ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象 作:e-2
名称:キンモクセイ【金木犀】
綱目:モクセイ科モクセイ属
花言葉:「気高い人」「誘惑」
ねえ、ジズ。
恋愛って何なのかしら。
デートに誘われたのよ。これで3回目。
あたしのことを少しも理解してないって証明するためにわざわざ来てくれるのかしらね。
そんなものが恋なの?
自己中心的で幼稚なそれが恋だって言うなら、あたしには必要ない感情ね。
それに、伴侶は2人も要らないわ。
あたしにはあなたがいる。そうでしょ?
ふふ、そう驚くことないじゃない。
あたしが将来結婚するなら、相手はきっとジズしか居ないわよ。
あら、そんなことも分かってなかったの?
ん〜? 仮にあたしが他の人を好きになったとしても、そう簡単にあなたを切り捨てたりしないわ。
ジズは大切な家族だもの。
ええ、そうよ。その通り。ふふっ。
あーあ、ジズが家族じゃなかったらきっと、恋愛だって出来たのに。
でも、あなたが家族じゃなかったらきっと、恋愛だって出来なかったのよね。
やっぱりあたし、ジズが好きよ。
あたしを一人にしないでね。
なぁに、その顔は。
あたしのこと好きになっちゃった?
それなら恋人らしく振る舞ってみる?
照れてるの?
ほんとに冗談か、確かめてみたらどうかしら。
あなたがいると落ち着くのよ。
あたしは一人じゃないって安心できる。
それは他の誰にだって代えられない大切なもので、——ジズはこれが恋愛だと思う?
ふふ、ごめんなさい。
拗ねないでよ、ちょっと揶揄っただけじゃない。
ねえ、ジズ。
あたしたちはずっと一緒よね?
昔の夢を見ていた。
ミュルジスが学生の頃の夢だった。
ミュルジスに養われる未来を想像して、それがきっと快適な日々になると思っていた頭足らずの俺がいた。
ついていくことすら出来ないのに、用意された楽園を享受しようと思う傲慢な俺がいた。
吐き気がする。
あの時から既に、ミュルジスは2人で進むことを夢見ていた。それなのに俺の足は止まったままだ。それどころかミュルジスの夢は自分に関係ないと思い、否定してしまった。
今は、前に進めているだろうか。
傘が音を立てて広がる。
見慣れているはずの道に違和感を覚えるのは、視点が高くなったからだろうか。それとも、雨の日に外出することがなかったからだろうか。
シャッターが閉められた軒下で、ループスの彼女は壁にもたれて煙草を吹かし始めた。視線に気付いてニッと笑い、咥えていた煙草を俺に差し出した。
「お前も吸うか?」
「エリナ」
「分かってるよ、冗談だっての」
カラカラと笑う彼女は生態課専属のトランスポーターだ。自動車以外にヘリコプターや船舶の免許などを幾つか持っているらしく、懇意にしているのだとか。
「行くわよ、ジズ」
ミュルジスの親を——いや、2人のエルフを訪ねた俺たちは、次にトレントンを目指した。心地良い振動に意識を奪われていたら到着はあっという間で、目的地はすぐそこだ。
孤児院を目指して少し歩く。
数回遊んだ覚えのある空き地は姿を消し、代わりに比較的新しい戸建てが建っていた。ミュルジスがせっせと作り上げた
すぐに視線を逸らした。
雨の日は空気が重い。
黒々と手を広げる空の暗雲は俺たちを押し潰さんと睨みつけている。
雷鳴は聞こえなくなった。
雨は小降りになった。
風だけが強く吹き荒れている。
横殴りに霧雨を喰らい、傘を閉じるかどうか、少しの間迷う。
「ジズ。傘を閉じて、これを持って」
渡されたのはミュルジスの傘だった。自由になった両手で雨を束ね、薄い膜が俺とミュルジスの2人を囲むように作り出された。
「ふふ、随分と濡れちゃってるわね〜」
ミュルジスとは反対に、俺の両手は傘で塞がっている。ハンカチで強引に顔や体を拭かれた。相変わらずの子供扱いだ。
「風邪を引いたらいけないし、今日はあったかくして寝なきゃだめよ?」
