ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象 作:e-2
加密列の栞を落とさなかったため、幼少期の回想が挟まることなくホールまでたどり着いてしまったルートです。R-15タグが機能することになります。度が過ぎるような書き方はしていませんが、苦手な方はご注意ください。
……先週言っていた通り、このif回の前にエピローグ回が入っています。つまり今週も二本立てです。前話を読んでからどうぞ。
さて、実はですね、このif回はテンポを重視して、原作未読勢を切り捨てています。ミュルジスのことやライン生命のことを多少知っているだけでは何の場面か分からないと思いますし、既読勢でも多少頭を捻ることがあるかもしれません。
前半は関係ありませんが、後半は流れを復習しておかないとスタート地点にすら立てません。必要な分だけ復習代わりに説明しておきますが、未読勢の方は恐らく何のことやらといったことになりますので、ブラウザバックを推奨します。
初めに、翠玉の夢にて、冒頭、ミュルジスはホルハイヤに襲われていました。その理由はライン生命が国防軍との契約に違反したからなのですが、その契約違反の裏には「ホライズンアーク計画が実現不可能であること」と「星の庭計画が本命であること」が隠れていました。
ライン生命と国防軍の協力関係は、ライン生命の裏切りを国防軍が咎める形で崩壊します。国防軍の手先としてミュルジスを追うホルハイヤ、逃げるミュルジスの戦闘が起きていたわけです。
続いて、ミュルジスとサリアの対決。或いは、ミュルジスによるサリアの妨害ですね。フェルディナンドと共に空のフォーカスジェネレーターへと到着したサリアは、クリステンまでの道すがら、ミュルジスに行手を阻まれます。
遠方からの対物ライフルによるヘッドショットを喰らい、ホルハイヤと戦い、空を飛び、疲弊したサリアはミュルジスの水流に抗うことができません。しかし二度目のディスオーダー——秩序の崩壊と呼ばれる大きな震動が2人を襲い、身構えていなかったミュルジスは脱落します。
最後に、フォーカスジェネレーター落下地点。エネルギーウェルがある場所とも言えます。そして、エネルギーウェルに動力を供給していた、石棺たちの直上でもあります。
エネルギーウェルの深部にてパルヴィスを説得していたサイレンスが落下したサリアを処置していて、フリストンとの会話を終えたドクター、ケルシー、加えてブリキ、そしてホルハイヤもまた、崩壊する地下を脱してその近辺に出てくることになります。
さて、そこでフリストンの会話が原作より短かったなら、地下の崩壊はもしかすると、フォーカスジェネレーターの落下にさえ間に合うかもしれません。
それでは、どうぞ。
硝子の向こうに彼がいる。
透明な壁の向こうで笑っている。
ミュルジスは呆けたようにただただ眺めていた。
足が動かなかった。目は乾きを恐れず、彼の一挙手一投足全てを網膜に焼き付けていた。
頭だけが普段より動いている。
彼の挙動を説明するために、言い訳を思いつくために、ミュルジスにとって都合の良い解釈を必死で探していた。
その思考が止まることはない。何故ならミュルジスは頭ではないどこかで、恐らくは胸の奥で、一番に受け入れたくない事態が既に起こってしまったのだと理解してしまっていたからだ。答えのない問いに、終わりが齎されることはない。
自分を騙す言葉を口の中で呟いて、それなのに心は揺るがない。彼がミュルジスではなくアナスタシアを気に入っているのだと、そう主張してやまなかった。
ミュルジスには彼が必要だった。
彼はミュルジスを必要としていなかった。
たった3週間程度の付き合いで切り捨てられるくらいに、ミュルジスは軽い存在だった。
心が黒く染まっていく。
