ライン生命生態課所属e分類の1番隔離指定研究対象 作:e-2
名称:ジャガタラズイセン【咬吧水仙】
綱目:ヒガンバナ科ヒッペアストルム属
花言葉:「虚栄心」「臆病な心」「誇り」
休憩室。暗赤色が排水溝に流れていく。
神経痛なら顔を顰めることもなかっただろうが、生憎と今回の痛みは病魔によるものではない。声を押し殺して消毒液に耐え、包帯を巻く。
アナスタシアのアーツによって刻まれた傷は案外浅かった。広範囲に渡ってこそいたが、付近の血を拭っているうちに流血が止まったほどだ。一ヶ月もすれば跡しか残らないだろう。
創傷の深さなどより包帯を上手く巻くことが出来ないことの方が問題だ。それは易々と解決できるものではなく、悪戦苦闘するうちに誰かが休憩室を訪れ、中途半端のままそそくさと退散することになった。
はぁ、と溜息をつく。
弛んでほとんど意味を失くしている包帯は諦め、窓の外へと目を向ける。取り止めのない思考で放心したように眺めてみる。それくらいに、アナスタシアの狂乱は小さくない爪痕を残していた。
あの場では、何が起こったのかということすら上手く飲み込めなかった。混乱した頭の中、「一線を超えてしまった」のではないかと考えるうちに、自然と足は後ろを向いていた。
それは仕方がないことだと思う。あの場面で諦め悪くいられるのは人に配慮できない人間だけだ。
しかし、それをアナスタシアはどう思ったか。根性なしと思われるならまだいい。とうとう見放したのだろうと思われていたなら、それは訂正しなければならない。だが、そう思われているかどうかは不確定なのだ。
そのようなことをあれこれ考えていたが、答えは出ない。当たり前だ。アナスタシアと直接会わなければ進展することなど皆無だろう。しかし、会うわけにはいかない。誤解を解くなら早いに越したことはないが、誤解の有無が分からない以上は落ち着くまでそっとしておくべきだ。
――ああ、アナスタシアの様子が知りたい。
焦燥感が胸の奥を押し上げているようだ。
いてもたってもいられないのに動くことができない煩わしさ。そんな不快感に影響されてか、傷口が騒ぐ。痛みがノイズになって脳を侵す。
「……?」
ふいに、傷口を見つめる。
ノイズが絶え間なく響いている。
「何か、変だ」
際限なく膨れ上がる違和感。
何がおかしいのかは分からないが、間違いなく何かがおかしい。
まるで、ある日突然歯が一本増えているような。或いは、爪がいきなり2ミリ伸びているとか。そういった
彼は己の体に無関心だった。
チート、転生、そんな言葉を言い訳にして、ありえるはずがない現象を無視していたのだ。
「これは……」
視界にスノーノイズが走り、ジズは思わず目を覆った。
ひんやりとした感触。
生ぬるい液体に包まれている。
絶えず動き回る。
電灯を見上げている。
真っ暗闇に閉ざされている。
床を見下ろしている。
片付いていない昼食。
赤く斑点が付いたパンの袋。
床に落ちている食べかけのクロワッサン。
見えないはずの光景が瞼の裏に映る。
何が起こっている? 疑問を浮かべたところで、回答者はどこにもいない。ミュルジスの過保護によってキッカケを得る機会は失われていた。
未体験の感覚が脳のリソースを奪う。映し出された光景は目が捉えたものではないと分かるまで——
幸運だったのは、彼がまともなアーツを学んでこなかったことだろう。体系化され論理的に整備された学問の知識では足を引っ張るだけだ。固定観念に支配されていては、その未知を受け入れられない。
彼はじっと傷口を見つめる。
やがて、包帯を解く音が廊下に響いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
生態課には感染者の職員が相当数いる。
その理由には、返って問題になりそうなほど感染者と非感染者を区別しない主任の存在が強い。
真実を追求する勇敢な精神は時として自然災害の形で牙を剥く。そうして社会から排斥されかかった半脱落者をミュルジスは集めていた。
クルビアにおいて感染者の立場はない。
第一の関門は就業だろう。感染者には労働の機会が与えられないのだ。まともな企業は感染者を好き好んで雇わず、社員が感染したなら自主退職を勧めるものが大半だ。
第一と言ったように、問題はそれだけに終わらない。幸運にも生活費を稼ぐことが出来たとして、更には多少の余裕が生まれたところで、当たりの前ながら源石の侵食は止まらない。
死にたくなければ治療費を稼ぐ他ない。そしてそれは決して安くない。入っていた保険だのが多少機能していたとしても感染者は新たに保険金を払う必要があり、合計で言えばマイナスだ。
結果、上位数パーセントの労働者を除いて負担出来ない額にまで膨らんでいく。
本筋に立ち返ろう。生態課はそのようなクルビアの仕組みから少々距離を取っている。感染者であっても役に立ちさえすれば採用されるのだ。