「分かってる」
揶揄われるよりはマシだが、何とも言えない気分になる。俺はニートの頃から進めているだろうか。今の状況を見るに悪化しているとしか思えない。
そんなやりとりをしながらも歩を進め、目的地に到着した。
孤児院は公園になっていた。向かいの通りがよく見える小さな公園だ。孤児院の規模は高が知れていたし、こんなものだろう。
「ここまで徹底的になくなってると寂しさすら感じられないわよね」
ミュルジスは呆れたようにそう言った。
孤児院があったなら懐かしく思えただろうし、廃墟になっていたって寂しさがあったはずだ。完全に生まれ変わっているのだから現実感が湧かない。
「最初に会った日のこと、覚えてる?」
「覚えてるに決まってる。あの時は助かった。喉がカラカラに渇いていて言葉が上手く出なかったんだ」
「次の日から部屋に居座ったけど、ジズは何でもかんでも許してくれたわよね。邪魔には思わなかったのかしら」
確かに、プランターの土をベッドにばら撒かれたのは辛かった。数日経ってもまだ土が出てきた。勝手に人の靴をツルでぐるぐる巻きにされたり、部屋の花が枯れたからと理不尽に怒られたり。
そんなことがあって、孤児院を出る日にも同じことを聞かれた。何故我儘に付き合ってくれたのか。邪魔だと思わなかったのか。
「昔を思い出す言葉だな。懐かしい。……あの時の答えを、ミュルジスはまだ覚えてるか?」
「忘れるはずないでしょ? 『ミュルジスを邪魔に思う日が来るなら、俺はきっとその時、水や空気すら嫌いになってるだろうな』って」
その気持ちは今でも変わらない。
俺がミュルジスを嫌いになることはない。
「あたしのことは今でも好きかしら?」
「答える必要はあるのか?」
「言葉にしなきゃ分からないじゃない。ほら、渋らずに言ってみて? あたしのこと、どう思ってるの?」
「……」
「嫌い?」
その顔は卑怯だ。
仕方なく好きだと言えば大袈裟な反応が返ってきた。揶揄われていることは分かっていても上手く対処できない。
「ミュルジスはどうなんだ」
「好きよ。愛してるわ。あなたはどれだけ大金を積まれたって誰にも譲らないあたしだけの宝物。どう、これで十分?」
どうしてそんなことを堂々と言えるのか。気恥ずかしさと嬉しさで緩んだ顔を隠そうとすれば、ニヤニヤと笑っているのが視界の外から伝わってきた。
とんだカウンターを喰らってしまった。最後に残ったなけなしの意地で表情を隠した。
さて、と改めて公園を見渡す。
足元に
「ねえ、ジズ。加密列の花言葉は知ってるかしら?」
寄り添って雨を受け止める幾種類かの花々。その中にはいつかの日を思い出させるような加密列が凛々しく天を向いていた。
育て方は頭に入っているが、花言葉は分からない。図鑑にしか載っていないし興味もないからだ。素直に首を振った。
「『逆境に耐える』なのよ。それって誂え向きだと思わない? エルフの運命——なんだか仰々しく思えるけど、それにあたしたちは逆らってるんだから」
「逆境か。……耐えているのは、君だけじゃないか? 俺はただ鉱石病を抱えているだけだ」
「さて、どうかしらね」
ミュルジスは回答を避けた。自分には自分の、そして俺には俺の考え方があるということだろう。
凛と胸を張りながらも活力を失いつつある加密列が一輪目に留まる。恐らくは種をつけることもなく枯れてしまうことだろう。
背筋をしゃんと伸ばした彼女は今日だって研究園に入り浸っているはずだ。
体の中を駆け巡る異物の存在に吐き気さえ感じて、ぐらりと視界が揺れてはスノーノイズのように乱れる。不快な耳鳴り、気だるい身体、それらは彼女にとって初めての体験だ。
鉱石病と一生付き合っていくしかないことを苦しいくらいに実感しているアナスタシア。この花に相応しいのは、俺ではない。
「ターシアに贈ろう」
