ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象   作:e-2

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名称:ジャコウナデシコ(黄)【麝香撫子】
綱目:ナデシコ科ナデシコ属
花言葉:「侮辱」「嫉妬」「愛情の揺らぎ」
 


麝香撫子の黄花

 

 

 

「搬入不備について報告です。擦り合わせた結果、先方の都合で明日明後日は難しいと。その補填内容がこちらになります」

 

「それで?」

 

「はい、第一に今回の——」

 

「そうじゃなくて、あたしが聞きたいのはもっと建設的なことよ。明後日到着予定の希少な植物種たちをどうやって迎えるつもりなのか、聞かせてもらえるかしら?」

 

「現在の見通しでは、一時的にですが既設区画の未使用部分を利用出来ればと考えています」

 

「それが出来るなら特別な土壌を用意することも区画を新設することもなかったわよね。あたしが求めてるのはそういう無責任な対処じゃないの。……あなたには期待してたんだけど、違ったのかしら?」

 

「急ぎ都合が付く取引先を探してきます」

 

「ええ、頼んだわよ」

 

「失礼します」

 

 パタン、とドアが閉まる。

 ミュルジスは溜息を吐いた。

 

 彼はどちらかといえば使える方の部下ではあるが、柔軟性に欠ける。報連相を重視していて堅実、それだけで上を目指せるほどライン生命は甘くない。

 主導の研究で大した手柄を挙げているわけでもないため、昇格はまたの機会だろう。

 

 そこまで考えて、ミュルジスは深く深呼吸した。私事に引き摺られて気分が下を向いていると自覚したからだ。

 

「ん、ん〜っ」

 

 大きく伸びをしたあと、机に肘をつく。ペラペラと資料を捲ってはつまらなさそうな顔で溜息を吐き、終いには窓の外を眺め始めた。

 粘着質な態度で対応を迫る上司の姿としては非常に模範的だろう。

 

 徐に手が端末に向かい、しかし引っ込められる。どうやら最低限の理性はあるらしい。葛藤がありありと顔に浮かんでいる。

 

 今は仕事中だ。通信を諦める代わりに、妥協案を取ることにした。ウェアラブルデバイスのパネルに指を滑らせ、彼の居場所を特定する。珍しいことに研究区画で作業しているようだ。

 

 その理由を推測し、次いで苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。調べてしまったことを後悔した。

 分身体を向かわせることを考えたが、悪手だろう。居合わせることが予見されるもう一人の顔を見てしまえば、彼にとって不愉快な言動をしてしまいそうだからだ。これ以上印象を下げるのはこちらの精神衛生上非常によろしくない。

 

 まあ、いい。そう判断して元の画面に戻した。感染初期の彼女に付き添いが必要だということは理解しているし、それは同じく感染者である方が摩擦も少ないだろうと分かっているのだ。

 

 それはそれとして、面白くない。

 看病された覚えこそあっても、過保護にされた経験はない。彼に甘やかされるたび、跳ね除けるのではなく甘えてきたのだから当然のことだろう。

 彼という存在は——多少の語弊こそあれど——ミュルジスのものだ。家族であり、相棒であり、味方だ。それが新参者に脅かされている。不愉快極まりない。

 

 感情を整理すればするほど翳りが勢いを増していく。カフェラテで流し込んでも大した効果はない。

 

 結局、ミュルジスは端末を起動した。

 

「ハーイ、ジズ。今は何してるの?」

 

 彼の声が聞こえる。

 少しだけ眉を顰めた。

 

「濁さなくていいわよ。アナスタシアといるんでしょ? あたしに気を使うのはいいけど、誤魔化すようなことはしないで」

 

 沈黙。そして、小さく肯定。

 

 カリカリと爪が机を引っ掻く。声には出ない。至って笑顔で、楽しそうに、苛々を発散している。分かっていたことだ。

 

「それで、何してるのかしら? 教えてくれるわよね。言いたくないならそれでもいいけど……スノーサラセニア? ああ、そういうこと」

 

 剥がれたネイルを無感動に見る。

 

 スノーサラセニアと言えば、彼がアナスタシアと2人で試行錯誤していた品種だ。

 向上していく土壌に笑顔を浮かべる彼女(スノーサラセニア)を見て、かつてのミュルジスは優しく微笑んでいた。

 今ではどうだろうか。

 

「怒ってる? あたしが? どうして? ええ、そうよね。怒る理由がないものね。あなただってそう思ってるから、アナスタシアと居るんでしょ?」

 

