ヴァルキューレたちの秋 作:もずくスープ
「あぁっ、麗しの尾刃カンナ! 名高き我らがヴァルキューレの狂犬! かの高貴なお方のおめでたい日に、どうして仕事などできようか!」
またうるさいのが来た。
中央奥座の局長デスクにて、組んでいた足を組みなおしながら、カンナはひとつため息を吐いて書類から目を上げた。
面倒な心持を隠そうともせずに目を遣った先には、書類の束を片手で振り回しながら、オフィスを劇場とでも勘違いしたかのように歌い踊り出すバカの姿がひとつ。
それは、つい先日にヴァルキューレを取り巻く環境の変化についてカンナが複雑な心境を思いがけず吐露してしまった相手、すなわちカンナの同期同輩にして、一部の者たちには「駄犬」と呼ばれ知られている生活安全局長だった。
「ハレルヤ!今日は祝日だ! 書類なんて!ゴミ箱へポイ!」
突発的頭痛でぼんやり歪む視界の中に、文字通り舞い上がっている彼女の姿が浮かぶ。
カンナの困惑などお構い無しに騒ぎ立てる馬鹿の闖入によって、カンナはにわかに、抗うこともできずしわが寄った眉間を指をあてて揉み解す作業を強いられた。
あの真剣な会話で少しは見直したと思ったら、これだ。
舌の根の乾かぬ内に目の前で騒ぎ立てている。
どれだけ感心させられても、やはりこいつは「駄犬」の名に相応しいバカだ。
カンナとて完全に予想外というわけではない。
ただ先日の様子を見て、彼女も少しは上に立つものとして落ち着きや威厳というものを身に着けたのだろうと、カンナは甘く見ていた。
しかしその日に限ってバカがバカ騒ぎを起こさないなどという都合の良いことはなく、やはり予想に違わずその人物の襲撃が起こった。
カンナにはつくづく自分の見通しの甘さが悔やまれた。
「ああ! 私たちは何と罪深いのか! こんな素晴らしい日に手放しに彼女の存在を褒め称える暇もなく、つまらない仕事! やりたくもないのにやらされてる仕事! 正直やる意味もあんまりないクソみたいな仕事! などなどにその身を投じているのだから! おおカンナ局長様お許しを! こんなにも大切な日に偉大な貴女様を称えることができないのは、全て私たちの不徳の致すところです! 今日という日に貴女様を称える以上に優先すべき仕事などあるはずもないでしょうに!」
「朝っぱらから、本当にやかましいなっ……!」
朝早くから酷使してた頭に、彼女の甲高い大声が文字通り痛いほど響く。
よくもまあそんな下らない口上がすらすらと出てくるものだと、素直に感心すらさせられる。
そういえばこいつはバカのくせに、昔からその場の思いつきの口上は妙に上手かった。
そのせいで何かと割を食うのは長年彼女の相棒扱いされていたカンナだったが。
腹立たしい記憶の数々を掘り返しながら眉間をもみもみしているだけの見た目とは裏腹に、頭の中で忙しいカンナをさておいて、オフィスでは突然出現した劇団員気取りにそれまで慌ただしく動いていた局員たちが軒並み手や足を止めて、皆が好奇の目で彼女を見ていた。
しかし注目を集める当人は全く気に留めることもなく、すれ違いざまにぼけっと突っ立って視線を寄こす生徒たちが抱えていた書類などを奪っては「これが悪い! これが元凶だ! やな仕事はぜんぶゴミ箱に捨てちゃえ!」などと喚きながら無造作に後ろへ放り投げていた。
当然、彼女の周囲からたちまち悲鳴や非難の声が湧き起こるが、当人はこれを全く無視して逆に公安局オフィス内にいる生徒たちに対して怒号を浴びせた。
「おらおらぁ、飯と突撃と殲滅のことしか頭にない脳味噌未開人のおバカさんども! 今日は超超超大事な日だってのにあんたたち気合抜けてんじゃないの!? おまえら、それでもエリートかぁ!?」
「いやあの、先輩もとい生安局長さん。お言葉ですが、私たちだってカンナ局長へのお祝いは就業後にささやかながら予定していましてですね。別に祝う気がないとかじゃなく、今は勤務中だし仕事も溜まってるんですよ。色々と自重してもらえると助かるんですが……」
「ばっきゃろー! ヒラが生意気言ってんじゃねぇー! てめえはなんだ! カンナ様の下僕だろうが! 上司より仕事が大事で組織が回るか!? あんたらが今最優先すべき仕事は、上司たるカンナ様を称えることでしょうがぁ! このバカチンがぁ!」
「無茶苦茶かよ! 話聞けよこの駄犬! アンタがそんなだから生安は生活“漫然”局とか言われてんだぞ! 真面目に働け!」
「やかましい! 公僕のくせにストライキ無理敢行したあんたらに言われたくないわ! 無駄にケツ拭かされたあの時の恨み、まだ忘れてないからな! とにかくっ、あんたらも我らが狂犬様の下僕だってんなら今日は仕事なんかやめにして、祝うことに専念しなさいな! ほらほら一緒にぃ! はっぴぃばぁあすでぇカンナきょくちょ~! はっぴぃばぁあすでぇカンナきょくちょ~!」
いつものように制服の上に羽織っていた革ジャンを脱いで、大きく振り回しながら音頭を取り始める生活安全局長。
直前まで向けられていた怒号と相まって、その剣幕に押された局員たちが勢いに呑まれ、ぽつぽつと彼女の声に追随していく。
扇動者自ら、意志が弱そうな局員から狙って近づき、無理やり前に引っ張り出しては歌わせているのも、その声を増長させるのを助けた。
一人落ちれば流されやすい人間がその後に続く。