水揚げ*1に使うようなハサミを携行しているわけではないから手折ることになってしまうが、この際仕方がないだろう。
そうして伸ばされた俺の腕を、横から掴む手があった。
ミュルジスだった。
「プレゼントならもっと適当な花があるわ。ほら、どこかの国では、加密列みたいなキク科の花は葬式の象徴だったりするのよ。あまり良いチョイスとは言えないし、何より準備が足りてないでしょ?」
掴まれた腕が少し痛い。
無意識に強く握ってしまっているのだろう。
「トリマウンツに戻ったら、帰る前に花屋を訪ねましょ。あたしが良い花を見繕ってあげるわ。ターシアが好きな種類もバッチリ知ってるんだから」
作られた笑顔。
「だから、加密列はやめて」
「……分かった」
頷くと、ミュルジスはにっこり笑った。
踵を返した彼女に手を引かれ、俺は孤児院だった場所を後にする。その有無を言わせぬ雰囲気が、口の中にまで上ってきていた疑問を押し返した。
背後を振り向く。
加密列が風に吹かれていた。
自動車の中、ミュルジスが欠伸を一つ。
運転席のエリナとミラー越しに視線が合い、それからの運転は穏やかになった。心地良い振動に揺られてミュルジスの瞼が落ちていく。
「ジズ、着いたら起こしてくれる?」
「分かった」
「……手、出して」
言う通りに差し出した。ミュルジスはそれを握って、少し経てば寝息が聞こえ始めた。昔から何も変わらない綺麗な顔だ。
幸福感が去来する。
原作を再現できたなら、ミュルジスはドクターに決して小さくない感情を向けることになる。それを心の底から歓迎できるかと言われれば即答できない。
俺はミュルジスに幸せになってほしいと思っているが、出来ることなら俺自身が幸せにしたいと思っている。自分勝手だと分かっているから、その役はドクターに譲るつもりだが。
自尊心。プライド。独占欲。そんなものがミュルジスの幸せより優先されていいはずがない。
どのみち、俺に出来ることは家族として傍にいることだけだ。ドクターの方が、深く広く幸せにしてやれるはずだ。
俺は余りにも不適格だろう。
「なあ、ジズ」
ミュルジスの寝顔を眺めていると、運転席から話しかけられた。
「主任に味方がいないことは知ってるか?」
突然何を言い出すのか。
今日を含め何度か顔を合わせてこそいるが、俺はエリナのことを全く知らない。精々がヘビースモーカーということくらいか。
そんな相手がいきなり声をかけてくるものだから、上手く反応できなかった。
俺が戸惑うと分かっていたのか、それとも意に介していないのか、エリナは気にせず話を続ける。
「構造課だかエネルギー課だかの話じゃねえぞ。生態課の中でさえ信用できる相手はそういない。それが分かってないなら、今、頭に刻め」
「生態課の中でさえ、か?」
「ああ。この間、主任補佐が感染しただろ? 主任への警告か、若しくはミスって相手を間違えたか。そんな可能性だってあんだよ」
「は」
言葉を反芻する。
ウインカーの音がいやに響いている。
ミュルジスに感染を散らつかせているということは、つまり殺すことすら考えてるってことか? 加えて言えば、既にそのつもりだった可能性がある、のか?
「……根拠は?」
「主任の立場ってのは相応に恨まれやすい。そして今のライン生命は過渡期だ。状況が揃ってんだよ」
つまり、根拠はない。
熱くなりかけていた頭を徐々に冷やしていく。
ライン生命が狙われているとしたら、サリアは黙っているはずがない。中途半端な影響力では暗殺などお話にならない。
過渡期故に忙殺されている? サリアが物事の優先順位を誤ると思うなら、その仮定は成り立つだろう。俺はそう思わない。
生態課内部の犯行はないだろう。何故なら、ライン生命に所属する社員のほとんどはサリアの恐ろしさを知っているからだ。
あのアナスタシアでさえ「あまり近寄りたい存在ではありませんね」と苦笑していたのに、他の職員がサリアに目をつけられる可能性を知りながらこんなことを実行できるか?