濁りきった胸の中に澱が幾層にも溜まっていく。悲しみを覆い隠してしまうくらいの不満や怒りが募って、ミュルジスは思わずガラスに拳を叩きつけた。
重い音が小さく響いた。
彼は気付かなかった。
息が苦しかった。何もしていないのに呼吸が乱れた。排気ガスを多分に含んだ商業区の空気より、ずっと汚く思えた。
ホールに足を踏み入れる。
ミュルジスは彼の手を取ってすぐに引き返した。アナスタシアの顔を見てしまえば、黙っていられる自信がなかったからだ。
彼は抵抗しなかった。まだ怒っていると思っているのだろう。昔からそうだ。彼はミュルジスの心に変な所で鈍感で、言葉にしなくては伝わらない。
裏切ってしまえたのはそれのせいだ。何を思われるか分かっていないからミュルジスを軽々に扱えるのだ。そう思うと、握る手に力が入った。
困惑した彼が何度も名前を呼んでいる。
憎らしいほどの無邪気だ。彼は子供の頃から何も変わらない。申し訳なさそうな顔をして、ミュルジスを理解しようとするのではなく、もっと表面的な部分ばかりを求める。
ドアを開ける。
自室がひどく色褪せて見えた。本や娯楽、服などに溢れた鮮やかな空間だったはずが、彼に裏切られたと思った途端、価値が抜け落ちてしまったようだった。
ミュルジスは彼をベッドに突き飛ばした。
状況が飲み込めていないようだった。肩を押せば驚くほど簡単に体が倒れる。2人分の体重がかかって、スプリングがやけに大きな音を出した。
「……ミュルジス?」
この期に及んで理解していないらしい。部屋に連れられて、寝台に押し倒されて、それでも彼はミュルジスを信頼している。ただの家族だと思っている。
こうしているのは、それが間違っているのだと分かってもらいたかったからだ。しかし、どうやら全く効果がないらしい。理解していないらしい。
彼の中に、ミュルジスは果たしてどれほど存在しているのだろうか。
「愛してるわ」
そんな免罪符で罪悪感に蓋をした。
ジズの首元に顔を埋め、真っ白で綺麗な肌に噛み付く。僅かな動揺の気配と共にやんわりと肩を掴まれた。引き剥がそうとしているのだろう。
ミュルジスと彼はエルフだ。
共通の感覚を持つ同族だ。
されど、感情は違う。種族という点で共通点はあっても、感情の多寡が等しいことなどありえない。
仮に彼が前世の記憶を持っていなかったとして、庇護によって他種族と交流する機会を奪われているのだから、ミュルジスを理解することはできない。
どれだけミュルジスが渇望していても、彼が求め返すことはない。彼がミュルジスを閉じ込め、愛情と共に掻き抱く、そんな妄想が現実になることはない。
卑怯な話だ。守られて、求められて、愛されておきながら、彼は薄皮一枚の隔たりを保っている。ミュルジスは彼を傘の下に入れて、それなのに感謝しか伝えてくれない。
不恰好なキスマークだ。
ミュルジスは妖しく笑った。
それから頬に手を添えて、彼の目を見つめる。
失望されてはいないようだった。彼はミュルジスを知ろうとしてくれている。それが嬉しくて、しかし同時に、それ以上の感情を持っていないことが悔しかった。
「ターシアとは、もう話さないで」
何か言おうと開かれたその口に蓋をした。聞きたくなかったからだ。彼が他を肯定するたびに、ミュルジスは否定された気分になる。
ぐい、と押されて顔が離れる。
困惑、失望、怒り、非難。それらが綯い交ぜにされた視線を感じる。拒絶反応を起こしている。今この瞬間、裏切り者はミュルジスの方だった。
心が欠けていくようだ。肺の奥には煙が溜まっているような感覚がある。彼と上手く目を合わせられない。
「ジズ。あなたを、愛してるのよ」
彼は答えなかった。信じられない、信じたくない、そう言っていた。彼は逃げるように身を捩っている。逃げられるわけがないと言うのに。
仄かに抱いていた、期待。