やがて少なくない数の声がオフィス内でこだまして、廊下や上下階にまでカンナの誕生日を祝う歌が響き渡った。
すると当然、好奇心から公安局の様子を除きに来るやじ馬たちが出てくるわけで。
あっという間にオフィス前は人でごった返し、完全に仕事どころではなくなる。
その騒然とした様子にカンナの頭痛はさらに悪化し、同時に恥ずかしくてたまらなくなった。
「「「「はっぴばーすでーカンナきょっくちょー」」」」
「もっと腹から声出せぇ! 気を抜いたらケツしばくわよ! はああぁっぴばああすでぇえカンナきょっくちょー!!」
「「「「はあっぴばあすでえ! カンナきょっくちょー!!」」」」
「いいねぇ! 最高よ! トリニティの聖歌隊も逃げ出すレベルだわ!」
「何をやってるんだ貴様らは……!」
部屋にいた大半の局員たちが口を開けたのを見て、先頭で音頭をとっていた彼女は指揮棒代わりの革ジャンをひとつ大きく振り上げてひときわ大きく口を開いた。
キメの合図だった。
「「「「「はあぁっっぴぃばあぁあすでぇえ、でぃいああっ、カンナきょっくちょう~!!」」」」」
ヴァルキューレのビル全体を揺るがすほどの大合唱。
一拍のち、拍手喝采が起こる。
大歓声が地響きの如くヴァルキューレ本部に響く。
カンナは、怒声を飛ばしてこの騒ぎを鎮圧すべきか、それとも恥を忍んで無視し通すべきか、真剣に悩んだ。
しでかした張本人はというと、合唱が終わるなりカンナに駆け寄り無理やり席から立たせ、カンナの両腕を掴んで持ち上げながら「せんきゅー! 愛してるぞみんな! アイラブ公安局!」などと手前勝手な代弁をしてくれていた。
この恥辱に対する仕返しを、いつか必ず実行しようとカンナは心に強く決めた。
「ほいっ、てなわけで。このヴァルキューレ生活安全局長様直々に、誕生日だってのに相変わらずの仕事漬けで寂しい一日を送ろうとしているカンナちゃんを祝いに来てあげたわよ。泣いて感謝なさい」
「お前はいつもいつも、余計に騒いでばかり……」
「なーにが『余計』よ。常時そんなしかめっ面でなんでも余計と切り捨てていくから肝心な幸せが逃げていくのよ。今日みたいな特別な日くらい羽目を外して騒ぎ倒すくらいの少しの遊び心をカンナも持ったらどう?」
「貴様はもっと自制心をだな! これが『少しの遊び心』で許される始末か!?」
「『騒げるときに騒げ』という私の
勝手なルールを自分に課す前に就業規則を守れこの大馬鹿者が。
それ以上は、どうせいつもの暖簾に腕押しの問答になるとカンナは知っていたため、喉から出かかった言葉を全て飲み込み、悪びれもせずに笑っている目の前の女を、カンナはただ睨みつけるにとどめた。
「用があるならさっさと済ませて、自分のオフィスに帰れ、生活安全局長。できないなら強制的に送り返してやる」
「あらやだ怖い。せっかく皆ノリよく付き合ってくれたってのに、本人がこれじゃあ局員は委縮しても仕方がないわよね。アットホームすぎて居眠りが常態化してるウチのオフィスをもう少し見習ってほしいわ~」
「御託を並べるな。用件を、喋って、帰れ」
我が物顔でカンナのデスクに腰を下ろした彼女に対してカンナは最大限の怒気を放ったが、なぜか標的とした本人ではなく、後方で固まっていた局員たちや他局の生徒たちが慌てて動き出した。
カンナの威圧感に恐れをなした彼女らは、急に本来の職責を思い出したらしく、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
カンナはその様子にまた一つ溜息をこぼすが、まあ仕事に戻るならいいかと割り切り、彼女がまだ片手に持っていた書類に目を向けた。
「さっさとその書類を渡せ。誕生日だなんだと騒いだが本来の用事はそっちだろう。最優先で片づけてやるから、それを持って速やかに帰れ」
「あーはいはい。分かったわよ。もうちょっと冗談が通じるようになると良いんだけどなあ」
「冗談に付き合うためにここに座っているんじゃない。それに他の誰かならともかくお前の冗談は度が過ぎる」
「ありがたいお叱りの言葉をどーも。じゃあこれね、再来週の合同訓練での計画と段取り、あと参加者のリスト。確認とサインよろしくぅ、シゴデキ女のカンナさん」
彼女は拗ねたように口をとがらせながら二十ページそこらの紙の束をデスクに置いてカンナのデスクの上からのいた。
毎度のことながら、なぜ大人しく最初からそれができないのかとカンナは呆れた。
いつも余計な賑やかしばかりやって、私をひっかき回すんだ、こいつは。
「目を通している間、勝手にコーヒーでも飲んで待っていろ」
「ひゅう、シゴデキ女は誕生日でもクールに決めるわね。本当は続きやりたくてソワソワしてんじゃないのぉ?」
「訂正する、”黙って”待ってろ。無駄口を叩くなら即刻追い出すぞ」
「……流石にこれくらいの冗談は付き合ってくれてもよくない? 同期としてちょっと寂しいわ」
「お前に付き合っていると十分、二十分と時間を無駄にする。お前もいい加減、自分の責任ある立場を自覚して時間を使ったらどうだ」
「うへぇ、可愛くない。益々その可愛げのなさに磨きがかかってるわよカンナ。そのうちその頭の耳が角にでもなるんじゃないの?」
ぶちぶちと文句を言いながらも、彼女は備え付けのコーヒーメーカーのところまで歩いてき、慣れた様子で紙コップにコーヒーを淹れた。
