ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象   作:e-2

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今週は休むと言いましたね。
アレは嘘です。
来週こそは休みます。
 


それからのこと

 

 

 

 頭の中がふわふわと揺らいでいる。彼の匂いが鼻腔を抜けていくと、痺れるような心地よさを感じた。肺の中いっぱいに吸い込むため、一層強く抱きしめた。

 

「あたしと結婚、してくれる?」

 

 きっとハグしていなかったら、真っ赤な顔を見せてしまうだろう。ただでさえ自分から抱きついて照れくさいと言うのに、流れがあったとは言えそんなことを言ったものだから、顔から湯気が出そうなほど熱くなっていた。

 

「ミュルジス」

 

 そっと肩を押されて、彼と目が合う。

 

「俺で、いいなら」

 

 ぼんやりとした頭では上手く咀嚼できなくて、変な声が出そうになった。今、彼は何と言ったのか。ミュルジスは理解できなかった。

 

「……本当に、俺でいいのか?」

 

 呆然として何の言葉も出せないでいるミュルジスに、彼は不安を覚えたらしい。自信なさげにそんなことを言う彼が、今ばかりは愛おしくて堪らなかった。

 

 ジズだからこそ、そうしたい。

 

 そんなことを言おうとして、ミュルジスの口からは掠れた息しか出なかった。声の出し方を忘れてしまったようだった。何も言わないミュルジスを見て、彼の顔が曇っていく。

 

「冗談だったか」

 

 そんなわけがない。そんなことを冗談で言うはずがない。慌てて、それでも声は出ない。ジズは小さく謝って、縋ろうとするミュルジスを引き剥がした。

 ベンチに再び腰を下ろした彼はそれきり俯いてしまった。アナスタシアが非難めいた視線を向けている。

 

 吐息ばかりが出ていく。

 ジズの手を取って、しかし目を合わせてくれなかった。ミュルジスの口から息が漏れる。空いている手で、息が出来ないくらいに強く喉のあたりを掴んだ。

 それでも声は出ない。苦しいばかりで、ひゅーひゅーと聞こえるばかりで、形にならない。

 

 どうしてか、涙が出ることはなかった。

 泣くことが出来たなら察してくれるかもしれないと言うのに、ミュルジスの目は乾いていた。まるで彼に訴えかけられる全ての手段を封じられているかのように。

 

 気付いて。

 

 アナスタシアの方を向く。彼女はミュルジスを見ていた。軽蔑混じりの視線だった。弁解しようとして、それでも声にならない。

 どれだけ助けを求めても、アナスタシアはため息を吐いて、ジズの背を(さす)ってやるだけだった。

 

 冗談じゃない。

 冗談なわけがない。

 

 アナスタシアの目がミュルジスを責め立てる。冗談にもならない、と言われているようだった。

 ジズが小さく、諦めたように笑った。その目には疑念ばかりが残っている。アナスタシアが声をかけると、今度は無邪気に笑った。ミュルジスが手を握ると、彼は振り払った。

 

 嫌だ。

 

 手を伸ばして、アナスタシアに止められる。彼はアナスタシアばかりを信頼している。ミュルジスが何を言っても、もはや取り合ってくれないだろう。

 

 呆然と、ただ2人が話しているのを、冷たい床に座り込んで眺めている。透明な壁すらないのに、ミュルジスは邪魔者だと弾かれているようだった。

 

 喉の奥を振り絞って、血反吐混じりにでも叫ぼうとして、出ていくのは何の意味もない吐息。疎外感が心に侵入した。止める手立てはなかった。

 

 嫌だ。嘘だ。悪い夢だ。

 

 助けて。気付いて。目を合わせて。

 

 

 

 

 

 信じて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ジズッ!」

 

 

 

 飛び起きる。そこは彼の部屋だった。

 涙が溢れて止まらない。胸の内にある疎外感がミュルジスの心をずっと揺らがせている。

 

