ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象   作:e-2

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名称:アジサイ【紫陽花】
綱目:アジサイ科アジサイ属
花言葉:「移り気」「無常」「浮気」

残酷な描写アリです。
 


紫陽花の怨毒

 

 

 

 

「何してるんだ、って。そんなことまで聞かなければ分かりませんか?」

 

 絡みついて動きを止めた透明色の蛇。

 アナスタシアは鬱陶しそうに振り払った。

 

「あなたの頭の中に住みたいくらいですよ、ジズ。どうやら花畑で埋め尽くされているようですから」

 

 やれやれ、と息を吐く。

 アナスタシアの声だけが響く。

 

 弾けた水が服を濡らしていた。べったりと張り付いた服が控えめなシルエットを強調しているが、そんなことは頭に入ってこない。

 

 ただ2人を見つめる俺に、首を傾げる。

 

「私の答えでは不満ですか? それとも理解出来ないと? ……どちらにせよ、私がこれ以上の回答を行う理由にはなりません。それに、簡単なことでしょう」

 

 アナスタシアは見当違いなことを言いながら首を傾げ——いや、見当違いではないのかもしれない。俺自身では理解出来ていると思うのだが、そうではない可能性がある。

 

 間違っているかもしれない。

 間違っているだろう。

 

 間違っているに、違いない。

 

 なあ、そうだろう。

 

 

「あなたが答えてしまえばいいんですよ」

 

 

 ——主任(ミュルジス)

 

 

 

 

 静寂が続く。

 

 ミュルジスは何も答えなかった。

 答えようとはしていたのだ。しかしそのたびに口元を歪めては押し黙る。そんなことを繰り返していた。

 アナスタシアは初めこそ面白そうに目を細めていたが、今では興味を失っている。

 

 そんな挙動こそが一番に知らしめてくれた。俺の予想が当たっていて、ミュルジスは一線を超えてしまったのだと。

 

「もう、いい。アナスタシア。怪我は?」

 

 怒りはない。ただ悲しかった。

 ミュルジスはいつのまにか感染者差別をするような人間に成り下がっていて、その原因はきっと俺だ。責めることは出来ない。

 

「待って」

 

 ミュルジスが袖を掴んだ。

 後にしてくれないかと強く思う。

 

 アナスタシアに危害を加えようとしたのだろう。それなら彼女の手当てが先だ。研究員らは感染者に場所をかしてはくれないだろうが、医療器具を持ち出すことは出来るはずだ。

 それとも、ミュルジスはそれを邪魔しようと——そんなわけがない。冷静になろう。弁明なんて聞きたくもないが、聞く他ない。

 

「アナスタシアが、悪いのよ」

 

 耳を疑った。

 今、何を言ったんだ?

 

 ミュルジスの様子をよく伺う。気が動転しているわけではないようだ。努めて冷静であろうと取り繕っていて、真っ当に言い訳をしようとしているらしい。

 

「アナスタシアはジズのことを侮辱したの。更には、それが当然のことみたいに言ってのけたのよ。そんなの許せるはずないわ」

 

 俺のせいだって言いたいのか。

 

「確かに、そう、あたしはやりすぎたかもしれないけど、ちょこっとくらいは斟酌してくれたっていいじゃない?」

 

 耳を塞いでしまいたかった。

 聞くに耐えない言い訳だった。

 

 ああ、いや。ダメだ。

 今の俺は全く冷静じゃない。

 

 聞きたくもないことだと感じるのは今だけだ。ミュルジスがそう簡単に物事を間違えるはずがないから、きっと俺が何かを思い違えているのだろう。

 それに、たとえミュルジスが本気でそれを言っていたとしても、俺のことで怒ってくれたんだから、俺くらいはその感情を認めてやる方がいいだろう。

 

 そんなことを考えて必死に押し留めようとする。義憤に駆られるのは後でいい。後の方が正しく裁量出来る。今だけはダメだ。許せなくなる。

 

「ミュルジス」

 

 琥珀色の目と視線を合わせる。

 何故だか怯んだようだった。

 

「今はやめてくれ」

 

 何故? そんな疑問が目に浮かぶ。

 自分がどうして黙らなければいけないのかと思っているのが見て取れた。口の形が不満に変わった。

 

「……いつまで、贔屓を続けるつもりなの? アナスタシアが応えてくれるまで? あたしが協力するまで? それとも、この国から差別がなくなるまでなのかしら」

 

 トン、と人差し指が俺をつつく。

 相当怒っているらしい。

 

「素敵な話にはコストがかかるものよ。ジズやあたしでは払いきれないだけの代価が、綺麗事の実現には必要なの。いったいどこからそんなものを捻出するって言うのかしら、ジズ?」

 

 綺麗事だって?