戻ってきた彼女の手には二つ握られており、一つは自分の口に付けながら、もう一つをカンナのデスクに置いた。
カンナはその紙コップに軽く流し目を送ると、それを少し手前に引き寄せてから、彼女が持ってきた書類を読み始めた。
しばし、ずずと二人の啜る音と、カンナが紙をめくる音だけが場に流れる。
カンナが素早く、かつ丁寧に字面を追う間、彼女は時折もじりと尻を動かしながら、カンナが読み終えるまで意外にも大人しくそこで待っていた。
やがて全てに目を通し終えたカンナが、几帳面に書類の端をそろえ、顔を上げた。
その顔に、先ほどまでの憤りの感情は少しもなかった。
公安局長としての、至極真面目な顔だった。
紙コップの中のコーヒーに口をつけ、唇を湿らせながらカンナは慎重に言葉を紡いだ。
「……なるほど。いつも通りなら、合同訓練と言えど公安局なら公安局員同士で固まって部隊編成し訓練を行うが、今回は各局の生徒を均等に配置し混成部隊を編成して実戦演習を行うというわけか。確かに前の騒動では、ヴァルキューレ内における各部局間での連携の拙さが脆弱さとして露呈し、その結果あれだけの大失態を演じたわけだからな。部署の垣根を超えた交流が増えれば、自然と連帯感は高まるものと見たか。……チームプレーという言い訳の下、長い間放置されてきた各部署間の協調性の無さに関して、戦闘技術や捜査技術の共有だけでなく、ヴァルキューレ全体においての帰属意識と連携意識を再び持たせるには、なるほど効果的な方法かもしれない。わざわざお前が公安局にまで赴く必要のある用事かと思っていたが……随分と大胆な提言をしたようだな」
「でしょ。『前例が~』ってお決まりの文句で取り合おうとしない上の連中の耳を傾かせるの、ホント苦労したわ。上でも下でもあれだけ醜態を晒したのに、まだ警察内での組織序列意識をこじらせてるアホな子がまだまだいるからね。そういう子たちに現実見せて叩き直すのには、きっと良い機会になるわ」
「性格が悪いな。とはいえ、幸か不幸か先の事態で多少の柔軟性を示した公安局や生活安全局はともかく、他の局、とりわけ特権意識の強い捜査局は難色を示すだろう。彼女たちは扱う事件が特殊なだけにその技術も特殊だ。刑事犯にしても知能犯にしても、捜査の基本からして情報の秘匿性や組織の閉鎖性が好まれる環境になりがちだ。他のヴァルキューレ生徒たちに対する彼女たちの頑なな姿勢を変えるのは、相当に骨の折れる作業だと思うぞ」
「そこはほら、無能と名高い生活安全局の生徒が意外に張り合ってくるのを見せて、『軽蔑してる連中と同レベルであなたたち恥ずかしくないの~?』ってやんのよ。一番のお荷物扱いのウチの子たちが知らない間に自分たちよりも優秀になってたら、流石に向こうも危機感感じて改善しようとするでしょ。実際、現時点で各局の構成員の作戦遂行能力にそこまでの差はないと私は見てるわ」
彼女は悪戯っぽい笑みを見せながら、「生意気に聞こえるかもしれないけど、公安局とウチであってもね」とカンナにウィンクを送った。
カンナはそれに鼻を鳴らして返し、無言で書類にサインを記した。
個々の能力云々はともかく、組織としての教育に関しては、彼女の考えは理にかなっているとカンナは感じた。
ヴァルキューレは縦割り組織だ。その上未だ部局ごとにヒエラルキーが存在するという認識が根強い。
本来はその役割の要求する能力以上に、各人員の配属を決める要素は存在しないはずなのだが、「腕の立つものは公安局へ、落ちこぼれは生活安全局へ」などといった偏見が生徒たちの間で蔓延っているのは否定しようもない事実だ。
そして実のところ、一部は悪意のある人事によってそのように配置されてしまう事例も決して少なくはない。
そんな差別意識のある中で有事の際に組織系統が混乱すればどうなるか。
結果は既に示された通り。
上も下も、右も左もガタガタで、報告伝達すらままならない。
組織として十分な意思決定のプロセスも経ずに、あっさりと指揮権を第三者に譲渡し、事態の収束どころか自ら混乱に突き進んでいくという始末だった。
トップダウンな体制を好んで敷いた元防衛室長の不知火カヤがその立場から降ろされたとはいえ、このような組織風土からして連携連帯に難のあるヴァルキューレの体質はそれ以前の問題だ。
旧体制から新体制への移行により変化を余儀なくされる中、依然としてこの問題の主たる要因は取り除けていない。
であれば、体制刷新の恩恵でようやく本当の意味で管理する側に回ることができて、かつその先が長いわけではない我々としては、この根深い問題に対してできる限り早期に着手し始めるべきなのは間違いない。
ヴァルキューレが長年に渡り見ないふりをして放置していた問題だ。根治に至るまでには我々の代では時間が足りないだろうし、後進にかなりの苦労を強いることにもなるだろうが、手を入れるならまだ騒動の余韻の残る今のうちがそのタイミングとしては最善だろうと、カンナにも思われた。
「これが、最初の一歩目というわけか……」
自らのサインを感慨深く眺めながら、カンナは独りごちた。
これからヴァルキューレは色々と変わっていくだろう。
カンナが苦手とする類の騒々しさを伴いながら。
また警察内部各所からの少なくない抵抗や反発も予想される。
道は長く険しく、そしてまだ始まったばかりだ。