 声だけは明るく振る舞っていたが、少しずつ表情が曇っていく。本当に怒っているわけではないのだ。苛立たしさはあれど、強く憎めるほどの怒りはない。

 

 はぁ、と溜息が漏れた。

 

 沈む心には抗えず、伏目がちになる。机に浅く腰掛け、口元が弧を描いていても、その雰囲気は強く悲哀の色を見せていた。

 

 一人相撲は寂しいものだ。

 彼がアナスタシアを特別視しているのか、或いはミュルジスとの関係を軽視しているのか、それはどちらでも関係ない。

 ミュルジスは彼との関係性だけを大切に思っていて、揺るぎない一等を与えていたのに、彼がそうではなかった。それがどうしようもなく悲しかった。

 

 こちらの雰囲気を察しているのだろう、押し黙った彼に問いかける。

 

「一つだけ聞いてもいいかしら? 分かりきってることかもしれないけど、確かめたいの。もし仮にあたしが——」

 

 ジズ。

 

 僅かに聞こえた彼の名を呼ぶ声。

 ハンマーで頭を殴られたようだった。

 

「あたしが、その……」

 

 ぽつりと言って、正気に戻った。ショック療法のようなものだ。アナスタシアの声が聞こえたことで冷静になれた。

 

「ごめんなさい、何でもないの。気にしないで」

 

 そう言って断る。彼は深く踏み込んでこなかった。怒っているとまだ勘違いされているのだろう。

 つつかれたかったわけではないため好都合だったが、アナスタシアとの対応の差を感じて納得が行かない。まるでお前はどうでもいいと言われているように感じた。

 

「愛してるわ、ジズ」

 

 少しの間を空けて同じ科白が返ってくる。

 通話を切った。マグカップの中身は冷めていて、眉一つ動かさずに喉奥へと流し込む。それは口に残っていた文句を力任せに押し込み、落ちていった。

 

 さあ、仕事に戻ろう。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 流れていく水をじっと眺める。

 顔から滴る水滴が渦に飲み込まれる。

 

 鏡に映る自分の顔は前世と比べ物にならないほど整っている。身体が弱いせいで肉付きも悪く、線が細く見える。

 コンプレックスだった顔面が改善されたのはいいが、出来ればもう少し体を強くして欲しかったと毎日のように思う。吹けば飛ぶような体で孤星のミュルジスを補佐できるか心配なんだ。

 

 鉱石病に感染したエルフの寿命は一ヶ月。それが無効化されていることは助かっているんだが、それだけのことが出来るなら他の病気にも——いや、高望みか。

 

 タオルで水を拭う。

 ミュルジスはもう仕事に向かっているし、軽く身嗜みを整えたあと、すぐに出勤しよう。

 

 ああ、そういえばシェーバーは充電していたんだったか。部屋まで取りに行こう。

 

「あっ、と……」

 

 洗面台から離れようとして、それを忘れていることに気付く。

 

 腕時計型のウェアラブルデバイス。ミュルジスと対になっているそれは、心拍数や健康状態を共有することが出来る。

 共有とは言っても双方向ではない。俺の方では測定した結果を送信することしか出来ず、ミュルジスの方ではそれを受信することしか出来ない。これが今の電子機器の限界らしい。

 

 これのせいで、昨日はミュルジスに怒られてしまった。アナスタシアに付きっきりだとバレたからだ。

 

 俺は少しだけ迷って、デバイスをそのままにした。どうせ戻ってくるのだから少し着けていなくたって問題ないはずだ。

 着けるのは後にしたって、いい。

 

 ……着けなければいけないだろうか。

 

 

 

 昼下がり。

 

 食欲が湧かないからと昼食を抜いているアナスタシアにパンを押し付け、俺は半ば無理矢理に同席していた。他の研究員と顔を合わせないように外部区画の隅の方を使っている。

 アナスタシアは最初こそ嫌がっていたが、回数を重ねた今では文句がそこそこ少なくなった。ゼロにならないあたり壁の分厚さを感じる。

 

 憮然とした表情でクロワッサンを見つめているアナスタシア。美人はどんな状況でも美人らしい。小麦色の三日月がお洒落なアクセサリーに見えてくるようだ。

 

「合理的に考えてください」

 

 突然、アナスタシアがそう言った。

 ふかふかのクロワッサンは雑に袋へと戻される。本部ビルまで足を伸ばして買ってきたのだが、お気に召さなかったようだ。

 