外部からの干渉。それを前提とするなら、サリアが直々に育て上げている警備課の目を盗んでライン生命に侵入するリスクを取っていながらに、実行したのは一人の研究員を感染させることだけだ。
ありえない、と結論付ける。リスクとリターンが釣り合っていないし、誰にも見つかっていないくせに回りくどい。
「ないな。余程の愚か者が生態課にいるなら可能性はあるけど、それなら見つかっているはずだ。単なる事故に違いない」
「へえ、正解だ。案外キレるらしい」
「答えが分かっていて仄めかしたのか?」
「またまた正解だ」
エリナは冗談半分の賞賛を口に出した。
その無責任な言動に思わず顔を顰めると、すぐに雰囲気が引き締まった。先程とは比べ物にならない真剣な顔だ。
「今回はただの事故だ。でもな、それだって警備課が完全じゃないことの証明だ。主任が恨まれやすいってのは本当だし、気を配る必要があるのは間違いない」
事が起こってからじゃ遅いんだ、と続いた。警備課による監視の下の実験で事故が起きたことは確かだ。俺は神妙な顔をして唸ることしか出来なかった。
サリアの監視を抜けられる手合いが相手なら、被害は主任補佐一人の感染に終わらないだろう。ライン生命の規模はそれを考える時期に入っているわけだ。
ライン生命全体の影響力が増大するということは、主任という立場の価値もまた上がっていくということで、より強大な悪意に晒されてもおかしくない。
「そういえば、一つ聞き忘れてたな」
「なんだよ」
「どうしてそれを俺に?」
「そりゃ決まってる、上司を失いたくないだけだ。アタシは一応専属のトランスポーターだからな。アンタと警備課で四六時中守らせようってわけさ」
はぁ、と溜息が漏れた。
確かに俺はミュルジスの一等親しい相手だろうし、その意図は頷ける。ただ、それならそれで別の方法を取ってもらいたかった。
「もっと普通に頼んでくれないか、エリナ。冷や汗が止まらなかったし鳥肌だって立ったんだ」
「退屈凌ぎにはなったろう?」
ふと気付けば、窓から見える景色は生態研究園の近くだった。
「だとしても、心臓に悪い」
「アッハッハ! 悪いね!」
「んんっ……」
大きな笑い声でミュルジスが起き出した。
何と言うか、エリナはトランスポーターという職業に似合わない豪傑だな。少し話しただけで疲れた。
ふわぁと欠伸をするミュルジスに、上機嫌のエリナに、外出と加えて先ほどの会話を経て心身共にヘトヘトの俺。
悪くない面子だが振り回されるばかりになってしまう。そんな関係を大切に思う一方で、アナスタシアとの落ち着いた時間もまた大切に思う。
しかし今は、その時間が手に入らない。
「喜んでくれるといいけどな……」
車窓から見える生態研究園。
ミュルジスの視線に気付かないまま、俺はアナスタシアの姿を脳裏に浮かべていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日が来るのをじっと待っているオレンジ色の蕾。20センチほどの若木は橙色の斑点を枝に纏い、生き生きと葉をつけていた。
「珍しい木が売っていたから買ってきたんだ。金木犀と言って、炎国が原産の亜高木らしい」
彼はそう言って笑った。背後の主任は複雑そうな気配を漂わせながら、それでも微笑んでいた。
「金木犀、ですか。生育条件をメールでいただければ、その指示に従います。他には何かありますか?」
素気無い返答を聞いて、彼は露骨に落ち込んだ。知らない植物を見せれば私が笑顔を見せると思ったんだろう。だから帰ってきてすぐ、私の下に来た。
「ありませんね? それなら……」
左腕が悲鳴を上げる。
強い痛みに、思わず傷跡を押さえてしまった。彼の顔がより一層曇っていく。まるで子供のように素直だ。それが今は無性に苛立つ。
「大丈夫なのか?」
心配の言葉が鬱陶しい。鉢植えを持ってアタフタする様子に不快感が募っていく。どうせ何も出来やしないのに、どうせ他人事なのに、何を慌てることがあるのか。
八つ当たりしたい衝動をどうにか抑え込んだ。
「大丈夫ですよ。早く金木犀を生育設備の方に運び入れることをお勧めします」
「でも、それは……」
彼は動かなかった。
「気遣いは結構です。そんなことより、金木犀の方を優先してください。枯らすために買ったわけではありませんよね?」
「そんなことって言い方はやめてくれ。それに、今はターシアのことを優先すべきだ。鉱石病は一大事なんだから」
「ジズの言う通りよ」
鉢を置いて、手を差し出した。
腕の痛みが強くなる。亀裂が入ったように錯覚するほど、強く、傷のあたりが悲鳴を上げた。
立っていられないほどの痛痒を押し隠す。腕が震えるのを、もう片方の手で握りしめて抑える。それでも私は彼の手を取らなかった。
彼の言葉は私の神経を逆撫でする。今すぐにやれと言っているのが分からないのか。何故言う通りに出来ないのか。罵声が出そうになる。
「ほら、ターシア」