彼がミュルジスを他の誰にも渡したくないように思っていて、本当はミュルジスを求めているのではないかと、そんな淡い期待があった。
愚かしい考えだ。今では跡形もなく砕け散った。
押さえつけられ抵抗する彼の姿がミュルジスの征服欲を満たす。自己嫌悪や罪悪感が肥大化する一方で、抑圧されていた感情が心を黒く濁らせて戻らなかった。
独占欲。支配欲。彼の抵抗は弱々しく、ミュルジスを跳ね除けるだけの力を持っていなかった。
彼は踠いていた。
ミュルジスのことを最大限に慮って、この状況を脱したいと考えていた。そこにいるのはドクターであるべきだと考え、思考を回し、珍しく彼は正解の選択肢を掴み取ろうとしていた。
「俺は、どこにも行かない」
ミュルジスの手が止まった。彼はゆっくりと脳内で言葉を組み立て、ミュルジスの要求の本質に応えようとしていた。
「ターシアは——」
しかし、言葉選びを誤った。自己評価が罪の意識で染まりきったミュルジスに、その名前を許すことはできなかった。彼の言葉をそれ以上聞いていられなくて、塞いだ。
最悪の想像が頭に過ぎった。たった3週間の間に、アナスタシアと彼は恋仲になったのではないかと、そんな邪推だ。それはミュルジスにとって確度の高い予想だった。
2人は既にキスを終えていて、今ミュルジスのしている全てが後追いでしかなかったなら、と思ってしまった。ただ漠然と死にたくなる。
彼の背信が益々許せなくなる。
唇を離すと、ミュルジスはジズの服に手をかけた。必死に守ろうとする様子が愛おしくて、煩わしくて、隙間から覗く傷のない肌に手を這わせた。
「嫌われたって構わないわ。だってこうでもしなきゃ、あたしが好きでいることすら認めてくれないんでしょ?」
ミュルジスはいったい誰に言い訳しているのだろうか。自分自身だろうか。それとも、未だに彼の返事を期待しているのだろうか。
彼が好かれることを嫌っていたように、ミュルジスもまた、彼からの好意を受け取れなくなってしまうだろう。強い罪悪感に繋がれて、哀れな種族はとうとう互いを信じられなくなってしまう。
「愛してるのよ、ジズ」
後悔することはない。それでもいいと思ってしまえたから、ミュルジスは彼を自分だけのものにしたのだ。
目が覚めると、そこに彼の姿はなかった。
ミュルジスは強い焦燥感に煽られ、手早く服を着て部屋を出る。目指すは彼の部屋だ。上着は要らない。走る時の邪魔になる。
「……ミュルジスか。おはよう」
そう言って、彼は写真立てを棚の上に戻した。擦り切れた顔をしていた。涙で目が腫れていた。写真立てに収まっているのは、トリマウンツに来たばかりの幼いミュルジスだった。
ミュルジスは仄暗い欲が満たされていくのを感じた。あれほど遠くに思っていたジズが近くに居るようだった。自分のことだけを考えてくれていただろう姿に、喜びが抑えられなかった。
天地がひっくり返っても、もはや彼がミュルジスの恋人になることはない。愛を囁くこと、離れないよう抱きしめること、その全てをミュルジスは放り捨てた。
「あたしから、離れないで」
代わりに、こうして抱き締めることができる。吐息を交えられるほどの距離に居られる。彼がそれを許して——いや、諦めてくれる。
「仕事はいいのか?」
時計を見ながらそう言って、彼はそれ以上のことを拒んだ。ミュルジスの手が止まる。火照った心に冬の空気が入り込んだようで、ミュルジスは痛む胸元から目を離した。
「分身に任せるわ。だから、いいのよ」
そう言って、それなのに、ミュルジスは近付けなかった。微笑みで誤魔化して離れた。すっかり満足した、というわけではない。気分が失せてしまったわけでもない。
この期に及んで、嫌われることを恐れているのだ。
一夜を超えてキスが怖くなった。唇が離れて、見える顔が嫌悪に染まっていたらと、そう考えて動きが止まった。
