ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象   作:e-2

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名称:シロガラシ【白芥子】
綱目:アブラナ科シロガラシ属
花言葉:「忘却」「推測」
 


白芥子の結実

 

 

 

 俺は前に進めているだろうか?

 

 頭の中でそう問いかけると、答えの材料はすぐに集まる。組み上げれば、それは肯定のようだった。

 気の持ちようを勘定に入れるなら間違いなくそうだと言えるし、生態研究園の管理人という立場を手に入れたことを考えたなら、客観的に見ても前進していることは間違いない。

 以前の自分では考えられないことだが、どうやら少しは前に進めているらしい。

 

 

 その前進は正しいか?

 

 それについては、分からない。半年前なら即答出来ただろうが今の俺では無理だった。それに回答するだけの勇気がなかった。

 

 あの時。——アナスタシアを連れて行こうとして、ミュルジスに止められた時。彼女の声を通して感情が聞こえたんだ。強く訴えかけてくるようだった。足が止まって、動かなくなった。

 俺はアナスタシアの容態を優先すべきだと思っていて、それが間違ってると言えるはずもないが、正しいと断言することも出来ない。

 

 

 誰だろうと真になすべきことを知っている人はいない。科学の発展然り、己の大願然り、どこかで軸を決めて前を目指しているだけで、全ての人にとって正しい行いなど、どこにもありはしない。

 人の数だけ正しさがある、なんて陳腐な物言いだが、その通りなんだ。

 

 これは、ミュルジスにとっては正しくないことかもしれない。アナスタシアを一人にさせようという考えは理解出来るし、それを選んだミュルジスが間違っているとは言えない。

 しかし、そうやってミュルジスが考えるように、俺もまた考えている。その結果、アナスタシアには仲間が必要だと思わずにはいられなかった。

 

 

 

 生態研究園は3つの区画に分かれる。

 一つ目に実験室や器具室など、管理下の植物を利用する研究区画。二つ目に、警備員の詰所であるセキュリティルーム、客人などを案内するための大ホールなどが設置された外部区画。三つ目に俺とミュルジスが寝食を行う生活区画。

 

 研究園で働く職員らは研究区画しか利用しないし、アナスタシアなどの私的利用者は専ら外部区画を利用するため、誰も生活区画に立ち入ることはない。

 ミュルジスが恋人を連れてきたこともないし、というか本人曰く作ったこともないらしいので、つまり——正真正銘これが初めてのことになるわけだ。

 

 

 どこか落ち着かない様子で向かいに座ったアナスタシアの表情には幾分か生気が戻っていた。

 ライン生命印の鎮痛剤はよく効いたらしい。

 

「水でいいんだったか」

 

「ええ、結構です」

 

 休憩室には他の利用者がいた。彼らはアナスタシア、そして俺の頬を見て顔を顰めた。嫌味を言い始めたアナスタシアを押さえつつ鎮痛剤を服用させ、すぐにその場を去った。

 

 尊重されたいのなら、まずは相手を尊重しなければいけない。感染者という自覚を持ち、分別を付け、それでようやくこちらからの要求が許されるというものだ。

 そんなことを話す道すがら、アナスタシアは終始ぶすっとした顔付きだった。

 

 理解しているが、素直に従えない。

 まるで子供のようだった。

 

「良かったんですか」

 

「何が?」

 

「研究園の奥に入れて良かったんですか、という意味です。主任から怒られませんか?」

 

 どうやら俺を次の標的に定めたらしい。不機嫌そうな目をしている。否定せずに窘めるべきだろうか?

 いや、それは良くないな。

 アナスタシアの思考は悪い方向に向かっている。誰かから止められなければ止まらないだろう。そしてこの場には俺しかいないのだから、俺が止めなければいけない。

 

「ターシアは勘違いしてる」

 

「……確かに、入ってはいけないという規則はありません。ですが主任は——」

 

「そうじゃない」

 

 コトリ、と水の入ったグラスを置く。

 

「まず、感染者になったから、心配を無下にされたから、なんて理由で人を嫌うほど、ミュルジスは不器用じゃない。だから勿論、君のことを嫌いなはずがない」

 

 アナスタシアの態度にはトゲがある。些細なことに目くじらを立てるし、近付かれたなら突き放す。しかし、それは傷付けられることを恐れた自己防衛に過ぎない。

 

「次に、ミュルジスはそう狭量じゃない。鉱石病に罹って精神が不安定になってるのを理解できない人じゃない。確かにさっきはターシアを詰ったけど、それは俺のことだったから、だと思う」