 椅子に座って本を読んでいたらしいジズが驚愕の表情を浮かべてミュルジスを見ている。その困惑した顔には確かな心配が感じられて、躊躇いなく飛び込んだ。

 

「愛してるわ。愛してるのよ、ジズ」

 

 彼は何も言わなかった。背を撫でる手は優しくて、心の中に生まれた疎外感が溶けていった。それだけでよかった。

 

 

 それにしても、まさか本当になるとは思わなかった、とミュルジスは顔を埋めながら心中で呟いた。

 

 昨夜、ミュルジスはジズと和解した。3週間ぶりに同じ食卓を囲んで、幸せを感じていた。

 

『もうこんな時間? ……一人で眠りたくないのよね。嫌なことを思い出したらきっと泣いちゃうわ。一緒に寝てくれる人がいるなら話は別だけど』

 

 さりげなくそう言うと、ジズは遠慮がちに2人で寝ようと言ってくれたのだ。鈍感の彼に合わせて多少ストレートに言ったが、まさか意図がバレているわけはないだろう。ミュルジスは冷たい水で顔の熱さを誤魔化した。

 そんなただの言い訳が、まさか本当になるとは。

 

「なあ、落ち着いたか?」

 

「もうちょっとだけ」

 

 胸元に耳を当てると、彼の心臓が早鐘を打っているのが聞こえる。

 

 夢の中の彼は再現度が低かった。

 ミュルジスが手を取るだけでも過剰に反応するはずで、それが全く見受けられなかった。心音を聞きながら見上げると微かに赤らんでいる顔があった。

 それに自己肯定感が低い彼は、勘違いだったと気付いてもそれほど落ち込まない。期待していないからだ。落ち込むにしても一人になってからだろう。

 

「なあ、ミュルジス。お願いだから、もうやめにしてくれないか?」

 

「嫌なの?」

 

 ミュルジスは意地悪に笑った。とっくに立ち直っている。ジズはそれを分かったのだろう。本当にお願いだ、と繰り返し言うものだから、ミュルジスは渋々離れることにした。

 

 さて、と気合を入れる。

 

「それじゃ、朝ごはんの準備してくるわね。ちょっと遅れちゃったし、用意が出来るまで、あのエリアの世話をお願いしてもいいかしら?」

 

「分かった」

 

 寝覚めは最悪だったが、充分に取り戻した。ミュルジスは切り替えが出来る主任なのだ。いつも全力でいる友人たちとは違う。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 ミュルジスの距離が近い気がする。

 勘違いなら恥ずかしいんだが、恐らく間違ってないと思う。三十路近くなって同じ部屋で寝るとか、そんなものは絶対に普通じゃない、と思う。

 外見は若くとも、俺はもうおっさんなんだ。それが家族とはいえ異性と同衾するなんて、恋人でもない限りは間違っている、はずだ。

 

 恐らく、ミュルジスの中で家族の認識が歪んでいるんだろう。あまり良くないことではあるが、人に迷惑をかけるわけでもないし、今更矯正できるものでもない。だから、それはいいんだ。

 

 問題は、俺の認識が正常であることだ。俺はエルフとして生まれたが、前世の常識を持ち越している。ミュルジスにとって自然でも、俺からすれば不自然だ。

 つまり、ミュルジスを異性として意識してしまいそうになるわけだ。昨夜などは、綺麗な寝顔に家族愛以外の何かを感じて、罪悪感や背徳感で心が捻じ切れそうになった。

 性欲を抱いていたなら、俺は即座に首を吊っていただろう。危ないところだった。

 

 流石に嫌われる。家族だと思っていた相手が自分のことを恋愛的に好きだと思っていたなら、如何にミュルジスと言えど不快に違いない。

 

 あんなに信用してくれているミュルジスを、俺が裏切るわけにはいかない。だから、本当に、少しだけでもいいから、控えてほしい。

 

 