 何の話をしてるんだ。

 

「そんなことは言ってない」

 

 俺は、ただミュルジスがアナスタシアに優しくなってくれることを期待してるだけなんだ。感染するまでと同じように接してくれることを。

 

 ミュルジスは溜息を吐いた。

 

「言葉を選ばない方が伝わりやすいかしら? あたしがアナスタシアを丁寧に扱ってあげるなんてあなたの妄想に過ぎないのよ。優秀程度でしかない感染者が働いてるのは生態課にとってデメリットでしかないもの」

 

「デメリット、だって?」

 

 思わず俺はアナスタシアの方を見た。

 何も気にしていないようだった。

 

 心が揺れるのを感じた。2人の関係が源石によって引き裂かれてしまったのだと、認めたくなかったが、いよいよ認めるしかなかった。

 

 悔しくて仕方がなかった。

 

「コストとか、デメリットとか、そんな風にしか考えられないのか?」

 

 なんとか捻り出した理屈。

 それは、ただミュルジスを否定したいがために吐き出した醜い悪足掻きだ。

 

「アナスタシアが感染した時点ではこうするつもりなんてなかったわ。それが答えでしょ?」

 

 ミュルジスは正しい判断をしているんだろう。

 生態課の主任という立場から物を考えているだけだ。

 アナスタシアは元よりただの職員に過ぎなくて、契約で繋がった関係なんだ。

 

 そしてそれは——アナスタシアと俺の関係にだって言えることだ。

 

 アナスタシアは俺を友人だと思っていなかった。ただの同僚で、仕事仲間で、信用はあっても信頼はない。

 居心地が良いと思い込んでいたあの空間はビジネスライクで成り立っていたわけだ。

 

「あたしはあなたの考えを理解しているつもりよ、ジズ。アナスタシアを手放しがたく思う気持ちだって、感染者差別が許せないことだって、痛いくらい知ってるわ。それでも……」

 

 ミュルジスはそれきり沈黙した。

 

 俺を慮ってくれているんだ。

 必要以上に傷つけないよう加減してくれている。

 

「……そうだな、ミュルジス。君の言うとおりだ」

 

 俺が認めるとは思っていなかったんだろう、ミュルジスは驚きに顔を染める。アナスタシアは今更かとでも言うように溜息を吐いていたが。

 

「なあ、ミュルジス。俺は少し前まで勘違いをしていたんだ。正しい行動は理想的なハッピーエンドを連れてきてくれるんだって思ってた。逆説的に、ハッピーエンドに近付くなら全部正しいんだとも、きっと思ってた」

 

 正しいのはいつもミュルジスだ。

 

「正しさは、いや、ハッピーエンドは、一つだけじゃないんだ。俺が目指している景色を誰もが望んでくれるとは限らない。一人の夢が実現することは、競合するすべての人から夢を奪うことと同じだ」

 

 原作のミュルジスという、とうに潰えた俺の夢。それはミュルジスが望む未来との二者択一だった。どちらかしか選べなかった。だから俺はそのハッピーエンドを――その正しさを叩き潰したんだ。

 

「ジズ、ねえ、まさかとは思うんだけど」

 

 ミュルジスはもう結論に辿り着いたらしい。

 参ったな、俺の心の準備がまだなんだ。

 

「俺は」

 

 言いたくない。

 

「俺は、俺は……」

 

 ふと、視線が合った。

 アナスタシアの瞳が俺を映していた。

 

 骨が折れてしまうんじゃないかと心配になるくらい傷口を握りしめ、澄んだ瞳で、無表情(助けを求める顔)でこちらを見ていた。

 

 

 気に入らないからと、非合理的な反抗ばかりしている。

 子供のように、否定ばかり口にしている。

 場当たり的な対応で転げ落ちていく。

 

 

 分かるよ、ターシア。

 理不尽で仕方がないよな。

 

 どこにぶつければいいのか分からない怒りが頭の中にあるんだよな。

 突き放されて悲しいよな。

 何も考えられなくなるよな。

 