これからの世代のために、キリノやフブキのような組織に新しい風をもたらしてくれる警官たちのためにも、今は私たちが踏ん張るべきだろうとカンナは思った。
突如沸いた、まるで老人のような感慨に自身で少し可笑しく思いながらも、カンナは書類を目の前の彼女に返した。
「この件に関しては承知した。私もこの案には概ね賛成の立場を取る。警備局や捜査局の同意ももう取ったのか?」
「ああうん、まあ、ね。ちょっとゴチャゴチャうるさかったけど、上の承認もあるし、公安局長はこっちの側についてるって言ったら苦虫噛み潰した様な顔しながらサインしてくれたわ。納得はしてないけど、デカい顔もできないって感じね」
「……お前、勝手に私の名前を使ったのか」
「ほら怒んない怒んない。良いでしょ結果としては同じなんだからさ。連中に時間稼ぎさせたくなかったのよ。下手に上に泣きつかれたりでもしたらほら、また色々調整とか面倒になるじゃない。効率を重視した結果なんだから、大変な時に職務放棄したツケと思って受け入れなさい」
「はあ、まあいい。別にそれほど怒っているわけでもない。それなら当日の段取りの方もお前方で進めるんだな。よろしく頼むぞ」
「ウィマダム。お任せくださいな」
大仰にお辞儀する彼女を一瞥し、用は済んだとばかりにカンナはデスク脇に退けていた書類を引っ張り出し、元の仕事に戻ろうとする。
マグカップに口をつけて「さて」と椅子に座りなおしたところでしかし、まだ彼女が目の前から動かないことに首を傾げた。
「……まだ何かあるのか?」
訝しみながらカンナが彼女に目を向けると、彼女はらしくもなくもじもじと、むずがゆそうに尻を動かしてその場にとどまっている。
何だこいつ、気持ち悪いな。
カンナは目の前の彼女がまだ何かを企んでいるのかと、純粋に警戒しそう思った。
「はあぁ~これだからカンナは……。今日は何の日よ? もう忘れた?」
「また誕生日だなんだと騒いで私を揶揄うつもりか? 祝いならさっきのでもう十分だ。お前もさっさと自分の仕事に戻れ」
「そうはいくもんですか。知っての通り、あらゆる物事において私は派手にやるのが好きなの。そういうのが嫌いなカンナさんには毎年、比較的じみ~な感じで祝ってたけどね、そうやって溜め込まれてきたフラストレーションのせいで、私のパッションはもう抑えられないところまできてるのよ」
「おい待て。貴様、何をするつもりだ」
「あんな大事件も起きた後だし、ヴァルキューレという組織のためにも、これは必要なことなのよカンナ。諦めて私の『少しの遊び心』の餌食になりなさい」
冗談じゃなかった。
これ以上部下たちの前で無駄に恥をかかされるのはまっぴらごめんだ。
いよいよ悪寒が頂点に達し、カンナの腰が椅子から浮く。
嫌な予感に突き動かされたカンナが彼女を止めるより早く、彼女はいつの間にか閉ざされていた入口ドアの方に向かって、「フブキ! キリノ! カモン!」と大きな声を掛ける。
言うが早いか、おずおずと開かれた扉の向こうから緊張した様子のキリノと、反対に心底面倒だという表情をしたフブキが、その身の丈の倍もあろうかというほどの大きなケーキと共に入ってきた。
天井すれすれの高さにまで達しているそのケーキのてっぺんには、顔の二倍はあろうかという大きさのチョコプレートに、でかでかと「誕生日おめでとう! 我らが公安局長!」と書かれ飾られていた。
ご丁寧にホワイトチョコで描かれたカンナの似顔絵まで付いていた。
「フゥ~↑! 最高じゃないの! シャクレーゼ・シラトリ店に無理言って作らせた最高級のブリリアントウェディングケーキ、カンナちゃん誕生日バージョン! デザイン、バランス、スケール、どれをとっても最高級の一品ね! 四桁出すだけの価値があるわ、これは!」
カンナは尋常じゃないほどの頭痛に見舞われ、頭を抱えた。
目の前ではしゃいでいるこのバカを今すぐ窓の外に放り投げてやりたかった。
さっきの騒ぎだけでも冷や汗ものだと言うのに、もうこれは言い逃れのしようもない。
「ほらほら、何遠慮してんのキリノ! 早く入った入った!」
「お、お騒がせして申し訳ありません! 恐縮です! 不肖中務キリノ、カンナ局長へお誕生日ケーキを届けに参りました!」
「ねえ~きょくちょ~、玄関で受け取ってここまで持ってくるのすっごい大変だったんだけど。仕事でもないのになんで私がこんなことしなきゃなんないのさ~」
「仕事でもサボるくせに生意気言うな! フブキもカンナには世話になってるでしょうが。それに、これのために今日の巡回パスしてあげたんじゃない」
「それはそうだけどさぁ。報酬が労働に見合ってない気がするんだよねぇ……」
「フブキ! いけませんよそんなっ。局長直々の指名で名誉ある役目なんですから!」
「いやいやこれのどこが名誉なのさ。よその局巻き込んで勤務時間中に誕生日パーティなんて。上にバレたら普通に始末書ものじゃん。シャクレーゼのケーキが食べられるのと、責任は全部局長がとるって言うから引き受けただけだからね、私」
「現金すぎます!」
あまりのデカさに慄いている公安局の面々を無視して、彼女たちは和気藹々としながら、それをカンナのデスクの前まで持ってきた。
改めて目の前でその巨大さをまざまざと見せつけられたカンナは呆れて言葉も出なかった。
カンナの机の上を勝手に整理し、山になった書類をどかしながら、彼女がどんと胸を叩いて誇らしげに叫ぶ。