 そんなことを、朝食のあと、誤魔化しつつアナスタシアに相談した。俺は2人としか話さないのだから完全にバレているだろうが、アナスタシアなら気が付かないフリをしてくれるだろう。

 

「ごめんなさい、話がよく入ってこなくて。聞きたいことは相手を傷付けない告白の断り方、で合ってますか?」

 

「告白じゃなくて、その、違うんだ。相手にその気はない」

 

「その気は、ない……?」

 

 アナスタシアは理解できない顔で俺に聞き返した。聡明な彼女にしては珍しいことだが、どうやら変な勘違いをしているようだった。

 

「俺とその相手は親密な関係だけど、恋人じゃない。お互いに恋愛の相手としては見られない。だから、こんな相談をしてるわけだしな」

 

「恋愛の相手としては見られない……?」

 

 そういえば、アナスタシアは昨夜もそうだった。ミュルジスの言葉をプロポーズだと思い違えていた。恋愛脳なのだろうか。

 

「確認ですが、その相手は生態研究園にいて、ジズさんと交流があって、スキンシップが少し過剰な女性で合っていますか?」

 

 頷く。何故かアナスタシアは考え込む。

 俺は首を傾げた。こんな条件はミュルジスで決まりだろう、何を迷っているのか。

 

「名前の最初は『ミ』ですか?」

 

「そうだな」

 

「『ミュ』ですか?」

 

「その通りだ」

 

「ごめんなさい、少し待ってください」

 

 アナスタシアは再び頭を抱えた。何かマズいことでも言ったか? それとも、俺がミュルジスを意識しそうだってことがそんなに良くないことで、だから認めたくないのか?

 対応に困るほど、ミュルジスが嫌がるということだろうか。

 

「あの、またあとで答えても大丈夫ですか? 少しだけ整理したいので」

 

「……それはいいけど、どうしてそこまで悩んでるのか教えてくれないか?」

 

「あー、えっと、その、何と言いますか……秘密です。なのでお答えできません。それではいけませんか?」

 

 俺を気遣っている気配はない。ただ、明言を避けたいようだった。ミュルジスの反応が原因ではないのかもしれない。他に支障があるのだろうか。

 それなら、無理に聞くのは良くないな。

 

「憚られることがあるなら無理強いはしない。ただ、少し不安だったんだ。ミュルジスが俺を嫌うとまでは、思わないけどな」

 

「安心してください、悪いことにはなりません。正しい自己評価と素直なコミュニケーションさえあれば、きっと何も問題は起きません」

 

「……努力します」

 

「いえ、責めたわけでは」

 

 正しい自己評価。アナスタシアに相談してライドのことを知るまで自分の間違いが全く見えていなかった俺に、何よりも必要なことだ。

 素直なコミュニケーションはきっと取れていると思う。俺とミュルジス、どちらも隠し事は好まないからだ。

 ミュルジスに至っては、研究園が建てられてすぐの頃に、共同生活に不満はないかと直接聞いてきた。俺はそれに答えつつ同じことを聞いた。

 そういった時期を経ているから、むしろ素直過ぎるくらいだ。今朝のミュルジスはまだマシだったが、昨日は本当に危なかった。

 

 そう思うと、素直なミュルジスのせいで俺は悩んでいることにならないか? アナスタシア、本当に問題は起きないのか? 信じていいんだな?

 

「そういえば、例の花の様子は如何ですか?」

 

 アナスタシアに言われて、思考を回す。

 

「例のって言うと、スノーサラセニアか。それがどうにも土が馴染まないみたいで、また肥料の配分を変えることになったんだ。枯れはしないけどかなりの負担を強いているはずだし、早く落ち着ける土を用意してあげたいんだけどな」

 

「土壌ですか。一般のサラセニアなら栽培はそう難しいものではない、そうですよね?」

 

 頷く。サラセニアは瓶子草(ヘイシソウ)とも呼ばれ、気温の変化に強く、肥料さえ不要の手がかからない食虫植物だ。

 

