5月1日。
チャイムが鳴り響き、見慣れた担任――茶柱佐枝が教室に入ってきた。朝のホームルームが始まる。
しかして、その雰囲気はいつもと違う。纏う空気が違っている。怒っているような、悲しんでいるような、喜んでいるような、何とも言えない表情を浮かべている。
その手には大きめの筒。サイズからしてポスターか何かだろうか?
多少気にならないでもないが、大凡は見当がつく。また、現状の千秋にはより気にかかることがあったため些事と切り捨てる。
茶柱が入室するほんの少し前、自席の近隣で繰り広げられていた雪村千夜と綾小路清隆のやり取り。千秋の中での比重がどちらに傾くかなど考えるまでもない。
とは言え、それは担任がまだ口を開いてないからこその話。話し始めたらそちらに集中するくらいの分別はある。
「さて、これより朝のホームルームを始める。……が、その前に何か質問のある者はいるか? まあ、いない筈はないだろうな。後にも質疑応答の時間は設けるが、今のうちに訊きたいことがある者は手を挙げろ」
その言葉に何人かが挙手する気配。生憎と千秋の席は教室前方であり、目視で確認出来る範囲には限りがあった。
「あの、今朝確認したら10万ポイントが振り込まれてなかったんですけど? いや、確かにポイントは振り込まれてたんですけど、毎月1日に10万ポイントが支給されるって話だった筈じゃありませんでしたか?」
その言葉に、茶柱はこれ見よがしに溜息を吐く。呆れと侮蔑を隠そうともしていない。
「こちらが指名する前に口を開くな。まあ、それすら理解出来ていないからこそなのだろうがな。逆に言えば、それでこの結果なのだから大したものだ。担任である私としても頭の下がる思いだよ。……まあいい、他に質問のある者は? ああ、今しがた本堂が挙げたのとは別の質問だ。……ふむ、いるようだな。安心したぞ。同じ質問の奴ばかりだったらどうしたものかと思っていたところだ。では、王」
その言葉に、茶柱の雰囲気の理由が集約されていた。
次に指されたのは中国から来た留学生の少女――
「本堂くんの質問と似ているんですけど、やはり支給ポイントはクラス評価であり、今回のポイントはマイナスを受けた結果ということでしょうか?」
美雨の質問に、茶柱はまず拍手で応えた。
「その通りだ。いま王の挙げた質問こそが本堂の質問の答えとなる。ただ、王。惜しむらくは、それを予想しておきながら今この瞬間まで質問しなかった積極性の低さだな。……入学式の日に言ったろう? 『この学校は実力で生徒を測る』と。たとえ予想していたとしても、それが
たったの8人。誰かが呟いたのが耳に入る。
「更に言えば、中でも3人は別格だ。何せこの3人は入学した初日に確認に来たばかりか、こちらの想定した質問を全て行い、良い意味で想定外の質問もしてきたからな。加えて言えば、口止めされることを想定した上でその前にクラスに釘を刺し、口止めされた後もそれとなく引っ掛からない形でクラス内に教えていた。……であるからして、この3人――雪村千夜、坂柳有栖、軽井沢恵以外は皆、大なり小なりおんぶに抱っこと判断せざるを得んわけだ。何か反論はあるか?」
クラスがざわつく。自己紹介の時の
そんなクラスの様子を気にすることなく千夜と恵が挙手しているのが千秋の目に入る。おそらくは有栖も手を挙げているだろう。
「ふむ、何だ雪村?」
「勝手に人の名前を挙げないでもらいたいんですがねえ?」
「すぐに分かることだ。第一、あれだけ派手に動いておいて言えることか? クラスの中には自分たちから教えた相手もいるだろうに、尚更通用する筈があるまい。部活の大会で優秀な成績を収めた選手が表彰されるのと同じだよ。こちらとしては『こいつを目指せ』、『こいつに負けるな』と周囲に発破をかける必要があるのさ。……だから詫びを貰えるなどとは思わんことだ」
不満を隠さず告げる千夜だが、茶柱は気にすることもない。淡々と切って捨てる。最後にニヤリと付け加えて。
「なら、仕方ありませんね」
位置的に千秋からは見えなかったが、言葉だけなら残念そうに、しかしてニヤリとした笑みを浮かべて千夜は答えた。……有栖と恵もまた同じように口の端を歪めていた。