彼の顔を見つめる。
笑顔を浮かべることはない。
アナスタシアと話す彼の方が、間違いなく幸せだろう。たとえば2人が恋仲ではなく、彼だけが好意を寄せていたとしても、目前の彼よりは余程マシだった。
それでもいい。ミュルジスは躊躇いを捨てて、今度こそ彼の唇を喰んだ。抵抗は受けなかった。
彼の胸元に手を置くと、拍動は不思議なほど落ち着いていた。手を繋ぐだけで破裂しそうなほど動いていた心臓が、今では静まり返っている。
ただ、虚しさが残った。
黒い感情が残っている。アナスタシアと彼を会わせることは、もうないだろう。
ミュルジスは部屋を離れた。
胸が痛苦を訴えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
路地の中、薄暗い行き止まり。
エルフが壁に手をついて息を整える。
リーベリの羽を携え、フィディアの尻尾を持つ彼女はペラペラと事情を話してくれる。勝利を確信しているのだろう。
ザ・シャードに対抗できる戦略兵器を国防軍に求められ、ホライズンアーク計画を進めていたライン生命だったが、軍の大佐であるブレイクは隠された企みに勘付いていた。
掴んだ尻尾である契約の不履行を咎めるため遣わされたエージェントこそが、目の前にいるホルハイヤその人だ。
あれから7年、『翠玉の夢』が始まっていた。
「言い訳は終わり? ……それじゃ、そういうわけだから、これ以上無駄な分身を作ろうとせずに、少しは協力的になってくれない?」
「確かにもう逃げ場はないけど、それは出来ない相談ね」
終わりにしよう。
ミュルジスの体が溶ける。
風を切ってアーツロッドが迫る。ミュルジスの胴が弾け、路地に大きなシミを作った。真紅の液体は、その色に見合わずサラサラと流れていく。
ホルハイヤは目を見開いた。
「分身は囮? でも、入れ替わる隙なんて……」
「一つ教えといてあげるわ、傭兵さん」
大きな穴が空いた体。ミュルジスの分身は意にも介さず笑い、ホルハイヤの耳元で囁いた。
「あなたが見ていたのは……そう、あたしを遠くから観察していた時も含めて、全てあたしの分身体なのよ。ふふ、びっくりしちゃうわよね、イイ顔してるわ」
それは原作にない話の流れだった。
ホルハイヤが追いかけていたのは水月に過ぎない。
ホルハイヤが合図を出せば、パワードスーツを着けた軍人らが到着する。色を失い透き通ったミュルジスを見て、誰かが驚きに息を漏らした。
彼らにこれをどうにかすることは出来ないらしい。役立たずめ。舌打ちを一つして、アーツでミュルジスの分身を吹き飛ばす。
やはりダメージはない。アサガオの蔓のように、ホルハイヤの体を支柱にしてするすると上り、上半身だけのミュルジスがホルハイヤを見下ろした。
「それじゃ色々聞き出せたし、もう行くわね。フェルディナンドによろしく言っといてくれる?」
ばしゃり。
ククルカンは頭からずぶ濡れになった。
ぐっしょりと重量を増した装備が鬱陶しい。
アーツロッドに力を込め、付着した水を弾き飛ばした。濡れた髪や衣服を乾燥させられるような都合のいいアーツはなく、不快感が残る。
「……まさか、機密書類を分身に運ばせる愚かさに意表を突かれるなんて、ね」
地面を強く蹴り、一息にビルの上へと着地する。
「やってくれるじゃない」
借りは返す。
ククルカンは大きく飛び上がった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「クリステンが居る場所に、その子を待ってるお爺さんがいるのね? んーと、サリアに黙っていてくれるなら場所を教えてあげてもいいわ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
濁流がサリアを押し流す。
ディスオーダーは既に通り越した。