「おかしいですよ。今日は主任から直々に通信で牽制された、その翌日です。一日くらいは諦めて然るべきでしょう。何を当たり前のような顔してそこに居るんですか」

 

 何を言い出すかと思えばそんなことか。多少毛色は違うものの、いつも聞いている「どこかへいけ」と変わらない。

 

「別に、ミュルジスのアレは牽制じゃない」

 

「それならどうして今日は時計を着けていないんですか? 主任に位置を知られたくない、そう思っているからでしょう?」

 

「気付いてたのか」

 

 目が合うことは余りにも少ない。僅かな視線しか寄越してくれない。そう思っていたが、もしかして多少は俺のことを気にかけてくれていたのだろうか。

 

「時折手首を見て苦い顔をしていたので気付いただけです。あなたを普段から観察しているわけではありません」

 

 どうやら俺が分かりやすいだけの話だったらしい。残念だが、当然のことか。

 

 これ以上2人の仲が悪くなって欲しくない。言い訳にもならないが、そう思ってしまったんだ。

 一日だけなら忘れただけだと思ってくれるかもしれないし、アナスタシアと居るのを見られなければ誤魔化せる。問題点は罪悪感で泣きそうになることくらいか。

 

「今でも、私が主任に嫌われていないと言えますか? 私に近付くのはもうやめてください」

 

「……確証も無いのに人の気持ちを代弁したのは、ごめん。俺が何か見えてないようなら、それもごめん。だけど、話はさせてくれ」

 

「嘘吐きの恥知らずですか。たとえ人嫌いでなくとも付き合いたくない人種だという自覚はありますか?」

 

 俺は頷かなかった。

 そう言いつつ左腕を庇うような動きを見せるアナスタシアに、心配が勝ったんだ。

 

 実を言うとアナスタシアの言葉でダメージを受けたことはあまりない。前世で鏡に向かって言っていたことと大して変わらないからだ。

 人に難癖を付けているだけのニートになる前はそれなりに悩んでいたから、アナスタシアの言葉は優しく思えるくらいだ。

 

「気持ちが悪い……」

 

 優しく思えるとか言ったのは法螺だ。

 言われたことをベッドの上で反芻して落ち込むくらいには刺さってるし、マゾヒストではないのでそれなりに辛い。

 

 口撃を喰らいながらもどうにか頼み込んでいたそんな折に、端末が震えた。

 ミュルジスから急な仕事の連絡だった。

 すぐに行かなければ不審に思われるかもしれない。

 

 アナスタシアに一言断って、早足で仕事に向かった。

 

 

 

 今までのことを一度整理しておこう。

 

 まず、アナスタシアが鉱石病に感染した。攻撃的な態度はその翌日の夜から始まった。最初は鉱石病に罹ったストレスでピリピリしているものと思った。

 ミュルジスと俺が研究園を出た日、アナスタシアは俺に憤った。その時に一番気になるのは「役立たず」ではなく、「お前を信頼していない」と言ったことだろう。アナスタシアは恐らく鉱石病に罹ったことで人間関係の自信を喪失し、結果人からの好意を拒絶した——と、その時に思った。

 問題がそれだけではないと分かったのはその少しあと。複数の顔を持っていることが気持ち悪い、と言っていた。延いては社会的生物てある人間全体を拒絶していた。

 

 これらの根本にあるのは、アナスタシアの過去にある2つのトラウマだ。

 一つ目に、親が感染した途端に近所の住民から差別されるようになったこと。誰かに殴られたんだったか。

 二つ目に、親しくしていたお姉さんが殺人犯になったこと。返り血を浴びた状態で家に押しかけられたなら確かに怖いだろう。

 ハイスクールに入った頃なら14か15くらいの年だろうし、色濃く影響が残るのは仕方ないことか。

 

 

 足を止める。昼食の片付けを忘れていた。

 まさかそれのせいでミュルジスに勘付かれることはないだろうが、万一のことを考えて持って行った方がいいだろう。

 

 俺は誰もいないホールを引き返す。

 

 

 『人を完全に知ることはできない』

 

 2つのトラウマと言ったが、アナスタシアが怖がっている要素はこの一文に集約される。

 