なるほど、と千秋は頷く。許可なく情報を漏らすという行為は褒められたものではない。個人情報の取扱いに厳しい昨今を思えば、賠償を請求されたとておかしくはないのだ。実際に千夜は遠回しに請求して、茶柱はそれを躱したということだ。
ここで重要なのは事の成否ではない。状況に依ってはこう言う手段も有りだということをクラスに示しているのだ。千夜の声音から判断するに、おそらく示し合わせたものではない。
だが、それに気付ける者がクラスに如何ほどいることか? 気付ける者は気付けるだろうが、そういった者は既に行動を起こしているに違いない。それ以外だと数人いれば良い方か。
そこでチャイムが鳴り響き、ホームルームの終わりを告げる。
「少しばかり余談が過ぎたな。これから本題に入るとしよう」
茶柱はそう言って筒を開け中身を取り出し始める。白い厚手の紙が複数枚。その内の一枚を黒板に貼り付け、磁石で止めた。
紙にはAからDのクラス名。その横に枠が4つ。そして枠の中に数字が書かれている。Aが800。Bが650。Cが490。Dが580。
「さて、支給ポイントがクラス評価を反映した結果というのは先に述べたな? 我が校が実力で生徒を測るのも知っての通りだ。つまり、クラス分け自体もその結果ということになる。評価基準に基づき、優秀な生徒からA、B、C、Dと振り分けられており、最後の砦がDクラスというわけだな。……無論、我が校の定める基準が絶対正しい筈はない。だからこそ最初の評価は全員が横並びだし、事実として今回はそれを現す結果となっている。今回、クラス評価においてDクラスはCクラスを上回った。我が校の評価を覆したわけだ。よって本日からは私たちがCクラスとなる。……ここまでは理解したか?」
千秋から見える範囲でも、銘々がコクコクと頷いている。
「しかしだ。私としては素直に『よくやった』とも『頑張ったな』とも言ってはやれん状況にある。……その理由がコレだ」
深々と溜息を吐き、茶柱は紙をもう一枚貼り出した。それにはクラスメイト全員の名前がズラリと並び、名前の横には最大3桁の数字。
「言わなくとも分かると思うが、これは先日受けてもらった小テストの結果だ。3問だけは意図的に難問を混ぜてはいるが、それ以外は入試よりも簡単な問題で統一してある。不得意教科を加味しても、よっぽどでなければ70~80点は取れる計算なんだよ。……それが何だ、この結果は? 確かに難問を解いた生徒もいるし、中には100点を取った生徒もいる。それは素直に喜ばしい。しかし、それ以外がダメすぎる」
100点は僅かに3人――雪村千夜、坂柳有栖、櫛田桔梗だけだ。桔梗が入っているのは千秋としても驚きである。
95点は軽井沢恵だけ。
90点は多い方。高円寺六助、幸村輝彦、佐藤麻耶、長谷部波瑠加、堀北鈴音、松下千秋、王美雨の7人。
そして完全とは言わずとも難問を解いた生徒はもう1人いる。それが綾小路清隆だ。点数は88点。5点配分のテストだったので、難問で部分点を獲得した事実を示している。……今朝のやり取りにもそれを窺わせる部分はあった。
上位と呼べるのはこれくらいで、殆どの生徒は60点前後、酷いのになると14点という猛者もいる。まあ須藤なのだが。残る三バカはというと、池が24点、山内が25点である。これでは茶柱が素直に喜べないのも、むしろ嘆きたくなるのも当然だろう。
「分かったか? 確かにお前たちは当初の評価を覆してCクラスへと昇格した。しかしな、それは途中から当たり前のことを当たり前にやる様になっただけでしかないんだ。確かに遅刻や無断欠席は無くなった。授業中の私語や携帯操作も無くなった。だが、それだけでしかない。授業は受けるだけでは意味がない。理解して初めて意味が出るんだ。分からないなら、分かる友人なり教師なりに訊けばいい。普段からそうしていれば、さっき言った点数など簡単に取れる。この小テストはその前提で作られているんだからな。実――つまりは授業の理解が伴っていないことを、自分たちが『出来損ない』であるということを、この小テストでお前たち自身が如実に証明してしまったんだよ。……これが本番でなかったのを喜ぶことだ」