手を取らせようとする。その手のひらはきっと、ひっくり返ることだろう。助けを求めたって意味はない。疾病予防管理センターに引き渡されて、法外な治療費を提示されて、それで終わりだ。
どうせ、私の味方ではないのに。
その手を払いのけた。
怒りの
「鬱陶しいって、分かりませんか」
強く睨みつける。
「何も分からないくせに近寄ってくるのがうざったいって言ってるのが、分かりませんか」
頭が痛みと怒りで満ちていく。
「信頼されてないって、分からないんですか?」
苛々する。
「あなたの心配は、何の役に立つんですか。雑菌が死にますか。花が咲きますか。傷が治りますか。蔓草が伸びますか」
もう止まらない。
「私の鉱石病が治りますか?」
悪意が、湧き出す。
「——役立たずは黙っていてください」
言い切って、それから急速に頭の中が冷えていった。
口に出してから分かった。
言ってはいけないことだった。
一線を踏み越えたことを自覚してみれば、それまでの怒りは幻だったかのように姿を消した。
彼は泣きそうなくらいに顔を歪めていた。同情か、憐憫か。私の境遇に自分を重ねているのか、怒った様子はなかった。
「ちょっと、いいかしら?」
ピリッと空気が震えた。
そんな気がした。
「鉱石病に罹ったのはターシアが提案した実験によるもので、監督責任はターシアにあって、罹った時は自己責任って念書に署名してるはずよね?」
苛立ちが小さくなっていく。
やってしまったという感慨は言い終えた時点で既にあって、主任が敵意を剥き出しにして詰めてくることで、その後悔が大きくなった。
「それで、心配してくれた人を役立たず呼ばわり? ……どうして、そんなことが言えるのかしら? ねえ、いつからそんなに偉くなったのか、教えてくれるわよね」
「そのあたりにしてくれ」
「全然足りないわ。被害者意識は結構だけど、人に迷惑をかけるなら注意されるのが道理でしょ?」
「ターシアはただ参ってるだけなんだ。それを容赦なく詰ったら駄目だろ」
彼はどうやら主任のことを未だに理解していないらしい。過剰に擁護するものだから、私に対する主任のヘイトが際限なく高まっている。
「これでも容赦してるのよ。あたしがサリアみたいに
「ミュルジス。冗談ならやめてくれ」
「ターシアの言葉は冗談にもならないのよ」
主任はこの上なく正しい。
私の言葉は同情で容赦されていいことではない。
それなのに、彼は甘い。
「俺が誰の役にも立ってないことなんて分かってる。だからどう言われたっていいんだ、傷つきはしない。ターシアはただ——」
「ジズ」
言葉を遮り、主任は彼の肩を掴んだ。
「それ以上言えば、あたしはターシアのことが許せなくなりそうなの。だから、絶対、口にしないで」
「……それなら分かってくれ、ミュルジス。仕方ないんだ。
彼は間違っている。私の失言は私の責任で、それは感染者だろうと咎められるべきこと。
卑怯な言い方だった。
更には最悪の言い回しだ。
主任は彼の言葉を否定するどころか、彼の言葉を上手く理解することすら出来ていないようだった。
「あたしには分からない、って」
主任は震えていた。そんな風に思っていたのか、と顔に書かれていた。残念ながら彼には伝わっていないようだが。
涙が出るのは時間の問題に見える。なんだかんだで子供らしさの残る主任だから、部屋に逃げ込んで泣くだろう。
ああ、もう修復不可能かもしれない。
私は他人事のようにそう思った。全ては私のせいだと分かっているのに、当事者意識はどこかに出て行って戻らなかった。
奇妙な話だ。2人を遠ざけておきながら、関係を断とうとしていながら、瓦解する時には残念だと思うなど、おかしくて堪らない。
すっかり黙りこくった私の手を引いて、彼は休憩室の方に向かう。私は主任のために何か言うべきだろうか。きっと、主任の意見を支持する方がいいのは間違いない。
それなのに。
「ジズ」
虚勢か、自信か、或いは覚悟か。
主任は真っ直ぐに名前を呼んだ。彼はぴしりと固まって動かなくなった。振り返ることはなく、ただ前に踏み出せずにいる。
彼は甘い。
主任は正しい。
それだけのこと。
彼が向けてくれる同情は思っていたよりずっと甘美だった。主任の言葉は躊躇なく私の心を抉った。
彼の手はまるで葉を撫ぜるように優しく私の手を取ってくれて、主任の目は私への敵意に塗れていた。
たったそれだけのことで、私は揺らいだ。
間違っていることなど分かっている。
手を強く握れば、私の苦痛が増したのだろうと思った彼が再び足を動かす。その場に主任を置いて。
彼の甘さは鬱陶しくて仕方がない。
しかし、それ以上に、居心地が良い。
並べられてしまえばどちらを選ぶのかは明白だろう。そうやって心の中で言い訳をして、あとは彼の手に任せた。
久しぶりに誰かの特別扱いを受けたような気がして、ほんの少しだけ、心が軽くなったようだった。
[Tips]
ジズ
ミュルジス
アナスタシア 自分 >> 知人 ≧ その他
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