 複数の顔に抵抗を覚えるのは普段一つの顔しか見えないからだ。顔が二つも三つもあれば話は別だが、そんな化け物は人ではないし、それはそれで怖い。

 複数の顔があり、そのうちの一つしか知ることが出来ない。複数の顔の中には「対感染者の顔」があり、攻撃的ではないかもしれないが、アナスタシアには分からない。

 今まで親しくしていた俺たちが「対感染者の顔」に変わる。つまりは敵になる。それが怖くて攻撃的な態度を取っているんだと思う。

 

 感染するまで、何故俺とミュルジスが特別扱いを受けたのか。それはアナスタシアの中心が植物にあったからだろう。

 恐らく、アナスタシアとミュルジスは最初から仲が良かったわけではない。どんな過程があったのかは分からないが、植物という特殊な領域を通して少しずつ認めていったに違いない。

 そして、俺はそのおこぼれに与ったんだろう。

 

 

 色々考えてこのあたりが妥当だ。

 だから俺は「対感染者の顔」なんて持っていないことを示すためにしつこく付き纏った。手のひらを返さないことを分かってもらうには、言葉より行動で示さなくてはいけない。

 今の俺が味方であることも伝え続けた。感染者の先輩として理解者ぶっていただけだが、それが大事だと思った。

 

 アナスタシアの問題は一朝一夕で解決されるものではないし、根気が重要だ。

 ミュルジスが嫌がるのは、俺が彼女を拒絶することだから、アナスタシアと親しくすること自体は大した問題でもない。

 まあ、多少は不愉快なのかもしれないが、元のアナスタシアに戻ってくれればそれも解決するはずだ。

 

 今はアナスタシアを優先しよう。

 

 

 思考を打ち切った。

 さっきの場所まであと少しだ。

 

 アナスタシアには呆れられるかもしれないが、今更な話だから何ともない。

 メンタルが強いのではなく慣れてきただけなので、そのあたり手心を加えて欲しい所ではあるが——

 

「あたしはいつあなたを解雇したっていいのよ、アナスタシア」

 

 ——聞こえたのは、冷たい声だった。

 

「あなたが言っていたように、あたしはいつでもあなたをCDC*1に叩き込めるの」

 

 高圧的な声だった。

 

「頭まで石になったわけじゃないなら、それくらい分かるわよね?」

 

 聞き慣れた声だった。

 

「何、してるんだ?」

 

 彼女はパッと振り向いた。

 勘違いであってくれと思う反面、勘違いであるはずがないと分かってしまっている。

 

 だから俺は、どうか夢であってくれと願いながら、その名を呼んだ。

 

「ミュルジス」

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 心拍数、測定不能。

 位置情報は全く動かない。

 

 ミュルジスは溜息を吐いた。

 そういうことだろうと分かっているため、どんな言葉でその悲しみを晴らせばいいか分からなかった。

 

 心に暗雲が逆巻く。

 煙のように重い溜息は次から次に湧き上がり、何度吐き出しても変わらない。

 

 向き合い方を間違ったのだろうか。

 独占欲があるのだと初めから伝えておけば、それを考えて動いてくれただろうか。

 

「そんなこと考えたって、仕方ないわよね」

 

 問題は今、彼が止まらないことだ。

 直接通話して脅してやった翌日に事態が悪化しているのだから、並大抵の制止では効果がないだろう。

 実際に説得したところで、アナスタシアが元に戻るまでの辛抱だとでも言われそうだ。その説得を頭ごなしに否定してもいいのだが、間違いなく反感を買う。それは避けたい。

 

 スマートな解決策。

 それはアナスタシアの方に働きかけることだろう。部署を移らせるとか、フィールドワークに駆り出す——のは身体上問題があるが——とか、とにかくやりようはあるのだ。

 

 

 そういうわけで、彼を適当な仕事で呼び出して、アナスタシアと話すことにした。

 

 彼は落ち込むだろうが問題ない。

 その隣にはミュルジスがいるのだから。

 

「久しぶりね、ターシア」

 

「……」

 

 不機嫌そうな目でこちらを見る。

 やっと一人になれると思った矢先の出来事だろうから、その反応も仕方がないだろう。

 

「どちらで呼ぶのか定めてください」

 

 仲が悪くなってからは使っていなかった愛称で呼んでみたのだが、どうやらお気に召さなかったらしい。

 

「それならアナスタシアって呼ぶけど、あなたに話があるのよ。とっても大事な話が、ね」

 

「研究園から離れろという内容なら嫌です」

 

 アナスタシアはハッキリとそう言った。

 眉を顰めるミュルジスに、やはりか、とでも言いたそうな顔をして、クロワッサンをを一口頬張った。

 