 それまでの記憶を捨てられなくて苦しくて。

 受け入れたくない、認めたくなくて。

 

 全部俺には分かるんだよ。

 

 

 だって、俺はそうして死んだから。

 

 

「俺は、ミュルジスの言葉には頷けない」

 

 正しいと分かっていて、それでも。

 

「ターシアを切り捨てたくない」

 

 この感情のすべてがターシアのためではなく、俺自身のためだとしても、いや、そうであるかもしれないからこそ。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 俺は、君の味方にはなれない。

 

 ……ああ、クソッ、クソッ! 最悪な気分だ。

 どうして俺がミュルジスを否定しなきゃいけないんだ。

 どうしてミュルジスとアナスタシアの片方しか選べないんだ。

 

 俺が選んだことだ、決めたことだ、そんなこと分かってたし今でも分かってる!

 

 でも俺だって選びたくなかった、拒みたくなかった! それでも選ぶしかないなら、選ぶしかないだろ!? それしかなかったんだ!

 

 本当は見たくなかった。

 見たくなかったんだ。

 

 ミュルジスの、そんな顔を。

 

 

 俺はもう何も言えない。

 言えるはずがない。

 

 傷付けると分かっていて断行するのはこれが二回目だが、正しくないことまで分かっているのは初めてだ。

 

 躊躇っていた時より、言うと決めた時より、ずっと大きな悲鳴が心から聞こえていた。それに口を塞がれていた。

 

 自然に謝ってしまいそうなくらいの罪悪感だ。

 しかし、謝るわけにはいかない。

 アナスタシアの味方になると決めたなら、謝ってはいけないんだ。

 

「……あたしの、何がいけないのかしら?」

 

 目が合って、逸らした。

 

「何か、きっと何かを間違えたのよね。それがジズには許せなかったの。あたしのどこかに非があった、そうでしょ?」

 

 ミュルジスの手を振りほどくことはできない。

 そうしたくないし、何より、少しの力で簡単に罅割れてしまいそうだったからだ。

 

「そうじゃないなら、あたしって、何なの?」

 

 ミュルジスに悪い部分など存在しない。だがそれはつまり、真っ向からアナスタシアに――敢えて強い言葉を使うならば――負けた、ということになる。

 勿論それでもアンフェアな比較であることに疑いの余地はない。何しろアナスタシアは命にほど近いものをベットしていて、対するミュルジスは正しさだけだ。

 

 信頼や関係値に隔たりがあろうと、そしてそれが感染者のものであろうと、命は大切なものだ。俺はそう思っている。

 しかし、ミュルジスにとってはそうでもなかったのだ。……実際躊躇していたのだから俺も全く反対というわけではない。だが、神は微笑まなかった。

 

 だから揺らいでいる。

 

「ジズはあたしの家族で、味方で、理解者なのよ。ジズだけはあたしの味方じゃないといけないの。ジズは、ほかの誰でもない、あたしだけの味方なの」

 

 そうありたい気持ちはある。

 だが、アナスタシアを排除しようとするなら、俺はそれを止めたい。そんな終わり方を認めたくないからだ。

 

「あたしがあなたを大切に思ってるなんてもう分かってることよね。それなのに選んでくれないのかしら。……あたしを虐めて、楽しい?」

 

 俺は何も答えない。

 答えられない。

 

「ねえ、アナスタシアのどこがいいのよ。あたしの方が何倍もジズのことを考えてるし、何でもしてあげられるわ。鉱石病だって、ジズが望むなら……」

 

「望むわけ、ないだろ」

 

「あら、誤魔化さなくていいわよ……? 非感染者のあたしには分からないことがたくさんあるもの」

 

 返す言葉を見失った。

 以前に言った「非感染者の君には分からない」というセリフをミュルジスは覚えていたらしい。

 

 何か言い訳するより先に愕然とした。俺は自分がそう言ったことを忘れていたんだ。アナスタシアのことばかりで顧みることをしなかったのだと、酷く今更に自覚した。

 

「あたしは長い時間をジズと寄り添ってきたから特別なの。それなのにアナスタシアはただ感染しただけで特別扱いされてるのよ。そんなのおかしいでしょ?」

 

 何がおかしいのか分からない。

 どう考えてもハンディキャップの方が大きいだろう。

 ミュルジスには何が見えてるんだ。

 