反転する重力の中でエルフは水と踊り、サリアは唯一の勝機を失っていた。
「何故、お前が私を止める?」
「それって大事なことかしら? あたしには何の意味もない問いかけに思えるけど」
ミュルジスはまるで何も感じていないかのように笑っている。返事に芯が通っていない。上辺では何も変わっていないように見えるが、その実ミュルジスは変わり果ててしまった。
体力には限界がある。
サリアは説き伏せることを選んだ。
「7年前に、何があった」
ミュルジスは純粋に驚いた。サリアがそれに気付いていたとは思っていなかったからだ。そして勿論、第一に問いかけるのはサリア以外の誰かだと思っていた。
「お前の勤務態度が改善されたのは、私が彼を案内した日のことだ。そしてあの日から、彼の話の一切をお前から聞かなくなった」
「あら、分かってたのね」
「死んだか」
デリカシーのカケラもないサリア目掛けて、金属製のスコップを力の限り投げた。
サリアは苦もなく受け止める。
「あたしの夢が、あの日、終わったのよ。きっと最初から全てが間違っていたの。それを目指したことすら、きっと罪深いことなのよ」
「……死んだのか」
「そうなっていたら、あたしはきっとここにはいなかったでしょうね、って言わなきゃ分からないかしら。怒るわよ」
ミュルジスの不平を受け流して、サリアはスコップを握りしめた。
それがあったところで無力には変わらない。床に突き刺すには硬度が足りず、投げるなら当たると確信できるタイミングを待つ他なく、そんな隙はない。
「クリステンの夢を、叶えさせてあげたくなったのよ。ヤラとだいたい同じだって言えば伝わるかしら? クリステンには、あたしの代わりに成功して欲しいの」
「そうなった所でお前の夢は叶わない」
「でも、慰めにはなるでしょ? とうに終わったことを追いかけるほどあたしは執念深くなれないわ」
ミュルジスは諦めている。だからこそ弱く、それでいて強い。成功の一歩手前でも諦めてしまえるし、失敗からダメージを受けることがない。
虚しい生き方だ。向上心が半端で、出来ることしかやれない彼女に、進歩はあっても革命はないだろう。
「くっ……」
サリアは壁に背をつけた。波に抗うことがいよいよ難しくなっていた。体力が残り少ない。せめてスコップを投擲できるだけの体力を残さなければ。
その時、ミュルジスの体がぐらりと揺れる。
数瞬遅れて、押し寄せていたはずの波が凪いだ。
「なんで、ジズが、どうしてっ……!?」
スコップが分身を貫いて、背後の生育設備に突き刺さった。それきり水は途切れて消えた。
どうやら本体の方で何かが起きているらしい。ミュルジスを象っていた水は外周の廊下へと落ちていく。サリアは降って湧いた幸運を噛み締め、疲れ切った体で、しかし確かな足取りで、クリステンを目指す。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼には何も言うべきではなかった。
「あら、可愛らしいエルフさんのご登場よ。拍手して迎えた方がお好みかしら?」
ククルカンがミュルジスの神経を逆撫でする。どうやら彼と力を合わせていたのはホルハイヤだったらしい。ミュルジスはキッと睨みつけた。
「もしかして、怒ってるの? 自分から引きこもっていたのに、仲間外れにされるのは嫌だったの? 愉快な考え方をしているのね、興味深いわ」
ホルハイヤを無視して進む。
「薄情ね、彼の無謀な行動を助けてあげた私にお礼の言葉はないの?」
「……そうやって、彼を誘ったの? 押し売りは感心しないわよ」
「いいえ、そんなことしないわ。私は彼が尋ねたことに答えただけよ。彼の力で救えるか、私の力添えがあれば実現可能か、そして……」
ホルハイヤは口角を吊り上げた。
「
背筋が凍りつく。
余命? 余命だと?