 ごくん。指で口の周りを拭ってから、アナスタシアはわざとらしくため息を吐く。嫌だと言ったのだから話は終わり——そう示したつもりだったが、理由を告げねばミュルジスは退かないと分かったのだ。

 面倒そうな顔つきで口を開く。

 

「ジズに相手されている私が羨ましいから遠ざけたい。ただ、それを彼に直接言っても拒否されるか印象が悪くなる。だから私に言った。そうですよね」

 

 ミュルジスは何も答えない。

 ジズ以外にとって、ミュルジスがアナスタシアを羨んでいることは分かりきっていた。その自覚はあった。だがその当事者に言われては、癪だ。

 

「あなたが臆病でいることのツケを私が払うなんて嫌に決まってます。ただでさえ付き纏われて迷惑しているのに、重ねられたら堪ったものではありませんよ」

 

 ムカつく女だ。確かに迷惑は迷惑なのだろうが、ミュルジスの前でそれを言うとは度胸がある。

 

「あなたが臆病風に吹かれてさえいなければ、もっと早くにジズを止められたはずでしょう。今すぐ説得してはいただけませんか、チキン(リーベリ)さん」

 

「……感染したにしては余裕があるみたいね。その様子ならエネルギー課でも良い仕事が出来るんじゃないかしら? あたしよりそっちの主任の方が、あなたに合ってるわよ」

 

「冗談がお上手ですね」

 

 エネルギー課主任のフェルディナンド。ライン生命が創られた少し後に参入した野心家だ。その頭と手腕は確かなものだが——ここでの意味は「身の程を弁えない自信家」だ。

 

 アナスタシアは左腕を押さえながら嘲笑した。

 

「私にここを出るよう言うくらいなら、さっさと玉砕することをお勧めします。あなたの無駄な懸想の被害者になりたくはありませんから」

 

「部外者に言われたって響かないわね」

 

「何も告げられていない彼が当事者になるなんて随分と杜撰な判断基準ですね。ストーカーと変わらないことに気付いてはいかがですか?」

 

 目の前の女はどれだけこちらを舐め腐っているのだろうか、とミュルジスは現実逃避気味に思案する。

 確かにジズは気付いていないが、ストーカー呼ばわりは不愉快だった。ミュルジスは彼の家族なのだから。

 

「アナスタシアったらなんて酷いのかしら。あたしは感染者でも働ける環境を用意してあげただけなのよ? ……今のまま働き続けられると本当に思ってるのかしら?」

 

 今度はアナスタシアが不愉快になる番だった。

 

「それは脅迫ですか?」

 

「さあ、どうかしらね」

 

 感染者であることに託けてアナスタシアに迫る。客観的に見た自分の醜さを分かっていながら、ミュルジスは笑っていた。

 

 

 嫉妬だけが理由ではない。

 彼に執着されるアナスタシアが不快で、それを迷惑そうに拒んでいるのが不愉快で、だからと言って排除しようとは思えない。

 

 何よりも我慢ならないのは、彼がヘラヘラと笑うようになったことだった。アナスタシアの悪口に、笑って誤魔化す姿が許せなかった。

 そんな姿をさせたくなかった。そんな風に笑って欲しくはなかった。子供のような笑顔を浮かべる彼を見ていたばかりに、変わってしまったことが残念でならなかった。

 

 アナスタシアは、彼に無邪気な笑顔をさせてやれるのに、そうしない。ミュルジスが出来ないことを軽々とやってのけるだけの能力がありながら腐らせている。

 

 ああ、気に入らない。

 

 

 アナスタシアは顔を顰め、捻り出すように言葉を吐く。

 

「お断りします。私が自分からここを動くつもりはありません」

 

「あら、残念。勿論あたしはアナスタシアの意思を尊重するつもりだけど、そう出来ないかもしれないわ。それでもいいのよね?」

 

 白々しいことをよくもまあのうのうと。アナスタシアは痛みが走っていない方の手を強く握りしめた。

 

「悪いと言えば何か変わりますか?」

 

「変わるわよ。ほんのちょこっとだけね」

 

「そうですか」

 

「納得してくれたなら良かったわ。……あら、さっきまでの元気はいったいどこに行っちゃったのかしら? お腹でも痛いの?」

 

 白々しい揶揄を吐く。

 蜘蛛糸のように絡みついたストレスが乱麻の如く快刀によって断たれたのだから、それも仕方のない反応だろう。

 