「鉱石病はそんなに軽いものじゃない」

 

「軽い? ふざけないで、ジズ。その特別扱いがあたしにとってかけがえのないものだってあなたは知ってるはずよ。口を挟まれる謂れはないわ」

 

 それについては理解しているつもりだ。

 ミュルジスが本当に鉱石病を見つめられているのかどうかは疑ってもしょうがないことで、俺はそれを本当だと置いておくことしかできない。

 信じないのはただ分からないに違いないと決めつけているだけ。俺は一度そうやって間違えたんだから、今度こそミュルジスの言葉を聞かなければいけない。

 

 理解しているつもり、だが。

 

「あたしのこと、まだ信じられないのかしら?」

 

 ミュルジスは悲しそうにそう言った。

 別に信じていないわけじゃない、と思う。ただ、ミュルジスは鉱石病の認識がまだ甘いのではないかと思っているだけだ。

 

 ……言い訳だ。

 なぜそう思ったのか。それを突き詰めていけば、俺はミュルジスを信じていないし理解してもいない。それどころか頭から否定している。どうやら差別意識を一番に持っているのは俺みたいだな。

 

 黙ったままの俺を見て、大きな溜息が一つ。

 

「そう、分かったわ。ちょっと頭に血が上ってるみたいだから、下手なことを言う前にあたしは退散しておくわね」

 

「……ミュルジス」

 

 もう遅い。それは分かっていた。

 言い訳か、それともただの我儘か、無駄だと分かっているのに、俺の口は縋るようにその名を呼んでいた。

 

「何を言っても無駄なのに留まる意味が見つからないの。だから、ごめんなさい」

 

 ミュルジスは振り返ることもなかった。

 ヒールの音がどんどん小さくなって、終いには聞こえなくなった。

 

 こうなることを望んでなどいなかった。

 望んでいなかったが、アナスタシアを諦めきれなかった。

 

 判断力とか、同情心とか、そういう何かが少しでも違ったなら、俺はミュルジスを優先してアナスタシアを切り捨てていたかもしれない。だが今ここにいる俺は、そんな判断を下した俺を正しいと思えない。

 俺の能力が足りなかったわけじゃない。何も間違えていない。俺が俺として誰にも忖度することなく判断した結果、ミュルジスには受け入れられなかったというだけの話だ。――俺の視点では。

 

「馬鹿ですね、本当に」

 

 アナスタシアの言葉に苦笑する。

 

「そうかもしれないな」

 

「後悔してるんじゃないですか?」

 

 アナスタシアはそう言って鼻を鳴らす。

 「どうせ後悔しているんだろう」と思っているのがよく分かった。

 

 少し、苛立つ。

 

「もし後悔したならさっさとミュルジスに謝ってる。見くびらないでくれ」

 

 話していた内容は聞こえていたはずだ。

 俺はこの選択を正しいと思っていたし、今もそれは変わらない。易々と後悔してしまうような弱い覚悟でミュルジスを否定するなんて、ありえない。それすら信じてはくれないのか。

 

「無駄だと言っているのが伝わりませんか。それなら直接言いますが、今からでも謝ってみたらどうですか? 許してもらえるかもしれませんよ」

 

「……それを、君が言うのか」

 

「はい?」

 

 もしかすると俺はアナスタシアの行動をすべて肯定していたように見えたかもしれないが、そんなことはない。ただ「仕方ない」と酌量していただけで、散々かけた迷惑が白紙になるべきだとは思っていない。

 アナスタシアがミュルジスに頭を下げて許してもらう、それが最善だ。しかしそれができないようだから俺は出しゃばっている。アナスタシアの心の準備ができるのを待って、もしくは手伝って、元通りにしたかった。

 

 俺は馬鹿だが阿保じゃない。

 これでも必死に考えてるんだ。

 

「なあ、アナスタシア。許してもらえるようにするから、ミュルジスに謝らないか? 研究園を追い出されるのはイヤだろ?」

 

「……私が何を謝るんですか?」

 

「それは、迷惑をかけたこととか」

 

「ああ、感染者でごめんなさいってことですか」

 

「違う。人と上手くやろうとせずにずっと喧嘩腰でいることとか、感染者の自覚がない行動をしてることとか、そういうのを謝るべきだ」

 

「同じことです。問題が顕在化したのは鉱石病が理由ですし、悪いのは私が感染者になったこと、そうでしょう?」

 