ホルハイヤを突き飛ばすように押し除けた。
そこにいるフードを被った覆面の男はドクターで、見知らぬフェリーンはその付き添いだろう。ブリキの姿も見えるが、彼の姿はどこにも見えない。
「ミュルジス主任!」
サイレンスの声がして、ミュルジスはすぐさま駆け出した。彼女の近くにはサリアや統括課職員が横たえられていて、フォーカスジェネレーターの中にいた者の多くは助かったらしいことを知った。
彼もまた、その端に横たわっていた。
彼に力を教えるべきではなかった。
彼の頬から源石が突き出ていた。
彼の足は半ばから黒い結晶に変わっていた。
彼の腕が、胴が、まるで創作物に登場するモンスターのように変わり果てていた。
「……なあ、ミュルジス」
変な声だった。発声器官すら源石の侵食を受けているらしい。そんな状態で、彼は清々しく笑っていた。
「最期くらいは、俺、人のためになれたか?」
ひゅっ、と音が出た。ミュルジスの口からだった。何も言えなくて、叫び出したくて、それさえ禁じられたミュルジスに許された、ただ一つの声だった。
叫び声を抑えて、心の奥底に封じ込めて、どうにか言葉を絞り出す。
「あたしから、離れないでって、言ったのに」
彼は小さく笑った。
研究園から抜け出した彼を即座に捕まえた。今までずっと続いていた日常が終わることを予感して、震えながら彼の袖を引いた。
彼は力を使い逃走することを選んだ。コミックヒーローの蜘蛛男に似た挙動で逃げられてしまえば、さしものミュルジスと言えどそうそう追いつけたものではない。
どうして今なのか、と分身体がサリアに撃破されたことを感じながら思った。彼の行き先を調べ、トランスポーターを手配して、そして、フォーカスジェネレーターが落下した。
神の御業だった。
蜘蛛の巣状に張り巡らされ、大気が軋み、光が歪むほどの現象が引き起こされていた。それを見て、ミュルジスは悟っていた。それが彼の力によるものだと。
それが優しくフォーカスジェネレーターを包み込み、傍で落下していたサリアまでも優しく受け止めたのだ。
そして、彼は
「ねえ、教えて。どうして、そんな目が出来るのかしら」
彼は諦めていたはずだった。抵抗をやめてミュルジスの言葉に従ってくれるはずだった。
出ていく彼に「従ってよ」などと叫んで、ミュルジスは癇癪を起こしたように縋った。
思わず口を飛び出た我儘な言葉に自分でもショックを受ける一方で、今までの彼がそれを言わせたのだとも思えた。
その目が諦めていたから、ミュルジスは彼を人形のように扱えたのだと、そう思った。
彼はミュルジスの手を振り払い、変わった。
「俺が死んで、それで、あわよくば人が救えたらって。……きっと、夢だったんだ。それが。人の代わりに、死ぬことが」
ホルハイヤがいなかったら、それもダメだったかもしれないけどな。彼はそう言って笑った。
胸元から血がどろりと流れた。彼の体に亀裂が走っていた。亀裂は体表に露出した黒色の石に沿って生まれている。
昨晩はなかったはずの、源石結晶。
「ミュルジスだって、夢が、あっただろ? エルフの楽園、だったか」
「……それ、は」
サイレンスは唇を噛み締め、そこを離れた。人を治す手立てはあったが、体の半分以上が石になった者は、とうに人ではない。
「諦めるな、ミュルジス。夢は、いつか叶うんだ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼の夢は叶った。
クリステンの夢は叶った。
サリアはサイレンスと共に歩んでいる。
ドクターはロドスと歩んでいる。
彼らの背を、ただ眺めている。
「……ねえ、ドクター。あたしは、何を選んで、何を捨てれば良かったのかしら」
研究園の中で、ミュルジスは問いかけた。
「夢を捨てて、彼を選んだの。その結果がこれよ。あたしだけが夢を叶えられないまま、彼の言葉で呪われたみたいに生きてるの。笑っちゃうわよね」
彼女の頬には黒い結晶が見えていた。
【夢はもう叶わないのか?】
「ええ、その夢には彼が不可欠だったから。あたしが叶えることは出来ないし、誰かに助けられることも出来ないの」
ミュルジスは諦めたように笑う。
「全部お終いになる。それが確約されて、ようやく少しだけ気が楽になったの。数年振りの吉報がそんなことなんて、ほんと、参っちゃうわ」
戯けている。
【恩を返させてはくれないか?】