「さあ、どうよカンナ! 先月の給料の半分つぎ込んで拵えた特注のバースデーケーキよ! あの有名スイーツブランド“シャクレーゼ”に特注で依頼したから味は保証付き、私の預金口座は焦げ付きよ! どうだ参ったか!」
参っていた。
これ以上ないほど頭の悪い彼女の行動に、カンナは痛い頭を抱えて椅子に座り込んだ。
バカだバカだとは思っていたが、まさかこんなにバカだったとは。
「どれだけアホな人間なら、同僚の誕生日だからと勤務中の職場に、ウェディングパーティ用の巨大なホールケーキを持ち込もうなんて思いつき、そしてそれを実行できるんだ? お前がそれなりの立場の人間でなかったら退学処分でも文句は言えないぞこの底なしのバカが」
「我が警察生涯に一片の悔いなし!!」
「悔いろ。そして反省しろ」
暴力的なほどに鼻腔を刺激する甘い匂いが、オフィスのみならず廊下にまで充満し、一度は散っていった他部署の生徒たちも再びなんだなんだと様子を見に戻ってくる始末だった。
もう何から突っ込めばいいかも分からず、カンナは結婚式でもやりすぎな位に巨大なそのケーキを前にして途方にくれた。
「よーし野郎ども、このケーキが食いたいかあ! 生活安全局長様が飢え死にを覚悟して用意した四桁ケーキだあ! これを食い切るまでは絶対に仕事をさせないからなあ!」
圧倒的巨躯とその甘美な香りによって神々しさすら放つそのケーキの異様さに、通りすがりに集まったヴァルキューレ生徒たちは興味津々となり、オフィスはいまや、紙コップとジュースを配り出したキリノとフブキのせいで、自由参加の即席パーティ会場と化した。
嘘か真か分からない「四桁ケーキ」という内容も実にキャッチーで、集まる生徒たちの期待を見事に煽ったようだった。
結果として生活安全局長の呼び込みは効果的で、オフィスは関係のないヴァルキューレ生徒たちで所狭しとごった返した。
最初の内は困惑していただけの公安局員たちも、「四桁ケーキ」の魅力と、部下二人と一緒に拳を上げて何度も「おー!」と連呼する狂気じみた生活安全局長に押し負けたのか、次第にその声に呼応していった。
割にノリの固い公安局員たちですらその様子だったので、好奇心で集った他局の生徒などは言うべくもあらず、最初から欲望に忠実で我先にと呼応し声を上げていた。
そうしてすっかり場の空気は彼女に掌握されてしまい、オフィスはもはやカンナ一人では太刀打ちできないカオスさに包まれていった。
「なんだなんだ、何の騒ぎだあ? いつからウチのオフィスは決起集会の会場になったんだぁ? おわっ、でかッ!? ケーキでっか!! スイーツ臭ぇ!! うげっ、バカもいる!! 何しに来た乗っ取りか!?」
「しばくわよコノカ。まあでも確かにこれは乗っ取りね。シナプス筋肉結合のアンタの脳みそも、今日だけはカロリーで埋め尽してやるわ」
「バカにバカとか言われたくないわ! 誰がてめえなんかのケーキを食うか!」
「ちなみに、シャクレーゼよ」
「ケーキに罪はないからな! ケーキのほうからあたしの口に入るなら、甘んじて受け止めよう!」
カンナの心労も我関せずとばかりに、音と臭いにつられて集まる人の輪はどんどんと騒ぎを大きくしていく。
張りきったキリノが集まった生徒たちに紙コップを持たせジュースを注いでいき、フブキは一足先につまみ食いをしながらテキパキとケーキを切り分けていく。
他の集まった生徒たちも最早部署の垣根などを軽々越えて、取り分けられたケーキを回していき、わいわいと楽しそうに歓談に興じている。
本当にここはヴァルキューレかと思うくらいに、公安局のオフィスは穏やかで楽し気な雰囲気に満ちていった。
いつの間にかカンナの横に立ってその様を満足そうに眺めていた彼女が、カンナの肩に手を置いて言う。
「ほら、カンナ。カッコつけて項垂れてないで、諦めて祝われなさい。オフィスは占領したわ、ここは既に私の領地よ」
「お前は、本当に……。仕事そっちのけでこんなことをやれば、また上から何を言われるか……」
「もう、まだ言う? “上が”、“上が”って。いつも口癖みたいに言うけどね、あっちだって勝手なことやってどでかい不祥事起こしてるんだから、これくらい可愛いもんなのよ。文句言ってきたら逆に脅してやるわ。い~い、カンナ? “上”なんてね、屁でもないのよ」
キリノから二人分のジュースを受け取りながら、「それに」と付け足して彼女はカンナに向き直る。
「何かあるたびに上や世間からやんやと言われて、普段からピリピリしがちなヴァルキューレだからこそ、たまにはこういう頭の悪いノリも必要だと思わない? あの騒動を経てみんな色々と思うところがある中、こうやって縦も横もなく、意味も考えずに騒いではしゃぐことはきっと救いになるわ」
そういうものだろうか。
自らの職分を果たすことばかり考えてきたカンナには、なかなか想像しづらいことだった。
ゴタゴタとした上層部の政治の動向や部局間でギスギスとした現場の息苦しさにどう対応するかと、その具体的解決法を日々探っていたカンナにはそんなことを考える余裕もなかった。
どうやって今の公安局やヴァルキューレを立て直すべきか、組織の運用について頭を悩ますことが日常になっていたカンナにとっても、あるいはそれは彼女からカンナに送られた救いであったのかもしれない。