 

 「役立たず」と言われた俺のためにミュルジスは怒ってくれた。それはアナスタシアの事情を度外視したわけじゃない。恐らく俺を特別視しているから、天秤がそちらに傾いただけだ。

 非感染者とは言えミュルジスは頭が良い。アナスタシアがどれだけ苦しんでいるのか察してくれているだろう。

 

「だから、ターシア」

 

 自己防衛。アナスタシアのそれには、過度の、という補足が付く。つまり、言うなれば——

 

「その心配は被害妄想だ」

 

 アナスタシアが唇を噛む。

 

「君が思うより君は嫌われてないし、疎まれてもいない」

 

 コミックなら心を掴めたのかもしれないが、これは現実だ。俺が言葉を尽くしてもその不信は解れないだろう。現に今、彼女は猜疑の目を俺に向けている。

 

 それでいいんだ。

 

 俺がそうだったように、キッカケの『何か』さえ彼女に訪れたなら、言葉は記憶の底から蘇ってくる。降り積もった雪が少しの衝撃で屋根から落ちるように、どれだけ些細な言葉だろうと頭に蓄積しているものだ。

 アナスタシアが鉱石病の呪縛から身を捩り、抜け出そうとするその時に、少しでも背中を押せたなら、それでいい。

 

 アナスタシアはじっと俺を見つめて、何を思ったのか溜息をついた。

 

「何も分からないのに、と言ったことは訂正させてもらいます。あなたは感染者ですから、多少は重なる部分があるでしょう」

 

「ああ、少しなら分かってやれると思う」

 

「だから訂正です。何も分からないのではなく、あなたには思慮が足りません。相手を思いやれないから私に近付くんです。違いますか?」

 

 手厳しい。

 

「自分の言葉が芯を食うだろうと勘違いするのは結構ですが、私を巻き込まないでください。あなたの自己満足に付き合う義理はありません。ご高説なら主任にどうぞ」

 

「加減してくれ。泣きそうだ」

 

「へえ、主任に泣きつくんですか。私の立場を悪くするのがお好きなようで結構です」

 

 つんと言ってのけるアナスタシア。それまでの言葉とは違って不思議とトゲが感じられず、その見覚えある頑固さに安心してしまいそうになる。

 

「……なんですか?」

 

「なんでもない」

 

「それならニヤニヤしないでください。気分が悪いです」

 

 それはそうと心が痛い。俺にマゾヒストの気質はなく、ストレートな悪口が心に刺さる。前々からそう思われていた可能性を考えると更に辛い。

 

 それから少しの間、会話を重ねた。

 勿論談笑などと言えるものではない。意固地になって俺を追いやろうとするアナスタシアと、どうにか受け流そうとする俺。誤って受け止めてしまった言葉の一つ一つがメンタルにクる。

 

「それでも、言いたいんだ。俺やミュルジスにはターシアを攻撃するつもりなんかないって」

 

「諄いですし、どうでもいいです」

 

「ターシアからしてみればそうかもしれないが、俺が納得できないし、不安なんだよ」

 

「結局自己満足ですか」

 

 取り付く島もない。

 つっけんどんに返すアナスタシアは、しかしどうやら様子が違った。冷たい視線、溜息、その中に僅かな諦めが混在している。

 

「——ええ、分かりました。分かりましたよ。あなたの態度は分かりました。だから一つ私についてお話をしてあげます」

 

 少しは心を開いてくれただろうか、と淡い期待を持つ時期は過ぎている。それでも、アナスタシアが自分から話そうとしてくれたことに嬉しくなった。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 ある所に、一人の少女が住んでいました。両親が帰ってくる日は半年に一度ほどで、生活の大半は隣の家に住むお姉さんに任されていました。

 

 少女は人を怖がっていました。故郷の国を出る時、官憲のお兄さんと隠れんぼをすることになったからです。

 少女の叔父さんは優しい人でした。それ以外の人が、そうではなかったというだけで。少女が隠れんぼを終えて家族の下に帰ったのは、太陽が顔を出した頃でした。

 

 少女は背後を怖がっていました。父親が鉱石病に罹ったということだけで人に殴られたことが、その時の頭蓋に響く打突音が、ずっと脳内に響いていたからでした。

 

 少女は隣人を怖がっていました。彼女は優しく微笑んでいましたが、それは官憲のお兄さんが浮かべていた笑顔と大して変わらないように思えたからです。

 