笑顔が崩れ落ちる。
「……それは、生きて欲しいって言いたいのかしら? あたしに地獄を見ろって、罪悪感と無力感と怒りと悲しみと——心に住み着いた喪失感をいつまでも感じて、一生を彼への懺悔に費やせって、そう言ってるの?」
【地獄だけが未来とは限らない】
ミュルジスは眉を顰めた。
「知ったような口を利かないで」
【未来を知らないのは君も同じことだ】
ため息が一つ。
「あたしのことを理解できる人なんて、やっぱり、ジズより他にいないのね」
【待て、ミュルジス!】
「出ていってちょうだい」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ミュルジスはベッドの上で血を吐いた。
「ねえ、クリステン。あなたも同じ気持ちだったのかしら?」
窓から覗く偽物の星空を見る。それは長い白昼夢のようだった7年間に似ていた。狂おしいほど望んでいるもので、それなのにどこかおかしい。
クリステンは空を破り、本物を観測した。ミュルジスは偽物の空を愛でることしか出来なかった。かつてテラを生きた占星術師のように、ミュルジスは空を破ることなど出来なかったのだ。
「きっと、違うわね。あたしはクリステンのように孤独を受け入れることはなかったし、クリステンはあたしのように望まない孤独を受け入れたわけじゃないもの」
彼の枕に、彼のベッド。
たった一ヶ月で赤く染まってしまった。
「ねえ、ジズ。あたしは夢を叶えるために、終わらせるのよ。それなら、許してくれる?」
ぐらり、視界が揺れた。
心臓が絶え間なく動いている。
「あなたと、一緒がいいのよ」
足はとっくに動かなくなっていた。
視界が真っ暗になって、思考が濁っていく。
何も考えられない。
——おやすみなさい、ジズ。
泥の中に身を落とす。
ミュルジスは、それきり目を開かなかった。
第一部最終話の後書きであまり曇らせが好きではない人は見切りをつけたと思うので、こちらはかなり私情(性癖)が混ざった後書きになります。
第一部では泣かせてばかりだったので、涙一辺倒の作者だと思われたくありませんでしたし、今回は丸々カットして、雰囲気とシチュエーションで感じてもらう曇らせを用意しました。後半は淡白に感じたかもしれません。それはアークナイツリスペクトです。
サリアとの問答やドクターとの対話で、拗らせたミュルジスから見える陰鬱とした雰囲気を感じてもらえたら嬉しいです。ジズくんの最期の言葉に対するミュルジスの反応は想像に委ねたのですが、号哭もあれば放心もあり、半狂乱になってサイレンスに縋り付くミュルジスがいれば、サリアに八つ当たりするミュルジスがいてもいいと作者は思います。どれも素晴らしいミュルジスです。
ここからは作者による可能性としての妄想です。
こちらの世界線では、恐らくドクターとダンスをしていません。初対面は軍によるテロリズムを防ぐためにドクターがライン生命本社を訪れた時ですし、生態研究園を訪れたのは本文にある会話が初めて、つまり弧星のあとです。それなのにミュルジスがあれだけ深い部分を告白したのは、ジズくんがドクターのような存在を示唆していたからかもしれません。そうなれば「あたしのことを理解できる人なんて、やっぱり、ジズより他にいないのね」の深みも増す、かもしれませんね。
そういえば、ミュルジスの黒い結晶はどこから感染したものでしょうか。たとえば粉塵を吸い込んでいたなら、口から血を吐いていたことの理由になるかもしれません。その粉塵はどこから生まれたものでしょうか? 感染者の死体は、どうなるのでしたか? もしそれがジズくんの死体から離れなかった結果だとするなら、その頬に露出した源石に、ミュルジスは何を思ったのでしょうか? ジズくんとお揃いの位置です。それは、死の宣告であると同時に、何を意味するのでしょうか。
私は曇らせが好きです。そして、曇らされるがあまり耐えきれなくなって歪んでいく人も好きです。アークナイツは基本的に救いのある曇らせが多いのですが、イベントによってはビターエンドも存在しています。「アークナイツ準拠なら本編はほぼ確実にハッピーエンドだろう」という軟弱な考えを捨てるまで、私はこういった救いのないifストーリーで読者の皆様を殴ります。愛なので耐えてください。
来週こそは本当に休みます。
評価、感想よろしくお願いします。