 ……口論は分が悪い。アナスタシアが強いというよりは俺が弱いだけだと思うが、そんなはずがないことすら言いくるめられてしまう。

 

「兎に角、謝るのはどうなんだ」

 

 苦し紛れの言葉だが、反応は意外なものだった。

 アナスタシアの目が小さく揺れて、押し黙る。

 そして俺やミュルジスが話していた時からずっと抑えていた左腕を強く握った。誤魔化すか即座に拒否するものと思っていたため、その真面目な雰囲気に面食らった。

 

 怜悧な横顔。視線の先には観葉植物が生き生きと葉を伸ばしている。元の彼女が戻ってきてくれたように感じられて、少し嬉しくなる。

 

「私には無理ですよ」

 

 やがて、呟くようにそう言った。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 彼が静かに続きを待っている。

 それを分かっていながら、頭の中で丁寧に話を組み立てる。

 真意が捻じ曲がって伝わることを恐れていたからだ

 

 ゆっくりと、深呼吸のようにゆっくりと、アナスタシアは心の澱を吐き出した。それは言の葉になって空を震わせ、彼に伝う。

 

「私は生態研究園が好きです。ここしかないって思えるくらいに、私はこの場所を愛しています。かけがえのないものだと思っています」

 

 それはジズにとって予想通り――いや、期待通りの言葉だった。それが当然だろうと思っていたが、頭からそう思えるほどの信用はアナスタシアの態度に粉砕されている。彼は内心で小さく安心しながら次の言葉を促す。

 

「失いたくありません。ここでの生活に比べれば私のプライドなんてどうでもいいことです。頭を下げ、懇願するだけでいいならとっくにしています」

 

 言葉を切り、アナスタシアは唇を嚙む。

 

 そうしない理由を、ジズはすでに分かっていた。

 アナスタシアが話したトラウマのせいだ。

 

「私の口から謝罪の言葉が出ることはないでしょう。どれだけ申し訳なく思っていても、抉られていると錯覚するほどの痛みで訴えるこの左腕が、弱い私を許してくれません」

 

 鉱石病の症状は個人差が大きい。精神障害や身体の部分的肥大などに比べれば身体的苦痛はメジャーなものだ。そのキッカケは広範に渡る。何が言いたいかというと、アナスタシアの疼痛は()()()()()()()()()()()()()()()()()ということだ。

 鉱石病は不治の病。生涯続くと考えれば、アナスタシアが「無理だ」と言ったことにも納得できる。既に感染から一週間以上経っている。諦めるには十分な時間が与えられていた。

 

「傷付けたくはありません。でも人を遠ざけるのはこの上なく心地よく、安心できるんです。ええ、私はきっと――鉱石病に負けたんです。それはもう完膚なきまでに」

 

「どうして今は素直に話せているのか、聞いてもいいか?」

 

「単純なことですよ。痛痒を上回るくらいに悲しいからです。私はとうとう主任の敵になって、生態研究園を追い出されることになって……あなたともすぐにさようならです。それ以降の人生は蛇足でしょう」

 

 それならどうしてミュルジスの前では素直になれなかったのか。

 そんなジズの疑問を見透かしたようにアナスタシアが言う。

 

「あなたは主任と違って取るに足らない人ですから。特別ですよ」

 

 少し複雑にさせられる特別扱いだったが、ジズは素直に喜んだ。

 話してくれるなら理由は何でもいい、自尊心なんて何の役にも立たない。その考えは彼が何度罵られても諦めなかった理由であり、同時に、ミュルジスがアナスタシアを疎む理由でもあった。

 

「やっぱり、本当はここにいたいって思ってくれてたんだな」

 

「植物まで嫌いになったわけではありませんから」

 

 アナスタシアは苦笑した。刃物で腕を掻き混ぜられているかのような痛みを飲み込み、そしてそれ以上の喪失感を受け入れたが故の歪んだ笑顔だった。

 諦めてしまっている。自身への失望がありありと目に浮かんでいる。それはさながら死刑執行を待つ囚人のような顔だった。

 

「大丈夫だ、ターシア」

 

 ジズはそう言って笑いかけた。罵倒を受け流す薄っぺらな笑みではなく、友人を安心させるための柔らかな微笑みだった。

 

「ミュルジスのことは俺が何とかする。ここにいたいって君が思ってるなら、時間くらい作ってみせる。だからゆっくりでもいい」

 