カンナは紙コップの中に注がれたジュースの表面に写る自分の顔を覗いて、その顔が思ったほど不機嫌そうでないことに驚きながら、彼女の言葉について深く考えた。
「何より、こういうのこそが本来私たちにとって一番大切な仕事だしね~。なんてったって我々学生ですから。ほら見てみなさいな」
彼女に促されるがままに顔を向ける。
視線の先では手際良く切り分けられたケーキが、所属も役職も分からない様々なヴァルキューレ生徒たちの手へと次々運ばれている。
隣の人間が誰かなど気に留めることもなく、彼女たちはただ、美味しそうな香りを片手に味の予想をしながらお喋りを続けていた。
そしてその中のいくつかは、カンナの視線に気づいて思い思いに手を振って返してくる。公安局の生徒たちだ。
その表情はいつも向けられている真面目なものとはまるで違い、茶目っ気に溢れ、心からこのイベントを楽しんでいるように見えた。
彼女たちもこんな表情を見せるのだな。
上官である私に対しても。
今更のようにそんなことをカンナは思い、凝り固まっていた頬が自然と緩んだ。
同時に、そういった上下の関係性を否定してきた過去の自分の態度に少し反省などもした。
「『私たちは学生』か。まあそうだな、その通りかもな」
管理する者として、また率いる者としてどうしても気を張りすぎてしまうカンナにとって、その言葉は心地よく響いた。
少しだけ心持ちの軽くなったカンナは、はあと息を吐き出して腰を上げた。
この突然の馬鹿騒ぎが組織人としては到底許されるものではないと認めながら、今はその流れに乗っかるのも悪くはないかもしれないと、そう思ったのだった。
どうせこの状況では何を言っても無駄だろうから、カンナ一人で抗うのも馬鹿馬鹿しい。
横にいた彼女は、カンナがようやく立ち上がったのを嬉しそうに見届けると、よしと気合を入れ直し、持っていた紙コップを傍らに侍るキリノに渡し、皆に「ちゅうもくー!」と呼び掛けた。
ざわざわと騒がしかった室内がひとつ落ち着きを取り戻し、その視線が一方に向かうと、彼女はわざとらしくかしこまって聴衆へと向き直った。
「みんな、今日この場に集まってくれてありがとう! これはヴァルキューレで最も働き者かつ、ヴァルキューレに最も貢献した現公安局長、尾刃カンナの誕生日を祝う会よ! 公安局員であるなしによらず、また彼女と個人的親交があるなしにもよらず、今この場に集っている全員にそれを祝う気持ちがあることに、皆異論はないわね。そうでなければ
場を盛り上げる彼女の言葉に呼応して拍手やら口笛やら歓声やらが起きる。不満そうな顔は一つとしてない。
突然の真面目くさったスピーチと礼賛にカンナは面映ゆく思ったが、珍しくふざけた様子のない彼女の言葉に満更でもなく、控えめに紙コップを掲げることでそれに応えた。
「現場主義は常に管理主義と対立し合うものよ。特に双方に保守的な組織病が染みついたヴァルキューレにおいては猶更ね。そんな中で、現場においては獅子奮迅の活躍をし、管理職としては良く部下を理解する上司として、また時には自ら泥をかぶって立つことも厭わない彼女の姿勢は、真に高潔で誠実な警察官として常に私たちの目に映ったわ。これまで貴女の果たしてくれた役割は、ヴァルキューレにとって決して小さいものではない。それは今般ヴァルキューレへと向いている厳しい意見の起こるきっかけとなった、あの一連の事件の後においても、その意義が変わることなどは決してないということをここに述べさせてもらうわ。外野が何と言おうと。上層部が何と言おうと。そして尾刃カンナ自身が、自分のことをどう思おうともね」
その言葉に、それまで気恥ずかしくて逸らしていた目を上げて彼女を見ると、彼女の目は真っ直ぐに、集まったヴァルキューレ生徒たちの方へと向いていた。
向けられている方も神妙な表情だ。
中には強い同意を精一杯表情で示している者までいた。
彼女やその言葉を真面目に受け止めるヴァルキューレの生徒たちの様子に、カンナは胸裏に複雑な感情の波が立ち上がるのを自覚しながらも、「なるほど」とどこか納得のいくような感じを抱いた。
わざわざこんな茶番を演じてまで、彼女が言いたかったのはこういうことだったのか。
いつでも真面目にやらず、人を茶化してばかりで本心を誤魔化す彼女は、この騒ぎに乗じて先日カンナが打ち明けた苦悩に対する一つの答えを示そうとしたのだろう。
ストレートに伝えるのは恥ずかしいし、何より私たちは既にそういう青さを捨てて来てしまった。
だからと言って忘れるのは難しいから、何か他の言い訳を探して、できるだけ自然なように装って伝える。
性格は全くの正反対であるのに、大切なところで回りくどいのはカンナと全く一緒だった。
らしくもなく熱が入っているなと思ったが、指摘はしないでおいた。
カンナとて彼女からそう言われることに対して、少しも感情を動かさないではいられなかったからだ。
「そして、その今日の主役である尾刃カンナとは長い付き合いにして、尊敬も腹立たしさも感謝も恨みも、今日まで幾度となく互いに向け合ってきたいち友人としての私からは、改めて、この気持ちをカンナに送るわ」
彼女が言い終えるなり天井に手をかざしたかと思うと、ポンという軽い音とともに、その手の中に青紫色の花束が現れた。
おおっと歓声と拍手でその場が沸く。
彼女は照れ臭そうにしながら、「緊張した~」などとおどけながらそれをカンナに手渡した。