 

 少女は色々な問題を抱えていましたが、ハイスクールに入学する頃には、それらのうちいくつかを解決し、隣人のお姉さんと打ち解けていました。

 

 両親が死んだのはそのあたりのことです。

 会えなくなって一年以上を過ごして、少女はそれを半ば悟っていました。訃報がポストに入れられていた時には、悲しみや怒りが湧き上がったものですが、翌日には忘れていました。

 

 とうに彼女の関心はそこにありませんでした。通過儀礼のように流した涙が錆を落とし、彼女はいよいよ新しい生活を受け入れることになりました。

 

 そんな折に、隣人のお姉さんが居なくなりました。

 少しばかりの心配を胸に、しかし彼女は心配していませんでした。血を衣服にべっとりと纏わせたお姉さんが駆けずり込んでくるまでは。

 

 匿って欲しい。誰かの血がぬらりと光ります。朱色の斑点を付けたアーツロッドを手に、お姉さんは要求を突きつけました。

 

 

 それから、数日。

 彼女は自室で放心していました。

 

 お姉さんは捕まりました。優しい隣人のお姉さんという仮面が剥がれ落ちたその時、要求に従おうとも、拒絶しようとも、彼女には思えませんでした。

 ラベルを張り替えたのです。彼女にとってお姉さんは、ただのお姉さんでした。優しい人がいつまでも優しいとは限らないことを、彼女は知っていたからです。

 ただの隣人で、人殺しのお姉さん。彼女は感情の熱を忘れたかのように、ただ粛々と犯罪者の対処を進めました。

 

 無駄でした。その人に付き合った時間の全てが、紙屑より価値が低いように感じられました。

 人が誰しも持っている多面性を受け入れがたく思ったんです。彼女の語彙では形容できない不定形の不気味さがありました。

 

 病気ではありません。治したいとは思いません。私にとって他人は元より理解出来ない存在ですから、受け入れられてしまう自分を想像すると、怖気が立つほどです。

 

 無駄。複数の顔を持ち、いつ利害を違えるか分からない存在に対して仲間意識を感じることなど、馬鹿馬鹿しい。少女はそう思うようになりました。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

「私の柱はずっと前から緑色に染まっていて……それは、あなたのように、或いは主任のように、致命的な部分を他人に依存している人とは違うんです」

 

 その言葉に劣等感は見えない。元より疑っていなかったが、方便で言っているわけではないのだろうとハッキリわかった。

 

「私はあなたの言葉が信じられないわけじゃありませんし、言葉の裏はどうなっていようが関係ありません。複数の顔を持つ人という生物が、心底、気味悪く感じているだけですから」

 

 話してくれたのは心を開いたからじゃない。そう確信出来るくらいに、アナスタシアの警戒は衰えていなかった。

 

 ぐっと腹に力が入る。

 

「鉱石病に罹る前からそうだった、のか?」

 

「ええ。今の私には、何故あなたたちと親しくしていたのか、ということすら分かってないんです。ずっと前からそうだったはずなのに、どうして、忘れていられたのか……」

 

 俺の目から見ても分かるほど左腕を強く握っていた。傷口が疼くのだろう。不快そうに眉を顰めている。

 

 突然、アナスタシアが席を立った。

 

「待ってくれ、ターシア。鎮痛剤が効かないなら、尚更休んでいた方がいい。仕事は俺がやっておくから」

 

「くどいですよ。あなたの言葉を聞く義理なんてないと言ったはずです。忘れたなら、もう一度申し上げましょうか?」

 

 全く聞き入れてくれないようだ。

 それでも、今のアナスタシアに仕事をさせて、そのせいで彼女が倒れてしまったらとんでもないことになる可能性がある。安定していない感染初期の鉱石病は発作が怖いんだ。

 

「——はぁ。心配は必要ありません。お手洗いを借りるだけですよ。この体調で満足できる仕事は、どうやら不可能のようですから」

 

「そうか、それは良かった。本当に。……手洗いは向こうに行けばある。何かあったら呼んでくれ」

 

 安心してほっと一息吐く。アナスタシアは部屋を出ていった。生活区のトイレは研究区のものとそう変わらないし、問題はないだろう。

 

 ポツンと残され、コップを傾ける。

 

 何も出来ない役立たずが一人きりになったわけだが、考えることは多い。

 アナスタシアの鉱石病のこと、ミュルジスに嫌な役をさせてしまっていること、偏見が根付いている研究員たちのこと。

 