「スノーサラセニアもその例に漏れないはずだったんだけどな。ただ、手はある。今度トレントンの土壌サンプルを採って再現するつもりなんだ。原因がきっと見つかるはずだ。それで、一つ相談があるんだけど」

 

「ご一緒してもいいですか?」

 

「その言葉が聞きたかった。ライン生命に入るにしろ入らないにしろ、報告書の書き方とかを知っておけば整理できるだろ?」

 

「ええ、任せてください。明日からはまた元の仕事に戻りますが、研究園には毎日顔を出すつもりなので」

 

「……そっか。ターシアがここに居るのは今日までの話だったな」

 

 完全に忘れていた。たった一ヶ月の付き合いだが、アナスタシアは余りにも生活に溶け込んでいた。普段は植物の観察ばかりしていて、俺が困った時に力を貸してくれる。それが丁度いい関係だった。

 少し、いや、かなりショックだった。

 

「そう分かりやすく悲しまないでください。私が二度とここに来ないってわけでもありませんから」

 

「それは分かってる、けど」

 

 気にしてない、と強がりを言うのは簡単だ。しかし、嘘はアナスタシアに通じない。無理して軽んじるようなことを言うより、素直に肩を落とした方がきっと良い。

 

「そんなに仲良く思ってもらえているのは嬉しいです。でも、そんな風に居られると——あっ」

 

 居られると、何だろうか。突然変な方向を向いた視線を追う。

 

 笑顔のミュルジスがこちらに歩いてきていた。

 

「ハーイ、ターシア。今は何の話をしていたのかしら。あたしも混ぜてくれる?」

 

「私の、明日以降についての話です」

 

「ああ、そのこと? 大丈夫よ、ジズ。端末が届いたならターシアとだって連絡が取れるようになるわ。予定を合わせて会うなんてお茶の子さいさいなんだから。……それに、ねっ?」

 

 にこり、とミュルジスが微笑む。

 

「あたしがいるでしょ?」

 

 確かにそうだ。ミュルジスがいればアナスタシアと連絡を取ることは難しくない。メッセージを送り合うようなことは出来ないが、電話などで済ませれば簡単だ。

 

「それもそうか。ターシア、予定に関してはミュルジスに伝えてくれ。俺はいつでも空いてるから」

 

「ああ、ええと、そうね。あたしの携帯に入れといてくれたら、こっちで共有するわ。そういう話よね、ええ、うん……はぁ……」

 

「ジズさん。主任は、自分がいるなら寂しくないでしょう、って言ったんですよ」

 

「ちょっと、ターシア?」

 

 何か間違ってますか、とアナスタシアが返した。ミュルジスは何も言い返せないようだ。まあ、確かに、伝わらなかったギャグを解説するのは無粋だし、そんな感じのことなんだろう。

 

「ええと、とにかく! 寂しかったら今朝みたいに一緒の部屋で寝たっていいし、そう落ち込まないで」

 

「わかってる」

 

 ミュルジスは俺のことを子供か何かだと思っているのかもしれない。

 目を話した隙に実験台になっていたり、鉱石病のせいで手がかかったり、ひょっとして俺は子供より扱いが難しいのか?

 

 俺の立場について考えていると、ミュルジスが遠慮がちに切り出した。

 

「それで、その、予定って何かしら? 2人で何をするの? ……ジズはちゃんと研究園に帰ってくるのよね?」

 

「そもそも出ませんよ」

 

 驚きに顔を染める。

 

「あ、あたしとジズの2人が住む、この研究園で、デートするつもりなの……?」

 

「デートではありません。研究です」

 

 じっとりとした視線を向ける。

 

「ターシアにとって研究はデートみたいなものじゃない」

 

「私を何だと思ってるんですか?」

 

「一理ある、な」

 

「私が何をしたって言うんですか?」

 

「ターシア、胸に手を当てて考えてみて。恋人が出来たら、一緒に何がしたいかしら? ……ねっ、植物の研究でしょう?」

 