実験協力者としての責務から逃れることは出来ないが、裏を返せばそれは最先端の治療を格安で受けられるということだ。ちなみに、ライン生命全体においても——研究者という小さい括りに限るが——同じような仕組みがある。
多少の変更こそあれど設立当初からそういったスタンスを取っていたのは、やはり彼がいたからだろう。ミュルジスの口八丁に対し、極めて合理的な見解の下、サリアとクリステンは許可を出した。
エリナ・ノートンはそのお零れに預かった職員の一人であり、ミュルジスからスカウトを受けた人員の一人。
即ち、感染者である。
アナスタシアは呆れ顔を浮かべる。
同じ感染者だと宣うが、それが声をかけてきた理由になると思ったのなら馬鹿馬鹿しい。これ見よがしに鼻を鳴らす。
「だからなんだと言うんです? 私を哀れに思うなら、今一度自分の立場を顧みて、それが相対評価に過ぎないと知るべきでしょう」
分かりにくいが、「相対評価に過ぎない」という言葉の意味は「下を見て安心しているだけでお前も十分下にいる」ということだ。ここで言う「下」の意味など言うまでもない。
「ほう、アンタは確かに研究者らしい。頑固な理屈屋ってのは何よりの証拠だ。聞いてて頭が痛くなる話は御免だが、まあいいさ。よろしくやろうじゃないか」
「あなたのように話を聞かない人種が一番苦手です。近寄らないでください」
「それはアタシも同じさ。アンタみたいな頭でっかちは好みじゃない。賢しいのはいいが、感情を理性で抑えつけるような連中は見ていて気分が悪い」
言葉に詰まる。どうやら半端な理由で声をかけたわけではないらしい。アナスタシアに対する思い遣りは小指の先ほども感じられず、返って興味が湧いた。
「それなら、何故?」
「そう急ぐなよ。まずはアイスブレイクが必要だ。時間は十分過ぎるほどにあるからな。ソイツは後の話にしようじゃないか」
胡乱気に見つめるアナスタシアなど意にも介さない。
自身がどう思われているのか、というテーマにかかずらうほど暇ではないし興味もない。先ほど口にした通り、エリナにとってアナスタシアはわざわざ関係を持とうと思える人種ではないからだろう。
「アンタ、まだ隠してることがあるよな?」
「まだ、と言うのは?」
「生まれつき鼻と耳が敏感でね。アンタとジズの話は聞かせてもらってたんだ。嘘で誤魔化しただろう、アンタ」
何を言っているのか分からない、と答えることは簡単だ。しかし、そうしたとてエリナは諦めるだろうか。彼女の目的が分からない以上判断がつかない。
可能性として、エリナはジズに相談――もとい報告するかもしれない。それは折角吐いた嘘を台無しにしてしまうだろう。それなら言ってしまうのがいい。でっちあげて誤魔化せるならそれに越したことはないが、そんな嘘で誤魔化されてくれるのはジズのような馬鹿だけだ。
「ああ、それと。アタシが聞きたいのは腕のことだ」
別に誤魔化そうとしていなかっただろう、とエリナを睨みつける。
同時に逃げられないことを悟り、溜息を一つ。
「痛みについて、です」
「何が?」
分かっているだろうに聞き返すエリナが一層憎たらしい。
「私の嘘は、傷口が痛む理由です」
アナスタシアはジズに何と言って説明していたか。
少しの間記憶を探る
「……どれだけ申し訳なく思っていても、この傷口が謝罪することを許さない。だったか? 上手く自分を正当化するじゃないか」
「正当なものなんて、この世に一つもありませんよ」
「アッハッハ! 違いない!」
大きな声で笑うものだ。
わざとらしく耳を抑えて睨めつければ、軽薄な謝罪が返ってきた。
「それで? 本当のとこはどうなんだ?」
「本当は……」
口を噤む。
「一度吐いた言葉を戻すことは出来ないんだ。観念したらどうだ?」
エリナはどこか優し気にそう言った。
何故だか息が詰まりそうな感覚を覚え、アナスタシアは目を逸らした。自然に視線が下を向く。床に溜まった彼の血液と目が合ったような気がして、眩暈がするようだった。
仕方がなかったのだ。
「傷口が疼くのは、誰かを傷つけ、罪悪感を覚えているとき。まるで私を咎めるように痛むんです。狂いそうなほど痛くて、けれど、正しい罰を受けているようで、少し安心するような……」
ハッとして顔を上げる。
そんなことまで言うつもりはなかった。
「正しい罰、ね」
エリナは小さく繰り返す。
眉を顰めるにしては困惑が強いように見える。
多少の不自然を感じたが、その正体を見極めることは出来なかった。
「つまり、アンタは自分から他人を遠ざけていた。主任の前では強がってしまう、なんてのも方便だったわけだ。やめようと思えばいつでもやめられたんだな?」
「初めのうちは全て本音ですよ。私が自分から嫌味を言っていたのは、彼が付きまとうようになってからの話です」
彼に言った「役立たず」という言葉は本心だ。