 しかしながら役立たずは役立たず。

 何の解決も浮かばない。

 

 ただただ問題点を暗唱するだけの思考に頭を抱えていると、誰かが入ってきた。それは手洗いと反対の方向からだった。

 足音が背後に周り、声を出す。

 

「この時間帯に、ジズがここにいるなんて珍しいわね。やっぱり考え事かしら?」

 

「良いアイデアは浮かばなかったけどな」

 

「……ターシアのことを言ってるなら、アレは頭を悩ませるだけじゃ解決できないことだし、根を詰めすぎないように注意しなきゃだめよ?」

 

「分かってる」

 

 見上げると視線がぶつかった。

 こちらを覗き込む宝石の瞳は至って普段通りだ。ホールに取り残したことは気にも留めていないらしい。機嫌が傾いているわけでもないし、何ならどこか微笑んでいるようだった。

 

 艶のある髪が重力に従いカーテンを作る。今この瞬間、俺の目にはミュルジスしか映っていなかった。

 綺麗な顔だ。白い肌と小ぶりな唇、大きな目に整った鼻。美容に興味がない俺でさえ分かる美しさがそこにはあった。

 その上、ミュルジスは善人だ。リアリストの気はあれど、どこかのヤギに見られるような倫理観の欠落は全くない。

 

 そう、善人なんだ。

 ミュルジスは根も葉もない風評を理由に差別するような人ではないし、他人を理解してやれる共感性を持っている。

 それに彼女は知っている。多数派によって運営される統一された社会が少数派にとってどれだけ生きにくいか、その身で常に感じている。

 

 だから、問題ないはずだ。

 

「なあ、ミュルジス。ターシアのことなんだけど」

 

「その話はあとにしましょ?」

 

 間髪入れずにそう言われた。ミュルジスはわざとらしくニコニコと笑っている。あまり話したくない、のだろう。

 だが、それではアナスタシアの被害妄想がいつ解けるかわからない。俺一人で出来ない以上はミュルジスに手伝ってもらうことが最低条件なんだから。

 

 まずは機嫌を取るか。

 

「俺が役立たずだって言われた時に、ミュルジスは、俺のために怒ってくれたんだよな? これが勘違いなら——」

 

「勘違いなんかじゃないわ。ジズがそんな風に言われて黙ってるほど、あたしの度胸は小さくないんだから」

 

「そうか。それなら、ありがとう」

 

「どういたしまして、かしら?」

 

 よし、今なら話せる気がする。

 

「それならミュルジスは、ターシアを嫌ってるわけじゃないよな? 容赦なく怒ったのは、ターシアが嫌いだからじゃない、そうだろ?」

 

「……それを聞いて、どうしたいの?」

 

 答えはなかった。

 ミュルジスの表情がすぅっと冷たくなっていく。細められた目には不快感が強く蠢いていた。

 

「アナスタシアと話すために、都合のいい口実が欲しいの? あたしとの会話は全部、ただの理由付けでしかないのかしら?」

 

「どうしてそんなことを」

 

「そうとしか思えないからそう言ってるのよ、ジズ」

 

 顔が見えなくなる。耳元に吐息がかかった。肩越しにミュルジスの腕がだらんと下ろされて、俺の胸の前あたりで手を組んでいる。

 

「アナスタシアのことを嫌いじゃないって言ったらそれを伝えるために話しかけるんでしょ? それなら嫌いだって答えてあげるわ。あたしの言葉を、他人と仲を深めるために使わないで」

 

 アナスタシアは、他人なのか。

 

「ジズの特別はあたしとターシアの2人でも、あたしの特別はあなたしかいないのよ」

 

 つう、と白魚が這う。

 俺は動かなかった。

 

「きっとあたしのことを薄情に思うわよね。でも、よく考えてみて欲しいの。たった半年の付き合いと、何十年も離れなかった絆と、どっちを選んだ人の方が薄情かしら?」

 

「それは……」

 

 ミュルジスの言葉は間違っている。

 そんな問題ではなかったはずだ。

 

 ただ、俺にはどこが間違っているのか分からなかった。思考を巡らせるのは苦手だ。俺には向いていない。

 

「それに、ジズ。あなたよりあたしの方がこういう状況には慣れてるのよ。あたしの言葉を聞いて、今はそっとしてあげて。アナスタシアだって子供じゃないんだから、自分で折り合いくらい付けられるわ」

 