「そこまで女捨ててません!」

 

「本当か?」

 

「疑ってるんですか!?」

 

 ミュルジスと目を合わせ、同時に吹き出してしまった。揶揄われていたことに気付いたらしく、拗ねたアナスタシアは近くに生えているサラセニアに愚痴を言い始めた。笑いながら謝るミュルジスが、どことなく既視感を覚えさせる。

 

 アナスタシアとデートか。

 小さく呟いて、そんなわけないなと苦笑した。

 

 

 

 

 

 午後になって来客があった。

 銀髪を一つ縛りにしたヴイーヴルの女性だ。

 

「単刀直入に話すとしよう。お前は合格だ」

 

 どうやら実験結果はお眼鏡に適うものだったらしい。安堵で溜息が漏れる。

 初対面で言われた「期待している」という言葉が、ようやく頭から離れていったように思う。

 

 ミュルジスは微妙な顔をしていた。

 

「元より、お前の種族の有効性はミュルジスが担保している。したがって取り組む姿勢を評価し、その結果お前は認められた」

 

 そういうことだったのか、と納得する。確かにエルフの血はチート級に強力だ。植物が何を求めているか、何を感じているか、それを感覚的に理解できるのだから。

 研究に向かう姿勢は……良かったのか? 秩序的ではないと思っていたし、イフリータと向き合う姿勢からして危険な人体実験には反対だと思っていたのだが。

 

「続いて、新人研修のプログラムを——」

 

「ちょっといいかしら?」

 

 ミュルジスが割って入った。あーとかえーとか、とにかく言いにくそうにしている。何があったのか。

 説明に戻ろうとしたサリアに慌て、ミュルジスは咳払いを一つして言った。

 

「ジズのことなんだけど、研究員じゃなくて、研究園の管理人って形にして採用したいの」

 

「社内の見学や交流が目当てなんだろう?」

 

「最初はそうだったのよ? でも、その……」

 

 ミュルジスはもごもごと口篭っている。サリアから俺が代わりに話せと目で言われたが、残念ながら俺にはミュルジスの言いたいことが分からなかった。

 

「……ジズを取られるのが、怖くて」

 

「お前は何を言っているんだ?」

 

 サリアが心の底から困惑していた。珍しい姿だ、頭脳明晰なサリアがここまで動揺するとは。

 珈琲を啜る。サリアの「何があったんだ」という視線から逃れて、俺はミュルジスの言葉を待つ。

 

「最初は、結局あたしの所に帰ってくるって思えたから、外の世界に出て欲しいと思ってたわ。でも、今はそう信じられないの」

 

 サリアが厳しい顔をしている。

 

「あなたにはまだ早かったかしら? 簡潔に言うと、あたしはジズを研究園から出したくないのよ」

 

「それは理解した。問題はお前の行動だ。私がこうして通知しているのだから、人事調査課や商務課との話が決着しているのは分かるだろう」

 

「ええ、もちろん」

 

「多くの人間を動かしておきながらに、気が変わったからと取り下げるのは無責任極まりない」

 

「商務課は走り回る手間が減って、人事調査課も仕事が減るのよ。あたしを拘束する手段として限りなく有効なジズが、あたしの管轄に入ったまま。それに困るのはリードを握って立ち尽くしているあなたたち警備課だけ。そうでしょ?」

 

「それが責任を逃れる言い訳か?」

 

「勘違いしないで。あたしはこれでも自分の行動を反省できるのよ、他のお偉いさんたちと違ってね。だから、研究員としての責任はジズにも与えるわ」

 

 何を言っているのか分からない。

 リードを握るとか、それは何の話だろう。

 

「言い方が悪かったわね。一般研究員から管理人に異動したってことにして新人研修は受けさせないつもりってことなのよ」

 

「自分が何を言っているのか理解しているのか? それは悪戯に警備課の権限を彼まで拡張させるだけだ」

 