甘く爽やかな香りを放つその花束を受け取ったカンナは、彼女のスピーチにあてられてか、らしくもないと自覚しながら顔に熱が籠るのを感じ、花の匂いを嗅ぐことでそれをごまかした。
「……全く、一々大袈裟と言うか、気取った奴だな。普通に渡せばいいだろうに……これは何の花だ?」
「ブルースターよ。花言葉は『信じあう心』とか、まあ、そんな感じ」
「信じあう……、そうか。うん、信じあう……? 私たちが互いに信じあったことなど今まであったか?」
「あ、あなたねぇ。むしろ信じあわなかったことがある? 私はいつもカンナの不器用な頑固さを信じてたし、カンナは常に私が真面目にやらないことを信じてたでしょ。これも一種の信頼だと思わない?」
「ううん、まあそう言われると確かに。しかしなんとなく屁理屈な感じも……」
「さあ、もういいから! とにかく前座はこれくらいにしてそろそろケーキを食べましょうよ。あんまり待たせると堪え性のない副局長が先に口をつけそうだし。てかフブキは既に食べてるし!」
「誰が堪え性なしだ! てめえの話が長いんだよはやく食わせろもぐもぐ!」
「あふぁいほのをまへにはまんしろっへのはむひはねひょふひょー《甘いものを前に我慢しろってのは無理だね局長》。ごくっ。女子は常に甘いもの盛りなんだからさー」
「いけませんフブキ! せめてばれないようにちょびっとずつ……」
「キリノも結構小賢しいわよね、そういうところ好きよ」
見れば他の者たちも、皆ケーキを片手にカンナを見つめて今か今かとそのタイミングを伺っていた。
カンナはしょうがないなとその様子に呆れつつも、早くその欲求を解放してやろうと、キリノから差し出されるがままにフォークを取った。
そこにいる全員分を切り分けられてもなお三割も減っていない巨大ケーキの本体に、カンナはフォークを入れるよう促さる。
大勢の注目の的となる中、カンナはえいやと気持ち大きくよそい、それを一気に頬張った。
すぐに口全体に広がったそのケーキの味は、今まで食べたどのスイーツよりも甘く、知らず凝り固まっていたカンナの心をも解きほぐすかのように深く、深く染み入っていった。
何かを期待するような観衆の静寂にカンナが一言「うまい」と答えると、オフィスにはその日一番の歓声が上がった。
続けざまに生活安全局長の「ものどもかっ食らえ!」という号令と共に、実に騒々しい尾刃カンナの誕生日パーティーがここに幕を開けた。
結局のところこの騒ぎは、公安局のオフィスだけにとどまることなく、何十人と動員しても食べきることのできないケーキを消費するために、その日本部にいた生徒たちのほとんどが動員された。
所属や上司部下などの立場の隔たりもなく、ただ飲んで食って騒ぐだけのこの会に、彼女たちは戸惑いながらも馴染んでいき、しまいにはカンナの誕生日を祝うという口実も忘れ、皆がそれぞれに仕事を忘れて美味しいケーキ片手に同僚たちと思う存分語り明かした。
所々では喧嘩もあったという報告も上がったが、まあそれはご愛敬だということで軽く流され無視された。
「殴りたければ殴るがいい。そして殴られ返されるがいい」というのが報告を受けた際に返された生活安全局長の言葉だったとか。
後日この騒ぎの首謀者たる生活安全局長は、案の定、上層部から厳しい叱責を受け、数日の謹慎処分と始末書一千枚を言い渡されることになるのだが、そんな事の顛末も、その場の
ヴァルキューレにとって過去に類を見ない、馬鹿馬鹿しくも楽しく、賑やかで姦しい一日だった。
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「ふう、もうすっかり暗くなっちゃったな」
三桁規模の人数を動員して食べ尽くした巨大ケーキの残骸や、その飲み食いの残骸を片付けた後、終業時刻を迎えたヴァルキューレは、祭りの後とばかりに僅かな余熱を残しながらも、今は全く以て静かなものだった。
日の暮れる街の様子を映していた窓もすっかり黒く染まってしまい、校舎内の灯りを反射して物寂しさを演出している。
季節の変わり目だからか、時間の変化が嫌に早く感じられた。
この変化と同じように、きっとヴァルキューレもどんどん変わっていく。
カンナや自身が煩悶しながら過ごしてきたこの校舎も、キリノやフブキの代が部下を持つ頃には、また違った空気を纏っているのだろう。
漠然とそんなことを考えながら、彼女は人気のない廊下を歩いていた。
ほとんどの生徒が帰ってしまった後だったが、彼女は今日中に果たすつもりでまだ果たせていないその目的のために、ヴァルキューレ本部ビルを徘徊していた。
それは他でもない本日の主役であるカンナに関することだった。
彼女は手の中にあるそれを眺めながら、知らず浮き立つ心の内を落ち着かせようと、熱の籠った息を吐き出す。
その手の中には、モノクルを掛けハンチングを被ったウサギの顔が刺繍された栞があった。
「『探偵ウサギ』シリーズ、まだあの子が好きだと良いんだけど」
天井にも届かんとする巨大なケーキや、手品で出現させた花束と比べると、とても控えめで値打もない質素な贈り物。
しかし彼女にとっては何よりも正直にカンナへの気持ちを込めた誕生日プレゼントだった。
このために数か月前から刺繍の本を買って練習し、何とか見苦しくないものにまで仕上げたそれは、本来であればケーキや花なんかよりも先にカンナに渡したかった物だった。
