相手の反応すら待たずに、ボレアースは再度振り返る。今度は店の店主に向けて。
「マスターもごめんな。後日来るから弁償はその時にしてや。いや~、あかんわ。もう酔っちゃってるわ。今日は何しでかすか分からんから、大人しく帰らせてもらいます」
少し大声だった。すでに注目は浴びている。これ以上浴びようが、ボレアースにはどうでもよかった。それよりも一刻も早くここから離れていきたい。そうでもしないと、刃傷沙汰でも起こしそうだった。
そう言い、ボレアースは早足に出て行こうとする。皆が動かない中、一人だけ動く者がいた。再度ボレアースを止める為に、腕を伸ばしながら言う。
「おい、俺への弁」
彼はみなまでは言わせなかった。
左肩に伸びたその手を、肩に触れさせる前に右手で手首を掴む。そのまま前の方へと引っ張りながら左腕の肘の一番とがっている部分で相手の横腹に打ち込む。右手の力を緩めるのと同時に、左足を右後ろへと引き、その左足を軸としながら左周りで回転し、右足を再度相手の横腹へ叩き下ろし、地面に叩き付ける。
そうすると相手は自然と地面に倒れ込んでいた。床の木が軋む音が良く聞こえた。そこに能天気で元気そうな声が聞こえてくる。
「あ、だから何しでかすかわからんって言ったのに!すんません、大丈夫ですか?」
体勢を直しながら、ボレアースは平然とつい先ほど蹴り落した相手に近づく。
そうして手を貸そうと手を伸ばしながらしゃがみ始める。
するとガチャンと、ボレアースの手首から突然短剣が出てきて地面に落ちた。そこでボレアースの動きが一度止まった。
「あら?あかんわ、ほんまにあかんわ」
本当に残念そうに、ボレアースはゆっくりとその短剣を掴もうと手を伸ばす。その短剣は先ほど体勢を直す時に、腕にある短剣ホルダーから意図的に取り外しておいた短剣だった。
「武器は自分の命みたいなもんなのに、あかんわ。自分の命の管理まで杜撰になっとる。」
そこで短剣を掴み、体勢を戻す。
「まぁ、そちらさんも程々に気を付けなされよ?」
そういうボレアースは相変わらず笑顔だった。満面ようにも感じられるその笑みは、まるで吊り目のようで細く、笑顔のはずなのにどこか冷たい。仁王立ちに近い状態で、片手には短剣が持たれている。決して剣先が誰かの方へ向くことはないが、同時にも鞘に収められる事はない。
床で悶絶する人も、今度ばかりは動けずにいた。当人どころかその仲間でさえ動くのが阻まれるなか一人だけ動く人がいた。
「俺の店で勝手は許さねぇぞ。」
それは店の店主であった。
「いや~ちょっと酔っぱらってるだけですよ。すみません。今度こそ帰らせてもらいますわ。」
そう言いながら短剣を袖の中へと仕舞い元の場所に戻しながら店の外へ出ていくボレアースを、今度こそ止める人はだれもいなかった。
ボレアースは静かに宿へ直行する。
「ちょっとあんた!それ大丈夫なの?」
宿の店主がそう心配してくれた。なぜか懐かしく感じる優しさに、つい純粋な笑みがこぼれる。
「酔っ払いに絡まれちゃって…」
エへへとなぜか奇妙な笑みがこぼれた。
自分の姿を確認すると笑えて来る。全身に酒の匂いがこびりついている。髪にはシチューか何かのスープの残骸、服にはいろいろな残骸、紫と黄色い染みが白い上着に出来ていた。油やら肉の破片のような物までもが肌に付着していた。気持ち悪く、なんともみっともない姿だ。
「井戸貸してもらませんか?あと洗剤とかあったらほしいです」
「ほら、さっさと洗ってきな」
どこからか用意していたのか、カウンターの中から桶を取り出した。桶の中には必要な物と、タオルまである豪華なセットを貰ってしまった。
「お金は後で、」
「今回は別にいいから洗っといで、頬もちゃんと冷やしとくんだよ」
「ありがとうございます」
素晴らしいことにタダで井戸と洗剤の使用権をタダで得てしまった。なかなか良いではないか。
まずは白い上着を脱ぐ。それ以外は一度帰って着替えを取ってこなくてはならないので、今は諦めよう。だが洗える部分はと、髪と肌を雑に水洗いする。そして白い上着を純白の上着にするためにまずは水洗いを始めた。
しばらくゴシゴシもみもみとしていた。そうしていると時間があったおかげで少し落ち着いてきた。
正直、店の店主には助けられた。あのままジジイ共が武器を抜いたら間違いなく、俺のプライドを賭けて潰しに行っていた。さすがに3人もいると負け筋が濃いが、相手は酔っ払いだ。それでも単純な殴り合いならば勝ち目がないが、狡い技がありなら余裕で勝てる。奇跡の御業がありなら100%だ。その場合の損害は考えたくもない。
弁償で余裕があった金が消えてしまう。それに結局何も食べれなかった。最悪だ。あの時焼き鳥を食べていて正解だった。…はぁ、まさに気分は最悪……夜の水仕事は手先が冷えるなぁ。
少しして、上着を水の中から取り出す。まだシミが消えていない。だけどこっからが本番だ。洗剤の使用を許可する。これで落ちなかったら…どうしよう?…どうしよう?シミで汚れた白い上着なんて使いたくない。
ただひたすらに洗う。洗い続ける。
上着を捨てるのは論外だ。だがシミが付いた上着を着るのは嫌だ。ならこれ以上に汚すか。でもどう汚す?全身にシミを作って全身薄黄色なり薄紫色にするか?…それは最後の手段か。だけど母はそれを見てどう思うのだろうか。大切に使ってるのねと思うのか、汚れちゃったのねと思うのか……問題ないな。そこら辺は大丈夫だ。
…だけど、だけどこの上着お気に入りだったのに。たった一つしかない上着なのに。……ゆるせねぇ、あのクソジジイども。絶対に許さない。絶対に、絶対にだ。
最後の手段だと、水と洗剤を混ぜた水に上着を漬ける。そして髪も渇いてきたので、自室に着替えを取りに行く。
この流れが書きたくてこの話を書き始めたまであります。
また更新が途絶えます。