「あたしは反省できるのよ。サリア、あなたにかけた迷惑だって反省してるわ。だからこれは償いなのよ。責任ある振る舞いってそういうことでしょ?」

 

 俺が知らない所で話が進んでいる。しかし、まあ、険悪な雰囲気ではないようだから良しとしよう。きっと孤星のフラグは消えていない、はずだ。

 

「……お前にとって彼は人質になりえないと言っているのか?」

 

「————」

 

 油断していると、突然空気が凍りついた。ミュルジスの笑顔が怖い。話を聞いていなかったので何に怒ったのか分からない。

 

「ちょっと疑心暗鬼が過ぎるわよ、サリア。……でも不思議ね、ジズに対する感情を疑えるくせに、あたしがそれで憤る可能性は疑えなかったのかしら?」

 

 サリアは黙っている。

 

「落ち着いてくれ、ミュルジス」

 

「落ち着けるわけないでしょ、ジズ」

 

 取り付く島もない。サリアはいったいどれだけ大きな地雷を踏んだのか、想像も付かない。大人しく珈琲を飲んでおくことにする。

 

「あたしがジズを大切に思ってることは誰にも誤解されたくないの。それだけは、疑われたくないのよ」

 

 どんな話の流れでそうなったんだろう。

 気恥ずかしくて顔を逸らした。

 

「ジズを無意味に権力が届く場所に置いたわけじゃなくて、あなたを信じているのよ、サリア。サリアなら利用するより先に守ってくれるって、そう信じてるの」

 

「……そうか」

 

 やけに素直だな、とサリアが困惑しているような気がした。

 どうやらミュルジスが素直でいるのはサリアの目から見ても異常事態らしい。俺が見る限りでは飄々とした様子がなくて密かに不安だったが、杞憂のようだ。

 無理矢理原作に寄せることはしないが、変わっていない方が良いのは確かなんだ。ミュルジスがミュルジスのようで安心した。

 

「とにかく、ジズに研修は要らないわ。もしあなたに罪悪感があるなら、構造課を見張ってくれるだけで結構よ」

 

 サリアは目を瞑った。

 少しして、小さく笑い、席を立った。

 

 ミュルジスの心も読めない俺では、サリアを理解することが出来なかった。

 

 サリアの背が見えなくなった。

 ミュルジスの目はじっと向こうを眺めている。

 

 不意にその目が俺を見る。

 

「勝手に決めてごめんなさい、ジズ」

 

「ミュルジスがやりたいように決めてくれ」

 

 その決定に俺は従おう。

 ミュルジスはそれから黙り込んだ。

 

 視線は差し向かいのコーヒーカップに向いていた。

 

 

 

 俺は黙って部屋に戻った。

 

 ここがテラであり、ミュルジスやサリア、クリステンが生きている以上、原作が完全に崩壊することはありえない。

 クリステンは空に焦がれ、サリアは秩序に意味を見出し、バベルは崩壊してロドスとなるだろう。

 俺が歪める範囲は極めて限定的だ。

 

 だから、苦しくなった。

 サリアとミュルジスが話しているのを見ていて、俺は迷い込んだ傍観者以上の存在ではないと思い知ってしまった。

 ただのプレイヤーで居られるほど些細ではなく、かと言って大きな旋風を連れてくるほどの影響力は持っていない。

 

 いつまでも居座っている罪悪感に、満たされないみそっかすの自尊心、板挟みになって何がしたいのか分からない。

 頭の中が痛くなった。

 

 俺はミュルジスを幸せにする。

 それだけでいいじゃないか。

 

 思考を放棄していたって、ミュルジスの笑顔に価値があることは揺るがない。俺はそれだけを見ていればいい。

 

「……きっと馬鹿なんだろうな、俺は」

 

 ベッドに体が沈む。

 微かにミュルジスの匂いがした。

 

 

 少しだけ、自分が嫌になった。

 

 

 




 
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