しかしいざ渡すとなると、その後に用意した物に比べて見劣りしないかとか、自分では良い出来だと思っているけど実際不格好じゃないかとか、そんな種々様々な懸念がにわかに立ち上がって出すに出せず、そのままずるずると先送りにしているうちに誕生日会も終わってしまった。
「あー、ほんと、あの場でしれっと渡しとけばよかったのに。結局うだうだ迷ってこの時間まで渡せないなんて、女々しいったらありゃしない」
「らしくもない、らしくもない」と、一人ぶつぶつ呟きながら、彼女はカンナの姿を探して校舎を練り歩く。
以前カンナに言われたように、図々しいくらいの太々しさが自分の取柄なのに。
彼女は思いがけず見つめ直させられた自身の弱さに、少し気持ちが落ち込んでいた。
そんな少しの自己嫌悪に浸りながらも、彼女はあちらこちらと部屋を覗いては、求める姿がそこにないことに安堵にも似た小さな落胆の反応を示す。
先ほど公安局のオフィスを覗いた時に鞄があったから、まだ校舎にいるだろうと考えていたが、どこかですれ違ったのか、目的の人物はどこにも見あたらない。
もう諦めて後日にしようかと思い始め、荷物を取りに自分のオフィスに立ち寄るため彼女は正面玄関を横切ろうとする。
だが、探すのをやめると探し物とは意外に簡単に見つかるものなのか、上着を着込んでまさに帰る直前のカンナの姿を、彼女はそこで発見した。
「あ、居た。か、カン────」
「はいこれ、誕生日プレゼントだよ」
声を掛けようとして、咄嗟に彼女は物陰に隠れた。
玄関にはカンナの姿と、もう一人、カンナに親しげに話しかけている見慣れぬ大人の姿があった。
声は全く耳に馴染みのないものだったが、しかしその顔はニュースなどを通して彼女にも見覚えがあった。
キヴォトスの外から来た大人であり、今のところその名声の留まるところを知らない、──例の騒動の収拾においても陰の立役者であったシャーレの先生、その人だった。
今ではすっかりキヴォトスにとって不可欠な存在となってしまったかの人物に、カンナもまた、生徒と教師の間にある基本的な尊敬以上の、親密な情を伴ってその声音を弾ませていた。
「わざわざこれを渡すためだけに、ここまでいらっしゃったのですか?」
「うん。だって今日はカンナの誕生日でしょ? 逆にこんな時間にごめんね。どうしても今日中に渡したかったから」
「先生は相変わらず私のようなものに対しても、律義と言うかなんと言うか。……あの、先生。もしこの後何もないのでしたら、その、食事でもいかがですか? 勿論、無理にとは言いませんが……」
「え、いいの? 今からだと少し遅い晩御飯になりそうだけど、カンナは疲れたりしてない?」
「こんな時間にわざわざ訪ねていただいたのに、お礼もせずそのまま帰すのは気が咎めます」
「お礼なんて別にいいのに。私がカンナをお祝いしたかっただけだよ? それにカンナがそういうことを言ってくれるのって、結構珍しいよね」
「否定はしません。今日は色々とありましたから、少しだけ私も熱に浮かされているのかもしれません。ですからこれは、珍しい私の我儘とでも思っていただけたら」
普段とは全く違う、物腰の柔らかい声音で話すそのカンナの様子に、何故だか胸の奥が痛いほど締め付けられた。
そんな声を聞いたことがない。そんな笑顔を見たことがない。
陰から覗く彼女の目に焼き付いたカンナの表情は、古い付き合いである彼女でさえ、どれも初めて見るものだった。
ふわふわと浮き立っていた心は地の底まで落ち込み、胃の中のケーキが泥のように重たくなって、まるで体の内側から下に引っ張られているかのようだった。
今日一日の全てが、彼女にとってまるで道化のように感じられた。
「そんな風に言われると私としては断れないな。生徒の我儘を聞くのも先生の役割だからね」
「ふふ。そうやって甘やかしすぎると、いつかつけあがる生徒が出てきますよ」
「カンナにはそんな心配はいらないね。むしろもっと甘えてほしいくらいだよ」
連れ添って歩き出した二人の後姿を眺めながら、彼女はその場から動けずただ手の中の栞を握りしめた。
わかってはいた。
変わっていくのは何もヴァルキューレだけではない。
彼女の良く知る尾刃カンナだって例外ではないのだ。
カイザーの乗っ取り未遂事件や防衛室の反旗騒動の中で起きた色々な出来事は、意固地で孤高だったカンナにも確かに大きな影響を与えていた。
彼女はその立場故にカンナと同様、ヴァルキューレの変化を意識していたがために、カンナ自身のその変化に今の今まで気づけないでいたのかもしれない。
ともあれ、彼女はその様を突然このような形で目の当たりにしたことでかつてないほどに動揺してしまっていた。
しばらくの間彼女は呆然とそこに立ち尽くした。
どうしようもなく苦しいその胸の内を解放する術も知らず、彼女はただじっとそこで、初めて覚えた痛みに身を浸すことしかできなかった。
彼女にとって「変わらない彼女」の象徴であったそのアイコンを手の中に収めたまま、本当に取り残されているのは自分なのかもしれないと、彼女はぼんやりとした思考の中で思った。
誰にとっても楽しいはずだったその一日は、彼女一人だけを置き去りにして、静かに、穏やかにその幕を下ろす。
伝えそこなった想いは行き場を失い、熱をなくして、ただそこに漂うだけのものになった。