ただ、その怒りは長く続かなかった。
萎んでいく敵意に焦燥した。
他人が怖いのに、感情は拒絶を諦めたのだ。
怖くて怖くて仕方がないのに、正反対の感情——人恋しさが当然のように現れて心を揺らす。
だから理性で補うしかなかった。
恐怖をこれ以上感じたくなかったから、他者を求める心を裏切ってでも、殻に籠った。
まるで
「いつまでもこびりついている光景を思えば、それが私のためだと思ったんです。まさかジズがあれほど私に固執するとは思っていませんでしたし、こんなことになるなんて思っていませんでしたよ」
一人になりたかった。
誰もが疑わしく思えてしまう現状に整理をつけたかった。
エリナを見遣る。手を伸ばそうとして、視界にノイズが走った。——残ったのは血塗れの視界。頬に張り付いた赤黒い液体は、幻だと分かっていても冷や汗が出る。
そう、全て幻だ。
ずっしりと重量を伴うアーツロッド。血飛沫が壁にアートを描き、つんざくような静寂に荒い息遣いが充満する。それら全ては源石が映し出した心象風景。
振るわれたアーツロッドが頭に激突する。火花に似た何かが視界の奥で舞えば、無我夢中で手を突き出した。
幻だ。全ては過去が落とした影に過ぎない。
そんなことは分かっている。
少し経って、ようやく呼吸が落ち着いた。
何か言おうとして、喉奥で言葉が引っかかり、掠れた息だけを吐き出す。その様子をエリナは静かに眺めている。差し伸べたところで、手を取られることなどないと分かっているからだ。
吐いた息に意味が付くまで、5分ほど。
言葉を取り戻したところで現実は変わらない。
何も解決してなどいないし、心は折れたままだ。
彼を思う。無駄なことに時間を費やし、ただ一人の家族さえ蔑ろにしてアナスタシアを優先した愚か者。
その思いに報いたいと思っていた。できなかった。彼は愚かだったが、それを笑えないくらいにアナスタシアは無力だった。
「彼があれほど私のために行動してくれても、私は彼の好意を信じられませんでした」
懺悔するように、吐き出す。
「その裏側が怖くて突き放すことしか出来なかったんです。まだ取り返しが付く場面で、何度だって彼を否定しました。……早くいなくなった方が、彼のためなんでしょうね」
恐怖に負けた。
鉱石病に負けた。
結果、人を傷つけることでしか自分を保っていられなくなった。
「自己嫌悪に他人を利用するなよ。アンタの命の責任を押し付けるつもりか?」
失意に俯くアナスタシアに容赦なく追い打ちをかける。
何も知らないくせに、と憤ることもせず、アナスタシアはその言葉を受け入れた。
「人を傷つけて、仕方ない。自殺して、他人のせい。そりゃ楽しそうな人生だ」
肩に手を置く。
大きく震え、顔が跳ね上がる。
目に恐怖を浮かばせながら抗議しようと口を開くが、言葉にならない。
「アンタはまだ微温湯に浸かってんだよ。感染者なら仕方ないとでも思ってんだろう?」
髪を鷲掴みにして眼をのぞき込む。
暴れるどころか竦んで動けないようだ。
「いいか、お前のスタートラインは非感染者の遥か後ろだ。その絶望的なほどのハンデはお前の努力で埋めるんだよ。誰も配慮するわけがない。そして、お前がそのハンデを負けた理由にすることは許されない」
次第に涙で目が湿ってきたが、甘えは許さない。
「鉱石病を理由にして人生を諦めるのは、アタシらに対する侮辱だ。必死で生きてる感染者すべてに対する、侮辱だ」
何もかもを放り出すほどのハンデだと認めてしまったら、感染者にとっての正解は死になってしまう。それだけは認められない。
「お前が死ぬのはお前のせいだ。お前が弱いからだ。お前の考えが足りないからだ。何か、間違ってるか?」
「あ、ぅあ……」
苛立ちがようやく収まった。
掴んでいた手を放せば、壁に頭がぶつかって鈍い音が出る。
「アタシはな、別にアンタが弱いとは思っちゃいない。逃げるにしたって勇気が必要だからな」
エリナは後ろ頭をかく。
別に乱暴なことをしようとは思っていなかった。
むしろアナスタシアには立ち直ってもらいたいと思っていたのだ。
「私、には、無理です。無理、なんです……」
失敗だ。怒りに我を忘れた。
エリナは冷めた目でアナスタシアを見る。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……!」
はあ、と溜息を吐く。
もうやれることはない。
エリナにとって望んでいるのはミュルジスの安定した地盤であって、必ずしもアナスタシアが必要ではない。3人の関係が続くことを願ってはいたが、叶わないならさっさと切り捨てるべきだろう。
エリナの靴音が消えていく。
アナスタシアは頭を下げ、蹲ったまま、肩を震わせ始めた。
涙が床の血痕と混ざる。
すすり泣く声だけが響いていた。
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