
こうやってお湯に入っていると緊張感がどこか抜けていき、思わず瞼が重くなる……なんだかんだ言って迷い込んでから体は緊張しっぱなしだったようだ。まともな寝床も無かったし休めていなかったのかもしれない。
思わず顔が湯舟に入るギリギリまで浸かりつつ、ふと狭野姉妹の言葉を思い出す。
半年前にこの世界にやってきて暮らしているという彼女たち。にしては身なりがかなり整っている……ずっと真夏みたいなところを通って汗まみれの俺達が酷かったのもあるだろうが彼女達はそこまで酷い格好をしていなかった。服も汚れや皺はないし。ひどく痩せているようにも見えない。
旅館なら食料もあるだろうけど、半年間も保つのだろうか?それに「補充」とか言っていたな。
「後で聞くしかないな」
つまるところ分からないことだらけという事が分かったのだ。前進したと言えるし何も分かっていないともいえる。……ここに来てからはずっとそうだな。
しばらく考えごとをしつつ温泉に入っているとのぼせそうになったため、湯船から上がる。
温泉から上がると脱衣室に入る。洗面所と服を入れる籠を置くスペースのみのシンプルな空間だ。ここは暖房は点いていない為温泉よりも大分冷えていた。冬場程では無いが少々肌寒い。
俺は籠から藍色の浴衣を取り出し着替える。この浴衣も旅館にあったもののようで由奈さんがどこからともなく持って来てくれたのだ。俺は1人静かな脱衣所で黙々と着替え外に出る。
外の廊下に出るも誰も居ない。周囲を見渡すも彼女たちの気配は辺りにはない……まだ入っているのだろう。
俺はなんとなしに廊下を歩く。横には窓がありそこから旅館の外が見える。外はすっかり真っ暗になっている。灯りもないため文字通りの一寸先も闇。ここに来るまでに見た紅葉なんて何処にも見えない。なんとなしに腕時計を見る……日が落ちる時間も早くなっている気がする。夏から完全に秋になってしまったようだ。
旅館を探索がてらに歩いていると遊戯室らしき場所を見つけた。自販機が置かれ、壁にはソファや椅子がある。部屋の中央には卓球台が2つあり、台の上にはラケットが2本放り出されるように置かれていた。
遊戯室に入りソファの中央に座る。そして暑い体を冷ますように体をソファに預けた。
「だから、あの時は香奈が」
「違う、由奈のせいだよ」
「あはは、本当に仲良しなんだ」
真っ暗な世界。その遠くから3人の声が聞こえてくる。しばらくソファでぼんやりとしていたせいで少し眠っていたようだ。
「あ、いたいた」
「あ、お休み中?」
遊戯室に入る足音が聞こえ目を開く、遊戯室から見える廊下に3人が立っていた。彼女たちは皆浴衣に着替え、まだ少し湿っている髪を下ろしていた。香奈と由奈は遊戯室に入ると端に置かれている椅子に座る。その仕草からして彼女達の定位置の様だ。十市さんはその2人の後ろから入ってきてキョロキョロと辺りを見渡していた。
「三枝さん、すみません少し遅くなりましたね。ゆっくりしちゃって」
「十市さんすっかりリラックスしてたね」
「お風呂の中でうとうとしてた」
「うん、久しぶりのお風呂でついね」
「それに……ねえ?」
「うん、すごく楽しかった」
「ちょ、ちょっと!」
クスクス笑う2人に恥ずかしがって2人を見る十市さん、どうやら楽しくお風呂に入っていたようだ。その様子は少し微笑ましい。
「じゃあ、お風呂の後といえば」
「コレだよね!」
狭野姉妹はそうつぶやくと卓球台へ近づき置かれているラケットを掴む。そしてラケットを2人がぶんぶんと振り出す。
入浴後の卓球……温泉あるあるだが、そもそも誰かと一緒に温泉に行かない身としては経験がない。
「かえでさん、勝負しない?」
「え、私? 私卓球やったことないんだけど」
「いいからいいから、私もこっち来てから初めてやったし」
香奈さんが十市さんを誘い、十市さんはおずおずとラケットを握る。由奈さんは見学するようで「隣失礼!」なんて言いながら俺の隣に飛び込んできた。
「がんばれ、香奈! 私たちの練習の成果を見せてー。ほら三枝さんも応援応援!」
「ええ、俺も?」
「そうそう、私たちシスターチームと……三枝さんたち旅人チームの世紀の一戦なんだから」
「なんだそれ」
由奈さんの独特なノリに戸惑っているとどこからともなくボールを用意した香奈さんが卓球台の上でボールをバウンドさせつつ由奈さんへ「いえーい」と指でピースをしていた。どうやら彼女たちにとってはいつものノリのようだ。それに対して十市さんは「えぇ、こ、こう?」と不安げにラケットを握っている。
「ほらほら、チームを応援しないと」
「……んん」
由奈さんに腰のあたりをつつかれる。チーム云々はともかく十市さんのあの感じは本当に卓球未経験のようだ。
「リラックスだ。十市さん」
「は、はい……よし」
「陸上部の力を見せてやれ!」
「いや、マネージャーですから!」
俺にツッコミを入れると「もう」とあきれた後に笑みを見せラケットを構える。
「じゃあ、勝負ですよ!」
「よし来た」
そう言うや否やサーブを決める香奈さん。とはいえ彼女も初心者のようでそう球は速くない。それをおっかなびっくりといった感じの姿勢でなんとかラケットに当てる十市さん。
そんな2人を俺と由奈さんは時々「おお」やら「がんばれー」やらありきたりな言葉で応援する。
なんてことない時間だった。
けれどもそれが一週間ぶりに味わった平穏な時間だった。命の危機はなくともこっちに来てからは味わえなかった。安らかな時間。
それを思わずじっくり味わうのだった。