「克服しろ、と?」

 

 トラウマの克服。ジズはそれを侮っているわけではない。ここ十年ほどは平坦な人生だったが、それ以上遡れば凹凸はあるし、心には少なくない傷跡が残っている。

 一つアナスタシアと違う点を挙げるとしたら、拠り所があったことだろう。彼の頭には前世の知識がある。この世界のことを誰よりも知っている自負は無意識のうちに彼を支えていた。

 加えて彼には逃げることも許されていたし、過保護な――もとい、手厚いサポートもあった。

 

「絶対に無理なんてことはないんだ。今まで出来ていたことが生涯不可能になるなんて変な話だろ? いつかは辿り着くはずなんだ」

 

 諦めなければ。

 

「いつかは、辿り着く……」

 

 努力さえしていれば。

 

「無理なんてことはない……」

 

 アナスタシアが譫言のようにそう呟いた。彼の言葉が痛いくらいに頭の中を反射していく。それを本気で言っていると理解しているからこそ振りほどくことができない。

 

「それは、もしかすると真理なのかもしれませんね。少しずつでも近づいていけばいつの日か。ええ、出来るまでやれば出来るのでしょう」

 

 染みついていく。

 脳裏に、思考に、記憶に、言葉が絡まる。

 

 怒りが生まれる。

 

 きっと気遣いから言ったのだろう。

 それはアナスタシアも理解している。

 ジズはこちらを励まそうとしたのだ。

 

 だが、一度諦めたことを――己の生き甲斐のためにさえ諦めるしかなかったことを、さも簡単なことのように言われては屈辱だ。

 

 膝を折るまでに何度涙を堪えたことか。

 浮かび上がる結末に幾度首を振ったことか。

 

 ただただ幸福だった日々を何度噛みしめ、幾度羨み、どれほど切望したことか、彼は何も知らないのだ。

 何も知らないその口で、何の苦労も知らないその口で、アナスタシアの懊悩は軽んじられた。

 

 嫌味が心から零れ落ちる。

 

「私が、あの夜を――」

 

 しかし、言葉は途中で遮られた。

 瞳が収縮し、焦点がズレる。

 

 

 夜闇に映える赤と銀。

 鮮烈な像を結んではすぐに消えゆく彼女の姿。

 急速に掠れ、しかし消えない残影。

 

 

 フラッシュバックした視界が混濁する。

 ジズの服に返り血が染みつく。

 アナスタシアはアーツロッドを握る。

 

 感情に流されるまま記憶を呼び覚ませば、彼女が目の前で蘇ったような錯覚さえ生まれる。

 

 そして、その恐怖さえ、蘇る。

 

「ターシア?」

 

「嫌、やめて」

 

 必死に手を突き出す。

 冷静な声で、しかし心は荒れ狂う。

 

「近寄らないで」

 

 ハッキリと拒絶するが、その目に正気はない。

 理性などとっくに意味を成していない。

 フラッシュバックした光景が目の前の現実と混ざり、記憶と共に攪拌されている。もはやジズの姿さえ見えていない。

 

 手が、僅かにブレる。

 

「消えて!」

 

 感染者の体には活性源石が流れている。

 通常非活性であるはずの血中源石がアーツの巡りを促進させ、その体はアーツユニットの代わりを務める。

 じわりと鮮紅色が服を染め、勢いよく噴出する。

 

 旋風。

 

「うわっ!」

 

 棒立ちのジズに空気の塊が直撃し、吹き飛ばされてしりもちをつく。戦闘の経験などない、それどころか常人並みの運動能力さえ欠落している痩せぎすに不可視の攻撃が避けられるはずもない。

 

 激しく息を吐く。

 目にゆっくりと正気が戻っていく。

 

「……ぁ、ご、ごめん……なさい……」

 

 その声はか細く、弱々しい。

 震える足で歩み寄る。

 

「嫌、嫌……ジズ……」

 

 アナスタシアは()()()()()()()()()()()かのように震えている。いや、実際にアーツはアナスタシアのトラウマだった。心の奥で何かが壊れたあの夜から、その風音が耳にこびりついている。

 

「大丈夫だから。安心してくれ」

 

 立ち上がり、笑いかける。

 何もわからないままに。

 

「ジズ、体は……」

 

「何ともない」

 

 ほら、と見せつける。

 真っ赤な血に塗れたその腕を。

 