厳しく、最後に暗い笑みを浮かべて茶柱が言った。
「どういう、意味ですか?」
声を震わせて、平田洋介が質問する。
「当校では中間テスト、期末テストで1科目でも赤点を取れば退学になるルールだ。赤点の基準は学校ごとに異なるが、当校ではクラス平均点割る2を基準にしている。まあ分かりやすく言えば、最低でも51点以上を取れば赤点は免れるということだ。……御覧の通り、出来る奴は非常に出来るからな。退学になりたくなければ、これからは真面目に勉強に勤しむことだ」
非情なまでのそのルール。クラスの様子はさながら阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
それを気にすることもなく、茶柱は更にもう1枚の紙を取り出した。
「そしてもう一つ、お前たちに告知することがある」
張り出された紙で真っ先に目に付くのは『優』と『劣』の2文字。そして優の下に5人の名前があり、劣の下にも5人の名前がある。
「これは本来告知する内容ではない。しかし、雪村――千夜の方だ――がポイントを支払い、毎回のポイント支給日に告知することを求めてきた。……優は『優等生』の優であり、劣は『劣等生』の劣だ。では何の優劣かと言うと、マイナス評価だ。マイナス評価の少なかった者が優、多かった者が劣だ。……これを求めてきた理由は、雪村、お前が行え」
「了解です。とは言え、そんなに難しい理由はない。ただの現状認識だ。これからクラス闘争を行っていく中で、実力のない者に発言権などない。だが、個々人には得意不得意があり、機会に恵まれなければ実力を披露することもままならないだろう。それを踏まえた上での最も分かりやすい評価がコレだ。クラスにマイナスを多く齎した者を誰が重宝する? 誰が言い分を聞く? そんなヤツは足手纏いでしかなく、最優先で切り捨てるべき対象へと成り下がる。不平不満やデカい口を叩くだけなら誰でも出来るが、実力が伴わなければ『負け犬の遠吠え』だ。嫌なら見返せ! 実力を以て蔑みを黙らせろ! 弱肉強食こそがこの学校のルールだ!」
苛烈に、酷烈に千夜は告げた。
皆がそれに当てられている。呑まれている。そんな中で、手を挙げる者が一人。
「何だ、幸村?」
「先ほど千夜は『クラス闘争』と言いました。確かに学校からの評価でクラスのランクが変動するようですが、闘争とまで呼べるものなのでしょうか?」
「いいぞ、幸村。注意深くなってきたじゃないか。質問の答えだが、個人の捉え方次第だな。景品と呼べるものが無くもないが、気にしない者は気にしないだろう。或いは過程に楽しみを見出す者もいるだろう。どのようにして評価を覆していくか、とかな。もう一人のユキムラはこのタイプだと私は思っているが、どうだ?」
笑みを浮かべながら問いかける茶柱に、否定はしませんよ、と千夜は答えた。
「景品とは?」
「我が校が大々的に謳っている文句があるだろう? あれは卒業時にAクラスだった者にしか適用されない」
そして、再びざわめきがクラスを支配した。
「まったく、何をそんなに驚くことがある? 少し考えれば分かることだろうが。有数の企業や名門大学が、誰も彼もを受け入れる筈などないだろうに。受け入れるとすれば、『それだけの価値がその者にある』と認めたからだ。その価値を保証するものが、我が校におけるAクラス卒業という実績。言ってみればそれだけの話でしかない。ペテンなどとは言うなよ? 枠が限られているのを周知していないだけで、実際に我が校がそれだけの進学率と就職率を誇っているのは事実なのだからな」
正論だ。紛うことなき正論だ。だが、それを素直に受け入れられる者ばかりじゃない。
「中間テストまではあと3週間だ。浮かれ気分を払拭し、勉学に向き合い、その上で熟考し、退学を回避してくれ。無茶な一夜漬けで寝落ちしたり、集中を途切れさせたりしなければ、赤点を取らずに乗り切ることは可能なのだからな」
そう言って、茶柱は教室を出て行った。
暗澹たる空気が教室を支配していた。