 アナスタシアはそんなに強い人だろうか。一人にするのは返って危ないことのように感じる。

 人を信じることの経験が不足しているから、考えれば考えるほどに自衛しなければいけないと思い込んでしまいそうだ。それは間違っていると誰かが言わなければいけないのではないか。

 

 仄かな風が頬を撫ぜていった。

 ドアに視線を向けたことが気配で分かった。

 

 そのドアから、アナスタシアが入ってきた。

 

 緊張が訪れた。アナスタシアはミュルジスと目を合わせたまま、椅子を引くこともせずに立っている。半分だけ水が入っているティーカップに、ミュルジスは今更気付いたようだった。

 

「どうして、ここにいるの?」

 

 思考の渦からこぼれ落ちたかのような言い方だった。声に出した自覚がミュルジスにあるのか、疑問なくらいに。

 俺の肩を痛いくらいに掴んでいる。小さな声で「なんで」「だって」と繰り返している。きっと疑問の答えはノーだ。ミュルジスの頭はクエスチョンマークで埋め尽くされている。

 

 口から溢れる言葉の数々が消えると、ミュルジスは剣呑な雰囲気で言った。

 

「出て行って」

 

 アナスタシアは動かなかった。

 

「出て行って!」

 

 ゆらり、と揺らめくように歩き出した。

 その顔はずっと変わらず、まるで予想通りだと言っているかのようだった。それが俺には危険信号に見えた。

 

「待ってくれ」

 

「ジズ。お願いだから黙っていて。これ以上、あたしはあなたに嫌われたくないの。大きな声を出したくないのよ」

 

「理由があるんだ」

 

「ええ、分かってるわ。あたしの大切な思い出を台無しにされそうになって、あたしの大切な場所に異物を入れられて、それで理由がなかったなら、あたしは涙の流し方すら分からないもの。当然あるでしょうね」

 

 アナスタシアが出て行った。

 ドアが閉まった。

 

 深呼吸の音が響く。

 

「……理由については、話さなくていいわ。どれだけ大層な理由があっても許せないし、小さかったら傷付くだけだもの。それに、ジズが連れ込んだってことも分かってるから。分かりたくないことだったけど」

 

 首のあたりに吐息がかかる。

 髪が頬にかかる。

 

 肩のあたりに顔を埋めているようだ。

 

「ミュルジス」

 

「イヤよ」

 

 がっちりと拘束されているのは、アナスタシアを追いかけて行かないように、という意図だろう。

 

 やはり、ミュルジスはアナスタシアを一人にすることが最善策だと思っているのだろう。彼女は彼女で自分に出来る限りのことをして、最大限に慮っているんだ。

 それを俺に邪魔されたから苛々が募ってしまい、アナスタシアに八つ当たりしてしまった、とか。

 

 それなら、俺がどうしてアナスタシアのそばにいてやるべきだと思ったのかを伝えることが一番大切なんじゃないか?

 それを分かってくれたなら、ミュルジスは今のことを許してくれるはずだ。俺を役立たずと呼んだことに納得だってしてくれるかもしれない。

 

「ターシアは——」

 

「今はその名前さえ聞きたくないの。分かるわよね、それくらい。黙ってあたしに抱かれてなさい」

 

 拘束する力が強くなる。

 

 ……まさか、本当に、アナスタシアのことが嫌いなのだろうか。それなら何が気に入らなかったのだろうか。答えは思い浮かばない。

 

 思い返せば、アナスタシアが俺を役立たずだと言った以前から、ふとした時に不満そうな顔をしていた。何かストレスになることがあったのかもしれない。それで、必要以上に怒ってしまえたのだろう。

 

 何か問題があった。そのせいで八つ当たりしてしまった。ミュルジスには余裕がなかったんだ。そう考えれば辻褄が合う。

 

 そうだろう、ミュルジス。

 

 

 この半年で見てきた景色を思い描く。

 ミュルジスとアナスタシアが楽しそうに話し合っていた記憶。俺が2人の協力を得て取り組んだ研究だってあった。

 

 ミュルジスはアナスタシアのことを嫌ってなんかいないはずだ。あれだけ親しそうにしていたんだから。自慢の部下だと言っていたんだから。

 ミュルジスはアナスタシアに嫌われてなんかいないはずだ。あれだけ尊敬していたんだから。信頼できる上司だと慕っていたんだから。

 

 元の関係を取り戻したい。

 きっと今は、すれ違っているだけなんだ。

 

 そのはずなんだよ。

 

 

 




 
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