「――え?」

 

 間抜けな声だった。

 理解とともに痛苦が芽生える。

 

 服は派手に切り裂かれ、魚の鱗に似た模様が朱色で描かれている。

 まるでおろし金のようになったその傷口からは絶えず鮮血が流れ出ていく。

 

 ジズは自身の腕が切り裂かれていたことに今気付いた。

 アナスタシアの目が大きく見開かれ、足の力が抜け、今度は彼女がしりもちをつくことになった。その視界に映っているのは、現実だけではない。

 

「あ、ああ、ああああああああっ!」

 

 脳裏に、あの時押し入ってきた彼女の姿が浮かび上がる。呆気に取られている間に襲い掛かられ、アーツロッドを必死に奪い、そして先端を彼女に向けたのだ。疲弊した彼女はさしたる抵抗もできず、その運命を受け入れた。

 

 仕舞い込んでいた記憶は、一度出てきてしまえばもう戻ることはない。

 

 鮮烈に思い出すのは細切れになった彼女の頭。

 無色透明の脳漿、鮮紅色の血液、ピンク色の肉、白色の頭蓋骨。人体のスムージーが首の上で弾け、頬に温かな感触を残した。

 

「私は、悪く、ないのよ……あなたが、あなたが私に近付くから……!」

 

 頭を抱えて後退る。

 痛苦に歪むジズの顔が彼女と重なった。

 

 私のせいじゃない、と内心で繰り返す。

 襲われたから殺した。拒絶しているのに付きまとわれ、苦痛を軽んじられたから切り裂いた。悪いのは、私じゃない。

 

 それに、ジズは何もわかっていない。

 

「あなたの言う通りに、私がすべて我慢して、この恐怖をどこかに捨ててしまえばいいだけ――なんて、ふざけるのも大概にしてください。それができないと思ったから、私は諦めたんです。……何も、何も何も何も何も、何にも知らないくせに、勝手なことを延々と……! そんなの、突き飛ばしたっていいでしょう!?」

 

 アーツロッドで殴られた感触。

 炎に焦がされた前髪の匂い。

 首を絞められる音。

 金切り声。

 

「黙ってて、ください。もう、何も言わずに、どこかへ行ってください。私には無理なんです。私には出来ないんです。出来なかったんです……!」

 

 彼の目が真っ直ぐにこちらを見ている。

 瞳にパックリと何重もの切れ込みが入ると、次の瞬間にはその頭が粉々に――頭を振る。すぐに錯覚だと分かるのだが、頭に反して足が竦み手は震える。何より、心が軋みをあげる。

 

 アナスタシアの心はすでに折れている。

 どうしようもなく、根本から腐っていた。

 

「ターシア……」

 

「怖くて堪らないんです。あなたが何かを話すたびに、近づくたびに、頭では分かっていても受け入れられないんです」

 

 ジズは何か言おうとして、口を閉じた。

 何を言ってもアナスタシアの助けになれないことをとうとう理解したからだ。

 

「消えてください」

 

 少しの間躊躇ったが、ジズはゆっくりとその場を去った。

 赤い斑点模様が床を彩る。

 

 

 

「もう、嫌なのに、どうして……」

 

 

 上手くいかない心と体。

 形容できないほどの痛みと対処方法すら分からないトラウマ、それらに付き従う罪悪感と苛立ち。アナスタシアの心は限界だった。

 

 涙が流れる。

 とうとう終わってしまった。これでよかった。これでよかったのだろうか。もっと上手くやれなかったのか。どうして感染者なんかに。

 

 様々な感情が渦を巻く。

 だが出ていくときはすべて同じただの嗚咽だ。

 

 これにてアナスタシアの物語が終了する――とはいかなかった。

 

 足音が一つ。

 ヒールの音だ。

 

「まったく、困ったモンだ」

 

 あまり聞き慣れない声だった。

 

「約束すら守れない男はモテないってのに」

 

 彼女は煙草の匂いをまとっている。

 

「アンタもそう思うだろ?」

 

 ライン生命生態課専属トランスポーター、エリナはニッと口角を上げた。

 

 




 
かなりの読解力がないとよく理解できないと思います。そう書いたので。
アナスタシアはめんどくさいとだけ覚えといてください。
久しぶりの更新がこんなので申し訳ない。
評価、感想、よろしくお願いします。
 
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