 はぁ、と溜息が出ていく。

 諦念の虫が思考を虫食いにする。

 

 ——ふふ、とアナスタシアが笑った。

 

 ポストに固執する思いを諦めてしまったアナスタシアは勝ち誇るミュルジスがおかしく思えて堪らなかった。

 

「何を笑ってるのかしら。あなたの言葉は全部空っぽだったとでも言うの?」

 

「研究園から離れざるを得ないのは残念ですよ。それについては認めますが、滑稽なことには変わりませんから」

 

「驚いたわ。負け犬って本当によく吠えるのね」

 

 アナスタシアの嘲笑に、貼り付けられたアルカイックスマイルで応える。頭の中がお花畑の——たとえばジズのような——観衆ならば、それを平和な光景と思うかもしれない。

 

「主任は気付いていますか? あなたとジズの関係は、私と彼の関係と、全く変わらないんですよ」

 

「ありもしない事実にどうやって気付けって言うのよ。無茶言うわね」

 

 口先だけの真っ赤な嘘だ。

 自信を持って言い切ることができる。

 

「主任は、彼を自分の思い通りにしようとしているだけですから。そうならないと分かれば相手が上手くいかないよう働きかけ、それに罪悪感すら感じていないんです。ほら、同じでしょう?」

 

「……あら、そうかしら」

 

 傲慢な考えで相手を捻じ曲げようとしている。その一点から、変わらないと表現していたらしい。

 

 ミュルジスにそれを覆すだけの言葉は見つからなかった。

 しかし認めるわけにはいかない。

 本当に同じことならば、アナスタシアがジズを嫌うように、ジズはミュルジスを疎んでいることになってしまう。

 

 そうして思考の袋小路に追い詰められたかのように思えたが、すぐにその問題は氷解する。

 

「良かったですね。主任は()()()()()()にお似合いだと思いますよ」

 

 ミュルジスにとってアナスタシアはお気に入りの部下だった。第一印象こそ悪かったが、仕事に対する姿勢、能力、信条、それらを知るうちに打ち解けて、気に入るまでになった。

 感染してからは気に食わなかった。生意気で攻撃的で恩知らず。道理に合わない行動を取るくせに、どうして心配してもらえるのか不可解なほどだった。

 

 不愉快だ。

 そう思っていても、最低限部下として扱っていた。フェルディナンドの名前を出したのは口先だけのことだ。研究園からは出てもらうが、生態課を辞めさせるつもりはなかった。

 

 ただしそれは今までの話だ。

 

「あなたって記憶障害か何かなのかしら?」

 

 忘れたとは言わせない。

 ミュルジスは静かに激怒していた。

 

「聞いたはずよね。心配してくれる人を悪く言えるほど、あなたは偉いのかって。一度ならず二度までもそうするってことは、あなたは人を貶めなきゃいけない病気なの?」

 

 そんな病気は存在しない。

 

「あたしの前でジズを侮辱して、許されると思ってるのよね。それともあたしが舐められてるのかしら。まあ、どっちでも構わないけど」

 

 もはや対応は変わらない。

 

「感染者のあなたを雇ってくれる企業なんてライン生命を除いて他にないわ。そしてあたしはそんな会社のトップを務める一人なの」

 

 言葉の意味は分かるだろうか。

 言われたことをすぐに忘れる頭で理解したところで無駄のようにも思えるが。

 

「あたしはいつあなたを解雇したっていいのよ、アナスタシア」

 

 口から出るのは、冷たい声だった。

 

 ふいに持ち上がった右手から飛沫く。

 重力に逆らい渦のような水が束ねられる。

 

「あなたが言っていたように、あたしはいつでもあなたをCDCに叩き込めるの」

 

 高圧的な声だった。

 

 アナスタシアの肩を優しく掴む。

 白魚は首元に泳いで行く。

 

 透明の蛇が纏わりつく。

 ミュルジスの目は冷たく輝き、アナスタシアに選択を強いる。手に力が入っていく。

 

「頭まで石になったわけじゃないなら、それくらい分かるわよね?」

 

 それほど感情的になっていたものだから、ミュルジスはその足音に気が付かなかった。

 

「何、してるんだ?」

 

 彼が呆然とこちらを見ていた。

 

「ミュルジス」

 

 

*1
クルビア疾病予防管理センター




 
頑固と幼稚を書き分けるのがどうにも難しい。
評価、感想、よろしくお願いします。
 
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